女狙撃兵ルドミラ

 重複部分も多いですが歴史ものの記事を2つまとめて紹介します。

http://www.hinews.cn/news/system/2015/04/30/017528127.shtml


ソ連の女性スナイパー、309人を射殺 ドイツ軍、チョコレートと高い職位を用いて投降を勧める

ロシア国防省の統計によれば、第二次世界大戦の期間、全部で80万のソ連婦女が赤軍に参加し、大部分は衛生、通信部門で働き、前線に出られる女戦士は決して多くはなかった。本文が紹介しようとするスナイパーのルドミラ パフリチェンコはまさしくソ連女兵士の中の傑出した代表で、この娘はオデッサ、セバストポリなどの戦役の中で累計309名の敵軍を射殺し、男勝りな狙撃の神話を創造した。

「男女」の技量は非凡

1916年6月12日、ルドミラはベイリヤ・テシャコフ村に生まれた(今はウクライナに属する)。子供時代、ルドミラにはもう「男女」の性格があり、彼女はお人形で遊ぶことを好まず、パチンコで鳥を撃つことを好み、しかも正確さは男の子全てよりも高かった。

9年生になった時、ルドミラの一家はキエフに引っ越した。当時ソ連は国民の軍事教育を非常に重視しており、各種軍事スポーツ運動を展開し、ルドミラはすぐキエフ現地のある射撃クラブに加入し、すぐに神射手となった。

1941年6月22日、ナチスドイツがソ連に侵入し、キエフ国立大学で学んでいたルドミラは志願して赤軍に参加した。彼女は標準の軍人の外観に近く兵員募集幹部の歓迎を勝ち取ったが、彼女が男性兵士のように銃を手にして前線で戦闘する希望を提出した時、兵員募集幹部は笑い、彼女がどのくらい小銃に関する知識を知っているのか問うた。ルドミラはすぐにモシン・ナガン小銃を取り上げ、標準の照準姿勢をとった。最終的に彼女は希望通り赤軍に参加し、第25歩兵師団の偵察兵となった。

同年8月、ルドミラはオデッサ外周のバヤイェフカ村防衛戦に参加した。彼らの相手はドイツの従属国ルーマニアの山地歩兵部隊だった。ルドミラはモシン・ナガン小銃を用いて2人の敵を倒した。彼女は後に「この2人の侵略者を倒した後、私はやっと真に(戦友たちに)受け入れられた。」、と回想した。このようにしてルドミラは部隊内の専業スナイパーとなり、味方サイドの部隊の隠蔽された機動を援護するだけでなく、さらに巧妙に暴露されている敵将校や通信兵を狙撃して殺した。だが彼女はしばしばドイツやルーマニアのスナイパーと鉢合わせすることもあり、双方は往々にして何日何夜もの勝負を展開した。それは最終的な「一撃致命」のためにほかならなかった。

別の戦線に馳せ参じる

1941年10月、すでにオデッサで187名の敵を射殺していたルドミラは部隊と共にセバストポリに転じ、この要塞を防衛する戦闘に参加した。ルドミラは通常1名の戦友とコンビで行動し、彼女は発砲を担当し、戦友は視察、捜索を担当した。ルドミラはシモノフ半自動小銃(SVT)から改装されてできたスナイパーライフルを使用することを好み、この銃は7.62mm弾薬を使用し、照尺上の射程は1,000mに達し得た。だがこの銃に装備された光学照準具は4倍の倍率にしか拡大できず、このため射手の真に有効な狙撃して殺せる距離は600mしかなく、このことはルドミラに専用スナイパーライフルを操るドイツ軍と勝負する時非常に大きなリスクを犯すことを必要とさせた。

こうであっても、ルドミラは8ヶ月の長きにわたる戦闘の中で連戦連勝し、1942年6月になって彼女の狙撃成績は309人に達した。ソ連の放送局がこの戦果を発表した後、ドイツ軍は思い切って前線に大きなスピーカーを立て、「ルドミラ、君が我々のところに来て、君に食べきれないチョコレートを食わせ、君に高い職位を与えるか、我々が君を捕らえ、君を309の破片に引き裂くのを待つかだ。」と大声で呼びかけた。ルドミラは当然取り合わなかった。彼女は継続して手中の弾薬を用いて侵略者に教訓を与えた。ほどなくドイツ軍の迫撃砲弾の炸裂によって負傷し、止むを得ず前線から下がるまで。ソ連最高統帥者スターリンの命令通り、ルドミラは潜水艦に搬送され、セバストポリを離れた。

