中越戦争の両軍の小火器と戦訓

 どうしても速報性のある記事を紹介しようとする傾向があるんですが、本当を言うと「歴史秘話」的な記事の方が興味あります。今回は「歴史秘話」もの、しかも本来専門分野だったはずの小火器に関するものです。

http://tuku.military.china.com/military/html/2013-03-22/214281_2328441.htm#pic


解放軍大いに不利! 対ベトナム自衛反撃戦の中での双方の小火器を評価する

対ベトナム自衛反撃戦の古い写真

歴史はすでに30年あまり前、対ベトナム自衛反撃戦は中国人の鉄血の気概を証明したが、対ベトナム戦初期において中国軍が小火器で間違いなく不利だったことは否定できない。

(頑住吉注:これより2ページ目。以後このようにページタイトルが前ページと同じ場合は省略します。) 中国・ベトナム双方の部隊の兵個人武器を対比して見てみよう。

歩兵分隊の装備

解放軍の1個分隊:56式サブマシンガン(頑住吉注:AK47中国版)3挺、56式半自動小銃(頑住吉注:SKS中国版)4挺、56式分隊用軽機関銃1挺。

ベトナム軍1個分隊:自動小銃あるいはサブマシンガン6挺、分隊用軽機関銃1挺、アメリカ式M79型40mmグレネードランチャー1挺、B40/B41ロケットランチャー(頑住吉注:RPG)1門。もし兵が定数に満たなければサブマシンガンを減少。

(頑住吉注:これより3ページ目)

歩兵中隊の装備

解放軍の1個中隊:サブマシンガン30〜33挺、半自動小銃37〜40挺、軽機関銃9挺、40mmロケットランチャー6門。

ベトナム軍の1個中隊:自動小銃64挺、軽機関銃9挺、重機関銃2挺、アメリカ式M79型40mmグレネードランチャー9挺、B40/B41ロケットランチャー9門。

(頑住吉注:これより4ページ目)

解放軍の1個大隊:サブマシンガン90〜100挺、半自動小銃110〜130挺、軽機関銃27挺、重機関銃9挺、40mmロケットランチャー18門。

ベトナム軍の1個大隊:自動小銃235挺、軽機関銃27挺、重機関銃6挺、12.7mm高射機関銃2挺、アメリカ式M79型40mmグレネードランチャー27挺、B40/B41ロケットランチャー27門。

(頑住吉注:これより5ページ目)

分隊、中隊、大隊の火力構成上、ベトナムは全面的に解放軍より強いということが見て取れる。双方の小火器の数はおおよそ同等だが、ベトナム軍の小火器はすべて全自動火器であり、これに比べ解放軍は依然多数の半自動火器を装備しており、ベトナム軍の方が少なからず強力である。軽、重機関銃の上では双方の隔たりは比較的小さいが、ベトナム軍の中隊編成には重機関銃があり、大隊編成には高射機関銃があり、解放軍より強い。支援火器の上では、ベトナム軍はアメリカ式M79型40mmグレネードランチャー、B40/41ロケットランチャーを歩兵分隊に支給しているが、解放軍の歩兵分隊の編成内にはロケットランチャーはなく、分隊の支援にやっと1門の69式40mmロケットランチャーが支給されただけである。中隊、大隊編成の上では、ベトナム軍の支援火器の数は解放軍の3倍である。

(頑住吉注:これより6ページ目)中印国境衝突の古い写真。解放軍が56式分隊用軽機関銃を使用している。

解放軍の分隊用武器は基本的に56式銃器ファミリーである。56式銃器ファミリーはAK47自動小銃、SKS45半自動小銃とソ連式RPD軽機関銃に代表されるソ連式歩兵武器の「中国製造版」で、解放軍の第1世代国産歩兵小火器装備体系である。1960年代の中国・インド国境自衛反撃戦の中で(頑住吉注:これも「自衛反撃戦」ですか。今尖閣に中国が強行上陸して戦闘になっても「自衛反撃戦」になるんでしょうね)56式銃器ファミリーは非常に大きな威力を発揮した。

