火器の時代以前の「大砲」

 今回はこれまでで最も古い時代がテーマかも知れません。火器の発明以前に作られた大型の遠距離兵器のお話です。

http://www.360doc.com/content/09/0427/15/2472_3289975.shtml


遠い昔の正確な打撃

「遠距離の正確な打撃」という言葉は、ちょっと見ると今日の高度な科学技術によってモダナイズされた戦争だけに当てはまる言葉のように思える。間違いなく「遠距離の正確な打撃」は、近年来不断に出現している遠距離精密誘導兵器やこれによる遠距離正確打撃作戦方式に伴って出現した新語である。だが、人類が遠距離の目標に対し正確に攻撃する能力を追求した歴史は長い。人類の祖先の猿人の時代にさえ遡れる。遠距離の目標に対し正確な打撃を行う、この理想は人類の文明史全体で一貫していると言ってよい。またこれには人類の遠距離正確打撃武器に対する恒久的追求が伴っていることも疑いない。特に科学技術、生産力がいずれも相対的に遅れていた古代において、火器の出現前の白兵戦兵器の時代において、人類は遠距離正確武器の発展に対し、より多くの心血を注いだのである。本文の前編、「遠い昔の兵個人用誘導弾」の中で、筆者は主にネット仲間たちと古代の小型個人遠距離武器について詳細に研究した。今日、筆者はネット仲間たちと古代の大型遠距離武器の発展について詳細に研究してみよう。筆者の能力には限界があるので、記述にはきっと不足の所があるはずだ。さらにネット仲間たちの多くのご指摘を乞う次第である。

霊雲面白話 遠い昔の正確な打撃(下) 巨砲の咆哮 (頑住吉注:「霊雲」は筆者のペンネームです)

人類の出現より、最初期の異なる猿人群体の間の食物や領地を争奪するために発生した闘争から、文明時代に入った後の異なる氏族、部落、さらには国家間衝突に至るまで、戦争は数万年の人類の歴史全体にほとんどつきまとっていた。初期の戦争では、人類の科学技術と生産力が非常に遅れていたため、衝突は基本的に平面的な人対人の直接の格闘のレベルにあった。つまり通常言うところの「野戦」である(頑住吉注:普通使われる野戦とは全然違いますね。中国語でも日本語と同じ意味で使われるんですが)。野戦では兵個人の遠距離武器が良好にして巨大な作用を発揮し、当時の軍事科学技術発展の重点となった。典型的代表は、投げ槍、弓矢、弩だった。だが、人類の科学技術レベルや生産力の不断の発展につれ、人口は増加し活動範囲も不断に拡大した。そこで、いくつかの大規模な定住ポイントが相次ぎ出現し、どんどん膨大な人口と富を集めていった。そしてこうした定住ポイントは、敵が労働力や富を略奪する最良の目標となった。外敵の侵入に抵抗するため、住民は相対的に「専業化」した固定的武装戦力を組織して作戦に用い、こうして最初の軍隊が出現した。多方面では、定住ポイント周囲に防御施設を建築し始め、もって侵入者の大規模な進攻に抵抗した。早い時期には部落の定住ポイントの防御施設には堀や木(竹)製の大きな囲いが含まれた。後には徐々に発展し、大規模な堀が掘削され、また土塀が建築され、しかも入り口には跳ね橋が建設された。こうして最初の都市防御構築物が登場した。敵が進攻してきた時、防御側の武装人員は堀と城壁の援護下で防御を行った。都市防御構築物の出現は防御側の侵入に対する抵抗能力を極めて大きく向上させた。同時に進攻側にもどんどん大きな圧力を与えるようになった。しかも科学技術水準と経済的実力の発展、そして人口の不断の増加につれ、都市防御施設、特に城壁の建築設計はどんどん完全なものになり、防御力はどんどん強大になっていった。特に一部の特殊で複雑な地勢に頼って建設された都市はより守るに易しく攻めるに難くなった。このことは古来およそ攻城作戦というものは、進攻側がいつも必然的に大きな代償を払わねばならないということにさせた。こうした局面に直面し、進攻者の最善の選択は疑いなく、できる限り遠距離武器を使用して進攻部隊を支援することで、最も良いのは敵方の城を守る構築物を直接破壊し、もって死傷者を減らすことだった。早い時期の兵個人用遠距離武器はこうした局面ではすでに作用を発揮することが難しかった。そこで、戦争の切迫した需要および技術の不断の進歩に伴い、古代の大型遠距離武器が登場した。以下、筆者は数種の古代における比較的古典的な大型遠距離武器を重点的に紹介する。