ルドミラは傷が癒えた後、本来は改めて前線に戻りたかった。だがソ連政府は彼女を別の戦線に派遣した。アメリカに行ってソ連軍民の抗戦の勇気と成就を宣伝し、同盟国がソ連により有力な支援を与えるよう懇切に促させたのである。ワシントンで、ルドミラはホワイトハウスに招かれ、アメリカ大統領ルーズベルトの接見を受けた。彼女はさらに大統領夫人エレノアの招待を受け、同行してアメリカ各地をめぐって演説し、アメリカの民衆に向け自らの戦闘の経歴を語った。ルドミラは各種の場合を利用して自らが敵を殲滅した経歴を紹介し、ファシスト侵略者の暴虐な行いを説明した。彼女はアメリカの婦女に対し、「あなたたちは私を珍エピソードの主役と見なしているが、ソ連では我が祖国は私を公民および戦士としか見なさない。」と語った。このソ連の女英雄はアメリカ社会の熱烈な歓迎を受け、彼女がある地に到着するや、すぐ多くのプレゼントを受け取り、これにはいくつかの兵器メーカーから贈られた真新しい小銃が含まれた。

帰国後、ルドミラは少佐に昇進したが、上級は彼女の前線復帰の請求に回答せず、彼女が後方の狙撃学校に行って教官となるよう手配した。1943年10月25日、彼女は「ソ連英雄」の称号を授与され、かつ金星勲章を獲得した。戦争終結後、ルドミラはソ連黒海艦隊入りして仕事をし、かつ海軍少将の階級に昇進した。1953年の退役後、ルドミラはまたソ連軍事支援補助委員会の職についた。1974年10月10日、ルドミラは逝去し、彼女はモスクワのNovodevichy Cemetery(頑住吉注:スターリンの妻や何故かイリューシン、ツポレフ、ラボーチキンら航空関係者が埋葬されているようです)に埋葬された。墓碑には彼女が生前に好んだ詩句が刻まれている。「苦痛がこのように長く続くのなら、カタツムリのように我慢強く移動しよう。快楽がこのように短いのなら、うさぎの尾のように秋の原野を過ぎよう。」


http://military.china.com/video/yhdsj/zixun/11171071/20150602/19777590.html


全面解析:狙撃の女王と彼女の致命的「凶器」

(頑住吉注:原ページのここにある動画のキャプションです。「永遠の瞬間(第四集):狙撃の女王、凄艶なる来襲」)

中華ネット軍事が作り出した初の第二次世界大戦「偶-像劇」である「永遠の瞬間」第四集「狙撃の女王、凄艶なる来襲」はすでに今日上映されている。この中ではソ連の英雄である女狙撃手ルドミラが、オデッサ防衛戦とセバストポリ戦役の中で男性兵士と共に英雄的に奮戦し、敵を倒すこと309人という誇らしい戦績を創造した素晴らしい物語が集中的に語られている。ならばルドミラとはどのような人で、彼女はどんな装備に頼ってこのような成績を取得したのだろうか?

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「ソ連の狙撃女英雄ルドミラ」)

ルドミラは1916年6月12日、ウクライナのベイリヤ・テシャコフのある小さな村に生まれた。子供時代、ルドミラは勉強熱心で成績優秀、またしかも独立精神を持った良い学生だった。9年生に上がった時、彼女はしばしば射撃クラブの活動にも参加し、すぐに彼女は神射手となった。

1941年6月22日、ドイツがソ連に侵入した時、ルドミラはすでに24歳のキエフ国立大学の歴史専攻の学生となっていた。多くの学友同様、ルドミラは赤軍への参加を志願し、彼女のほとんど標準的な女軍人の外見は兵員募集の役人に気に入られ、彼らは彼女を非常に優秀な後方勤務人員あるいは戦地看護婦とすることができると考えたのだが、彼女はそれにもかかわらず小銃を持って前線に行き直接敵を打撃する希望を表明した。彼女は真の戦士になろうとしたのである。兵員募集の将校は笑って彼女に問うた。「君はどうやって銃を持つのか知っているのかね?」 ルドミラはすぐに熟練した照準姿勢を取り、かつ自信を持って自分は神射手であると言った。だが将校は依然ルドミラに戦地看護婦となるよう説得を試み、彼らは彼女に戦場の残酷さと血生臭さを説明した。「弾丸は君が女であろうがあるまいがお構いなしだ。」 だがこれはルドミラによって交渉の余地なく拒絶された。最終的にルドミラは赤軍に参加し、第25歩兵師団で小銃射手となった。

