中国の水陸両用戦車

 西側には現在基本的に存在しない兵器ですが。

http://military.china.com/history4/62/20150720/20044812.html


中国の水陸両用戦車発展史:63式戦車は旧ソ連のPT76戦車をコピー生産

広大な読者とお友達は中国の63式水陸両用戦車に対しすでに聞きなれて詳しく説明することができる。ゆえに「水陸両用戦車史話」の中でもはやその性能やデータなどの内容を紹介せず、単に63式水陸両用戦車に関する何件かの人に知られることが少ないひとコマだけを集めて取り上げ、もって読者を満足させる。

PT-76より出でてPT-76に勝る

人はよく「出藍の誉れ」と言う。水陸両用戦車の上で、我々は誇らしげに言うことができる。中国の63式水陸両用戦車は、「PT-76より出でてPT-76に勝る」だと。

我が国は面積が広大で、気象や地形条件が非常に複雑な国家であり、特に南方は、丘陵地帯、水路が網の目のようになった水田の地が多く、河川が縦横に走り、気候は湿度が高くて暑い。単に中型(メインバトル)戦車に頼ったのでは、異なる地形の作戦の需要を満足させることはできない。だが1960年より前、中国人民解放軍は水陸両用戦車一個連隊しか持たず、装備したのは国民党軍から鹵獲してきたアメリカ製の古い「ウォーターバッファロー」(LVT-2)だった。「水陸両用戦車連隊」とはいうものの、実際に装備するのは第二次世界大戦時期の老いて牙の抜けた水陸両用装甲輸送車で、装備は古く、数は限られ、沿海や南方地域の作戦需要を満足させるにはほど遠かった。

1958年8月、我が軍の装甲兵司令部と第二機械工業部第六局によって共同で水陸両用戦車設計任務書が下達された。研究開発のコードネームは「211」水陸両用戦車だった。任務書はハルビン軍事工業四系(装甲兵工程系)と第二機械工業部第60研究所が分担して設計方案の論証を行った。2ヶ月の緊張した作業を経て、2つの設計チームはそれぞれ方案論証を完成させた。1958年11月、水陸両用戦車方案の評価比較会議が召集された。これに参加した方案はハルビン軍事工業四系の「斜軸式」と、第60研究所の「水道全車縦貫式」だった。会議は統一した設計チームの成立を決定し、初歩的にハルビン軍事工業四系の方案を基礎に、両方案のメリットを合併させ、さらに一歩の設計作業を展開することを確定し、かつ陜西615工場によってサンプル車の試作が担当されることが確定した。

統一設計チームは1958年11月下旬に陜西615工場に赴き、全面設計作業を開始した。3ヶ月の日夜の奮戦を経て、第1段階の技術設計任務が完成した。615工場は直ちに211水陸両用戦車のサンプル車試作任務に投入された。全工場は技術工員233人を投入し、日夜3班連続ローテーションで仕事し、ついに1959年4月1日に第1両目のサンプル車の試作任務を完成した。1959年6月、工場は全部で3両のサンプル車試作任務を完成させた。直ちにグオジェン一宝鶏公路、北京十三陵水庫、広州、武昌などの地で一連の陸上および水上性能試験とデモンストレーション性試験が開始された。

1959年11月25日、朱徳元帥、賀竜元帥、羅栄桓元帥、陳毅元帥、葉剣英元帥、チェンゲン大将は装甲兵司令員許光達大将の随伴の下、211水陸両用戦車などのデモンストレーション性試験を視察した。彼らは和やかに談笑し、非常に興味深げに国産鉄騎の素晴らしいデモンストレーションを見、頻繁にうなづいて挨拶した。その後、老師たちは試験参加全人員に接見し、彼らに極めて大きな鼓舞を与えた。

