ジョンソン自動小銃

 今回もちょっと古い号からの紹介になりますが、2002年6月号に掲載されていたジョンソン自動小銃の記事です。


Buschtrommel(頑住吉注:「Busch」は英語のブッシュ、「Trommel」は英語のドラムです。海兵隊によって南洋のジャングル戦で使用されたドラムマガジンを持つ銃、ということだと思います)

ジョンソン自動小銃M1941はUSアーミーにおいてガーランドに勝つことはできず、ピンチヒッターとしてのみチャンスを得た。

日後に全ては終わった。1940年5月14日、オランダは降伏した。小規模なオランダ王国陸軍はナチ・ドイツ軍の電撃戦に対抗することができなかった。しかし何日か後にはすでにロンドンに亡命政権が樹立された。この亡命政権はまだいくつかの部隊を統率すらしていた。というのは、陸海軍の一部が同時にイギリスに撤退していたからである。その上西インド(スリナム)および特に今日のインドネシアであるオランダ領東インドにはまだ無傷の植民地軍が存在していた。

 続く何カ月かのうちに、KNIL(Koninklijk Nederlands-Indische Leger)、すなわちオランダ王国インド軍が兵員数約120,000にまで成長した。ただしKNILには全ての戦争の必需品が不足していた。例えばライフルは30,000挺しかなかった。この欠乏に対処するため、亡命政権は1940年6月、調達委員会であるNPC(Netherland Purchasing Committee)を自由世界アメリカの銃器メーカーに派遣した。しかしオランダ人にとって不運なことに、アメリカの有名な銃器工場は当時、自国の武装とイギリス支援のためにフル稼働していた。

博物館の展示品だけ
 当時オランダを無理に急がせるもう一つの要因があった。日本によるバタビア侵攻がいつでもあると見込まねばならなかったからである。はなはだしい欠乏に対処するため、NPCはアメリカ国防省にP17エンフィールドライフルの供給を求めた。この銃に関しては第一次大戦終結以来兵器庫に約100万挺が在庫されていた。だがこれは成功しなかった。イギリスがこちらでも優先権を与えられ、大部分を入手していたのである。最初の照会から1年以上後の1941年7月になって初めて、スタッフのチーフであるマーシャル将軍が哀れみ、20,000挺のエンフィールドと700万発の.30-06弾薬をKNIL用として手放した。日本がパールハーバーを攻撃した後、つまりアメリカが太平洋におけるあらゆる味方を切実に必要とした時、さらに20,000挺が追加された。

第二の選択
 この間、オランダはとっくにその努力を自動小銃の獲得に向けていた。まず彼らの念頭に浮かんだのは新しいUSアーミーの正式銃器であるM1ガーランドライフルだった。だがUSアーミーでさえ最初のわずか数千挺を手に入れたところだった。生産は需要に遠く追いつかず、このためKNILに近いうちに相当数が割り当てられる見込みはほとんどなかった。このためMelvin Maynard Johnson Jr.の構造に白羽の矢が立った。この銃は自動小銃と軽機関銃からなる1つの銃器ファミリーとして設計されていた。ネックは1つだけだった。すなわち両銃器は程度の差はあれまだ試作段階にあったのである。唯一存在する試作モデルは手作業で苦労して作られたものだった。さらに悪いことに、「Johnson Automatics Incorporated」は自前の生産キャパシティも、生産のてはずを整えるための財務上の手段も持たなかった。

グルデン(頑住吉注:オランダの通貨)とのみ引き換えに
 このためオランダ人は生産準備に関し融資すら行わなくてはならなかった。彼らはまず最初に10,200挺のライフルと2,000挺の機関銃の注文を与えた後で、高額の前払い金を与え、そして最終的に製造開始が可能になった。後にオランダは注文を25,200挺のライフルおよび2,400挺の機関銃に増やした。Melvin Johnsonは生産を「Universal Windings of Providence」に委託した。また他方ではこのための鋳造所をCranstonにある工場に借り、この新しい会社を「Cranston Arms Co.」と名付けた。しかし抜け目のないJohnsonはこの工場をその後イメージ上の理由から彼自身のものと称した。彼は特別に「Johnson Automatics」の看板をCranston鋳造所の屋根に立て、写真撮影すら行わせた。他の注文受付の際、彼は後から写真に彼の名を加えるために単純に写真修正用のペンを使った。工場の持ち主は確かに彼だった。グルデンが入ってくる限りは…。

