KGB時代のプーチン

 実際にどういう内容の仕事をしていたのかまではあまり知られていないと思います。なお、ところどころ太字になっていていつもはそれを再現するんですが、今回は読みにくい感じなので再現しません。

http://www.milnews2.com/2014/0417/62905.html


プーチンの神秘的なKBGにおけるキャリア

KGB(ロシア文:КомитетГосударственнойБезопасности、英文:The Committee of State Security)略称КГБ。KGB(頑住吉注:原文では「克格勃」で、発音はむしろ「ケゲボ」に近いと思います)とはこの3つのロシア文字の音訳で、すなわちソ連国家安全保障委員会で、対外諜報局、国内対スパイ局、軍隊管理局、国境警備軍管理局、総務局、KGB外国駐在基地チーム、KGBの創始者ジェルジンスキーなどがある(頑住吉注:明らかに変で、あるべきところに読点がないことからも一部内容が脱落しているようです)。

KGBシステムの業務人員は一度は50万人余りに到達し、このうち本部機関が1万人、スパイ、対スパイおよび技術保障などの部門が20万人、国境警備軍30万人だった。この他、全国に150万人の内通者、国外に25万人の諜報人員がいて、年予算は100億アメリカドルだった。

KGBはずっとソ連の対外情報業務、対スパイ業務、国内安全保障業務、国境防衛などの業務に主要に責任を負う部門で、党、政府、軍各部門を凌駕する「スーパー機構」であり、ソ連共産党中央政治局に対してのみ責任を負った。KBGはイギリスの情報機関から「世界における空前にして最大の秘密情報収集スパイ機構」と呼ばれた。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「KGB時代のプーチン。彼はKGB九局出身で、主に重要人物の護衛を担当した。」 続いて2枚目。「サンボ格闘術を練習中のプーチン。彼の徒手格闘技術は非常に熟練している。」)

アメリカのCIA、イスラエルのモサド、イギリスのMI6と、世界4大スパイ組織として並び称される。

1985年、プーチンはKGB直属であるモスクワのアンドロポフ赤旗学院での訓練を終えると、当時東ドイツに属したドレスデン市に派遣されて諜報業務に従事し、公式な身分はライプチヒの「ソ連・ドイツ友好の家」の主任だった。

プーチンは当時8名のKGBスパイからなる情報チームを率い、「スパイの募集、情報収集、加工整理、中央への発送」を担当した。

当時ソ連の主要な敵はNATOだったが、東ドイツに派遣されたKGBスパイは西ドイツ国内のNATO軍事基地に直接浸透することは全くできず、プーチンらは西ドイツの内通者を募集して情報を収集するしかなかった。東ドイツの情報機関「スタージ」は彼らに多くのドレスデン市民の申請書を渡したが、これらの市民は政府に、彼らの西ドイツにいる親戚が自分たちを探す許可証を発行することを申請していた(頑住吉注:東ドイツ国民が西ドイツに親戚を探しに行ったらまず戻ってこないので許可されませんが、逆は東ドイツ政府の許可があれば許可され、ただし書き方からしてハードルが結構高かったようです)。

(頑住吉注:これより2ページ目)

プーチンの当時の業務の1つは、申請の中から米軍の軍事基地に比較的近いところに住む西ドイツ公民を整理し探し出し、彼らが親戚を捜す許可証を獲得するのを助け、彼らが東ドイツに入るのを待って、機を伺ってその中からKGBが米軍の動向を監視するのを助けることのできる内通者を育成することだった(頑住吉注:というか恐らく協力しないと東ドイツにいる親戚をひどい目に遭わせるとか言って脅したんでしょうね)。

ドレスデンで、プーチンは6年仕事をし、かつ非常に多くの「実戦の技巧」を掌握した。例えば、彼は自分とあるドイツスパイとの間にワンセットの厳格な連絡の手順を作り上げた。エルベ河畔のある小道に接触ポイントがあり、このスパイは毎晩そこでジョギングした。

彼は往々にしてひしゃげたビール缶あるいは煙草の箱を事前に約束しておいた地点に投げ捨て、あるいは情報をコンクリートブロック内にしまい、プーチンが来て取っていくのを待った。もしプーチンの事務室内の電話が3度鳴ったら、このスパイが緊急に彼と会う約束をする必要がある、ということだった。

プーチンの当時の同僚ヨーソーゼフの言によれば、ドレスデンにいた期間、プーチンはさらにKGBの絶対秘密の「オペレーション ビーム」に参加した。この行動の中で、KGBの監視対象はNATOあるいは米英の軍事基地ではなく、彼らの盟友である東ドイツだった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「その身分がKGBスパイだったプーチン」 続いて2枚目。「今日のプーチンは、銃器の使用に対し依然非常に熟練している」)

