日清戦争における日本の諜報戦

 何度か紹介した日清戦争(甲午戦争)を回顧する記事ですが、ちょっと変わった切り口です。

http://military.china.com/history4/62/20140328/18419931.html


甲午諜報戦は日本を完全にリードさせた:北洋水師埋葬の共犯者 (頑住吉注:「北洋水師」は清国艦隊のことです。)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「玄洋社の主要な指導者の1904年当時の集合写真。1901年、同社はさらに専門に海外で活動する組織である「黒竜会」を成立させた。(資料画像)」)

1894年に勃発した中日甲午戦争は中国近代史上ターニングポイントの意味を持つ象徴的な事件であり、それは経済的、政治的に当時の清王朝をさらに一歩半植民地、半封建社会の深淵に向かわせただけでなく、しかもその自信の上で清王朝を深刻に打撃した。甲午戦争を回顧すると、惨烈な戦争の場面の背後に、一定数のほとんどいないところがなかった日本のスパイが隠されている。彼らの収集した情報は戦争の過程、甚だしきに至っては戦争の結果に対し、極めて重要な作用を果たしたのである。

一、戦前、全方位で中国の情報を収集

甲午戦争の前に早くも日本の軍部は不断に中国に向け多くの特務スパイを派遣し、膨大なスパイ情報網を組成し、あらゆる策を講じて中国の政治、軍事、経済、文化、地理山川、風俗人情など各方面の情報を収集した。

第一に、スパイ機構の名目は非常に多く、分布する地域は広範だった。

「玄洋社」はおよそ最も早く中国で秘密スパイ活動を行った組織であり、その「実績」の1つは1884年に上海の昆山路に建設された東洋学館だった。1886年、甲午戦争前の日本の中国における最も大規模なスパイ機構である楽善堂が漢口に成立した。楽善堂は目薬、書籍、雑貨の商売を隠れ蓑に、徐々に触角を中国各地に向けて伸ばし、相次いで北京、長沙、重慶、天津、福州などの地に多くの支部機構を建立し、中国の主要都市にあまねく分布するスパイ網を組成し、かつ触角を中国の広大な農村まで伸ばした。このスパイ網は中国の風土気候、人情風俗、農工商業、金融、運輸、交通などの内容に対し丹念に調査し、かつ詳細な記録を作り上げた。日本の中国におけるもう1つの重要なスパイ機構は日清貿易研究所で、上海のイギリス租借地内に設けられ、名目は清朝と日本の貿易の往来の促進だったが、実は「中日貿易人材」養成を名目とするスパイ訓練機構だった。

こうしたスパイ機構の組織は厳密で、全てに合法的な上辺があり、名目上経済商業あるいは貿易のベールをかぶっていたが、実際には日本のスパイを養成していた。彼らのあるものは外交官、商人、医者、学生など合法的な身分を隠れ蓑にし、あるものは髪を剃って中国人になりすまし、方々で情報を収集し、戦争の発動のために充分な準備を行った。

第二に、スパイが探る範囲が甚だしく広く、情報はカバーしないところがなかった。

まもなく発動する戦争に充分な情報の準備および正確な決策を提供するため、当時中国で日本のスパイが収集した情報内容は非常に広い範囲に関わった。

日本のスパイ根津一(頑住吉注:俳優の根津甚八と親戚だそうです)は楽善堂のメンバーで、中国各地で収集した情報を種類別に整理し、3冊の2,000ページ余りにもわたる「清国通商総覧」を編纂し、これは政治、経済、文化、地理、交通など多くの方面に関わり、中国関連の百科全書で、この本は日本の軍、政治当局の中国侵略のために大量の一次資料を提供した。

日本のスパイの中で、日本陸軍部の神尾光臣は最も悪知恵に長けていた。神尾光臣は著名な「中国通」の1人で、1882年に中国に派遣されて情報に携わり、1892年に日本の駐北京公使館の武官を担当し、不断に清国政府の軍機密所の当局者に贈賄することによって機密情報を獲得した。1894年、神尾光臣は天津に駐在し、専門に李鴻章の行動を監視することを命じられた。彼は李鴻章の身辺の人を買収することによって彼の一挙一動に対し掌を指すが如しだった。例えば李鴻章が船を手配して兵士とその給料を輸送する、北洋艦隊を派遣して航路護衛を行うなど、神尾光臣は全てはっきり知っていた。