まず西方世界(原注:ヨーロッパ、西アジア、北アフリカを含む)である。西方で早い時期に出現した大型遠距離武器の代表は、古代アッシリア帝国の「大蝿」の異名を持つ大型攻城器である。アッシリア帝国は地中海地区初のアジア、アフリカ両大陸にまたがる、世界制覇を唱えた帝国だった(原注:その範囲は地中海地区、西アジアのコーカサス、ペルシャ湾、チグリス・ユーフラテス川流域の地区を含んでいた)。紀元前9世紀から紀元前8世紀まで、軍事改革および不断の対外拡張により、アッシリアは急速に台頭し、最終的には古代バビロニア王国、古代エジプト帝国を滅ぼし、イラン高原を征服し、当時西方で最も強大な帝国となった。アッシリアが急速に台頭し、かくのごとき輝かしい「武功」を打ち立てることができた理由は、その強大な軍事的実力、特に発達した軍事科学技術とは密接不可分だった。改革を経たアッシリア帝国の軍隊は多兵種混成部隊に属した。海軍の艦隊以外に、陸軍は歩兵、騎兵、車兵、輜重兵および技術兵など多くの兵種を包括していた(頑住吉注:「車兵」はチャリオット=古代戦車に乗った兵でしょう)。この中で技術兵は攻城作戦の中で巨大な作用を発揮した。当時アッシリアが相対していたエジプト、シリア、バビロニア、エラムはいずれも科学技術、経済が発達した古代の文明国に属した。これらの国家の都市は全て巨石やレンガで構築された堅固な城壁および幅広い堀を持っていた。こうした強大な防御設備に直面し、アッシリア帝国軍隊の技術兵は重要な作用を発揮し、このうち「大蝿」が特に重要だった。「大蝿」は機械の力を借りて弾丸を発射する大型遠距離武器であり、アッシリアで最重要の大型遠距離攻城武器だった。外部は巨大な四角い木製の枠で、高さは2mを超えた。前方の側面には厚い木の板で作った防盾があり、もって兵士を守り、敵方の弓矢などの武器で射殺されるのを防いだ。中間は巨大なウインチで、ウインチの軸には馬のたてがみ、牛革、腱、ゴムの木の皮で作ったねじりスプリングが巻き付けられていた(頑住吉注:「ねじりスプリング」というのは原ページの最初のイラストの武器が使っているようなものです)。下面は木製の砲本体と仕切り板で、弾丸を置くのに使われた。加えられた防盾が、後ろから見ると羽根を開いた蝿に非常に似ていたため、「大蝿」の名が付けられた。武器の重さは1トン余りに達し、大きな4つの車輪上に設置された。平時は家畜を用いて牽引され、良好な機動性を有した。作戦時はまず目標への照準と距離測定が行われた。その後、多数の兵士がウインチを巻き上げ、いっぱいに巻き上げた後仕切り板によって弾丸が放出された。ねじりスプリングの巨大な爆発力を借りて、「大蝿」の最大射程は200mに達し得た。これは当時の西方の技術条件下ではすでに極限だった。使用される弾には石製の弾や油脂が入った油桶が含まれた。石製の弾は敵方の城壁を直接砲撃するのに用いられ、油桶は点火後に発射され、敵方の構築物への放火、炎上による破壊に用いられ、今日の焼夷弾に似た作用を果たした。「大蝿」は当時の西アジア地区で最も強大な大型遠距離武器であり、アッシリア帝国がシリアの首都ダマスカス、エジプトの首都テーベ、バビロニアの首都バビロニア城などの都市を攻撃、占領する戦闘の中で巨大な作用を発揮し、しかも戦争のあり方を変えた。それ以前、エジプト、バビロニア等の軍隊は攻城の際、常に弓矢の援護下で長いハシゴを使って城壁に這い上がっており、敵方の城壁を直接破壊してはいなかった。この方式は進攻者に膨大な死傷者を出させた。だが「大蝿」出現後、アッシリア帝国軍隊は西アジアで初めて、敵の弓矢の射程外から直接その城壁を破壊する力量を獲得したのである。このことはこの地ですでに数百年続いていた戦争のあり方を完全に変え、アッシリア帝国の拡張のために有利な条件を創造した。当然、早い時期の大型長距離武器として、アッシリアの「大蝿」には大きな欠点が存在した。しかも紀元前612年にアッシリア帝国が新バビロニア王国によって滅ぼされると、「大蝿」も徐々に歴史の舞台からフェードアウトしていった。これに取って代わったのは、より先進的なヨーロッパの大型遠距離武器だった。これこそギリシャの弩砲とローマの放石車だった。