(頑住吉注:7ページ目)56式半自動小銃

このうち56式半自動小銃はソ連式SKS45半自動小銃をコピー生産したもので、固定マガジンの10発給弾で、戦闘発射速度は毎分35〜40発、400m以内に正確に射撃でき、火力を集中すれば800m以内でなお殺傷力がある。しかも銃が比較的長く、鋭い三角型バヨネットを装備し、接近格闘戦に適する。56式半自動小銃は特に当時の植生がまばらで少ない、高度が高く寒い山地の戦場で使われ、射撃精度が良好で、兵個人で120発弾薬が携帯でき、ストリップクリップで素早く弾薬を押し込むことができ、持続戦闘が保障できた。その低発射速度、高精度という特徴は高原作戦の後方勤務に対する圧力を有効に低下させた。

(頑住吉注:8ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の古い写真の中の56式サブマシンガン

56式サブマシンガンはソ連式のAK47自動小銃をコピー生産したもので、風、砂、霜、雪に耐えることができ、信頼性がよく、火力が猛烈で、突撃力が強く、200m以内の近距離戦と遭遇戦に適し、400m以内の有効な火力殺傷ができる。高原上での後方勤務の輸送、兵個人の携行が困難だったが、56式銃器ファミリーは寸法が比較的小さい中間型弾薬を使用するので、解放軍の兵個人が携帯する弾薬はフルサイズの小銃弾薬を使用するインド軍に大きく勝り、持続戦闘期間はインド軍をはるかに超え、弾薬発射量も単位時間当たりでインド軍の2倍だった。実戦の中でのインド軍の56式サブマシンガンの突撃力に対する印象は極めて深いものだった。

(頑住吉注:9ページ目)弾薬をまさに押し込んでいるこの2本の負傷し汚れた手を覚えておこう。その持ち主は鮮血を用いて中国の尊厳を守ったのである!

(頑住吉注:10ページ目)56式分隊用軽機関銃

56式分隊用軽機関銃はソ連式のRPD軽機関銃をコピー生産したもので、100発ベルトリンクで給弾し、500m以内の単一目標に対する射撃効果が最もよく、火力を集中すれば500〜800m以内の集団目標を殺傷でき、弾頭は1500m飛行しても依然殺傷力がある。56式分隊用軽機関銃は射程が長く、火力持続性が高く、敵堡塁の銃眼の無力化や遠距離の運動する敵の殺傷に極めて有効である。

(頑住吉注:11ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の古い写真

56式分隊用武器の射程は優秀で、簡単で実用的であり、維持メンテナンスが容易で、弾薬の汎用性がよく、重量が軽く、携帯に便利で、後方勤務保障に適し、解放軍の戦闘力を非常に大きく向上させた。

(頑住吉注:12ページ目)中印国境衝突時期の古い写真。小火器はすでに非常に古い。(頑住吉注:ブレンですね。)

振り返ってインド軍はと見れば、銃器は繁雑で、第二次大戦時の古い製品でもあり、小銃はイギリス式エンフィールド、サブマシンガンはイギリス式ステン、軽機関銃はカナダのブレン式、重機関銃はイギリス式のビッカース、アメリカ式のブローニングだった。

(頑住吉注:13ページ目)

高原作戦の中で、エンフィールド小銃の発射速度は低すぎ、56式半自動小銃を制圧できなかった。ステンサブマシンガンの射程は比較的短く、また植生がまばらで少ないため近距離突撃射撃は難しかった(頑住吉注:遮蔽物がなく遠距離から発見されてしまう、ということですね)。ブレン式軽機関銃の装弾数は56式軽機関銃にはるかに劣り(頑住吉注:ボックスマガジンですからね)、対抗射撃中往々にして先に弾薬を消耗し尽くし、あわてて逃げるしかなかった。ビッカース、ブローニング重機関銃はしばしば展開が間に合わず、前方の第一線陣地がすでに射撃により潰されてしまえば重機関銃は威力を発揮し難かった。このため、兵個人作戦の中でインド軍はずっと中国軍に打ちひしがれた。加えてインド軍の弾薬は古く、汎用性もなく、後方勤務保障を深刻に阻害し、ついには一敗地にまみれたのである。