法学士号を持つ海兵隊員
 Melvin Maynard Johnson Jr.(1909〜1965 頑住吉注:当時まだ30代前半の若さですね)はアメリカの銃器設計者の中でも最も玉虫色(頑住吉注:見る角度によっていろいろに色が変わる、つまり多面的で多くの個性や特徴を持つ)の人格に属する。彼は経済的に恵まれたボストン住民の一家に生まれた。彼の父は有名な大学教授だった。彼自身も称賛を得たテニススターと結婚した。Melvinはニューイングランドで最高の学校に出席した後、1934年にハーバード大学法学部を卒業し、ボストンで弁護士を開業した。同時期に彼は海兵隊の予備兵団で兵役に服した。彼はそこで1933年、中尉に昇進した。1934年、彼はスプリングフィールドアーセナルでガーランドのピーターゼンとの比較テストに海兵隊のテスト監視者として参加した。

マルチタレント
このテストはジョンソンに軍用自動銃への興味を呼び起こした。そして彼の弁護士事務所の顧客の1人であるFranklin K.Youngによるデザインを量産に適するほど熟成させようと無駄な試みを行った後、彼は1935年にはすでに最初の実射能力のある彼独自の試作品を発表した(頑住吉注: http://www.johnsonautomatics.com/History.htm こんなもん発表するなよと言われそうですが。ちなみに下の方には「ジョンソンオートマチックス」の看板を掲げた工場の写真もあります)。Johnsonはこのライフルを古い部品だけから寄せ集めで作ったので、組み立てのコストは300ドルもかからなかった。バレルはスプリングフィールド03、トリガーメカニズムはブローニングライアットガン由来だった。ファイアリングピンとしては古い編み針が使われたとされている。この銃はディレードブローバック原理で作動した。まもなくショートリコイル方式で8個のロッキングラグが付属した回転閉鎖ボルトを持つモデルが続いた。Johnsonは1937年9月28日にこの銃に関する最初のパテントを手にした。銃器に関する1ダース以上のさらなるパテントがこれに続くことになる。彼はパテント書類をバッグに入れて「Marlin Firearms」を訪れ、試作品を作らせ、1938年8月にそれをArmy Ordnance Boardに提出した。このライフルは実に満足すべき作動をしたが、エキストラクターとコッキングハンドルに批判を受けた。続く改良バリエーションで初めてそれまでのノーマルなボックスマガジンとならんで組み込みのドラムマガジンが現れた。

ぼちぼちでなく大々的に
 新たなテストのためのJohnsonの出費は大きすぎるものではなかった。彼は何が何でも勝利を得ようとした。なにしろ彼がちょうど初めて正式銃に選ばれたところだったガーランドを打ち負かすことに成功したときには、百万単位の注文が待っていたからである。このため彼はこの時「Taft-Peirce Company」に7挺の試作品の製作を委託した。この会社はすでに高品質の自動ハンティングライフルを彼のために作っていた。供給されたテストモデルは相応な高品質になり、しかし高価にもなった。すなわち当時の価格で3,500ドルのコストとなった。1挺につきである!

公用としての能力なし
 この出費は引き合うと思われた。1939年12月、アバディーンで再び開始されたテストにおいて、Taft-Peirce製の銃は高い信頼性を持って作動した。6000発以上の射撃において、本質的でない12回の機能障害が現れただけだった。だが、結果として1940年2月の判定は非難のこもったものとなった。すなわち銃の高いクオリティは認めるが、「Not suitable for Army use」、すなわち使用に足る能力がないと判定されたのである。軍はこのライフルを重すぎ、扱いにくいものと見なした。しかし彼らが特に気に入らなかったのは、この銃がバヨネットを着剣すると作動しないことだった。これはバヨネットの追加重量が重量比に不都合な影響を及ぼすからだった。この銃はバヨネットの刺突時にロック解除される可能性もあった。この結果この銃はこの瞬間に発射準備状態ではなくなった。Johnsonは最初の異論に新しい軽量な(頑住吉注:針状)バヨネットで対処したが、一方彼はもう一つの異論は決して論破することができなかった。

