朝鮮戦争で米ソ、互いに相手の戦闘機を手に入れようと努力

 久々の「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20161124/30050528.html


ソ連空軍朝鮮戦争参加秘聞:アメリカと相互に相手方の最新式戦闘機を求める

60年前の朝鮮戦争の中で、北朝鮮方面は中国の全力の支持を得た他、さらにソ連空軍の援助を得た。ロシアの「独立軍事評論」は最近、多くのソ連飛行員が機を操縦して飛び、直接アメリカ戦闘機と格闘した、とした。対抗の結果はソ連が最も新しく研究開発したミグー15がアメリカのF-86「セイバー」戦闘機に戦勝するというものだった。あの時に始まり、米ソ両国は極力相手方の戦闘機に関する一切の情報の獲得を図り、甚だしきに至っては相手方の先進戦闘機を入手する努力をした。

1.ミグー15、アメリカの実戦機の優勢を終わらせる

1950年末までずっと、アメリカ空軍は朝鮮半島の上空で絶対の優勢を占め、北朝鮮空軍のああいった可愛らしい実戦機は全く一撃にも堪えなかった。しかし、驕れる者久しからずで、アメリカの実戦機の優勢はすぐに消失した。何故ならソ連人が自らの最新式戦闘機を持ってきたからである。

ソ連の優秀な飛行員の操作コントロールの下、ソ連人が生産したばかりのミグー15戦闘機はアメリカ戦闘機との第1回目の勝負の中でもう初陣を飾り、数機のアメリカの戦闘機と爆撃機を撃墜した。この戦績はソ連および北朝鮮方面いずれにも非常に興奮を感じさせ、一方アメリカ空軍は明らかにこれに対し心理的な準備がなく、焦慮の中に陥った。あるアメリカ将校は上級に向けて書いた報告の中で、「ソ連人のミグー15戦闘機が参与してきて、我々の空軍はすでに以前のように無敵ではいられなくなり、飛行員の士気は空前の低下を見せ、もしF-86『セイバー』戦闘機でもミグー15に戦勝できない。」と語った。F-86「セイバー」はアメリカの当時の最も先進的な戦闘機だった。

このアメリカ将校の言う、ミグー15はF-86「セイバー」より強いという言い方は客観的なのだろうか? もしこの2種の戦闘機の性能を比較すれば、ミグー15が2つの指標の上で相手より強いことに気付く。快速上昇能力と火力である。ミグー15は当時2門の23mm口径火砲と1門の37mm速射砲を配備していた。一方その他の指標の上では、両者は互角と言えた。(頑住吉注:特に37mm砲が戦闘機相手には使いにくいだろうことを考慮すれば23mmx2プラス37mmx1が12.7mmx6より「火力が強い」というのは議論の余地があるでしょうが。)

1回の失敗は前線の戦士を意気消沈させるかもしれないが、それにもかかわらず軽易に戦争の指揮者の自信を破壊することはできない。アメリカ上層部は依然「セイバー」は朝鮮半島に覇を唱えられると堅く信じていた。ある時、アメリカ空軍が鴨緑江大橋を爆撃した時、12機の爆撃機と4機の戦闘機を損失し、一方ソ連空軍はそれにもかかわらず全く損害なしだった時になるまでは。この後、アメリカ人は上から下までやっと問題の深刻性を真に認識し始めた。ソ連人はすでに真に近代的な戦闘機を作り出したのだ、と。

ひとたびこのようになるや、ミグー15戦闘機に対し深入りした研究を行うことがアメリカ人の唯一の選択となった。そこで、ある計画が米軍の指揮者の中で発酵し始めた。一切の代価を惜しまずミグー15戦闘機を入手し研究を行う、である。

2.アメリカ人、百万ドルの懸賞金をかける

このように、米軍はミグー15戦闘機を獲得する各種方案の研究を開始した。最初、彼らは1機のミグー15を盗むことを計画した。だがソ連方面の管理は厳重で、アメリカサイドのスパイには全く手を下すチャンスはなかった。後に、アメリカサイドはまた戦場でミグー15を攻撃して傷つけ、しかる後にそれがアメリカサイドの支配区域あるいは中立の地域に着陸するよう強制しようとした。だが、ソ連の飛行員は全て第二次世界大戦の洗礼を経ており、ナチスドイツ飛行員との勝負の中で貴重な空戦経験を積み、軽易にアメリカ人に優位を占めさせないだろう。このため、この第2の方案も遅々として功を奏すことはなかった。

