ライフル( http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Waffen/gewehre.htm )

 連発カービン モデル モーゼル98bは第一次世界大戦の時代にさえ出発点がさかのぼる。この銃はReichswehr(頑住吉注:1921〜35年のドイツ国防軍)のスタンダード銃だった。これを使ってsS弾薬(schweres Spitzgeschoss 頑住吉注:「重尖頭弾」)が初速895m/sで発射された。口径は7.92mm、銃の全長は1,250mm、銃身長は740mmだった。組み込みのマガジンは5発を収容し、銃の空虚重量は4.1kgだった。

 ナチ・ドイツ軍のスタンダード銃は1935年に採用された5連発のKarabiner 98k.だった。これはKarabiner 98b.の後継機だった。この銃はオベルンドルフのモーゼル、Berlin−Wittenauで製造された。銃身長600mm、重量はウォールナットストック付きで3.9kg、ブナ合板製ストック付きで4.2kgだった。口径は7.92mm、初速は755m/sだった。重量27g、長さ80.6mmの重尖頭弾が発射された(頑住吉注:明らかにこう書いてありますが、これは弾薬全体のサイズでしょう)。ナチ・ドイツ軍は開戦時2,769,533挺のK98kを持っていた。さらに7,540,058挺が戦争中に製造された。その上K98kにはターゲットスコープ39、41、42、そして4用の支持具付きのものが存在した。スペシャルバージョンの例外を除き、全ての銃はバヨネット用支持具を備えていた。

(頑住吉注:原ページにはここに当時の使用説明書からとったK98kの構造図と弾薬、弾丸の断面図があります)

 上ですでに言及した尖頭弾(図左 頑住吉注:と書いてあるんですが明らかに上段の右です)とならんで、K98k用にはさらに次のような弾薬が存在した。

●重尖頭弾:外観からは弾薬底部、プライマーの周りのグリーンのリングで見分けることができた。より好都合な弾丸形状がよりよい飛行成績をもたらし、このためこの弾丸を特に遠距離用に適したものにした(頑住吉注:下段左。いわゆるボートテイル弾です)。
●S.m.K.弾薬(Spitzgeschoss mit Kern 頑住吉注:「コアを持つ尖頭弾」):この弾薬の場合弾丸はスチール薄板ジャケット、鉛ジャケット、そしてスチールコアからなっていた。この弾薬は例えば石、レンガの壁のような抵抗力のある遮蔽物の後方にあるターゲットの制圧、そして対航空機用に役立った。ノーマルな尖頭弾が石、レンガの壁への命中の際に砕けた一方、S.m.K.弾はその硬いスチールコアによって貫通することが意図された。この弾薬は外観からはプライマーの周りの赤いリングで見分けることができた(頑住吉注:下段中央 薄いスチール製のジャケットとスチールコアを持ち、その間にある鉛の柔らかさでライフリングに適応し、ハードターゲット命中時には鉛がつぶれ、滑ってそれることを防ぐという、対戦車砲弾における粘着榴弾のような効果を現わしたんでしょう。たぶんジャケットがスチールのためバレルに与える負担が大きかったと想像されます)。
●S.m.K.シュプール弾薬(光シュプール 頑住吉注:いわゆる曳光弾・トレーサー):外観からはプライマーの周りの赤いリング、および黒い弾丸先端で見分けることができた。この弾薬は航空機あるいは戦車のような素早く動くターゲットに対する弾道の可視化に役立った(頑住吉注:下段右)。
●空砲弾薬(図なし):外観からはカービン用が赤い弾丸着色、マシンガン用が青の弾丸着色で見分けることができた。この弾丸は硬い紙製で、これはバレルを去った直後に砕けた。空包弾薬用の装薬には特殊な空砲弾薬用火薬が使われた。
●教練弾薬(図なし):この弾薬は一体の真鍮または鉄板からできており、実弾からのより良い区別のため薬莢部に縦ミゾを持っていた(頑住吉注:たぶんこれは新兵に装填等の操作を安全に教え、練習させるものでしょう)。