紀元前399年、ギリシャの都市国家シラクサは海から来る強敵カルタゴの侵略に見舞われた。カルタゴはフェニキア人の北アフリカ植民地住民の末裔で、強大な軍事力を有していた。特にその強大な海軍は西地中海に覇を唱え、ギリシャ人にとって最強の海上の敵だった。フェニキアは海外の植民地奪取のため、不断にギリシャ本土やその海外植民地に進攻していた。カルタゴの軍事および科学技術面の実力は非常に強大だった。兵士は青銅の盾とヘルメットを装備しており、強い防御能力を有していた。しかもその軍艦にも強力な装甲による保護があり、それまでの弓矢ではすでに敵を殺傷することはできなかった。強大な敵に直面し、シラクサ人は自分たち民族が発達させた科学技術に頼って新型武器を研究開発し、これに対抗するしかなかった。そこで、この後ヨーロッパの数百年の戦争の歴史に影響することになるギリシャの弩砲が誕生したのである。

筆者が少し説明の必要があると考えるのは、これにも「弩」の呼称がつけられているが、ギリシャの弩砲と中国の伝統的大型弩砲には本質的な差異があることだ。何故ならこれは弓と弦の力を借りて弾を発射するのではないからだ。ギリシャの弩砲は堅固な硬い木製の支持架を持ち、主梁は支持架に取り付けられ、その前端両側には2本のねじりスプリンググループが装備されていた。ねじりスプリングには大型の動物、例えば牛、馬の腱や革で作られ、強大な爆発力を備えていた。それぞれのスプリンググループは1本の引き棒を連動させ、引き棒末端は弦で、弦の中間は弾を置く容器だった。横梁には狭く長いアリミゾがあり、長い誘導レールが付属したスライドブロックは長いミゾに沿って前後にスライドできた。スライドブロックの後方は撃発機構で、弦の固定と解放に用いた。横梁の末端両側にはそれぞれ1つウインチがあり、射手はウインチのハンドルを動かし、縄を引いてスライドブロックを牽引して移動させた。撃発機構が弦を固定すると、弩砲は発射準備状態となった。同時に、横梁両側には青銅のギアが装備され、こうすれば弦を引く時、徐々に行うことができ、比較的力を要さず、しかも武器の投射力量が調節でき、したがって必要とする射程が獲得された(頑住吉注:原ページの最初のイラストがこれで、UZIのコッキングハンドルに組み込まれているような逆戻り防止機構があるのが分かります。よいしょと1段階引いたら休めるわけで、また目標が近距離ならいっぱいまで引かなくても発射できたわけですね)。弩砲にはターンテーブルが設計されており、照準に必要な方向と射程が調節できた。ギリシャの弩砲は一般の状況では長い矛を矢として発射したが、大小の鉛球や石弾のようなものも発射した。最大射程は350mだった。これは火薬を使う武器の出現以前において西方で最も威力ある大型遠距離武器だった。

