SchlundおよびDimanceaリボルバー

 今回も古い記事ですが、「DWJ」2003年11月号に掲載された、19世紀後半のイギリスにおける非常に珍しいリボルバーに関するレポートの内容をお伝えします。


AstonのKynochガンファクトリーはSchlundおよびDimanceaリボルバーを製造した

成功なし

Kynochといえばたいていの人は有名な弾薬メーカーであるバーミンガムのG.Kynoch Ltd.のことを考える。同じ名前(頑住吉注:Kynoch)を持つ銃器メーカーも存在したことを知る人は最小である。その理由にはおそらく、AstonのKynoch Gun Factoryがちょうど10年間しか存在しなかったこともあるだろう。その生産物は成功しなかった。今日、製造されたリボルバーはそれに応じてレアである。

William Tranterは1885年に活発な銃器生産から引退した。彼は自分の生産場所であるAstonのTranter Gun- and Pistolfactoryを、機械設備ごとGeorge Kynochに賃貸した。そこにあった素材、部品、半完成品および完成品に関し、どのような財政的整理がなされたのかは残念ながら知られていない。

 新しい会社(George Kynochの個人的会社)はこのとき、「Kynoch Gun Factory, Aston, Warwickshire, Manufacturers of Military and Sporting Arms, &c-&c」という名になった。この会社は弾薬工場G. Kynoch Ltd.とは関係がない。

 即座にGeorge Kynochは混同の危険からG. Kynoch Ltd.における共同出資者とトラブルになった。同社の取締役らの圧力で、彼はとうとう1888年にG. Kynoch Ltd.における取締役ポストを辞めた(頑住吉注:辞書を見ると例えば英語のディレクターにあたる単語の意味として「社長」、「取締役」、「重役」などかなり広い意味が出ていて経済記事に慣れていないと非常に理解しにくいんですが、要するに「George Kynochは有名な弾薬メーカーG. Kynoch Ltd.の中心人物の1人だったが、同社に無断で紛らわしい名称の新会社を立ち上げたため辞任に追い込まれた」ということのようです。とすると「関係がない」というのはちょっと語弊がありますね)。

 1989および90年の間に、それまでの企業リーダーHenry A. SchlundがAstonのKynoch Gun Factoryを引き継ぎ、「Aston Arms Factory」と改名した。同年(1890年)William Tranterは死に、そして1891年2月、George Kynochが南アフリカで死んだ。そこでは彼は、銃の刻印が示すように、「G. Kynoch & Co. LTD」のオーナーだった(頑住吉注:「PISTOLS OF THE WORLD」・Ian Hogg、John Week著 という本の記述によれば、Kynochはまた財務的トラブルに見舞われて銃器輸入ビジネス立ち上げのため南アフリカへ渡り、そこで死んだとされています。この人もちょっと人格や手法に問題ありの人物だったように思われます)。

 この時点でHenry A. Schlundは再び彼のAston Arms Factoryにおける持ち分を売却した。というのは、生産はすでに減少していたからである。1895年、公的な清算が行われた。その後不動産と機械設備、および全ての残っていた素材が競売にかけられた。その際不動産と機械設備は依然としてTranter-Erbenに属した。

 George Kynochが非常に多面的な人物だったことに気付くためのこと。彼はAston議会の議員であり、そしてAston Villa Football Clubの会長だった(頑住吉注:この章は「Kynoch Gun Factory」という会社の通史です。改名された後を含めても1885年から1895年までの10年間しか存在しなかったというわけです。次の章からはこの社で作られた銃の話になり、時間的経過としてこの続きが語られるわけではないので注意してください)。

生産物
 Kynoch Gun Factoryは最初には独自の銃を作らず、Tranter Revolverの生産を続行した。これらはおそらくまだ存在していた部品から組み立てられ、供給されたものだろう。これらには「Tranter’s Patent」の刻印がTranter時代の生産物と同じ位置にあったが、これに加えてバレルに「Kynoch Gun Factory, Aston」もあった。