 開戦後、深刻なライフル不足が生じた。このため、外国でライフルをナチ・ドイツ軍用に製造させることが決まった。ハンガリーにおいてGewehr 98/40の名称で、ブタペストに所在するハンガリアン金属製品、銃器、機械工場株式会社(Danuvia)でライフルが製造されたが、これはハンガリー製ライフル モデル35(システムマンリッヒャー)の事後製造品だった。この銃の全く決定的な特徴は、取り外しできる銃床を持つツーピースのストックと、取り外しできるボルトヘッドだった。この銃は1941年10月13日に採用された。K98kと同じ弾薬が発射された。この銃は全長1,110mm、重量4.1kgだった。弾薬は5連ボックスマガジンから供給された。

 オーストリア併合の際ナチ・ドイツ軍に、オーストリア製のGewehr29/40(これは1941年までも製造された)、そしてMannlicher Gewehr 12/34が引き継がれた。この種の全ての銃は空軍に引き渡された。

 ポーランドで鹵獲されたGewehr 29(p)はK98kと構造が等しく、この結果生産が再び行われた。同様にドイツのK98kと一致する銃(1つだけ例外あり。すなわちバレルが長さ590mmしかなかった)は、ボヘミアおよびモラビア保護領由来のGewehr 24(t)だった。

 Gewehr 33/40は銃器工場ブルーノで製造された銃で、これは(頑住吉注:チェコへの)ドイツ部隊の進駐時に引き継がれ、1940年以後山岳猟兵用の銃として採用された。この銃は全長998mm、重量3.45kgだった。銃身長は490mmだった。

 Gewehr 40kはモーゼル社のプロジェクトだった。この銃ではカラビナー98kが単純に110mm短縮されていた。達成された初速は730m/sだったが、兵器局は納得せず、この結果量産には至らなかった。

 ロシア戦役の開始時、ナチ・ドイツ軍にスナイパーによる深刻な損害が生じた。ドイツ兵は無防備にそれと向き合っていたのである。部隊は兵器局がZF 41(頑住吉注:「Zielfernrohr」、ターゲットスコープの略)付きのK98kを採用するまでの間、K98kを使って自作のスナイパーライフルを作った。この長さ160mmのターゲットスコープは12枚のレンズを使って極度に複雑に構成されており、そして1.5倍の倍率しか供給しなかった。このため1942年半ば、ZF 42が採用された。これは同様に長さ160mmだったが、もはや6枚のレンズしか持たず、そしてこれにより4倍の倍率を供給した。最後の新装備として1943年にZF 4が部隊に登場した。このターゲットスコープは重量1.6kg、長さ220mmで、4倍の倍率を提供した。

 1940年の初め、兵器局はモーゼル社とワルサー社にセミオートマチックガス圧ローダーを要求した。このためモーゼルはG.41(M)の名を得た全長1,172mm、重量4.6kgの銃を提出した。この銃は長さ550mmのバレルを持ち、初速は745m/sだった。そして理論的連射速度は毎分40発だった(頑住吉注:どういう理論上こうなるのかよく分かりません。単に撃つだけならもっと撃てそうですが)。弾薬は10連マガジンに入れられた。部隊テスト用に10,000挺作られたが、そのうち15%以上に欠陥があった。この銃は却下された。

 ワルサー社の銃は全長1,138mm、重量4.7kgだった。この銃はG.41(W)の名を得た。この銃は長さ550mmのバレルを持っていた。これは極度に汚れに敏感で、前部が重かった。その上マガジンはストリップクリップによって満たさねばならなかった。この銃は1942年に量産に移行したが、部隊によって拒否された。1942年終わりまでに6,000挺が供給された。

 Gewehr 43はG.41(W)の改良型だった。これは鹵獲されたロシア製銃器であるタイプ「シモノフ」および「トカレフ」にならって改造された。兵器局はガス圧作動銃のバレルに穴を開けることの禁止を解除した。この禁止がG.41(W)の劣った成績に決定的に重要な役割を果していた(頑住吉注:兵器局がガスオペレーションライフルを要求したとき、おそらく命中精度の低下を嫌ったためでしょうがバレルに穴を開けないこと、という条件をつけ、やむを得ずマズルを出た後のガスをカップ状のパーツで受け止め、これを利用して動かす変則的な銃が作られたが、無理のあるものになってしまった。ソ連製のオートライフルが機能的に優れており、バレルに穴を開けても性能に問題ないことが確認されたため兵器局はこの条件を撤回した、ということのようです)。新しい銃はもはや全長1,120mmしかなかったが、重量はまだ4.1kgあった。最も重要な革新は下から挿入する空虚重量0.23kgの10連マガジンだった。1944年、この銃はカラビナー 43の名称を得た。後者の型はもはや3.6kgしかなく、バレルは550mmから500mmに短縮されていた。カラビナー 43の場合にもターゲットスコープ付きの型が存在し、この場合にはZF 4が使用された。