第三に、スパイ活動は次々現れては尽きず、手段を選ばなかった。

情報獲得の目的を達成するため、日本のスパイは各種の方式を採用し、甚だしきに至っては手段を選ばず情報を手に入れた。

日本のスパイ石川伍一は若い時にもう上海にやって来て、スパイとしての生涯を開始した。1893年石川伍一は天津に潜入し、日本の松昌洋行の職員の身分を隠れ蓑にスパイ活動を行った。陰謀の画策、加えて金銭と色仕掛けの誘惑により、石川は天津兵器局の文書担当官リュウフェンと知り合った。リュウフェンは清国のそれぞれの兵器大隊の銃砲、刀や矛、火薬、弾薬の数の台帳、それぞれの兵器所が製造した弾薬の量、現存するのはどのくらいかなどを数え尽くして日本のスパイに教え、金銭の報酬を得た。甲午戦争勃発後、石川伍一はリュウフェンの家の中で逮捕され、自分の従事したスパイ活動、探った軍情を包み隠さず白状した。

(頑住吉注:これより2ページ目)

甲午戦争勃発前夜には早くも、日本がすでに派遣したスパイを通じて大量の欲しい情報を獲得し、まもなく発動する戦争のために充分な準備を整えていたことが見て取れる。このことは中日甲午戦争は日本が組織的に行い、事前の策謀、計画があり、完全に能動的に発起した侵略戦争だったことをも説明している。

二、戦時、清国の配備状況に対し掌を指すが如しだった

日本の中国におけるスパイ活動は日本軍にとって鬼に金棒で、一方当時の北洋海軍にとっては泣きっ面に蜂であり、北洋海軍の戦闘力を深刻に削減した、と言うことができる。

まず、日本のスパイの情報は、日本政府にさらに一歩中国侵略の自信を増強させ、事前に準備を行わせ、主導的にさせ、北洋海軍を戦略上受け身の立場に陥れた。

長期にわたり中日の実力を対比すると、ずっと中国が強く日本が弱い局面だった。このため清国に対する戦争を発動したかったが、日本の執政者にはまだ自信が不足し、心に疑念があった。彼らは切迫して近距離の視察を通じて清朝の実力および戦備の状況を理解することを望んだ。1893年4月、日本のスパイの頭目で参謀長の川上操六は自ら中国に行って「実地考察」を行い、直接清国政府の意図と実力を関知し理解した。川上操六は天津に1ヶ月留まり、天津機器局を視察し、武備学堂を訪問し、砲兵の砲術演習と歩兵演習の歩みを視察し、かつ自ら北塘砲台に登って山砲の演習を視察した。その武官である神尾光臣に伴われ、川上はさらに天津周囲の地形に対し密かに「考察」を行った。この時の中国行きを通じて、川上操六は清国政府には決して対日作戦の全面的な準備がないことを理解しただけでなく、しかも清国軍の戦闘力および地形、風俗人情いずれに対しても詳細な考察を行い、戦争を発動する自信を強めたのである。

日本の日増しに頻繁になるスパイ活動に直面し、清国政府は高度の警戒を引き起こさなかっただけでなく、一部の当局者はさらに日本のスパイの情報収集活動のために便宜を図った。川上操六が中国に来た「考察」の期間、警戒、準備が全くない清国政府はさらに川上操六のために多くの便宜を図り、「慇懃に接待」し、李鴻章は彼を上客と見なし、彼を招待して兵器工場、軍事施設、軍隊の演習を視察させることさえした。

次に、日本のスパイの情報は日本軍に清国軍の用兵状況を理解させ、したがって北洋海軍を豊島、黄海海戦の中で完全な受け身に陥れた。

戦争が間もなくやって来るという際に、中国に潜伏する日本のスパイはうごめき始め、情報収集に入れる力の度合いを強化した。天津は李鴻章の駐留する地で、清朝の外交と軍事指揮の中心であり、日本のスパイ活動が最も猖獗する場所でもあった。天津に駐留する日本領事は毎日、「スパイを派遣すること二、三十、各隊に分けてそれぞれの所を偵察させ、かつ剃髪者を装う者があった。」いくつかの要害たる部門、例えば電報局、兵器所には全て日本のスパイが紛れ込み、いくつかの李鴻章のやりとりする機密電報や暗号さえ日本のスパイの手に落ちた。このため、日本の侵略者は清国政府の意図や配備に対し掌を指すが如しだった。