 その上この社はChassepotライフル(頑住吉注:フランスのいわゆる「シャスポー銃」。ドライゼのニードルガンを改良したもので、幕末〜明治初期に日本でも使われました http://www.researchpress.co.uk/firearms/chassepot.htm  http://members.tripod.com/picturegallery/ch66.html )を、企業リーダーHenry A. Schlundのパテントに基いて改造した。この銃はGrasライフルに似て見え、11mmセンターファイア弾薬(M71モーゼル)仕様に変更されていた(頑住吉注:Grasライフルは「1人砲兵」の項目でも登場しましたが、 http://www.militaryrifles.com/France/Gras.htm こんなのです。要するにメタリックカートリッジ時代直前の形式の銃が旧式化し、余っていたので、それを独自の方法でメタリックカートリッジ仕様に改造して販売したということのようです)。刻印は「Kynoch’s Patent Kynoch Gun Factory, Aston」だった。

 この企業はこのライフルを中国帝国に販売した(頑住吉注:時代からして清朝のことでしょう)。この販売で得た金額は社の財政的後ろ盾だったらしい。そもそもこれがあったればこそ、独自の開発品の製造が可能だったのである。

Schlundリボルバー
 Henry A. Schlundの2つのパテントに基く新しいリボルバーが開発された(英国パテント 1885年のナンバー9084および1886年のナンバー11900)。だが、この「Schlundリボルバー」は経済的な失敗だった。というのは、これは成功せず、警察からも軍からも、ただの1つの公然たる注文も得られなかったのである。この結果民間マーケットのみに留まったが、そこは狭かった。それに応じて挺数も少なかった。だから今日このリボルバーはアンティーク銃販売店でも実にレアである。

 「Schlundリボルバー」には3タイプが存在する。これらはトリガーによって異なっている。1つめの初期フォームはトリガーガードを貫通する、Tranter風の長い第2のトリガーを持つ。続いて後期2フォームだが、これらは後ろのトリガーもトリガーガード内で終わっている。これ(頑住吉注:第2のトリガー)は引いた際にロックされる。つまり、保持しておく必要はない。前方のトリガーはこれに続いてコンシールドハンマーを解放するだけである。

 レストを解除できる、そして銃を再びセーフティ状態にすることが必要不可欠な銃器使用というのはない。このレストトリガーには大きい、そして小さいバリエーションがあった。どちらが時期的に早く、どちらが遅いのか、あるいは両方同時に作られたのかは残念ながら知られていない。この銃は.476CF、.450CF、.380CFの口径使用で存在した。このリボルバーはブルーイング、ニッケルメッキされ、あるいは「プレゼンテーション等級」においては銀または金メッキすらも存在した。ナンバーリングは残念ながら生産数について語っていない。.380CFの銃が独自のナンバー区間を持ったこと(つまり5xx〜6xx)だけは間違いないようである。

(頑住吉注:この説明ではメカがさっぱり分からないのでここでちょっと補足しておきます。

http://www.gold-net.com.au/archivemagazines/apr20/tranter1.html

http://www.p4a.com/itemsummary/123068.htm

 これらはこの銃の原型になったTranterリボルバーです。「PISTOLS & REVOLVERS」 (Major Frederick Myatt M.C.著・イギリス)という本によれば、Sclundリボルバーの発火メカニズムはTranterリボルバーに近いものとされています。TranterおよびSclundリボルバーでは、第2のトリガーは実際にはコッキングレバーであり、これを引くとハンマーがコックされ、真のトリガーを引くと軽く短いストロークでハンマーが落ちる、というものだったそうです。以前紹介したサベージネービーともよく似ていますが、こちらには速射が必要な緊急時には両者を同時に引くことができるという長所がありました。

http://www.collectorsfirearms.com/ah1421.htm

http://www.firearmsmuseum.org.au/Survey/images-Kynoch.htm

 これらがSclundリボルバーです。トリガーガードを貫通した長い「第2のトリガー」があるTranterリボルバーに近いタイプと、両トリガーがトリガーガード内で終わっているタイプとがあるのが分かります。前者に関しては「PISTOLS & REVOLVERS」でも触れられており、Tranterリボルバーと同じアクションとされているんですが、後者に関しては疑問が残ります。「第2のトリガー」のサイドにチェッカリングがありますが、これは単なるコッキングレバーなら不要のものです。記事中に「これは引いた際にロックされる。つまり、保持しておく必要はない」とあるので、このタイプはコッキングレバーを引いたらその位置でロックされたんでしょう。もちろん真のトリガーを引いて発射した後は自動復帰したんでしょうが。で、上に示したうち後の方のサイトの左列上から2番目が、「第2のトリガー」を事前に引いてハンマーがコックされた状態と思われ、真のトリガーをわずかに引ける余地が認められます。また、「第2のトリガー」後方の段差とトリガーガード内の突起がかみ合ってロックされているらしい様子も分かります。ロックされるためには「第2のトリガー」は単に回転するだけでなく上下にもわずかに動け、下方向へのテンションがかけられていると推測できます。この状態から、「第2のトリガー」のチェッカリング部分をつかんでわずかに上に持ち上げてロックを外した後、前方に引き戻すと、コック&ロック状態になったのではないでしょうか。右列一番上の写真がそれではないかと思われます。この状態では明らかに真のトリガーの前方に指が入る余地がありません。「レストを解除できる、そして銃を再びセーフティ状態にすることが必要不可欠な銃器使用というのはない。」というのはこのメカのメリットが少ないことを批判した記述と思われます。)