 3.9kgの重量と1,090mmの全長を持つAnker社のGewehr 43(A)の試みと、モーゼル社によるG.41(M)のG.44(M)に向けての改良は続けられた。この際これらの銃は主に新しい薄板プレス技術で製造されることが意図された。だがその薄板製ストックは酷寒の際皮膚に張り付いた!

 1944年前半に100万挺以上の銃が失われた後の1944年の終わり、カラビナーの在庫における緊急の供給不足が発生した。このとき使用できる限り全ての鹵獲兵器が兵士に支給された。これはロシア製ライフル91/30G.254(r))、イタリア製ライフルFucile Modello 41G.210(i))、フランス製1886年型LebelライフルK.551(f))、そして1,330mmの長さを持つ(!)デンマーク製ライフル98G.311(d))だった。

 1944年、国民突撃隊が編成された。いわば最後の予備軍である。多くの少年と老人をも国防軍の銃を渡すことによってではなくライフルで装備できるようにするため、第3帝国指導部によって単純でプリミティブに作られるVolksgewehr(頑住吉注:国民ライフル)が要求された。これはできるだけ急速に、大量に製造できるものだった。Gustloff社はVolksgewehrを生産した。この銃は全長886mm、空虚重量4.28〜4.52kgだった。弾薬は30発入りカーブマガジンから供給された。ヘッセンの産業工場Wetzlarからは612mmの長さを持つあるVolkssturmgewehrが生じた(頑住吉注:これは「ある国民突撃兵器」の項目で紹介したものです)。シュマイザーあるいはワルサーのように、さらなる会社がなお試験見本を製造した。しかしもはや生産されなかった。

 クレタ島をめぐる戦いの際、K98kによる落下傘猟兵の武装は究極的に不充分であるということが全く明瞭に示された。そういうわけで、空軍指導部は落下傘猟兵用の特殊銃器を出来るだけ早急に要求した。この銃はセルフローディングライフル、フルオートライフル、そしてスナイパーライフルとして使えることが意図された。この結果が「Fallschrmjager-Gewehr」(頑住吉注:2番目の「a」はウムラウト。「山岳猟兵ライフル」略してFG)だった。だがこの銃はこの戦争の最後の月になって初めて兵器局からabnehmenされた(頑住吉注:「取り上げる」、「受け取る」、「検査する」などの意味がありますが、どういうことでしょうか。終戦直前まで制式化されないまま使用された、あるいはもっぱら空軍に使用され、陸軍がこれを取り上げたのは終戦直前だったということでしょうか)。この銃には3つの型があったが、ディテールが異なっているだけだった。このKrieghoff社によって生産された銃は全長975mm、空虚重量4.15kgだった。マガジンには20連と10連があった。初速は685m/sで、7.9mm歩兵弾薬を発射した。

 Kommando-Karabinerはイギリス製「ステンサブマシンガン」のサイレンサーを持つ銃だった。この全長770mmの銃は重量2.3kgだった。これは4挺のサンプルのみ作られた。

 サイレンサーはK98k用にも存在した。産業界およびSS兵器アカデミーからのいろいろな提案の後、HUB-23が下士官(Schatzle 頑住吉注:「a」はウムラウト。人名)の提案に基いて生産された。このHUB-23は重量0.5kg、長さ180mmだった。最大射程は初速220m/sで300mでしかなく、これは近距離弾薬の使用のためであった。発射音はひっくるめて75%抑制された。

 1939年9月から1945年4月1日までの陸軍向けライフルの生産は次のようだった。

名称 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
K. 98 k 279.863 1.081.234 913.875 1.075.122 1.794.390 1.922.482 347.052
K. 98 k ZF - - 5.922 23.567 57.255 35.632 3.915
G. 24(t) - 77.000 101.800 151.250 - - -
G. 29(p) - 69.503 180.208 119.997 - - -
G. 29/40 - 300 - - - - -
G. 33/40 - 29.000 48.049 54.454 - - -
G. 41(M)   - 1.673 - - - -
G. 41(W) - - 5.000 6.778 91.597 24.532 -
G. 43 - - - - 3.209 277.862 68.207
G. 43 ZF - - - - - 21.936 31.499
フォルクスゲベール - - - - - - 53.033
落下傘猟兵ライフル - - - - - 524 3.873
イタリア製ライフル - - - - - - 15 420