1894年7月下旬、清国政府は2つのルートに分けて朝鮮に派兵した。主力部隊は鴨緑江を渡って平壌に赴いた。また清国政府はイギリスの「飛鯨」、「愛仁」、「高升」という3隻の商船を借りて2,500人を輸送し、天津の大沽から海路を経て朝鮮の牙山に到達する計画で、戦闘艦「済遠」、「広乙」および練習艦「威遠」が航路護衛を行い、輸送船「操江」が銃砲、兵器を搭載して随行した。中国軍がルートを分けて朝鮮を支援するとの情報および出発期日はすぐに日本のスパイによって探知され、日本の大本営は知ると直ちに兵力配備を調整し、軍艦を派遣して迎撃に行かせた。

1894年8月1日、中日は正式に宣戦した。日本の駐天津領事館が撤収した後、日本のスパイ宗方小太郎は決してこれと共に撤退せず、継続して潜伏し、機を伺って北洋海軍の情報を探った。平壌の戦事が緊急だったため、清国政府は朝鮮に再度援軍を派兵することを決定し、招商局の5隻の汽船によって輸送し、日本艦隊の襲撃を防止するため、李鴻章は北洋海軍の主力に航路護衛を電報で命令した。宗方小太郎は威海で北洋海軍の出発時間を知り、直ちに北洋海軍軍艦が朝鮮に赴く具体的期日を日本の諜報機関に申告した。情報を得ると、日本軍大本営は即日本の連合艦隊を派遣して攻撃に行かせた。9月17日、北洋艦隊が帰投準備をしているまさにその時、大東溝以南の黄海海上で日本艦隊の襲撃に遭い、世界を驚愕させた黄海海戦が勃発したのである。

さらに、日本のスパイは清国軍の山東半島の防備布陣状況を探ってはっきりさせ、北洋海軍に威江防衛戦の中で陸海の挟撃を受けさせ、最終的に全軍壊滅させた。

北洋海軍に対し、日本のスパイは長期にわたって多くの軍港の情報収集作業を展開していた。1888年末から開始し、一部の日本のスパイは施工中の威海衛砲台および威海衛の栄成に向かう道路、栄成湾付近に潜伏し、威海、烟台、栄成など山東半島一帯に対し詳細な調査を行った。彼らは日本海軍に向け報告を提出し、日本の中国に対する開戦時栄成湾から上陸し、威海衛に対しては背後から進攻する戦術を採用すべきであると考えた。何故なら栄成湾は広く、水深は深く、砂の海底は錨を受けるのに適し、どんなに強烈な西北の風の天気に遭遇しても安全に停泊でき、しかもここは直隷海峡外側の辺鄙な海の隅に位置し、威海衛から比較的遠く、あまり人に注意されず、まさに威海の背後を襲うのに良かったからである。この提案は受け入れられ、日本軍が後に北洋海軍を陸海から挟撃するために重要な作用を果たした。

(頑住吉注:これより3ページ目)

1894年夏、日本軍はスパイ宗方小太郎を派遣して烟台、威海に潜入させ、北洋水師の動向を偵察させた。宗方小太郎は農民の姿を装って威海に行き、売国奴の援助の下に至る所で情報を収集し、甚だしきに至っては小舟に乗って劉公島に到達して水師の防御布陣状況を密かに知った。甲午戦争勃発後ほどなく、清国軍は日本軍が山東半島に進攻する時に携帯していた1枚の地図を獲得し、それに示された村、道、砲台、営舎、山、川、井戸、樹木は全て非常にはっきり書かれ、詳細で、一目瞭然だった。

