中国の手榴弾の歴史

 当然抗日戦時の日本軍の手榴弾との比較などの記述もあります。

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中国の手榴弾研究開発史の秘密を明らかに:近代戦の中の「大殺器」

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「我が軍は非常に長い時間ずっと木柄手榴弾を使用した。4発のこの木柄手榴弾はかつて中国軍人の標準兵個人装備の1つだった。」)

多数の国の軍隊は小銃、銃剣、手榴弾を今日および未来の3種の基本的兵個人装備と見なしている。手榴弾は軍隊の近代戦の中の武器であり、進攻でも防御でも代わるもののない作用を発揮する。現在まで各国の軍隊はまだ兵個人武器の中にこれを継続して装備しており、かつ体積、形状、用途、威力などの方面において不断に改良している。部隊の軍事訓練の中で、特に陸軍、海兵隊、航空降下兵、武装警察部隊では、手榴弾はほとんど訓練が必須の科目である。

手榴弾のイラク戦争の中での威力を再現

21世紀初めての戦場だったイラク戦争の中で、手榴弾というこの形が小さく軽い伝統的装備は再度戦場に登場し、武器装備、特に軽火器を研究する多くの人の関心を引き起こした。2003年3月22日、4名のアメリカ偵察兵がイラク中部で任務を執行していた時、敵方の手榴弾攻撃に遭い、全員死亡した。3月23日、ペンシルベニア営地に駐屯する米軍第101航空降下師団第1旅団指揮部が1名の「行動が怪異」なアメリカ兵の手榴弾による襲撃に遭遇した。この兵士は夜に乗じて営地のテント内に2発の手榴弾を投擲し、さらに発砲し、2名の兵士の死亡、15名の負傷をもたらした。3月24日の夜、米英連合軍のナシリヤの市街戦の中で、某戦闘チームのある兵士が屋内に入って掃討を行っていた時、手榴弾攻撃に遭い、この兵士は全身火だるまとなった。4月13日、米軍兵士がバグダッド南部で手榴弾による襲撃に遭遇し、16名の米軍兵士が負傷し、6名は入院治療を必要とし、このうち少なくとも2人は傷が重かった‥‥

統計によれば、アメリカとイラクが2003年3月20日に開戦してから4月13日まで、米軍の手榴弾による事件の中で死傷した人員は全部で46名で、死傷者の人数はこの期間の総死傷者数の約10%を占めた。米軍では誤爆、機の損壊事件のほか、イラクの武器による攻撃を受けてもたらされた傷害が最多で、これには手榴弾によるものが含まれるはずである。甚だしきに至ってはアメリカ・イラク戦争後の現在、イラクの領土では依然たびたび手榴弾が米軍に死傷者をもたらす事件が発生しており、これらはいずれも世の人の手榴弾の作用に対する改めての思考と位置付けを引き起こさずにはいない。

この時の戦争の中で米軍が使用した手榴弾にはM15白燐手榴弾があった。これは特殊手榴弾に属し、重量は約400g、投擲後は17mの範囲内のいかなる人をも爆死させあるいは重傷を負わせることができる。かつ発煙と燃焼ができ、可視光の有効な遮蔽および迅速な放火実施の戦術作用を果たし得る。イラクの都市攻略作戦では、米軍はオーストリア製のアーガスミニ手榴弾を使用した。この手榴弾のコードネームはHG86である。重量は180gで、比較的低い破壊性を持つが、1,600個の破片(それぞれの破片の直径は2〜2.3mm)を生み出すことができる。アメリカ国防省は当初米軍特殊部隊の需要によって購入し、かつまず特殊部隊に装備した。推測によると、この時の作戦の中で米軍が使用した殺傷手榴弾にはさらにM26A2手榴弾が含まれた可能性がある。