ギリシャの弩砲は出現後、直ちに戦場に投入され、巨大な威力を発揮した。ギリシャの都市国家戦争では、弩砲が大量に攻城作戦に用いられ、密集した火のついた矛や石弾はしばしば相手方に強烈な恐怖感を抱かせた。威力が巨大ゆえに、ギリシャの弩砲は急速にヨーロッパ、西アジア地区に普及していった。有名なマケドニアの国王アレキサンダー大王は東への遠征中、ギリシャの弩砲を大量に使用した。しかも使用規模と装備数量の不断の拡大につれ、ヨーロッパは大量のギリシャの弩砲を一緒に集中装備し始め、単一の軍事組織を編成した。そこで、ヨーロッパ最初の砲兵が出現した。ローマの台頭につれ、ギリシャの弩砲は大きく発展した。ローマ人の攻城作戦では、まずギリシャの弩砲を使って大量で密集した弾を発射した。遠距離火力の援護下でローマの歩兵は攻城塔に乗って直接相手方の城壁に突進し、しかも攻城用の分銅で城壁を打撃した(頑住吉注:「攻城塔」は移動式のやぐらみたいなものでしょう。「分銅」はもちろん鎖鎌に付いてるような小さいのではなく、工事現場で使う吊るした鉄球みたいな奴でしょう)。ローマ人はギリシャの弩砲の作用を極めて重視した。ローマ軍団の中には専門の砲兵部隊が編成され、専門的にギリシャの弩砲を使用した作戦を行った。しかもローマは力を入れてギリシャの弩砲をさらに改良した。ローマ人は金属製の部品を使って本来の木製部品に換え、これは武器の性能を大きく向上させた。同時に発射器本体構造を最適化し、重量を部分的に軽減した。これらの技術的基礎の下に、紀元前2世紀、アレキサンドリアに定住するローマ人ディエイソスは鉄製のギアとチェーンを使用した連発弩砲を発明した。この武器は発射される矛がV字型のミゾの中に設置され、射手は引き棒の操作を通じた一組の五角形のギアとチェーン機構の往復運動により絶え間なく射撃でき、極めて高い発射速度を有していた。これは当時ではほとんど不可思議なことだった。連発弩砲の火力密度は非常に強力だった。だがこの武器は精密複雑すぎたため、製造が非常に面倒になり、最終的に普及せず、古代ローマの輝ける軍事科学技術の模範となったのである(頑住吉注:フリントロックリボルバーみたいなもんですね)。

ローマ人はギリシャの弩砲をギリシャ人よりさらに多く野戦に投入した(頑住吉注:さっきと「野戦」という語の意味が違いますが)。このため、ローマは中型、小型の2種の弩砲を設計した。中型弩砲は主に砲陣を形成するのに用いられ、敵方の密集した騎兵集団に対抗した。ローマ人は中型弩砲を4輪車上に装備し、家畜で牽引して走行できるようにした。これは現在の牽引式火砲と瓜二つで、機動性が大幅に向上した。小型弩砲は典型的な兵個人あるいは小分隊用の大型遠距離武器に属した。構造は簡単で、分解は便利だった。前方には木の板で作った防盾があり、横梁に設置されたフロントサイトと発射される矛の先端が照準ラインを形成し(頑住吉注:それならどっちかと言うとリアサイトでは)、照準射撃により便利だった。主にローマ軍団の歩兵分隊の中に装備され、その作用は今日の陸軍中隊一級部隊が装備する12.7mm重機関銃あるいは60mm迫撃砲に似ていた。この武器は外形上サソリに似ていたので、「サソリ砲」とも呼ばれた。これはローマ軍団の中で最も重要な軍団級小型遠距離武器だった。攻城作戦になると、ローマ人は超大型ギリシャの弩砲を製造した。この高さ6m近い途方もない大物は重さ45kgの石弾を400m以遠に飛ばすことができた! これは攻城作戦専用に用いられた。ローマは砲兵専門学校を持ち、専門的に砲手の訓練養成を担当した。厳格な訓練を経たローマの砲手は発射仰角と提前量を正確に測定して正確な射撃を行うことができた(頑住吉注:「提前量」というのはいわゆる狙い越しのことらしいです)。