甲午戦争の中で、日本のスパイは各種の手段を使用し、不断に北洋海軍の作戦に関する情報を国内に伝え、日本軍にいち早く事前に準備を整えさせ、充分に戦争の主導権を勝ち取った。一方北洋海軍は動かないうちに行き先が明らかにされ、直接具体的な作戦行動の中で受け身に陥る結果がもたらされた。

三、情報で全面的に敗北した教訓は深刻

時間はすでに2つの甲子が過ぎ去り、甲午戦争の硝煙はとっくに散り去っているが、甲午戦争が後の人に残した啓示は依然非常に多い。今日民族復興の夢を実現するために奮闘する中国人にとって、歴史の教訓の総括、過去を調べて未来を知ることはより重要さがはっきりする。

啓示一:警戒を高め、スパイの防止、秘密保持を全く緩めないこと。

甲午戦争の前後、日本の中国におけるスパイは多くの情報を偵察して知った。これは確かに日本のスパイが手段を選ばなかったのだが、清国政府の秘密保持意識の希薄さ、有効な防御措置を取らなかったこととも関係がある。甲午戦争の期間、「高升」号兵員輸送船が塘沽埠頭に停泊している時、埠頭の区域では何と警戒が行われておらず、一般の無関係な人さえ自由に往来でき、甚だしきに至っては何と日本人の「往来が絶えず、およそ我が船が動く時、彼は即細かく探り、埠頭にいつもいてうろうろするばかりか、何とある者は船のそばで鉛筆、ノートを持ち、搭載される物件を逐一記録し、何とこれを駆逐する委員、巡査はいなかった。」李鴻章が日本に赴いて談判する時、日本サイドが中国サイドの電報の暗号を解読していたため、李鴻章と北京のやりとりする秘密電報の内容および中国サイドの土地の割譲、賠償の最低ラインが全部日本サイドによって知られ、このため全和睦談判の過程が日本サイドの掌握下となった。

平和と発展は今の時代のテーマではあるが、我が国に照準を合わせた情報収集業務は以前に比べ全く少なくなってはおらず、我々は高度の警戒を保持し、全く緩めることなく防諜秘密保持業務を行い、常に秘密保持は小さな事ではなく、秘密保持は勝利の保持に他ならないのだということを心に刻むことが必須である。

啓示二:転ばぬ先の杖で、相手の研究に入れる力を強化する

甲午戦争の中で、日本のスパイが事前に北洋海軍の行動、配備を知っていたため、日本軍はあらかじめ手配し、突然襲撃し、これは北洋海軍が作戦で利を失った1つの重要な原因である。一方清国政府は情報収集方面で全面的に受け身であり、戦争勃発前、清国政府は一方的に列強の調停を信じ、戦争の到来を恐れ、ひたすら消極的に戦いを避けた。日本政府の何としてでも手に入れるという侵略の野心、気迫に満ちて人に迫る侵略行為に対し、全面的で深入りした認識がなかった。日本軍の侵略行動に対し事前に詳細で綿密な理解がなかった。

現在、日本国内では右翼勢力が台頭し、侵略の歴史を否定しており、もしこのままエスカレートしていけば、再度戦争の震源地になる可能性が高い。これに対し、我々は転ばぬ先の杖で、相手方の国内の形勢に対する研究を強化し、正確な事前の判断をし、繰り上げて準備を行うことが必須である。(頑住吉注:それやってたことが能動的に起こした侵略戦争だったことの証拠だって言ってませんでしたかね。)

啓示三:大勢を把握し、情報の収集と統計をうまく行うこと。

情報社会が急速に発展する今日、各国は普遍的に情報収集作業を重視し、一部の西側の大国は自らの目的達成のため、甚だしきに至っては個人のプライバシーを侵犯することもいとわず、窺い探る触角を全世界に向けて伸ばしている。備えあってこそ憂いなしなのであり、世界平和の維持保護、祖国と人民の生命財産の安全を防衛するため、我々は高度に情報の収集と統計を重視し、法律の許す範囲内で全力で情報収集統計作業をうまくやり、国家の決策のために根拠を提供すべきである。(筆者は海軍潜水艦学院政治教研室主任)


 しかし現在の日本は明らかにこうした情報収集の方面が弱くなっていると考えられ、万一のことを考えると不安です。






















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