イラク戦争の中で、イラク軍はRGO防御型殺傷手榴弾とRNG型攻防両用手榴弾を使用した。この2種の手榴弾はいずれもロシアの装備に属する。RGO防御型殺傷手榴弾は事前に破片を作ってあるタイプの手榴弾で全体重量が比較的大きく、約520〜530gで、殺傷半径は20m、着発と時間遅延の2種の作用方式があり、主に陣地、都市などの防御作戦に用いられる。これに比べRGN型攻防両用手榴弾は重量がより小さく、290gしかない。作戦中の使用が柔軟で、イラク軍ではゲリラ戦など敏捷な機動を採用した戦術行動の中で広く応用された。

手榴弾がイラク戦争の中でこのように大きな作用を発揮したのは、手榴弾の特徴と密接不可分である。手榴弾は構造と性能、操作と使用、戦術応用などの方面で多くのその他の武器にはない優勢を持ち、したがって現代の戦争に適応できる。まず、手榴弾は弾体と信管の2つの部分から構成される。その形状は小さく、いくつかの高度技術武器装備に比べ部品の構造や形状が相対的に簡単で、応用されている電子部品がより少なく、材料の加工がより少なく、戦前の動員によって容易に大量生産し、作戦需要を満足させることができる。次に、手榴弾の操作は非常に簡単である。我が国の抗日戦争を例にすると、広大な民衆がごく短時間に手榴弾(当時の手榴弾は「手雷」と俗称された)の使用方法を掌握した。今まで、手榴弾は依然リングを引き抜く方式の設計およびプレートが回転する撃針の発火方式がそのまま用いられている。

また、手榴弾は携帯に便利であり、このため未来の作戦の中の機動が敏捷な戦術行動に適応できる。例えばゲリラ戦、市街戦、屋内の掃討作戦である。相手方が固く守る陣地にあたる時、手榴弾を携帯した歩兵は需要に基づいて各種の手榴弾を使用することができる。例えば洞窟あるいは屋内を固く守る敵に対しては、催涙手榴弾などソフト殺傷手榴弾を投擲し、敵を瞬間的に戦闘力を喪失させ、味方に有利な戦機を提供することができる(頑住吉注:国際条約で殺傷能力のない催涙ガスも戦争への使用は禁止されています)。

未来の戦争の中で、兵士が地上作戦に参加しさえすれば、手榴弾が力を発揮する非常に広い余地がある。米軍は極力「非接触作戦」の戦争模式を尊重しているが、市街戦などの接近戦の中では依然損失が悲惨、重大である。将来、交戦する双方、特に武器装備が相対的に劣勢な方は、手榴弾のこの特徴を充分に認識し、その戦術用途を充分演繹し、「劣」の中から勝ちを得、「非対称」の中に「対称」を求めることがより必要となる。戦争中に作用を発揮する他、手榴弾はさらにテロと対テロ作戦の中で重要な役割を演じる。

我が軍の手榴弾の研究開発と使用

我が国の現代手榴弾は外国製品の導入を基礎に徐々に発展したものである。第一次大戦の開始から1920年まで、我が国は続々と国外からいくつかの種類の手榴弾を導入し、これと同時に自国でも手榴弾研究開発の歴史を開始した。関連の資料の不完全な統計によれば、1949年末までに、我が国の手榴弾を製造する工場は39に達し、5,827万発の各種手榴弾を生産していた(これには我が八路軍、新四軍が土着の方法で研究開発、生産した各種手榴弾は含まれない)。1917年、我が国の汕尾弾薬製造工場が初めて現代手榴弾の研究開発を開始した。1920年代以後、多くの兵器工場が続々と手榴弾の製造を開始し、1930年代になると我が国が製造する手榴弾にはドイツ式、ロシア式、フランス式、麻尾手榴弾(頑住吉注:底部に太い麻紐が付属した手榴弾で馬尾手榴弾とも呼ばれ、遠心力を利用して飛距離を伸ばす意図だったようです)などの品種があった。広西爆弾工場はさらに1936〜1939年の間にイタリア式手榴弾を生産したことがある。