1980年代中期、東ドイツ首脳ホーネッカーはクレムリン宮殿との関係を疎遠にし始めた。彼は何人かのかつて第二次大戦中にドレスデンを爆撃したことのある米英の飛行員を招待し、シャンプーオペラ館の会館式に参加させた。

プーチンは命令を受けてこのオペラ館に盗聴器を取り付けた。ホーネッカーがこのオペラ館で演説を行った時、クレムリンは最初からはっきりとそれを聞いていたのである。

ヨーソーゼフはさらに、自分とプーチンは当時さらに「科学窃盗」の件を実行したことがある、と明らかにした。一部の西ドイツの科学者はしばしば東ドイツの同業者に向けいくつかの科学論文を郵送したが、こうした論文はすぐ税関で「スタージ」によって押収され、かつKGB支部に送られた。

ヨーソーゼフは、「いかなるコンピュータあるいはレーザー科学技術方面に関する論文も、全て我々によってコピーされて1部はモスクワのKGB本部に送られた。本部の当局者はそれらをソ連の科学者に渡して分析を行った。ある時、一部のソ連の科学者は自分の論文の中で、大胆にも我々が送った論文のデータを直接引用した。」と語った。

(頑住吉注:これより3ページ目)

ベルリンの壁が倒れた後、プーチンは東ドイツから撤収し、サンクトペテルブルグに帰った。「あの時、多くの人は困惑の中にいて、明日何が発生するのか分からなかった。私はあの時タクシードライバーになろうと思った。」 ほどなく、プーチンはKBGに向け辞職の報告を打電したが許可は得られなかった。1991年8月20日、「819事件」(頑住吉注:「8月クーデター」 結果としてエリツィンが台頭)翌日、プーチンは第2回目の辞職報告を打電した。この時には報告は許可された。

(頑住吉注:以後は多分本来別の記事だと思います)

KGBスパイ、諜報戦を回想:中国の対スパイ能力は極めて強い

コンスタンティンはアメリカに裏切り逃亡した元KGBスパイである。

彼はかつて中国の情報の収集を担当していた。9月中旬、彼はワシントンで筆者に対し、対中国工作はKGBの最も困難な行動の1つで、中国公民をスパイに充当する望みは基本的になく、KGBは止むを得ず視線を中国周辺に投げかけた、と明らかにした。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「今日のロシアの女スパイが格闘訓練を行っているところ」 続いて2枚目。「色仕掛けで誘う訓練を行うロシアの女スパイ」 この任務に適さない人材が混じってませんか)

コンスタンティンは今年54歳で、ひどく恰幅が良くなり、道を歩くのも不自由する。ワシントンの街頭を行ったり来たりすると、ややペンギンに似ている。ある日本式レストランに座ると、コンスタンティンはほとんどメニューを見ずにすぐ食事を注文した。彼は日本の清酒を好み、何杯か飲み下すとコンスタンティンは筆者に向け冷戦の時期に彼が旧ソ連のKGBで中国の情報を収集したかつてのことを話し始めた。

中国語教師を募るという名目で、東京で情報員を募集

日本はかつてKGBが対中国スパイ活動に従事する重要な基地の1つだった。1980〜1985年、コンスタンティンはKGBによって東京の情報基地に派遣され、その公式な身分はソ連のタス通信の記者だった。彼の主要な任務は中国人を募集してスパイにすることだった。

当初、コンスタンティンの業務の進展は大きくなかった。1983年、彼は東京で学ぶある香港人と知り合った。当時香港はまだイギリスに属する地だった。コンスタンティンはこの香港人はつき合いやすいはずだと考え、彼を連れてレストランに行き、数時間を費やして彼と中国の芸術、歴史、美食などを語った。

(頑住吉注:これより4ページ目)

だがコンスタンティンが核心の議題に言及した時、この香港人は用心深くなり、コンスタンティンは二度と彼に会わないと決めた。

日本における最後の年、コンスタンティンは仕事の方法を変えた。彼は私人の中国語教師を募ることを名目に中国の留学生に接近した。コンスタンティンはわざわざ授業を受ける地点を豪華なレストラン内に手配し、学習の前にまず中国の留学生にディナーをご馳走した。留学生は一般的に比較的貧乏で、彼らは思いきり美食を楽しんだ。

酒食が満ち足りた後、彼らがリラックスして来るのを待ち、コンスタンティンはこの機を借りて言った。「次もまたレッスンをしような。今日は君の貴重な時間の埋め合わせのために100アメリカドル支払いたい。」 中国の学生がひとたび金を受け取れば、KGBにリクルートされたと評価された。