211水陸両用戦車に装備されたのは85mm戦車砲で、原型であるPT-76の76mm火砲に比べ口径が大きく、威力もずっと大きかった。後の一連の陸上および水上射撃試験は、85mm戦車砲を211戦車に搭載する上で完全な成功を取得したことを示し、これは1つの大きな成就だった。最大の試練は水上で横向きに砲を撃つことであると知る必要がある。85mm火砲の後座力は大きくなっており、戦車の横向きの抗転覆力モメントは小さく、出来の良くない水陸両用戦車には横向きの転覆が発生するだろう。水上射撃試験の日、試験参加人員は全てびくびくと不安な心情を抱き、発砲の時を待った‥‥。水上射撃試験開始後、戦車の砲手は平穏に砲塔を横側(3時の位置)に回転させた。指揮所の一声の命令の下、砲手は発射ボタンを押し、砲弾は火花をひらめかせて砲口から飛び出した。だが211水陸両用戦車は横向きに何回か揺れてすぐに平穏を回復した。はるか遠くの視察台ではひとしきり歓呼し、試験は満足いく成功を取得したのだった。

1961年5月、当時装甲兵副司令員の任にあった賀晋年同志は江蘇省蘇州市で水陸両用戦車設計方案審査会議を主催して開いた。会議はオリジナルの211水陸両用戦車に対し全面的な改良設計を行うことを決定した。設計を率いる機関は装甲兵科研所で、総設計師は楊楚泉同志(楊楚泉同志に対するインタビューは本刊2004年第一期「江河湖海総関情」の一文を参照)、副総設計師は楊祖燕、周復生、曹明先同志だった。設計し直された211水陸両用戦車はオリジナルサンプル車に対し60項目の改良を行い、30両が少数生産され、水上航行速度が低い、高速航行時に車体前部が扎頭(頑住吉注:意味不明)、水密性が劣るなどの重大問題が解決され、その後の定型試験のために堅実な基礎を打ち立てた。

1962年5月、615工場は2両の正規サンプル車総組み立て任務を完成させ、直ちに蘇州に運んで国家定型試験が開始された。2両の正規サンプル車は全部で陸上走行2,500km、水上航行169時間、長江の横断、10時間以内での川での連続航行任務を完成させ、後に2,650kmの補充試験を完成させた。試験は、211水陸両用戦車は強大な火力と比較的良い陸上および水上機動性を持ち、操縦が敏捷で、平均行進速度が高く、波風に抗する一定の能力を持ち、メンテナンスや維持保護が比較的便利で、すでに基本的に設計定型の条件を具備していることを示した。報告を経て、国務院軍事工業製品定型委員会は1963年3月に回答し、211水陸両用戦車の定型に同意し、正式に1963年式水陸両用戦車、略称63式水陸両用戦車と命名した。

63式水陸両用戦車は我が国初の自ら設計を行い、独立して研究開発した水陸両用戦闘車両である。その火力と陸上および水上機動性はいずれもソ連のPT-76水陸両用戦車よりも優れ、国の人をの気持ちを晴れ晴れとさせる。63式水陸両用戦車はかつて栄誉にも1964年国家経済委員会、国家計画委員会の発する新製品「国家二等賞」を獲得し、その冷却装置は同時に国家「科学発明賞」を栄誉にも獲得した。総設計師の楊楚泉同志は前倒しでの昇進という奨励を栄誉にも獲得し、設計グループ長の朱洪慈同志は栄誉にも第二等功を立て、9名の同志が三等功を立て、13人が表彰を受けた。

それぞれの設計および試験に当たった人員は、中国初代水陸両用戦車研究開発の苦難の歴史を回想する時、心の動きを表に表わさない者はいない。当時朱洪慈同志は人を忘れ難くさせる詩句を書いた。(頑住吉注:私には手も足も出ない漢詩ですしどうせあまり意味はないので飛ばします)この詩句はハルビン軍事工業学校の校門を走り出たばかりの学生たちの壮志豪情を書いている。

瓊州海峡横断の壮挙 (頑住吉注:広東省と海南省の間の海峡です。)

1964年7月から、装甲兵部隊は続々と何度もの63式水陸両用戦車の使用試験と戦術演習を組織し、もってさらに一歩63式水陸両用戦車の戦術技術性能を検証した。特に1966年2月から4月の間に行われた瓊州海峡横断試験は、むしろ「手に汗握る」との形容を用いることができる。