(頑住吉注:14ページ目)鹵獲されたベトナム軍の武器からベトナム軍およびその遊撃隊の用いる武器の自動化の程度が見て取れる。

1979年の戦いはこれとははっきり異なった。分隊を単位とする兵個人自動火器の上で、ベトナム軍は解放軍より多かった。しかもベトナム軍の自動火器はソ連式、中国式、アメリカ式、東欧式が混ざり合い、ソ連製AK47/AKM自動小銃、中国製56式サブマシンガン、アメリカ製M16A1アサルトライフル、フランス製MAT49サブマシンガン、ポーランドのWZ63サブマシンガン、チェコのVZ58サブマシンガンなどがあり、品質は解放軍よりよく、実戦の中では往々にして先んじて火蓋を切り、火力の強度の上でもはるかに解放軍より猛烈だった。

(頑住吉注:15ページ目)63式自動小銃は生まれるタイミングが悪かった

ベトナムのような山岳、ジャングル地帯では多くが接近戦、夜戦、遭遇戦となり、一般に50m以内で発生した。解放軍の56式半自動小銃はその正確な射撃の優勢を完全に発揮できず、逆に発射速度が比較的低いためベトナム軍の広範に使用する全自動火器に制圧され、戦闘中受け身となる結果がもたらされた。実は56式半自動小銃のこの種の劣勢はとっくに解放軍の認識するところとなっていた。かつて正確さと連続射撃を兼ね備えた63式自動小銃が研究開発され、かつ全軍に装備され、56式半自動小銃は一度生産が停止された。だが63式自動小銃の生産がピークの時にちょうど「文化大革命」がやってきて、品質問題が非常に重大となる結果をもたらし、改めて56式半自動小銃が生産、装備されたのである(頑住吉注:何故この銃の品質問題が重大になったのにSKSコピーなら問題なかったのか、何故基本AK47コピーに一本化して少数のボルトアクションスナイパーライフルを補助として使うようにしなかったのか、いまいち納得いかないんですが。)。

(頑住吉注:16ページ目)この対ベトナム自衛反撃戦の古い写真の中には同時に63式と81式自動小銃が出現している。

(頑住吉注:17ページ目)56式サブマシンガンを使用する解放軍

サブマシンガンの実用性の上では、解放軍の56式サブマシンガンとベトナム軍のAK47は同じルーツを持つが、ソ連製のAK47用の銃用鋼材は精良で、合金材料を大量に使用し、銃が軽く、連続射撃でバレルが赤熱しにくく、しかも錆にくかった。同時に製造技術も優良で、公差が小さく、故障率が低く、信頼性が非常に良かった。56式サブマシンガンは国産の銃用鋼材で製造され、合金の品質がAK47に比べ劣り、錆に抗する性能が劣った。特にベトナムの戦場のような高温多湿の環境下では、もし適時にクリーニングしないとすぐに錆が生じ、深刻な時はボルトを引いても動かなくなる事さえあった。しかも56式サブマシンガンはAKMに比べ重く、対高温性能がより劣り、連続射撃後バレルは過熱し、弾頭の初速が低下した。加えて56式サブマシンガンの射撃時のマズルジャンプはより大きく、信頼性の顕著な低下をもたらした。

(頑住吉注:18ページ目)ベトナム軍がAK小銃を使用している

(頑住吉注:19ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の中の56式軽機関銃

全自動火力の不足ゆえに、実戦の中では往々にして53式重機関銃や56式分隊用軽機関銃に頼ってベトナム軍に対し火力制圧を行う必要があった。だが53式重機関銃は携行が不便で、一般に歩兵にぴったりついて火力支援を行うことができなかった。56式分隊用軽機関銃は1979年の戦いの中で適時に歩兵を支援した功労者と言える。

(頑住吉注:20ページ目は19ページ目と同じタイトルのみ。21ページ目)

しかし56式分隊用軽機関銃にも欠陥があった。例えば給弾方式が比較的遅れており、容易にジャムし、精度は並みで、着弾の散布が比較的大きく、かつ全自動しかできなかった。また銃の作動信頼性が低く、容易に泥や砂、油切れ、錆の発生の影響等々を受けた。56式銃器用の鋼は劣ったので、訓練や実戦を経ると常にいろいろぶつけて凸凹ができ、このため銃の使用寿命が短縮した。