コンスタンティンはこの方式を用いて十何人かの中国の留学生を「教師」とした。当然、彼の中国語は決してあまり進歩しなかった。

最初コンスタンティンは留学生たちにいくつかの簡単な任務を完成させた。例えば中国の駐日本大使館内の外交人員のリストの収集である。この種の情報は中国サイドでは秘密保持していたが、日本の対スパイ機構から見れば決して国家機密とは評価されず、このため暴露の可能性はごく低かった。

コンスタンティンは情報を提供する留学生に対し報酬を支払った。この後、コンスタンティンの留学生に対する要求はどんどん高くなり、任務のリスクはどんどん大きくなった。だがこの時コンスタンティンは突然意識するに至った。「中国人には強烈な民族感情と愛国の熱情がある」と。彼は彼の留学生が対KGBに転じることを非常に恐れ、そこで能動的にそのうちの大部分の人と疎遠にした。

若い学者を招いてスパイにし、KGB本部の表彰を受ける

日本にいる期間、コンスタンティンは記者の身分をもって隠れ蓑とし、しばしば東京のいくつかの大学に取材に行き、努力して中国から来た実習生と知り合おうとした。日本にいる中国の実習生は一般に40歳前後で、一部はすでに成熟した学者になっており、当然一般の大学生に比べ、より「価値」があった。1983年、コンスタンティンは東京の科学技術研究所で実習中の1人の中国の学者と知り合った。

この学者は光化学方面の専門家で、彼の専門は武器製造と関連があった。このことはコンスタンティンを至宝を手に入れたように大喜びさせ、彼はこの学者を自らの内通者に育て上げることを決心した。

コンスタンティンは金銭を用いて学者に贈賄しただけでなく、さらに彼が英語の作業を完成させるのを助けた。この中国人の学者は日本語は非常に堪能だったが、英語はごく不得手だった。コンスタンティン自らはスパイの募集に忙しく、勉強している暇はなく、そこでこの学者の作業をKGB翻訳局の同僚に回し、翻訳1件につき100アメリカドル支払った。

2年の「養成」を経て、コンスタンティンはついにこの学者をKGBのスパイに充当できるよう説得し、さらに彼に要求して協力協議書を提出させた。コンスタンティンはこの協議書をロシア文に翻訳し、秘密の外交書簡によってモスクワに送った。KGB本部は欣喜雀躍し、当時KGB第一総局の局長の任にあったクリュチコフは自ら手紙を出して彼を表彰した。

スパイの身分がばれ、狼狽してモスクワに逃げ戻る

良いことは長くは続かず、この学者はKGBに向け中国の情報を売ると同時に、ついでにソ連に向けいくつかの日本方面の関連の情報も提供していた。このことが日本の対スパイ機関部門の注意を引き起こした。当時この中国の学者は「中国に道徳上の打撃をもたらすに足りる」情報を得たと言明した。

このことはKGBを狂喜させた。クリュチコフは自ら、彼を「スーパースパイ」に養成することを決定した。

KGBはコンスタンティンに、かの学者を教えて無線電信暗号知識を学習させ、もって彼が直接秘密のデータをモスクワに送れることに便とするようを要求した。コンスタンティンは1台のごく小さなラジオを買い、送受信器に改装した。中国の学者を公園内に連れ込んで訓練し、何故なら「公園内では我々は非常に目立たない」からだった。

(頑住吉注:5ページ目)

しかしこの任務はコンスタンティンのスパイとしての身分を完全に明るみに出した。1985年7月のある日、モスクワのKGB本部は日本の東京に向け無線電信を送り始めた。目的は中国の学者が無線電信暗号を使用する能力を審査することだった。

無線電信の内容には実際の意味はなく、ある中年男性がロシア語で非常にゆっくりと7、5、11‥‥と一連の数字を読み上げ、中国の学者はこれらの数字を捕捉し、かつ書き留める必要があった。その後計画通り、コンスタンティンは彼の筆記をモスクワに送り、もって正誤を判別した。

だが計画は実現され得なかった。日本の無線電信対スパイ部門がこうした電波をキャッチし、かつその場で彼らを捕まえたのである(頑住吉注:え、何の容疑で?)。

コンスタンティンは2時間語に釈放された。日本の警察はコンスタンティンが翌日東京の中央警察局に来るよう要求した。だがKGBの上級は彼が行くのを許さず、彼はモスクワに強制送還された。中国の学者も後にすぐ中国に送り返された。

中日、朝鮮半島地域を担当 対中国情報工作、しばしば挫折

コンスタンティンがKGBを離れる前の最後の仕事はKGB科学技術情報部門の顧問で、主に中国、日本、朝鮮半島方面の情報の分析を担当した。

コンスタンティンは、元KGBスパイのユーリ アンドロポフはかつて中国以外の国において対中国情報工作を展開するよう命令を下した、と明らかにした。このようにするのは中国に極めて強い対スパイ能力があるからだった。KGBの対中国情報工作は中国国内でしばしば挫折しただけでなく、国外であってもしばしば失意の内に帰るという結果だった。上述のかの学者は1つの例である。