 他の国防軍部分は次のような量を手にした。

空軍 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
K. 98 k 51.363 178.385 331.359 175.500 126.908 60.519 -
K. 98 k ZF - - 750 1.200 - - -
Steyr 12/34 5.683 1 050 - - - - -
海軍              
K. 98 k 8.000 28.000 56.000 42.622 31.714 24.914 -
G. 29/40 - 9.926 28.454 - - - -
武装SS              
K. 98 k - - - - 1.600 61.000 -
G. 29(p) - - 33.145 21.090 - - -

 Waffen-SSは独自の生産により追加的に約235,000挺のライフルおよびカービンを手にした。

 1945年3月までの陸軍向け歩兵弾薬の製造は次の表から分かる(単位は100万発)。

  1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
7,9-mm弾薬 880,5 2.259,4 464,0 317,6 2.200,1 3.862,3 491,7
B弾薬 0,3 4,2 8,4 16,6 20,3 21,3 1,1
6,5-mm弾薬(h) - - - 32,1 28,6 9,2 0,3
8-mm弾薬 (f) - - - 236,2 13,0 4,9 -

(頑住吉注:「B弾薬」とは何のことか分かりません。ちなみにドイツ語では空砲の頭文字はBではないです。(f)はフランスで間違いないはずです。(h)はたぶんオランダでしょう。)

 7.9mm歩兵弾薬の生産の、その下位グループ内での分類を見るため、我々は1939年の最初の1/4を考察する。このためには完全な受け取り記録が存在する。この3ヶ月間に製造された弾薬の内訳は次のようである。

471.136.995 s.S.-Geschos(重尖頭弾)
48.550.065 S.m.K.-Geschos(コアを持つ尖頭弾)
40.213.000 S.m.K.-Leuchtspurgeschos(コアを持つ尖頭トレーサー弾)
36.991.000 l.S.-Geschos
4.051.000 l.S.-Leuchtspur-Geschos
7.112.500 S.m.K.(H)-Geschos
608.054.560 合計

(頑住吉注:下の3つに関しては本文に言及がありませんが、たぶん「l.S.-Geschos」は軽尖頭弾、その下は軽尖頭トレーサー弾でしょう。「S.m.K.(H)-Geschos」は「コアを持つ尖頭弾」のバリエーションと思われますが「H」が何の略か不明です)

 追加的になお114,892,600発の空砲弾薬が受け取られた。ちなみにこの空砲弾薬の生産は年間生産の申し立てに含まれていない。

 歩兵弾薬としてはここでさらにかなりの鹵獲量に言及するべきである。これはドイツの銃器から発射できたものである。

ポーランドから15.157.000発

ユーゴスラビアから173.470.000発。

 さらに追加的に逸脱した口径で次の量が生じた。

ノルウェーで口径6.5mmが42.036.000発。

ユーゴスラビアで282.032.000発。

フランス、ベルギー、オランダで異なる口径が163.376.920発。

ロシアで異なる口径7.62mmが22.780.000発。

 鹵獲ライフルの数は1944年末までに11.530.142挺になった。


 ワルサー製自動小銃であるG41(W)に関してはこんなページがあります。

http://feldbluse.ld.infoseek.co.jp/a-052.html

 この銃の妙な作動システムはワルサー自身が望んだわけではなく、兵器局が無理な条件をつけたためだったようです。

 こうした自動小銃や突撃銃が登場し、Kar98kの生産が縮小されたかと思いきや、年間の生産数は1944年が頂点になっています(言うまでもありませんが1945年は1年の半分以下しか生産が行われておらず、生産力自体が壊滅状態になりつつあったので単純に比較できません)。これに関しては後日紹介するアサルトライフルの生産数と比較するとさらに興味深いかもしれません。

 弾丸としては重尖頭弾が主力で、生産数はスチールコアを持つ徹甲弾の10倍程度だったということも分かります。










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