(頑住吉注:22ページ目)アメリカ軍のM60機関銃は後にベトナム軍によって大量に使用された

ベトナム軍が使用したのはソ連製のRPD、RPK汎用機関銃、中国製の56式分隊用軽機関銃、さらにはアメリカ製のM60汎用機関銃、骨董品のM2HB型12.7mm機関銃もあった。ベトナム軍は有利にあらかじめ設けた陣地、機関銃の合理的なライト、ヘビーミックス、多くの弾薬備蓄に頼り、火力上明らかに中国軍より強かった。

(頑住吉注:23ページ目)ベトナム戦時期の北ベトナムの女性民兵

30年の長きにわたる「万日戦争」の中で、ベトナム民兵の武器も不断に更新された。対アメリカ作戦の初期、ベトナム民兵はまだ多数の非自動火器を装備していた。

(頑住吉注:24ページ目)またベトナム戦争の中期になると、ベトナムの民兵も全自動火器を大量使用し始めた。当時の北ベトナム女性民兵が手に中国の56式サブマシンガンを持った宣伝写真。中国、ベトナム開戦時になると、ベトナム民兵小グループの武器装備もすでに解放軍の戦闘分隊よりやや高度だったことが見て取れる。

(頑住吉注:25ページ目)

南ベトナム軍とアメリカ軍の手中から分捕った武器もベトナム民兵の武器装備を顕著に向上させた。これはベトナムの女性民兵がアメリカ製のM16A1自動小銃を手に持ったシーン。

(頑住吉注:26ページ目)解放軍の手榴弾

分隊組織での作戦の中で、解放軍はサブマシンガンと半自動小銃の他には近代戦の武器として伝統的な手榴弾しかなかった。当時解放軍が使用したのは主に木製の柄が付属した67式手榴弾だった。この手榴弾は鋳鉄の本体を採用し、重量600g、70〜110の破片を生じさせることができ、殺傷半径は7mである。67式手榴弾の主要なメリットは構造が簡単、製造コストが低廉、大量生産に便利なことである。欠点は全体重量が比較的重く、体積が大きすぎ、生じさせる破片の数が比較的少なく、破片の一致性も比較的劣り、このため殺傷威力に影響することだった。1979年の戦いの時、各歩兵には手榴弾4発が支給された。自動火器の支援が欠けた接近戦の中で、堅固な陣地の攻略でも阻止攻撃でも、手榴弾はいつも解放軍の敵に勝つ重要な武器だった。

(頑住吉注:27ページ目は26ページ目と同じタイトルのみ。28ページ目)M79グレネードランチャー

ベトナム軍は一般にそれぞれの歩兵分隊編成に1挺のアメリカ製M79グレネードランチャーがあり、これはベトナム戦争で鹵獲した、アメリカが南ベトナム軍に残したものである。このグレネードランチャーの射程は31〜400mで、M406ハイエクスローシブ殺傷榴弾とM433破甲殺傷弾を使用し、さらに散弾、照明弾、煙幕弾が発射できる。1人につき20〜30発の弾薬を携帯し、塹壕内で移動しながら射撃でき、精度が良好でそれぞれの榴弾の威力は1発の手榴弾に相当し、榴弾の破片の殺傷半径は5〜7mに達し、有効に手榴弾と迫撃砲の間の火力の隙間を埋めることができた。

(頑住吉注:29ページ目)M16A1小銃の下に吊り下げたM203グレネードランチャー

ベトナム軍が使用したアメリカ製M16A1アサルトライフルにはさらにM203型40mmグレネードランチャーを追加で吊り下げることができ、体積が小さく精巧で、性能はM79型と基本的に同じである。この2種のグレネードランチャーの応用はベトナムの分隊組織を面殺傷火力構成上解放軍に比べより完備したものにし、分隊組織の作戦能力をより強くした。