この時、アメリカ人はやっと分かった。いかなる代価をも支払って1機のソ連ないし世界で最も先進的な戦闘機を手に入れたいというのでなければおそらくそんなに簡単ではない、と。こうなった以上、ならば思い切って1機を「買」おう。そこで、ソ連軍陣地上に突然アメリカの実戦機が出現した。それは爆撃に来たのではなく、大量の宣伝ビラをまいた。その後、この飛行機は迅速に米軍の飛行場へ戻った。

宣伝ビラには、ミグー15を操縦してアメリカに投降したいかなるソ連あるいは北朝鮮の飛行員もまず10万アメリカドルの報奨金を手にでき、後日さらに100万アメリカドルが手にできる、と書かれていた。

ソ連人にとっても北朝鮮人にとっても、この報酬は非常に魅力的だったが、それにもかかわらず応える人はいなかった。

3.ソ連人、連続して成功

アメリカ人がミグー15戦闘機を身分不相応に欲しがるのと同時に、ソ連人も暇にはしていなかった。アメリカのF-86「セイバー」は同様に彼らの重要な目標で、もし1機手に入れて研究が行えれば、同様に大いにメリットがある。クレムリン宮殿は軍に向けこのような命令を下した。同時に、クレムリン宮殿はさらにエース飛行員のアレクセイ ブラゲヴェイシェンスキーによって率いられる飛行員小グループを前線に派遣した。目的はただ1つ、1機の「セイバー」戦闘機を手に入れることだった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

ブラゲヴェイシェンスキーは前線に到着した後、あらゆる飛行員を召集して会を開き、1つの要求のみ提示した。すなわち、チャンスを探して米軍のF-86「セイバー」戦闘機を攻撃して傷つけ、その着陸を強制せよ、である。この計画は多くの飛行員に非常に厄介だと感じさせた。結局のところ敵の戦闘機に直面した時はやはり注意深く慎重である必要があり、相手方をただ傷つけ、それにもかかわらず完全にそれを撃破しない、この種の手加減は多くの人にとって容易に自身が持てないことと言えた。だがどのようであろうと、彼らはやはり思い切って空に上った。

だが遺憾なことに、この計画も成功しなかった。成功しなかっただけでなく、一連の行動の中で、ソ連空軍はさらに1機のミグ戦闘機を失い、2機が攻撃を受けて傷つき、1名の飛行員が戦死し、「盗人に追い銭」と言えた。

だが、このことはモスクワの「セイバー」戦闘機を手に入れる強烈な願望を押しとどめることはなかった。1951年9月、もう1人のソ連エース飛行員イェフゲニー ビェビェリヤイェフが、ブラゲヴェイシェンスキーと交代して朝鮮の前線にやってきた。彼はかつて19機のアメリカ実戦機を撃墜した輝かしい戦績を持つ飛行員で、モスクワは彼に対し高い期待を寄せていた。

果たして、ビェビェリヤイェフは高い期待に負けず、ある空戦の中で彼は1機の「セイバー」戦闘機のエンジンを撃破し、この機は止むを得ず不時着を選択するしかなかった。最終的に、このアメリカの飛行機はある砂浜に落ち、当時はまさに引き潮の時だったため、広い柔軟な砂浜は「セイバー」をほとんど完璧に損傷なくそこに停止させた。

この時、ソ連方面の捜索力量がまだ駆けつけないうちに、アメリカ人が逆に前面に出た。アメリカの捜索隊はすぐ現場に駆けつけ、かつ飛行員を救出したが、飛行機は依然砂浜の上に留まっていた。その後、アメリカサイドは爆撃機を派遣し、この戦闘機を爆破することを企図した。だが、爆撃機がこの砂浜上空まで飛んできた時は、潮がすでに満ちてきており、飛行機を完全に覆い隠し、しかもこの時はすでに夜間だった。米軍の飛行員は「セイバー」戦闘機の確実な位置を探し出すのが非常に難しく、止むを得ず爆撃機は帰投するしかなかった。