ある時、1人のソ連情報人員はスウェーデンのストックホルムの大通りで1人の中国の留学生に接近し、かつ中国語で話しかけたが、中国の学生は非常に警戒し、そっぽを向いてすぐ行ってしまった。

ある時、KGBは国際会議への参加者リストの中に、かつて接触したことのある中国の学者を発見した。だが「中国の学者はKGBの『旧友』に対し非常に冷淡、慎重で、彼らは甚だしきに至ってはKGB当局者の電話番号を要求し、このことはKGB当局者を、身分がばれることを恐れるがゆえにとっとと逃走させた。」

コンスタンティンは、KGBの対中国工作は最も困難な行動の1つだった、と語った。これは中国の公民をスパイに充当することに基本的に望みがないからというだけでなく、さらには中国人がKGBの思考の習慣を理解しているからだった。

かつてモンゴルが主陣地で、嘘発見器をミャンマーに輸送

コンスタンティンは、かつてモンゴルはKGBの対中国工作の主要な陣地だったと明らかにした。モンゴルはソ連から最も親密な「衛星国」と考えられており、ソ連の経済援助に深刻に依存し、KGBはモンゴルでは「まるで自国にいるような感覚」だったのである。

モンゴルの安全保障部門には多くのソ連人がいて、目標は対中国諜報工作だった。コンスタンティンは、ソ連の駐モンゴル大使館の中のKGB当局者は100人以上にも上った、と語る。モンゴル安全保障省のあらゆる部門責任者にはソ連の顧問が配されていた。「これらの顧問こそ、各部門の真の指導者だった。」

だがコンスタンティンは、モンゴル安全保障省の非常に多くの官僚には中国の血統があり、彼らは密かにKGBの行動を破壊する可能性があった、と語った。

対中国情報工作を展開するため、ソ連はさらにかつて中国・ビルマ国境の緩い通関政策を利用してスパイを派遣し、ビルマで対中国情報工作を展開した。こうした人の中の一部は台湾情報部門のためにも仕事をした。KGBはさらにわざわざ外交郵便袋によってヤシニェワ(モスクワのロシア情報部門本部に位置する)からかさばって重い嘘発見器をビルマに輸送した。

(頑住吉注:6ページ目)

嘘発見試験は一般にソ連の駐ヤンゴン外交官の家の中で行われ、テストに使われた言語は中国語だった。

また、KGBはさらに専門にカザフスタン情報局を成立させた。1980年代、この情報部門の責任者はモスクワに移動させられ、KGB第1本部6所の責任者となった。6所とはもっぱら中国に照準を合わせた情報機構だった。

コンスタンティンは、冷戦の時期、KGBが中国に対して行った情報活動は非常に多かった、と語る。彼は、「KGBは世界中で対中国情報作業を展開した」と明らかにした。

(頑住吉注:たぶん以後も本来別の記事だと思うんですが)

KGBはすでに歴史の舞台から退出

KGBの正式名称はソ連国家安全委員会で、「克格勃」とはすなわちこの委員会の3つのロシア文の頭文字の音訳である。KGBは1954年3月12日に成立し、本部は旧ソ連の首都モスクワに設けられた。

KGBにはかつて50万人余りの諜報人員がいた。このうち4万人余りはソ連の外でスパイ業務に従事していたとされる。KGBは4つの局に分かれ、すなわち第1総局は対外諜報局、第2総局は国内諜報局、第3局はなく、第4総局は国境警備総局、第5総局は秘密警察局である。

KGBは専門の「技術学校」を設け、スパイを訓練した。科目には電報技術、撮影技術、色仕掛けでの誘いの技術、爆破技術、盗撮技術、毒殺技術、外国語、格闘、逮捕、射撃が含まれた。

1991年、ソ連の解体と共にKGBは1つの機構として歴史の舞台から退出した。

当時のロシア大統領エリツィンは旧ソ連の情報力量を継承した後、KGBを基礎にロシアの三大情報機構を成立させた。すなわち、対スパイ業務と国内治安を担当する連邦安全保障局、対外諜報工作を担当する対外情報局、ロシア要員の保護を担当する連邦警備局である。


 日本にも深く関連した興味深い内容でした。プーチンの強気だけでなく情報を分析して状況判断し適切な手を打つ能力もこうした経験と関係あるんでしょうか。日本の情報活動、対スパイ能力は弱い分野だとされていますが、今後は厳しい国際環境の中で強化していかざるを得ないのでは。













戻るボタン