Dimanceaリボルバー
 この銃の場合は「費用ばかりかかって何の成果もなかった」ようである。登場の経緯からしてすでに風変わりだった。すなわち、1挺の銃が製造され、ルーマニア軍が公用銃としてこれを検討し、ルーマニア政府は1000挺以上の注文をすら与え、そしてこれ(頑住吉注:1挺のサンプル)は短時間の後に「製造技術上の困難」から返品された。製造されたのはわずかなテスト銃とカッタウェイモデルだけだった。

 ところでDimanceaとは誰だったのか? Haralamb Dimanceaは1855年10月1日、ルーマニア軍将校の息子として生まれた。1874年、彼は陸軍学校に行った。1876年、彼はルーマニア陸軍Leutnants(頑住吉注:後で触れますが、これは何だと思いますか?)の階級を得た。1877〜1878年における(頑住吉注:オスマン・トルコ帝国に対する)ルーマニア独立戦争での勇敢さから、彼は1879年4月8日に勲章「Virtutea Militaria de aur」(頑住吉注:ルーマニア語でしょう。感じからして「我々の素晴らしい軍人」みたいな意味ではあるまいかとも思いますがよく分かりません。ちなみに検索すると「Virtutea Militara de aur」の方がはるかに多くヒットするので誤植ではないかと思います)およびOberleutnantsのランクを得た(頑住吉注:私はまず上の「Leutnants」を見て、これは明らかに英語のルテナンであり、辞書を引くまでもなく中尉のことだと思いました。次に下の「Oberleutnants」を見て、これは何だろう、大尉かなと思って辞書を引いて驚きました。「中尉」と書いてあります。あわてて「Leutnants」を引いたら意外にも「少尉」と書いてありました。確かに陸軍学校出たてなら少尉ですわな。今回はこういう形で出てきたので気付きましたが、これまで辞書を引かずに「Leutnants」を中尉と訳してしまったことがあるかもしれません)。1889年4月8日(頑住吉注:前回の昇進のちょうど10年後ですが定期昇進の日ですかね)、彼は大尉に昇進した(頑住吉注:ちなみに「Hauptmann」、英語に直訳すればヘッドマンです)。1890年に彼が死んだとき、少佐(頑住吉注:しつこいですがちなみに「Major」。これは英語と同じですね)のランクが付与された。1885年、彼は英国においてリボルバーに関するパテント、ナンバー9973を得た。

 George Kynochはルーマニア旅行の機会に彼と知り合っていたらしい。そしてDimanceaとKynoch Gun Factoryとのコンタクトが起きたと思われる。

 彼のリボルバーはいくつかの特別性を持っていた。1つは、使用者がロックを解いた後にバレルとシリンダーを約90度左に傾けることができることである。バレルおよびシリンダーを前方に引くことで空薬莢は投げ出される。「投げ出し星」(頑住吉注:エジェクター後端の、まあ確かに星状の形と言えなくもない部分のことです。英語ではあの部分の名称ってあるんでしょうか)が共に前進しないからである。他方ではシリンダーが6つのギザギザがある星型の歯車を通じてumsetzenされる。同時にファイアリングピンもコックされる。これにより、このリボルバーはファイアリングピン点火を伴う最初のハンマーレスリボルバーであると思われる(頑住吉注:リボルバーではコンシールドハンマーの銃もハンマーレスと称されることがありますが、この銃は本当にハンマーがなくストライカー式だということです。最初も何もストライカー式リボルバーというのはほとんどないでしょう)。トリガーの半分の引きによってシリンダーはumsetzenされ、ファイアリングピンもコックされる。このため発射しないとき、シリンダーを回転させることも、ファイアリングピンをデコックすることもできない。‥‥大きな欠点である!
(頑住吉注:どうもこの人のメカに関する説明は要領を得ません。もちろん私のドイツ語力不足もありますけど、たぶんドイツ人でもこの銃のメカを全く知らない場合これだけで充分理解できるとは思えません。ちなみに内部メカの写真やイラスト等は一切ありません。ただ、「バレルとシリンダーを約90度左に傾ける」という状態の写真はあり、これは要するにスイングアウトリボルバーのヨークまたはクレーンと一体でフレーム前半分およびバレル、シリンダーが横に倒れるといった形です。