ローマの放石車もギリシャ時代に出現した。放物線原理を利用する曲射武器に属し、石弾を専門に発射した。主に障害物の向こう側の敵を撃ち殺すのに用いられ、攻城にも用いられた。ローマ時代、放石器は大きな発展を遂げた。ローマ人は下面に4つの車輪を装備し、家畜を使って牽引し、放石車となった。ローマの放石車のフレームの両支柱間には固定された横軸があり、上には軸と垂直の梃子があって、軸をめぐって自由に回転した。軸には綱あるいは獣の皮が巻き付けられてねじりスプリングとなり、梃子の長い方のアームの末端には革製の兜状容器があり、石弾を入れるのに使われた。発射時、ねじりスプリングの爆発力を借りて石を入れた容器は急速に持ち上がった。投射物は容器から、45度の角度で飛び出した。30kgの石弾の射程はおよそ140〜210m、100kgの石弾の射程はおよそ40〜70mだった。ローマの放石車は一般にギリシャの弩砲と組み合わせて使用され、主に攻城に用いられた。このため、その使用範囲はギリシャの弩砲と比べて狭かった(頑住吉注:ずばりではない感じですが、原ページの2つ目の画像がこれに近いものでしょう)。

ローマ帝国滅亡後、その他の軍事技術は皆帝国の壊滅とともに歴史の塵芥の中に埋もれていった。後に勃興したヨーロッパの蛮族諸国はほとんど全部こうした技術を喪失していた。だが、ギリシャの弩砲とローマの放石車だけは完全な形で保存され、しかも力を入れて運用された。この後の数百年の時間の中で、ギリシャの弩砲はヨーロッパの国々の標準的大型遠距離武器となった。しかもヨーロッパ人は徐々に1つの新しい作戦方式を形成させた。すなわち、歩兵によって砲兵を保護するというものである。ギリシャの弩砲を遠距離火力として使い、まず敵を攻撃する。その後、遠距離火力の援護下で重装備の鉄甲騎兵が四角い陣形の形式をもって集団で突撃し、敵を殺し、その後歩兵が堅固な陣地に接近する。この種の作戦モデルは、フランク王国がアラビア帝国を打ち負かしたトゥール・ポワティエ戦役の中で余すところなく発揮された(頑住吉注:732年。イスラム側はウマイヤ朝です)。十字軍東時期になると、ヨーロッパ人はさらに大きな車の陣形でこの中に参加させた。多数の大型四輪車で防衛線を作り、敵騎兵の突撃を食い止めた。ギリシャの弩砲は中間に位置し、長距離火力を利用して敵を撃ち殺した。敵の戦力が減殺されるのを待って、自分たちの騎兵と歩兵を突撃させた。この種の方式は騎兵に対し非常に有効で、ヨーロッパのアジアに対する十字軍東中、アラビアや突厥の遊牧騎兵に対する作戦効果は非常に顕著だった。ヨーロッパの「十字軍神兵」たちには無敵の戦術とされ、ヨーロッパ人の当時における標準的戦術となった。だが、この戦術はほどなく東方から来た敵によって打ち破られた。これこそ世界の古代史にその名が轟く東アジア、モンゴル騎兵の西である! モンゴル人が勝ちを制した重要な原因は、彼らがアジアの中国とペルシャから得た2種の当時世界で最も強大な大型遠距離武器にあった。これこそ中国の大型車弩砲とペルシャの放石器に他ならない。