1941年8月、第25歩兵師団は命令を奉じてバヤイェフカ付近に位置する極めて価値を有する山頂を防衛した。バヤイェフカ付近のある村落で、ルドミラは命令に接し彼女の初の狙撃任務を執行せんとした。銃が鳴り、スコープの中ににわかに血の花が飛び散る瞬間が出現した。ルドミラは彼女の初めての戦果を獲得した。第2の目標がまた出現し、この時ルドミラには全く躊躇はなかった。敵は瞬間的に死に、ルドミラは彼女の第2の戦果を獲得した。彼女の真の狙撃の生涯はここから始まった。ルドミラは1人の観察兵と共に活動し、武器はP.E.4照準具が付属したモシン・ナガン1891/30 7.62mm狙撃銃だった。このマガジン装弾数5発の小銃の初速は2,800フィート/秒で、有効射程は600ヤード、当時最も良い狙撃銃の1つだった。オデッサ作戦の2ヶ月半の間、ルドミラは全部で187人の敵を撃ち殺した。しかしルドミラは戦局を変えることはできず、オデッサはついにドイツ軍の強大な攻勢の下に死守することができなくなり、ソ連独立臨海集群はセバストポリまで撤退した。続く残酷な戦闘の中で、ルドミラは1942年6月にドイツの迫撃砲弾によって負傷した。ソ連軍最高統帥者スターリンはこの情報を知ると、直ちにルドミラを潜水艦に乗せてセバストポリから撤退させるよう命令を下した。この時までに彼女の戦果は驚異的な309人に達しており、ソ連軍の名声赫赫たる女狙撃手となっていた。この数字は全ソ連軍とソ連を驚愕させただけでなく、全世界をも驚愕させた。当時ドイツ人は甚だしきに至っては大スピーカーを立てて次のように呼びかけた。「ルドミラ、我々のところに来い。我々は君に食べきれないチョコレートをやり、君を役人に取り立ててやる。」 買収が成功しないと気づくと、敵軍は今度は手を尽くして脅しをかけ、おまえを「309のかけらに引き裂いてやる」と言った。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「画像の中の12名のソ連女狙撃手は第二次世界大戦の期間全部でドイツ軍775人を射殺した。」です。)

ルドミラは大した女英雄に作り上げられた。1ヶ月にもならない時間の後、ルドミラはアメリカを訪問し、初のルーズベルトの接見を受けたソ連公民となった。その後ルドミラはアメリカ州を継続して訪問し、彼女はカナダを訪れ、演説の中で自分の経歴を語った。帰国後、近衛軍少佐に昇進した女英雄ルドミラは上級の手配の下、もはや戦闘に参加することはなかった。彼女はどんなにか再度自分の狙撃銃を取り上げることを希望したにもかかわらず。1943年10月25日、彼女はソ連英雄の栄誉称号と金星勲章を授与された。1976年、彼女を題材にソ連は記念切手を発行した。ルドミラは海軍を退役した後、またソ連軍事支援補助委員会に職を与えられた。1974年10月10日、ルドミラ ミハイルロフナ パフリチェンコは不幸にも逝去し、年齢はまだ58歳で、モスクワの公共墓地に埋葬された。ルドミラ ミハイルロフナ パフリチェンコはロシア人民が永遠に銘記する英雄である。彼女の墓碑銘には次のような言葉が刻まれている。「苦痛がこのように長く続くのなら、カタツムリのように我慢強く移動しよう。快楽がこのように短いのなら、うさぎの尾のように秋の原野を過ぎよう。」

狙撃の女王の装備

SVT-40半自動小銃

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「上はSVT-40小銃 下はSVT-38小銃」)

SVT-40半自動小銃は第二次世界大戦の期間のソ連軍歩兵の主要な装備の1つだった。1890年代初めに開発され今に至るも使用されているロシア式7.62mmx54Rリムド小銃弾薬を使用し、マガジン装弾数は10発である。SVT-40半自動小銃はかつて狙撃銃として第二次世界大戦の戦場で使用されたことがある。

