中国による世界初の発明? 関連2題
非常に古い時代の兵器に関する「歴史秘話」ものの記事です。
http://military.china.com/history4/62/20160205/21466220.html
明朝の4つの人に知られることが少ない軍事に関する「初」 対艦ミサイルの始祖を作り出す
中国の古代科学技術が先んじた王朝時代として、明朝は中国ないし世界文明に対し非常に多くの偉大な貢献をなした。だがそれが軍事技術方面で取得した4つの世界初は、それにもかかわらず人に知られることが少ない。
1.「機雷戦」を初めて作り出し日本の戦闘艦を撃沈
16世紀には早くも、各種類型の機雷がもうすでに明朝海軍の重要な武器となった。1549年に製造された「水底雷」は世界初の機雷と呼ぶことができる。この機雷は木製の箱を外殻とし、パテで継ぎ目をふさぎ、下面の縄が鉄製のアンカーにつながり、深度をコントロールし、手作業で撃発させ、西方が製造および使用した機雷に比べ200年あまり早かった。初の定時爆発機雷は1590年に製造された「水底竜王砲」である。この機雷は牛の膀胱を外殻とし、内部に黒色火薬を装備し、線香を信管に用い、線香の燃焼時間に頼って機雷の起爆時間を定めた。初の触発機雷は1637年明朝最後の年に製造された「混江竜」機雷で、この機雷は艦船との直接の接触によって起爆が行われた。
史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、これは人類の歴史上初の機雷の使用が取得した実際の戦果で、日露戦争(1903〜1905)での機雷戦に比べ3世紀近く早かった。
2.「花竜出水」は対艦ミサイルの「始祖」
明朝が16世紀に発明した「花竜出水」は海上戦に用いる二段ロケットだった。「花竜」の本体は長さ1.6mの薄い竹筒からなり、前に木製の竜の頭を装着し、後ろに木製の竜の尾を装着した。本体内にはロケット数発が装備され、導火線は竜の頭の下の穴の中から引き出された。本体下の前後には全部で4つのロケット筒が装備された。前後2組のロケット導火線は一体に結び合わされていた。前面のロケット薬筒底部と竜の頭から引き出された導火線は相互につながっていた。発射時、まず本体下部の4つの火薬筒に点火し、火竜の前に向けての飛行を推進した。火薬筒の燃焼が終わった後、本体内の神機ロケットが点火されて飛びだし、敵に向け発射される。このロケットはすでにロケットの並列連結(4つの火薬筒)、タンデム式(二段ロケットのリレー)原理を応用していた。これは水上戦に用いる時、水面上を数km先まで飛行することができた。敵艦に向け飛ぶ時は竜の口からロケットを発射して相手方の艦艇を直接攻撃した。これは人類史上初の戦闘艦上から発射される大型遠距離ロケット武器で、「対艦ミサイルの始祖」と称するに堪える。明朝海軍はこのため世界戦争史上初めての対艦ロケットを装備および使用した海軍ともなった。
3.触発式地雷の最も早い使用
明代の工匠は人類史上最初の、鋼輪圧火(頑住吉注:意味不明です)によって撃発、起爆する鉄製の外殻を持つ地雷を設計、製造した。明軍はこの地雷を広範に装備し、かつそれを用いて江浙地域で何度も進犯する倭寇に重大な損害を与えた。これは人類史上初の実戦の中で人の手によらず起爆する触発式地雷の使用で、西方は18世紀以後になってやっと類似の武器を有した。
4.初の騎兵砲
明朝陸軍はかつて「虎蹲砲」を装備した。この砲は全長2尺、砲の前は2つの鉄の爪で持ち上げられ、外観は座った虎に酷似し、見たところ非常に勇ましかった。発砲前、まず5銭の重さの鉛弾あるいは石を100発以上装填し、さらに重量30両の大きな鉛弾あるいは大きな石を用いてふさぎ、発射時は大小の弾が一斉に飛びだし、殺傷力は驚異的だった。この砲は重量が軽く、体積が小さく、非常に騎兵が戦馬を用いて直接駄載するのに適していた。これにより明朝陸軍の騎砲兵の誕生が促された。これは人類史上初の騎砲兵で、これもまた西方に約200年先んじていた。(作者:冷兵器研究所)
非常に興味深いんですが、他はともかく「対艦ミサイル」は当然無誘導で、現在でも無誘導のロケット弾は命中精度が低いのに当時の技術で数km飛行させた後の散布界は無茶苦茶に大きくなったはずで、命中はとうてい望めず、実戦上の価値があったとは思えないです。まあ威嚇の役には立ったかもしれませんが。
次は小火器関連です。
http://military.china.com/history4/62/20130529/17861101.html
清朝初期の中国ですでに「機関銃」が発明されていた 発明者は西洋人に陥れられる
戴梓、浙江杭州の人。その父は戴蒼で、かつて明朝の監軍(頑住吉注:軍隊を監督する役職らしいです)の任にあり、兵器製造に長け、有名な画家でもあった。戴梓は父の影響を受け、少年時代からもう機械製造を好んだ。
1674年、耿精忠が福建から兵を起こして浙江に侵入し、呉三桂の反乱に呼応した。康熙帝(頑住吉注:清朝第四代皇帝)は康親王傑書(頑住吉注:康熙帝のいとこ)率いる軍を派遣し耿精忠を討伐した。戴梓はこの軍と共に出征し、傑書に自ら発明した「連珠銃」を献上した(頑住吉注:中国語では銃を「槍」と表記しますが、ここでは「銃」です)。「連珠銃」の背部は弾倉で、28発の火薬と鉛玉が貯蔵できた。銃機(頑住吉注:「槍機」だと通常ボルトを指します)はツーピースで、相互にかみ合い、片方を動かすと弾薬は自ら筒の中に落ち、同時にもう片方の銃機が離脱して撃発した。その形状は琵琶によく似ており、28発の弾丸を連続発射できた。その原理が今日の機関銃に似ているため、一部の軍事学者は「世界初の機関銃」と呼んでいる。ヨーロッパ人の発明した現代機関銃に比べ200年余り早かった(頑住吉注:マキシムもガトリングもアメリカ人ですが)。
戴梓は後に「子母砲」、またの名を「沖天砲」も研究開発し、康熙帝は大いに賞賛してこの砲を「威遠将軍」と命名した。この砲は後に清朝がガルダンの反乱を平定する中で非常に大きな作用を発揮した。戴梓が製造した火砲の成功は、時宜を得て朝廷に職を得させたが、やはり火器の研究に従事していたベルギーの宣教師Ferdinand
Verbiestは心の中でひどくこれを不快に感じた。Verbiestは戴梓を日本人と裏で通じているとの無実の罪に陥れ、家族もろとも盛京(現在の沈陽)に追放させた。ここで戴梓は30年余り非常に苦しい生活をし、78歳の時に病死した。戴梓の死後にも、彼の発明した連発火器は清国軍の大規模に装備する武器には決してならず、乾隆帝治世後徐々に伝承が途絶えた。(文章は「快楽老人報」2013年5月23日第16版より抜粋、筆者:佚名)
説明を読むとこれは機関銃とは全く異なり、「17世紀の連発ピストル」の最後で紹介したローラー状の部品を使った手動連発銃のようで、しかもオリジナルではなく模倣品の可能性もある、と中国のサイトでも指摘されています。また「子母砲」もヨーロッパがルーツの「フランキ砲」のことです。