中国の大型車弩砲は、宋代の大型三弓床弩砲から発展した。中国の床弩は一種の大型遠距離弩砲で、外形は弩を拡大したようである。この種の武器の出現は非常に早く、東漢に早くも関連する記載がある(頑住吉注:東漢は日本では一般に後漢と呼んでいます。A.D.25〜220年)。宋代になると、北方の遊牧騎兵およびベトナム等南方の国の重装甲戦象に対抗する必要から、宋軍は力を入れて床弩を改良した。宋代は中国の古代科学技術が高度に発達した時期で、このため宋軍の大型床弩は以前の朝代のものと比べ、性能に非常に大きな向上が見られた。「武経総要」の記載によれば、宋軍の床弩の体積は以前の朝代のものより小さかった。体積が小さくなったにもかかわらず、射程は逆に非常に大きく延長された。これは主に、当時最も先進的だった複合弓技術と機械技術を大量に採用したためである。三弓床弩砲の弓の背部分には多種の材料で作る手法が使用され、典型的複合弓であり、爆発力が極めて強かった。しかも、射程延長のため宋軍はさらに一門の弩砲を三張りの強力な弓が連結されたものとし、その中の最後の一張りを反対向きに装備した。このため宋の床弩は三弓床弩砲とも呼ばれた(頑住吉注:原ページの3つ目の画像に近いものだと思いますが、「最後の一張りを反対向きに装備」というのがよく分かりません)。弓の弦は動物の腱で、複数の弓の合わせた力を利用して矢を発射した。。三弓床弩砲の構造は非常に巧妙なものだった。後部には2つのウインチがあり、滑車によって弓の弦を牽引してセットした。弓本体は硬くて丈夫な檀木で、軽く精巧で強力だった。槍〜は鉄、弩機は鋼だった(頑住吉注:「槍〜」の「〜」は日本語にない漢字で月へんに「堂」、通常の銃だとチャンバーを表すので発射前の弓を設置する部分でしょうか。「弩機」は弦をロック、リリースする部分です)。使用された矢には2種類あった。1つは長さ2m近い重いタイプの矢じりつきの矢だった。史書には「木干鉄羽」として記載されており、俗に「一槍三剣矢」と呼ばれる。形状は投げ槍に似ており、3枚の鉄製の羽は3本の剣のようなものだった。矢じりは鋼製のブレードが3つある徹甲矢じりだった。主に重装甲による保護がある目標の遠距離打撃に用いられ、今日の火砲の徹甲弾に似た作用を果たした。もう1種類は軽いタイプの矢じりつきの矢だった。長さは約1mで、形状は重いタイプの縮小版のようだった。これは主に密集射撃に用いられた。1基の弩砲で一度に多数の軽いタイプの矢を発射することができた。ヨーロッパで当時最も先進的だった大型のギリシャの弩砲が400mという極めて限定された射程だったのに比べ(頑住吉注:いやこれでも時代を考えればびっくりするほど凄い射程です)、宋代の三弓床弩砲の最大射程は1600mだった(頑住吉注:ま、まじですか)。両者は同じランクでは全くなかった。これは火砲の出現前における人類の直射武器が到達できた極限である! 当時世界で最も強大な大型遠距離武器だった。宋軍はさらに大型の矢じりつきの矢に火薬袋を縛り付け、点火後に弩砲あるいは弓を使って発射し、放火燃焼あるいは爆発機能を発生させた。戦争の需要と共に、宋軍は大型三弓床弩砲の底部に4つの車輪を装備し、行軍時は家畜で牽引した。そこで大型車弩砲が発展してできた。中国の大型車弩砲は攻城戦と野戦に広範に使用され、実際に巨大な威力を発揮した。特に、南宋が北方遊牧民族を攻撃した戦争の中で巨大な威力を発揮した。モンゴル帝国が金を滅ぼし南宋に侵入する過程で、モンゴル人は身をもってこの種の武器の巨大な威力を体験した。このため捕虜の職人を利用し、彼らも大型車弩砲を大量に製造し、装備した。