ドイツ式手榴弾、中国の抗日を助ける

中国軍が1930年代にコピー生産を開始した手榴弾には主に2つの異なる系列があった。1つはソ連の1914/1930式手榴弾のコピー生産品である。この手榴弾は帝政ロシアが1914年に研究開発したもので、技術が比較的古く、しかも設計思想が特殊で、構造がすこぶる複雑で、中国軍事工業企業の需要に適応できず、すぐに中国から淘汰された。一方ドイツ式M24系列長柄手榴弾は我が国の長期にわたるコピー生産の対象だった。中国各地の軍事工業企業はさらにこれを基礎に、自ら一定の改良を行った。このうち数が最多なのは鞏式手榴弾で、当時の鞏県の兵器工場によって生産され、1939年に部隊への大量装備が開始された。鞏式手榴弾は抗日戦の期間に大量に生産、使用され、中国兵士に非常に喜ばれた。この手榴弾は宿敵である日本の93式および97式手榴弾との交戦の中で、すこぶる優勢を占めた。97式手榴弾の投擲距離と威力はいずれも鞏式に及ばなかった。だが鞏式の威力はドイツ式M24やその他の米英系列の手榴弾いずれに比べてもより小さく、これは朝鮮の戦場での米軍との交戦で非常にはっきり表れた。

米兵の回想による。:ある戦闘中、米軍の7人の兵士がある小山を固く守り、1時間半以内に我が軍は彼らに向け50〜60発の手榴弾を投げ、そのうち30〜40発は命中せず、あるいは米軍によって投げ返され、残りは彼らの防御位置の中で爆発した。別のある戦闘では、米軍が固く守る山頂で30人が手榴弾の破片を受けて負傷したが、戦闘を継続できないまでに重い者はいなかった。非常に多くの堅固な陣地攻撃の中で、この手榴弾は殺傷力不十分ゆえに志願軍に比較的大きな死傷者を生じさせた。

だがドイツ式木柄手榴弾は抗日戦中の中国にとって極めて重要だったと言える。抗日戦争の防御が主だった段階では、歩兵火力が不足していたため、単に歩兵が発射する火力に頼ったのでは進攻する日本軍を制圧することは非常に難しかった。手榴弾は有効な防御武器であり、何度かの重要な防御作戦の中で重要な作用を果たした。台儿庄戦役の藤県防衛戦の中で、川軍の守備軍の装備は極めて劣り、土着の方法で作られた漢陽造小銃の他、少数の軽機関銃すら土着の方法で作られたもので、重火器は全くなかった。これらの装備を用いて重砲や戦車を装備する日本軍第10師団に対する作戦に行くのは、全く「羊を送って虎口に入る」そのものだった。だが、3,000名の川軍は戦闘前に送られてきた車両1台に満載された手榴弾(当時の城壁上の守備軍には1人あたり1箱50発が支給された)に頼って、城壁下と城内の市街戦の中で日本軍と数日血戦し、会戦のための時間を勝ち取った。常徳会戦の中で、我が軍は装備上やはり絶対の劣勢にあったが、死を見ること帰するがごとしの精神に頼って戦い、日本軍は突撃のたび、往々にして猛烈な「手榴弾の雨」に見舞われることになり、したがって日本軍は悲惨な損失をこうむった。

関連の資料が伝えるところによれば、抗日戦期間全体で、八路軍は800万発近い手榴弾を使用し、日本軍の中には共産党軍の手榴弾恐るべしとの伝説が流れ伝わった。一般的に言って、日本軍は八路軍の掃討の時、できる限り接近戦は避けたが、これこそ八路軍の手榴弾の威力を恐れてのことだった。抗日戦期間全体で、中国軍は全部で3,000万発の手榴弾を使用し(国民党軍が2,200万発余り)、これらの手榴弾は全てM24あるいはその改良型だった。およそ40万の日本軍兵士が手榴弾によって死傷した。

