中国におけるモーゼルミリタリーピストル

 同じテーマの記事もう何度も紹介してますけど何しろ私の最も好きな銃でもありますし。2回に分けます。

http://military.china.com/history4/62/20170324/30356378_all.html#page_2


中国の運命を変えた「駁殻」槍とそのファミリー

「光栄な伝統はどこで探すか、軍事博物館で貴重なものを探せ。勝利は大変な苦労から得ることが必須、ここの文物は諸君に示す。」 中国人民解放軍軍事博物館の所蔵文物のより抜きの品の中には、朱徳が南昌起義で使用した拳銃、阿部規秀(頑住吉注:日本の陸軍中将)を殺すのに用いられた迫撃砲、建国大典礼の閲兵を率いた戦車「功臣」号(頑住吉注:鹵獲した九七式中戦車改)、「東風1号」地対地ミサイル等々の「鎮館の宝」がある。建国90周年の際、「解放軍報」週刊科技は続々と特別計画を打ち出し、あなたのためにこうした博物館所蔵の重器とそれらの背後の物語を語る。ご注目を。今日我々は軍事博物館文物倉房主任で、兵器専門家の孫成智を特別に招き、皆のために駁殻槍とそのファミリーのメンバーを紹介する。

今日出版の「解放軍報」の報道をご覧ください

中国の運命を変えた銃

南昌起義「第1発目を放った銃」とそのファミリーを語る

孫成智

歳月と戦火の戦例を嫌というほど受けた駁殻槍は、静かに展示キャビネットの中に横たわっている。漆黒の本体は依然歴史の深い光沢を放っており、「南昌暴動記念 朱徳自ら用いる」とのいくつかの落ち着いて力強い寛扁楷書の刻印が光り輝いている。

90年前の8月1日早朝、軽快な銃声が南昌城内で起きた。朱徳は首に赤いネクタイをし、腕に白い布を巻き、この駁殻槍を手に持ち、将兵に先んじ、将校教育連隊の学員と市公安部の一部の人員を率いて勇猛に突撃して殺し、主力部隊とコンビネーションして南昌に駐留し守備する敵3,000人あまりを全滅させ、スムーズに南昌城を奪取し、国民党の反動統治に武装して反抗する「第1発目の銃声」を響かせた。この歴史的時を記念するため、朱徳はこの駁殻槍の上に文字を刻み、もって記念とした。中国人民革命軍事博物館が創建される時、この銃はここに移された。

清朝末期から中国時代に入り、新中国成立後に徐々にソ連系拳銃に取って代わられるまで、駁殻槍は半世紀近く輝きを放った。それはかつて南昌起義の第1発目を響かせ、長征の隊伍に随伴して万水千山を走り抜け、抗日戦の戦火の歳月を経歴し、蒋家王朝の壊滅を目撃し、朝鮮戦争でアメリカの侵略者を撃ったことがある‥‥このヨーロッパでは一度「失敗作」と考えられた「廃銃」は、それにもかかわらず一定の意味上中国の運命を変え、1つの時代の物語を創造した。

全部の拳銃を「駁殻」と呼ぶのではない。中国人の心中では、それはとっくにただ単なる銃ではなく、さらには忘れ難い集団的記憶と歴史的心情を代表している。

「モーゼル拳銃」の多くの名前

朱徳のこの駁殻槍は、学術的名称は「ドイツの7.63mmモーゼルM1986式短銃身拳銃」である。「短銃身」と呼ぶのは、それがドイツの7.63mmモーゼルM1986式拳銃の変形版で、グリップが小さく変わり、銃身が132mmから100mmに変わっているからである。

この拳銃は第一次世界大戦後に生産された。第一次大戦終結時、締結されたベルサイユ条約は敗戦したドイツの武器の生産と使用に対し制限を与え、ドイツが口径9mmを超え、銃身が100mmを超える拳銃を生産および採用することを許さなかった。このため、第一次大戦後ドイツはこの変形版の拳銃を大量生産し始めた。

学術的名称は「モーゼル拳銃」だが、この拳銃はそれにもかかわらずモーゼル兵器工場のフィドラー三兄弟によって研究開発された。その最初のタイプは1895年に登場し、1895式と呼ばれ、これは世界で最も早い自動拳銃の1つであり、当時最も先進的な武器の1つでもあった。モーゼル兵器工場は、この銃が極めて高い市場価値と軍用価値を持つのを見て、迅速にパテントを申請し、ブランド名を「モーゼル」と定めた。生産は1930年代までずっと持続し、数は30万挺あまりに達し、その中の絶対的大部分は中国とソ連に輸出された。

統計によれば、モーゼル工場の半世紀にも達する駁殻槍の生産期間の中で、何十種にも達する変形銃が派生した。ヨーロッパの俗称には「フラットサイドピストル」「ブルームハンドルピストル」などがある。中国での俗称はさらに多く、例えば「駁殻槍」、「大鏡面」、「盒子砲」、「匣子槍」、「自来得手槍」、「木殻槍」、「快慢机手槍」、「二十響快慢机」などで、名前が最も多い銃と言うことができる。このうち駁殻槍」の呼称が最も普遍的で、しかもグリップと全長によりまたそれぞれ「頭把」「二把」「三把」と呼ばれる。

この銃の旧中国での最も「公式化」された呼称には「自来得」が属し、意味は現在の「自動装填」と大差なく、ドイツ語から翻訳された。清朝末期の自動武器導入開始は1909年からで、1912年「陸軍部向礼和洋行購買械弾合同(草稿)」の中には、「自来得モーゼル拳銃200挺、ストックあり、1挺ごとに弾薬500発で、(単価は)合計‥‥銀58両に足りる」との記録がある。1挺に58両の白銀というのは、実際非常に高い価格に属する。換算によれば、この価格では当時北京城で3間の大きな瓦葺きの家が買えた。

「駁殻槍」という呼び方はいささかより遅かったはずである。中国人は何故この銃を「駁殻槍」と呼んだのだろうか? 主要な原因はこの銃に木製箱型ホルスターがあったことで、英語では「BOX」と言い、音訳されて「駁殻槍」となった(頑住吉注:「槍」は銃のことですが)。この木製箱型ホルスターゆえに、後には皆がこの銃にもう1つの名前、「盒子砲」を贈った。「砲」は当然威力が比較的大きいことを指した。盒子(頑住吉注:箱)の作用は上述のように、銃を盛装させる他、さらにグリップ後部に取り付け、ストックとして肩に当てて射撃できることだった。このような射撃の安定性はずっと向上し、拳銃は小型半自動あるいは自動の小銃として使用することができた。
















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