簡略化するとこんな分割です。青い部分全体がスイングアウトのように横に倒れるわけです。この状態で青い部分を前進させるとエジェクターとそれにリムがひっかけられた空薬莢はその場に留まり、シリンダーが前進することで排莢されるわけです。ここまではまず間違いないはずですが、その先が分かりません。まず、「シリンダーを6つのギザギザがある星型の歯車を通じてumsetzenする」という文ですが、この星型の歯車というのは上の「投げ出し星」のことかとも思うんですが確信はありません。「umsetzen」という単語はその後では明らかにシリンダーの回転を指していますが、この単語には「移す」、「切り替える」などの意味があり、ここでも同じことを指しているとは限りません。結局この動きが一体どういうことを指しているのか、そもそも「他方では」と言っていますがこれは一体いつの時点のことを言っているのか全く不明です。しょうがないのでこの点は置いておきましょう。この銃のトリガーはたぶん2段引きになっており、第一段階まで引くとシリンダーが回転してファイアリングピンがコックされ、ここでトリガーを放してもこの状態が持続するようです。これも短く軽いストロークで発射でき、緊急時には一気に引ききれば素早く連射できるという工夫だったんでしょう。ただ、ここで射撃を中止した際、軽いプルで発射してしまう状態のままデコックできないというのが欠点だということのようです。もちろん「スイングアウト」してから空撃ちすればいいんでしょうが、面倒なだけでなくちょっと危険な感じもします。ちなみにこの銃に関する画像はネット上には見つかりませんでした)

 Kynoch Gun Factoryによる生産断念の後、Dimanceaは自分の幸運を「Gatling Arms and Ammunitions Co. LTD.」で試した。この会社でもわずかなテスト銃が知られるだけである。ここでも量産はされなかった!(頑住吉注:成功を夢見て別の会社に売り込んだが、ここでも試作で終わったということでしょう)

 刻印は次のようなものである。「Gatling Arms and Ammunitions Co. LTD. Dimancea Patent」 以前の(頑住吉注:Kynoch Gun Factoryによる)生産では刻印は次のようになっていた。「Kynoch Gun Factory, Aston, Revolverul Dimancea」

 ひっくるめてこのリボルバータイプは全くわずかなテスト銃とカッタウェイモデルが作られただけである。2つのメーカーにもかかわらず!

 後継企業であるAston Arms Co. LTDはおそらく残り在庫からさらに少数のTranterリボルバーを組み立てたことで知られるだけである。この銃にもTranterの刻印があった。だがこの会社はこの他では主として弾薬製造に従事したらしい。


 19世紀後半は、現在では完成されてしまって長年にわたって大きな進歩がほとんど見られないリボルバーが大きく発達した時期です。当然試行錯誤が続き、大メーカーのコルト社でさえM1877のような失敗作を生み出しています。コルト社は偉大な創始者であるサミュエル・コルト自身がダブルアクション否定論者だったことの影響でダブルアクションリボルバーを生み出すのが遅れたわけですが、ここで紹介されているリボルバーもダブルアクションの欠点の認識から出発してそれを越えるものを生み出そうとした努力の現われと言えるでしょう。両リボルバーとも、ダブルアクションリボルバー同様に素早い連射ができ、ダブルアクションリボルバーのシングルアクションより素早く、またグリップを握り直さずに素早くシングルアクションの発射準備ができる銃を目指したようですが、いずれも普及せずに終わりました。
 
 日本には独自の銃にこだわって世界水準より劣る銃を採用してしまった例がいくつか見られますが、Dimanceaリボルバーに関してもルーマニア軍が自国の軍人が設計したオリジナリティの高い銃ということでおそらく贔屓目に見てしまって早まった大量注文を行い、撤回するという経緯が見られるのは興味深いところです。






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