手榴弾は長時間内依然我が国の基本装備の1つである

新中国建立後、我が国は一定の期間内ずっとソ連の製品をコピー生産していた。1960年代初期になって、やっと自ら中国の特色ある手榴弾を研究開発する道を選んだ。我が国がソ連製をコピーして成功した最初の手榴弾は42式攻防両用手榴弾で、これは旧ソ連のRG42式手榴弾の設計にならっていた。我が国の手榴弾は品種が雑多で、製品の品質と統一された基準を保証するため、コピー生産と改良がなされた手榴弾に規範化が行われた。初めて正式に命名されたのは51式普通木柄手榴弾である。生産技術の不断の向上につれ、設計の改良を経て、59式普通木柄手榴弾の研究開発に正式に成功した。この手榴弾は当時の国産制式手榴弾の代表となり、外形と構造は後に研究開発された67式手榴弾の雛形となった。59式普通木柄手榴弾を基本形として、また相次いで62-1式、62-1A式木柄手榴弾が研究開発された。この時期に生産された装備にはさらに攻-42式、攻-59式、防-1式手榴弾および反-3式、反-43式対戦車手榴弾があった。1954年、我が国の2種のソ連製からのコピー手榴弾である541式突撃手榴弾と542式防御手榴弾が設計定型をパスした。この2種の手榴弾は実際にはソ連のRGD-5式手榴弾とF1式手榴弾のコピー生産品で、構造が比較的複雑で、加工技術への要求も高く、間もなく生産が停止された。

1960年代から、我が国の武器発展は自ら研究開発、生産する道を行き始めた。63式木柄手榴弾は中国が自ら研究開発を行った第1世代手榴弾である。その後さらに65式重量増加木柄手榴弾が定型に至り、生産されたが、この2種の手榴弾にはいずれも使用に危険があり、投擲時に過早爆発が発生する、湿気の影響を受けて不発になりやすいなどの問題があった。こうした問題を解決するため、信管と生産技術が改良され、かつさらに一歩防湿性能が改善され、過早爆発の問題は解決した。これが1967年に設計定型に至った67式木柄手榴弾である。この手榴弾の研究開発成功後、多数が生産されて部隊に装備され、我が国第1世代の自ら設計、生産した手榴弾の典型的代表となった。67式木柄手榴弾を基礎に、その後の手榴弾は不断の改良、モデルチェンジを経て、破片を事前に作っていないものから作っているものへ、長い柄から短い柄へ、木柄から鉄の柄、プラスチックの柄へと変わった。相次いで研究開発、定型、生産された装備には73式スチールボール手榴弾、77-1式木柄手榴弾、77-1式プラスチック柄手榴弾、77-1式全プラスチックスチールボール手榴弾、77-2式木柄手榴弾、77-3式木柄手榴弾、77-4式鉄柄手榴弾、77-5式木柄手榴弾、71式燃焼手榴弾、79式ロケット手榴弾などがある。この時の手榴弾はすでに普通手榴弾と重量増加手榴弾の2種に分かれ始めていた。重量増加型手榴弾の殺傷威力はより大きく、かつ防御に適し、普通手榴弾は進攻にも適し、また防御にも適した。

1980年代から、我が国の手榴弾の研究開発は新たな発展段階に入った。手榴弾の外形、発火機構、破片方面いずれにおいても非常に大きな改良と向上があった。このうち82式柄なし手榴弾系列が典型的代表である。この系列の手榴弾は伝統的な木柄をなくし、威力を向上させ、破片の数は300にも達し、殺傷確率が高まった。82式柄なし手榴弾系列には82-1式、82-2式、82-3式手榴弾などがある。

現在、我が国の手榴弾はすでに建国初期のいくつかの単調な種類から、種類が揃った近代戦武器ファミリーに発展し、世界の手榴弾のレベルと肩を並べている。だが我が国は発展途上国であり、手榴弾というこの経済的、実用的な自衛武器に対しさらに一歩の開発を行う必要もある。今後の相当長い時間内、手榴弾は依然我が国の基本装備の1つである。


 コラムで電子部品を使った信管を採用した手榴弾を紹介したことがありますし、アイデアとしてなら投擲前に簡単、自由に遅延時間を設定できるとか、簡単な敵味方識別機能を設けて投げ返されても爆発しないとか、投げて敵の頭上にあるうちに遠隔操作で爆発させられる、投擲後爆発が中止できるようにするとかも考えられますが、コストアップに見合うほどのメリットがあるかは疑問ですし、ある意味とんでもない技術革新でもない限り現在の形が完成形で進歩の余地がない兵器なのかもしれませんね。





















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