ペルシャの巨大放石器と言うと耳慣れないが、その別名は中国に大いに影響を与えたものとして知られる。他ならぬ「回回砲」である。「回回砲」は西アジアのペルシャ、イラク地区で出現した。実際のところは巨大な放石車である。当時、ペルシャ、アラビア等西アジアの国の放石器技術は非常に発達していた。しかもローマの放石車のねじりスプリング発射方式とは異なり、この巨大放石器の梃子のアームの一端には木の箱があり、中にウェイトとして石塊が入っていた。別の一端である長い竿にはフックがあり、縄で底座に固定されていた。発射時は引き縄を引いてフックを解放した。ウェイトの作用で、重さ75kgの石弾が最大で600mの距離まで発射された(頑住吉注:原ページの4つ目の画像がこれでしょう)。これは火砲の出現前における世界で最も射程の長い曲射武器だった。モンゴル人は第1次の西過程でペルシャを経由し、コーカサス山脈を越えて現在のロシア南部にあたるキプチャク草原に進入し、ロシア諸侯とキプチャク突厥の連合軍を打ち破った。この期間、西アジアにおいて巨大な威力を持つペルシャの巨大放石器と接した後、モンゴル人は直ちにこの種の威力巨大な武器と、中国の大型車弩砲を第二次西征で一緒に運用するに至った。ここで筆者はちょっと説明の必要があると考える。それは、「回回砲」が最初にモンゴル人によって使用されたのは西征中ではなく、中国の戦場においてだった、ということである。その後ヨーロッパに対する西征において、中国の大型車弩砲とペルシャの巨大放石器は、ヨーロッパ人が頼みとしたギリシャの弩砲とローマの放石車の往年の輝きを完全に失わせたのである。

1235年、モンゴルのスブタイとバトゥはそれぞれ大軍を率いてシベリアに向かい、カルパチア山脈を強行して越え、東ヨーロッパに進攻した。これこそ世界を震撼させたモンゴルの第二次西征である! モンゴルの勇猛な騎兵は向かうところ敵なしで、ロシアの諸侯、キプチャク突厥汗国を相次いで滅ぼした。モンゴルの大軍はポーランド、シレジア、東プロシアを打ち負かしした後、カルパチア山脈を強行して越え、ヨーロッパの内陸地であるハンガリーに進入した。敵を食い止めるため、ハンガリー国王ベーラ(頑住吉注:4世)はその他の諸侯国、全部で十万の軍隊と連合してサヨ河畔でモンゴル軍と決戦を行った。馬術と弓術にたけたモンゴル騎兵に対抗するため、ベーラはヨーロッパ人の慣用的戦術を取った。川の西岸に多くの馬車を連ねて堅固な兵営を作り、陣地の中央にギリシャの弩砲等を置いてモンゴル軍の攻撃を待ち受けた。だが、彼らがまだ立ち止まる前に、対岸の林の中から無数の巨大な矢と石塊がまともに降り注いだ。さらに爆発力のある燃える火球もあり、烈火のごとく燃え、鼻を刺す毒気を放つ麻袋さえあった。モンゴル人の中国大型車弩砲とペルシャ巨大放石器が火蓋を切ったのである! それはヨーロッパ人がかつて見たことのないものだった。大型車弩砲が発射する2mに及ぶ巨大徹甲矢は1000m余り離れた距離からハンガリー人の大型車を射撃し、しかも軽々と敵の木の板による壁を打ち破った。矢じりは燃えてもおり、後部に縛りつけられた火薬袋が爆発も発生させた。一方ペルシャの巨大放石器は600m離れた所からハンガリー人に対し密集した火石弾、てつはう、毒薬弾を発射した。てつはうは東アジアの中国で発明されたもので、「霹靂砲」から発展した鉄殻爆発火器である。この武器は球形の鉄殻内に大量の火薬が充填され、同時に大量の砂鉄あるいは砕石が添加され、導火線が装備されていた。作戦時、導火線に点火し、大型投石砲あるいは人力で敵に向け投擲された。爆発すると、内部に充填された砂鉄あるいは砕石が四方に飛散し、多数の敵兵を殺傷することができた。同時に放火燃焼機能もあった。毒薬弾は、麻袋内に硫黄、ヒ素が入れられ、コショウの粉さえ入れられた。麻袋は油に浸されていた。点火後敵に向けて発射され、燃焼すると大量の鼻を刺す毒煙を発生させ、多くの敵を殺傷できた。これは恐らく確実に文字で記載された世界初の「毒ガス弾」であろう。一方ハンガリー連合軍のギリシャの弩砲は射程の上で敵の半分にもならず、敵の猛烈な遠距離火力の下でやり返す余地が全くなかった。このように、ヨーロッパ人が数百年頼みとしたギリシャの弩砲は完全に敗北し、大型車による防衛線は簡単に破壊された。その後、ヨーロッパ人もこれら2種の武器の製造と使用を習得した。一方中国の大型車弩砲とペルシャの巨大放石器は東アジアの中国地区では襄樊の戦いで交戦した。ペルシャの巨大放石器は、モンゴル人の襄陽を攻撃し占領する際にカギとなる重要な作用をし、これにより中国に「回回砲」の悪名を残した。