SVT-40半自動小銃は第二次世界大戦前、大多数の国が依然手動装填小銃を使用していた時、アメリカとソ連だけが率先して半自動小銃を装備し、米軍が装備したのは著名なM1式ガーランド小銃で、一方ソ連赤軍が装備したのはSVT系列の7.62mm半自動小銃だった(頑住吉注:文章がおかしいですけどこうとしか訳せないです)。

SVT-40は冬季の対フィンランド作戦で取得された経験教訓を根拠に総括された成果で、SVT-38を基礎に改良されてできた。目的は小銃の操作性能の改善と信頼性の向上だった。この銃は1940年7月1日からツーラ兵器工場で生産に投入され、同時にモシン・ナガンM891/30小銃は減産が開始された。何故なら当時ソ連は以後あらゆる歩兵単位を全て新たな半自動小銃で装備するつもりだったからである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「画像はSVT-40半自動小銃」)

SVT-38/40は当初歩兵小隊の火力増加にのみ用いられ、小隊内で少人数のみ装備し、その他は依然モシン・ナガン小銃を使用した。だが一部の精鋭部隊の中では、例えば1940年初めカレリアのラドガ湖で作戦を行ったスキー部隊は、完全にSVT-38/40を用いてモシン・ナガン小銃に代替していた。フィンランド軍はこの小銃の恐るべき火力を身にしみて体得した。第二次世界大戦終結後、大部分のSVT-40はすぐに装備から外され、SKS半自動小銃によって取って代わられた。少数のSVT小銃は軍用余剰物資としてソ連民間市場で販売された。

(頑住吉注:これより3ページ目。)

SVT小銃は寸法から言えば非常に軽く、例えばSVT-40はモシン・ナガンM1891/30に比べ50mm長いが、重量は逆に0.5kg近く軽減されている。発射する弾薬は同じで、射撃精度も非常に近いが、SVT-40の後座力はそれにも関わらずモシン・ナガンより小さかった。だがソ連軍方面のSVTに対する評価は決して高くなく、大多数の人はその信頼性は劣り、構造が複雑で、維持保護が困難だと考えた。だが別の方面では、SVTはソ連の敵‥‥フィンランドやナチスドイツの相当に歓迎を受ける戦利品で、甚だしきに至っては軍の正式装備として前線の兵士の使用のため支給された。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「画像はソ連軍狙撃手がSVT-40半自動狙撃小銃を使用しているところ」)

ソ連は元々1940年4月にSVT-40を赤軍の狙撃小銃として用いることを決定し、このためモシン・ナガンM1891/30PE型狙撃小銃の生産は停止された。しかしSVT-40の初弾命中率は比較的低く(モシン・ナガンに比べ)、銃口の火炎も非常に容易に狙撃手の位置を暴露し(主にSVT-40小銃の銃身がモシン・ナガンより短かったため)、またこの銃は厳寒の天候の下では決して信頼性が高くなかった。最終的にはやはり1942年にモシン・ナガンM1891/30PE型狙撃小銃を制式狙撃小銃として改めて採用することが決定された。そして元々はSVTのために研究開発された1940型スコープは構造が簡単で大量生産しやすかったため、改めてPUスコープと命名され、かつモシン・ナガンM1891/30PU型狙撃小銃の標準装備となった。一部のSVT狙撃小銃のみがモシン・ナガンM1891/30PE型狙撃小銃の補充としてずっと戦争終結まで就役した。SVT半自動狙撃小銃はモシン・ナガン狙撃小銃に比べての成功したところは非常に大きく発射速度を向上させたところにあった。ソ連の英雄ルドミラ中尉はSVT狙撃小銃を使用してオデッサとセバストポリで成功裏に309回の射殺を行った。

「偶-像劇」とは何か?

(頑住吉注:専門外の用語が頻出して訳せませんが、要するに1/6フィギュアを使ってこの場合ルドミラの当時の様子を再現し、語り手が解説を加える新しい形のショーらしく、この題材になったためこのルドミラという人物が現在中国で話題になっているわけですね。)


 SVTに関する記事も紹介したことがありますが、あれにはこの銃は農民出身の無学な兵には扱いにくく、文化レベルの高いドイツ兵には好まれたとありました。ルドミラもインテリで銃の扱いに習熟していたから使いこなせて戦果も挙げられた、ということなんでしょうね。ただ明らかに政治宣伝に利用されているので、多くの戦果を挙げたことは間違いないでしょうが誇張されている可能性もあると思われます。























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