だがアメリカの爆撃機が飛び去ってすぐ、ソ連人がすぐ駆けつけた。ソ連の小部隊は「セイバー」戦闘機を海水の中から引き揚げ、必要な設備が欠けていたため、彼らは臨時に飛行機を岸辺の草むらの中に隠し、しかる後に干し草を用いて飛行機を隠した。

2日目の昼、アメリカ人はまた爆撃機を派遣したが、依然「セイバー」戦闘機を捜し当てられなかった。この時はすでに潮が引いていたにもかかわらず。

夜が再びやってきた時、ソ連人がまたやってきた。今回、彼らは大型設備を持ってきていた。彼らはまず「セイバー」戦闘機の主翼を取り外し、もって輸送に有利とした。しかる後に、大型牽引運搬設備が飛行機をソ連の軍用飛行場に運んだ。そこで、飛行機は専門家によっていくつかの塊に分解され、しかる後にそれぞれ梱包されてモスクワに運ばれ、研究部門に渡され深入りしての解剖分析が行われた。

このように、ソ連人は彼らの最初の戦利品を手に入れた。

その後、ソ連人はまた同様の方法を用いて1機の「セイバー」戦闘機を撃ち落とし、しかも今回は米軍飛行員も捕虜にされた。戦闘機は鴨緑江北岸の中国の安東(今丹東)飛行場まで運ばれ、しかる後にそこから梱包されてモスクワに運ばれた。米軍飛行員もモスクワに強制連行された。

もう1回の空戦の中で、また1機の「セイバー」が撃墜された。だが、ソ連人が駆けつける前に、アメリカの爆撃機が成功裏にこの戦闘機を探し出し、かつそれを爆破した。だが、爆撃機は決してあらゆる部品全てを破壊できず、機載無線電信設備はほとんど完全無欠で現地に留まり、かつその後駆けつけたソ連小部隊に持ち去られた。

4.ある飛行員がミグー15戦闘機を操縦して反乱逃亡

明らかに、ソ連人の戦績はアメリカ人に比べてずっと素晴らしいようだった。だがこのことはアメリカ人に1つも得るところがなかったことを決して意味していない。1953年、彼らはついに1機のミグー15を手に入れた。これは戦場で獲得したものではなく、「買」って得たのである。実は、アメリカ人が以前にまいた宣伝ビラが作用を果たしたのである。1953年9月21日、21歳の北朝鮮空軍飛行員、盧今錫がミグー15戦闘機を操縦して韓国の金浦空軍基地まで反乱逃亡した。ほどなく、金浦基地で、この反乱逃亡した飛行員は10万アメリカドルの報償を獲得した。

後に、この機体ナンバー「2057」のミグー15戦闘機は米軍戦闘機のコードナンバーを塗装され、かつ日本の沖縄に送られて詳細な研究が行われた。当初、アメリカの飛行員コリンズ大佐が試験飛行し、その後試験飛行したのはコリンズ(頑住吉注:漢字への訳が違いますが)大尉とチャック イェーガー少佐だった。

最終的に、ミグー15戦闘機はアメリカに空輸され、かつそこで解体され、その部品は米軍のオハイオ州ライトパターソン空軍基地に送られた。そこで、この機は改めて組み立てられ、かつ詳細を尽くした飛行試験を行うのに用いられた。

1957年、アメリカはこの反乱逃亡した飛行機を返却したいとしたが、回答する国は1つもなかった。最終的に、このミグー15戦闘機はアメリカ国営空軍博物館に移されて公開展示され、かつその現有の機体ナンバー「2057」を回復した。一方反乱逃亡した飛行員の盧今錫はアメリカ公民となり、かつデラウェア大学から卒業した後妻を娶り子をなした。


 太平洋戦闘機中不時着した零戦を無傷に近い状態で手に入れたことが大いに役立ったことがこうした努力につながったのかもしれません。ちなみこれだけ読むと盧今錫という人物は金に目がくらんで戦闘機を売り渡し、成功した人物みたいですが実際には複雑な事情もあり、これに関してはかつてこの記事で紹介したことがあります。















戻るボタン