(頑住吉注:30ページ目)解放軍、スナイパーライフルを使用

ベトナム軍はさらにソ連製のSVD半自動スナイパーライフルを使用した。この銃は10発の着脱マガジンを使用し、専用に研究開発された7N1型スナイパーライフル弾薬を発射した。有効射程は600mで、1000mの距離でも依然非常に強い殺傷力があった。ベトナム軍スナイパーは実戦経験が豊富で、SVDスナイパーライフルを使用して深い草に潜伏し、突然攻撃し、解放軍に少なからぬ死傷者を生じさせた。一方解放軍には当時専用の狙撃武器がなく、56式半自動小銃を用いて敵に対抗するしかなかった。後に戦闘中にベトナム軍が使用するSVDスナイパーライフルを鹵獲し、国内に送り返して計測、製図してコピー生産し、やっと初の国産スナイパーライフルが誕生した。‥‥79式スナイパーライフルである。この銃は1981年に試生産され、部隊装備された。

(頑住吉注:31ページ目)解放軍の狙撃英雄がスナイパーライフルを使用

(頑住吉注:32、33ページ目は30ページ目と同じ。34ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の中での解放軍の火炎放射器

ベトナムのような山岳、ジャングル地帯の作戦では、火炎放射器は非常に有効な武器である。ベトナム北部山地には洞窟や岩の割れ目が非常に多く、ある時は1つの山でもう100以上の洞穴があり、しかも洞穴の中にさらに洞穴がある。1つ1つの洞穴があり、一部の洞穴はまた相互に通じていて、洞窟内での残敵捜索をしようとしたら非常に面倒でしかも危険だった。1つの洞穴をベトナム軍は熟知しており、入っていこうとするのはそんなに容易なことではなかった。何故ならこちらは明るい所、向こうは暗い所にいて、こちらが洞穴にちょっと入ってちょっと頭を突っ込んで探せばベトナム軍はもう発見でき、直ちに攻撃してくるからだ。非常に多くの洞穴はまたしばしば真っ直ぐではなく、「Z」字型で、湾曲した所には遮蔽用の壁があり、ベトナム軍は中に隠れており、直接照準の火器ではうまく撃てなかった(頑住吉注:かと言って洞窟の中では曲射兵器も使い難いですわな)。だが火炎放射器の優勢は湾曲殺傷にあり、真っ直ぐな洞窟だろうと湾曲した洞窟だろうと一噴きすれば全てあの世行きである。このため洞窟の掘削とトンネル作戦を好むベトナム軍に対し、全くこの上なく良い武器になった。1979年の戦いの中で、しばしば師団の化学防御中隊の1個火炎放射器分隊(各分隊3班。各班に74式火炎放射器1)が第一線の歩兵中隊を強化し、実戦の中でのパフォーマンスは出色で、解放軍歩兵から宝物扱いで使われた。

(頑住吉注:35ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の中の重機関銃

実戦の中で、ベトナム軍はしばしばソ連製のデクチャレフM1938式12.7mm高射機関銃、中国製の54式12.7mm高射機関銃、ロシア製のКПВ14.5mm高射機関銃を運用し、解放軍の小火器の射程外から遠距離平射を行い、解放軍の集結と移動に対する脅威は非常に大きかった。ソ連製のデクチャレフM1938式12.7mm高射機関銃はかつて第二次世界大戦中にドイツ軍を痛打し、戦後多くの国に広範に輸出された。54式12.7mm高射機関銃はまさにデクチャレフ12.7mm高射機関銃を元にコピー生産されてできたもので、かつては解放軍の現役装備で、ベトナム戦争時に大量にベトナムに支援された。平射距離は1500mに達し得、戦闘発射速度は毎分80発、長短のバーストと連続射撃が行える。

(頑住吉注:36ページ目)対ベトナム自衛反撃戦で鹵獲されたベトナム軍の武器

ソ連製КПВ14.5mm単一バレル高射機関銃は構造が簡単で、重量が軽く、分解しての移動が便利で、座って発射する方式が採用され、ペダルを使って撃発する。照準装置は先進的で、装備されたのは高射、平射が1つに合わさった光学照準鏡で、拡大望遠機能があり、照準が素早いという特徴があった。ベトナム軍は山岳、ジャングル地帯で高射機関銃を使用して機動作戦を行うのに非常に長けていた。通常山頂に配置を行い、射界が比較的広く、火力が猛烈で、1,000〜1,500m以内の歩兵や800m以内の軽装甲目標および火力ポイントを攻撃できた。その弾薬の口径は大きく、ひとたび命中すれば甚だしきに至っては人を腰から真っ二つに断ち、対歩兵殺傷力が非常に大きかった(頑住吉注:まあそりゃ元々対戦車ライフル弾薬ですからな)。