海兵隊へ
 彼はがっかりしたが、完全に意気込みがくじけることはなく、今度は彼自身の出身部隊であるアメリカ海兵隊に目標を変えた。海兵隊は独自の調達過程を持っていたので、少なくともここにはガーランドを打ち負かす可能性が存在した。彼は陸軍での失敗からやっと3カ月経ったとき、このライフルを新たに見せることを許された。この際彼の銃器スペシャリストとしての評判と社会的影響力が有利に働いた。戦後になってもなお彼はウィンチェスターにおいて設計者としてのポストを、そして国防省においてコンサルタント契約を結ぶことを望まれた。

 1人の海兵隊の戦友(頑住吉注:Johnson)へのあらゆる好意を持ってこのライフルは徹底的にテストされた。この目的でM1との対戦が行われた。海兵隊の名手による射撃テストは300および1000ヤードで実施された。この際Johnsonの銃はM1を明らかにしのぐことができた。すなわち、命中率はガーランドの71.3%に対し81.2%となった。障害は両方の銃において現れなかった。リーダーたちによる判定は相応の好意あるものとなった。Van Orden大尉は、「このドラムマガジンタイプのセミオートマチックジョンソンライフルは、U.S.ライフルキャリバー.30M1より命中精度および潜在的戦闘効果能力において勝っている」と判定した。さらなるテストは同年11月にサンディエゴで行われることに決まった。今回はさらにスプリングフィールド03と、ウィンチェスターによる後のM1カービンの試作品が参加した。今回はガーランドがその優越を証明し、ジョンソン自動小銃は1941年春に最終的に却下された。海兵隊の決定においても兵站的根拠が役割を演じた。というのは、M1は当時大量生産の中にあり、交換部品の供給は陸軍の貯蔵庫を通じて世界的に保証されていたのである。

失敗の理由
 この判定は今日行ってもほとんど変わらない結果になるはずだ。というのは、疑いの余地のない利点とならんで、重大な欠点もあったからである。10連発のドラムマガジンはプラスポイントに属する。このマガジンはバラの弾薬とスプリングフィールド用装填クリップを使って再装填できる。一方ガーランドは特別な8連発のロードケースを使ってまとめてしかロードすることができない。ジョンソン自動小銃の場合、戦闘の休止時における弾薬補給はボルトを開くことなしに成し遂げられる。その上バレルが比較的簡単にバレルが取り外せ、これにより停滞の長さ(頑住吉注:意味不明ですがバレルを外した戦闘不能状態から発射準備完了までの時間の長さのことではないかと思います)が1/3に短縮できることは、落下傘猟兵にとって大きな長所となる可能性があった。第三の大きな長所は、ジョンソンがライフルと軽機関銃を1つの銃器ファミリーとして提供できたことにあった。このことは訓練を単純化した。これはUSアーミーにとってはオランダにとってより少ない重要性しか持たなかった。USアーミーはどっちみちBARに固執していたからである。

 それに対しジョンソンライフルはかなりの欠点も持っていた。すなわち、この銃はガーランドのように素早く再装填できなかった。5発がセットされた2個の装填クリップを必要としたからである。このため実際上の発射速度は低いものにしか達しなかった。リコイルが約30%低くなったと言われているにしてもである。可動式でフローティング状態のバレルはこの銃をバヨネット攻撃に非常に向かないものにした。バレルを曲げてしまう危険があるからである。その上良好な命中精度を保証するためには、バレル誘導の非常に精密な製造が必要だった。

新たな始まり
 今回もMelvin M.Johnsonはあきらめなかった。彼はそのライフルに最後の改良を行い、そのモデルに軍用っぽい響きがある「Model of 1941」という名を与え、ついに成功を得た。オランダの調達委員会は銃器を捜し求めるのにあまりにも必死だったので、M1941と軽機関銃バージョンをそれ以上のテストなしに受け入れた。唯一の追加の顧客として1943年にチリが1,000挺のライフルを自国の騎馬部隊用に注文した。しかしチリ人は他の場合に普通な.30-06の代わりに、彼らが信頼する7mmチリモーゼル弾薬を選択した。

遅すぎた
 時間が切迫しているにもかかわらず、原材料の割り当てが遅延したことと大量生産品の銃の初期故障は、1942年3月のオランダ領東インドの降伏時点までにわずか1999挺のライフルしかバタビアの部隊に届かず、機関銃は1挺も届かないという結果を招いた。ジョンソンは軽機関銃の最初の500挺を1942年9月に供給した。これらはオランダ人の元にではなく、直接アメリカ海兵隊に向かった。結局1943年始め、約30,000挺のライフルと70,000の交換部品セットを生産した後に生産は終了した。