モンゴルの西征終結後、ギリシャの弩砲とローマの放石車はヨーロッパ人に放棄された。そしてかつて彼らに痛打を与えた中国の大型車弩砲とペルシャの巨大放石器がその後継者となった。だが、ヨーロッパは複合弓技術の上で不足があったので、製造された車弩砲は射程上、中国のオリジナル品と比べて一定の隔たりがあった。火薬を使った武器、特に火砲の出現前、中国が世界で最も先進的な遠距離武器技術を持っていたことは疑いの余地がない。ヨーロッパが自分たちで生産した射程が最も長い大型武器はローマの大型弩砲だった。その最大射程は400mに過ぎなかった。一方中国宋代の兵個人用だった神臂弩という小型弩でさえ、その最大射程はすでに350mに達していた! これは同一時期のヨーロッパにおける標準的野戦用中型ギリシャの弩砲の射程に相当した! 1453年、オスマン・トルコ帝国は東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルを攻撃、占領した戦争において、ペルシャの巨大放石器を使用して火薬桶を発射し、城壁の爆破に用いた。これはペルシャの巨大放石器のヨーロッパにおける最後のきらめきであった。モンゴルの西征と共に中国の火薬武器技術がヨーロッパに伝達され、火砲の出現と成熟につれ、大型車弩砲と巨大放石器は徐々に東、西方において淘汰されていった。東、西方の戦場でほとんど同時に起こった雷鳴のような火砲の轟きと共に、人類の大型遠距離武器は新たな時代に入った。‥‥火器の時代である。


 私はこの種のものと言うと、「シンドバッド7回目の航海」でサイクロップスに勝ったドラゴンを倒した巨大クロスボーを思い出しますが、実際に広く使用されていたというはっきりした認識がなかったので非常に興味深かったです。「銃器史」というページを紹介したことがありますが、それによると1340年頃にはヨーロッパに巨大な大砲があったそうで、だとするとヨーロッパで東洋式のこの種の武器が使われた期間はあまり長くなかったんでしょう。

 黄色の文字にしたのはどういう意味かもうお分かりでしょうが、一応説明します。この筆者は大変な「愛国者」だそうです。まあ全体的に中国人にはそういう傾向があるんでしょうが、中国が世界の絶対の中心であるという意識で、中国から遠ざかる方向が下り、近づく方向が上りとすると、下り方向は「遠征」、「進攻」、上り方向は「侵略」になるんですね。当然中国に地理的に近いモンゴルが中国に攻め入れば「侵略」、モンゴルよりもっと遠いヨーロッパに攻め入れば「西征」になるというわけです。これたぶん意識してやっているんではないと思います。もう頭の芯までこうした考えが染み込んで、自動的にそういう語の選択になるんでしょう。中国由来の武器を持ったモンゴルがヨーロッパの国をやっつけたというのを何だかすごく嬉しそうに、誇らしげに書いてますが、私はモンゴルがヨーロッパで行った近代戦とは比較にならない残虐行為を考えると、「同じアジア人がヨーロッパ人をやっつけてやった」という痛快談のようには受け取れないです。

 誤解の無いように言っておきますが、この筆者は非常に博識で優れた書き手だと思います。ただこういう人と理解し合うのは難しいでしょうし、歴史観にもバイアスがかかっていないか常に疑いながら読まざるを得ません。








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