(頑住吉注:37ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の中の解放軍の高射機関銃

解放軍の歩兵随伴火力は一般に53式あるいは57式7.62mm重機関銃、69式40mmロケットランチャー、65式82mm無反動砲、63式60mm無反動砲、53式あるいは67式82mm迫撃砲、71式100mm迫撃砲などだった。1979年の対ベトナム作戦の頃、解放軍歩兵連隊の高射機関銃中隊の54式12.7mm高射機関銃はすでに装備から外されており、全て58式装輪14.5mmダブルバレル高射機関銃に換装され、主に指揮所の防衛と砲兵陣地の防空任務を担っていた。道路に沿った、および両側が山地の場合の突撃時、解放軍は通常重機関銃、迫撃砲をもって遠距離から敵を制圧し、40mmロケットランチャー、82mm無反動砲を歩兵に随伴させ、接近しての発射で敵の火力ポイントを潰した。

(頑住吉注:38ページ目)対ベトナム自衛反撃戦の中の解放軍のロケットランチャー、

遺憾なのは、解放軍が使用した58式14.5mm連装高射機関銃は自動車の牽引を必要とし、道路を離れられず、ベトナム軍の高射機関銃のように山地、ジャングル内で戦闘を行う歩兵に対し有効な支援が行えなかったことである。しかも照準装具の更新が遅く、多くはまだ旧式の機械照準具で、ベトナム軍のソ連製КПВ14.5mm高射機関銃の光学照準具に比べ1世代遅れていた。

ベトナム軍の高射機関銃は高いところにいて下を臨み、遠くまで撃てたため、解放軍の40mmロケットランチャー、82mm無反動砲、重機関銃は一時相手に接近して打倒することが難しく、82mm迫撃砲や100mm迫撃砲を用いて制圧を行うしかなかった。だが82mmおよび100mm迫撃砲は比較的重く、人力と駄馬による輸送を必要とし、適時に歩兵の前進についていくことは難しかった。このように、ひとたびジャングルの峡谷や山道の隘路で突然遭遇すれば、解放軍はすぐ非常に不利になった。

(頑住吉注:39ページ目)

1979年の戦いの中で、解放軍は各種弾薬5,500万発を消耗し、相当程度当時の陸軍の戦闘力を検証した。まさにこの戦いの経験を経て、解放軍は小火器装備の研究開発、発展を重視し始め、素早く81式銃器ファミリーに代表される新世代小火器を登場させ、1980年代の両山輪戦(頑住吉注:1984年〜89年の対ベトナム侵攻)の中で形勢を逆転させたのである。その後さらに小口径、高発射速度が発展の方向性となり、95式、95-1式銃器ファミリーと03式銃器ファミリーが研究開発され、全軍が相前後して全自動火器に換装され、歩兵随伴武器も更新、世代交代し、近代化健軍の道に入った。

(頑住吉注:本文はこれで終わりです。40、41ページ目は「対ベトナム自衛反撃戦の中の解放軍の無反動砲」、42ページ目は「対ベトナム自衛反撃戦の中の解放軍の迫撃砲」、43ページ目は「対ベトナム自衛反撃戦の中の解放軍のロケットランチャー」、44ページ目は「対ベトナム自衛反撃戦の中で解放軍はサブマシンガンの使用を重視し始めた」、45、46、47ページ目は「対ベトナム戦争の発展につれ、81-1小銃の折りたたみストックを使用する56-2サブマシンガンが続々と部隊に装備され始めた」、48ページ目は「全自動火器を使用する解放軍の偵察兵」、です。何で右上にモザイク入ってるんすかね。)


 よく言われることですが中国人自身が中国版AKの材質や加工精度が劣り、また加熱しやすいなどの特徴を認める記述を読んだのは初めてのような気がします。

 中国版ドラグノフは普通にソ連からサンプルを導入してコピーしたのかと思っていましたが、よく考えれば59式拳銃の途中で中ソが決裂しているわけですからそんなはずはなく、実は中越戦争での鹵獲品をコピーしたものだったんですね。













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