戦争での使用
 それまでほとんどガーランドを手に入れておらず、スプリングフィールド手動連発銃によって装備されていた海兵隊はKNILの降伏後、大量の在庫があるライフルと機関銃にちょうど思い至った。彼らは新設された落下傘大隊パラマリーンズ用に多数を引き取り、彼らはソロモン戦でそれを手にした。OSS(Office of Strategic Services)はフリー在庫のさらなる一部を確保し、それをレジスタンスグループ支援のため落下傘でヨーロッパの占領地域に投下した。しかしOSSの倉庫の一部の銃は忘れられたらしい。というのは、後継組織のCIAが1961年、亡命キューバ人を失敗に終わったSchweinebucht侵入のため武装した時、そのカストロの敵たちに少数のジョンソンライフルおよび機関銃をも供給したからである。だが、たいていのライフルは第二次大戦の終了時にはサンディエゴにある海兵隊の倉庫に在庫されていた。Melvin Johnsonはその中から125挺を購入した。化粧直しして「アメリカン ライフルマン」誌の広告を通じて販売するためにである。

 しかしこの大部分は1953年Winfield Arms Co.に移り、一部はハンティングライフルとして異なる弾薬使用に改造され、1960年代までUSマーケットで販売された。

モデル:ジョンソンM1941民間バージョン
装弾数:5+1(オリジナルは10連発)
口径:.30-06
全長:1192mm
銃身長:580mm
空虚重量:4300g
型:ショートリコイルバレルと回転閉鎖ボルトを持つリコイルローダー。固定リアサイト
(頑住吉注:軍用はアジャスタブルです)。レバーセーフティ。ドラムマガジン。


 いかがでしょうか。少なくとも私にとってはかなり意外な話が含まれていました。富裕な家に生まれ、有名な大学教授を父に持ち、テニススターと結婚し、ハーバード大学法学部を卒業して弁護士を開業していた、というのは銃器設計者としては非常に珍しい経歴だと思われます。超エリートともいうべきジョンソンですが、彼が作ったライフルはほとんど成功せず、10歳年下でジョンソンに比べればずっと教育レベルが低いと思われるカラシニコフの銃が空前絶後の大成功を収めたというのも面白い話ですね。
 ジョンソン自動小銃が海兵隊によって使用されたというのはよく知られており、その理由がガーランドの生産が間に合わなかったからだというのも比較的よく知られていると思いますが、陸軍のテストにも海兵隊のテストにも失格した後、オランダ領東インド軍用に大量生産され、それが降伏して宙に浮いたためにいわば仕方なく海兵隊に使用された、というのは全く知らない話でした。オランダ人を信用させるために借り物の工場に自分の名前の看板を立ててトリック写真を撮影したというのもジョンソンの人格の一部をしのばせる面白い裏話でした。

 恥ずかしながら私はジョンソン自動小銃がショートリコイル作動方式だというのも知りませんでした。軍用ライフルの作動方式としてはバレットとならんで非常に珍しいものだと思われます。バレルが移動するこのシステムにもかかわらず、テストにおいてガーランドに勝る命中精度を示したというのは意外ですが、これはたぶん高級猟銃メーカーにとんでもない大金を払って特別に上等な加工で作らせたものをガーランドの量産品と比較したからで、量産品同士を比較したら逆転した可能性が高いのではないかと思います。
 この銃のドラムマガジンと呼ばれるものは、ボルトアクションライフルで一般的な固定マガジンの収納スペースをぐるっと回して容量を増やしたようなものと考えられます。もちろん簡単に着脱はできず、ボルトアクションライフル用装填クリップをはめてジャララと5発装填したらそれを外してもう一回同じことを繰り返すというものです。フル装填する時間はガーランドより長くなりますが、装弾数は2発多く、しかも途中の補充ができるだけでなく+1で11発の装填も可能です。ご存知とは思いますがガーランドは途中の補充はできず、これは大きな欠点でした。ボルトを開かなくても追加装填できるというのは一体どういうことなのかと悩みましたが、検索の結果このサイトの図で理解できました。

http://world.guns.ru/rifle/rfl20-e.htm

この他こんなサイトが参考になります。

http://www.angelfire.com/nh/milarm/johnson.html

http://mactec-militaryarms.com/734.html

http://www.johnsonautomatics.com/disassembly.htm














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