水陸両用戦車が自身の力量に頼って10海里あまりの幅の海峡を横断するには一定のリスクがあると言うべきであり、広大な大海の中で、ちっぽけな水陸両用戦車はまるで風雨に揺れる小舟のようであり、大風大波の衝撃には耐えられない。以前水陸両用戦車を装備した部隊は内陸の川や近海地域での航行試験の中で、かつて水陸両用戦車が水底に沈む深刻な事故が発生し、しかも近海の航行は内陸の川での航行に比べずっと困難であり、このことは疑いなく人々の心に暗い影を投げかけた。だが海峡横断の重要な戦術的意義はまた指揮員と科研人員に大胆な試みと勇敢な探索が必須であると要求した。装甲兵司令部の批准を経て、1966年1月31日、装甲兵科研院、256工場、水陸両用戦車連隊からなる63式水陸両用戦車瓊州海峡横断試験チームが組成され、試験参加人員は全部で20人あまり、2両の63式水陸両用戦車だった。試験の安全とスムーズな進行のため、彼らは念入りな準備と苦しい訓練を行った。試験参加人員は車酔い船酔い、視察の困難さ、波の衝撃など1つまた1つと困難を克服し、1回また1回と水陸両用戦車の航行距離を前に向け延伸していった。2ヶ月の適応性訓練を経て、試験参加人員は連続近海航行5時間以上が可能というハイレベルに到達した。最終的に1966年4月6日、63式水陸両用戦車瓊州海峡横断の壮挙を一挙に実現した。直接の試験参加人員は、車長の鄒化傑、操縦員の黄守平、試験員の王鴻鳴、車内視察員の王景林で、彼らは63式水陸両用戦車の性能向上のために貢献をなした。

(頑住吉注:これより3ページ目)

試験は、63式水陸両用戦車は風力5級、波の高さ1〜1.2mの状況下で、スムーズに14.5海里の幅の瓊州海峡を横断でき、水上射撃試験の命中率は63%であることを示し、63式水陸両用戦車が良好な水上通過性と一定の水上戦闘能力を持つことをはっきり示した。

実力を示す

1979年の対ベトナム自衛反撃作戦の中で、広州軍区水陸両用戦車連隊第一大隊は戦闘に参加した。対ベトナム自衛反撃戦は東西2つの戦線に分かれた。参戦した戦車の中では62式軽戦車がメインだったが、広州軍区の水陸両用戦車連隊も戦闘に投入された。水陸両用戦車連隊第一大隊は陸軍第125師団に装備され、広西水口関から出発し、中越国境からの距離12kmの要地に向け進み、さらには高平を挟撃した。戦闘中、水陸両用戦車第一大隊は歩兵とコンビネーションしてバーウォン川を強行渡河し、突破口を開き、しかる後に大胆に敵側面に迂回し、3日の激戦を経て、全部で敵の火砲7門、火力ポイント148、ロケットランチャー47を撃破し、比較的良好に上級が賦与した作戦任務を完成させ、全大隊は集団一等功を栄誉にも獲得した。

戦後、実戦中に暴露された問題を根拠に、63式水陸両用戦車に対し、若干の改良が行われ、63式水陸両用戦車の防御性、部品の信頼性、使用利便性の上で異なる程度の向上があった。

水陸両用戦車の強みは上陸作戦であると言うべきで、対ベトナム自衛反撃作戦の中では、ほとんど100%が陸上作戦だった。しかもほとんど「メインバトルタンク」として用いられた。実戦は、特殊な地形や特殊な敵サイドの作戦にあって、水陸両用戦車は依然相当大きな作用を発揮できることを示した。

63式水陸両用戦車はさらにかつて鎮守西沙での軍事行動に参加した。1974年1月22日、広州軍区独立戦車大隊第2中隊は命令を奉じて9両の63式水陸両用戦車を派遣して上陸艦に搭載し、西沙諸島に運んだ。28日西沙の永楽海域に到着し、何日かの努力を経て艦上から何両かの63式水陸両用戦車を進水させ、大変な困難を克服し、最終的に甘泉島に上陸し、かつすぐに臨戦状態に入った。西沙の軍民の緊急戦備により、南ベトナム当局を終始あえて軽挙妄動させなかった。63式水陸両用戦車は南の国境を固め、西沙を防衛する軍事行動の中でポジティブな作用を果たした。

新世代の中国水陸両用戦車

10年あまり前、我が国は63式水陸両用戦車を基礎に、また新型の63A水陸両用戦車を設計した。名称から見ると63A水陸両用戦車は63式水陸両用戦車の改良型のようである。だが技術性能から見れば、63Aは全く新しい世代の水陸両用戦車と考えることができる。それを中国第2世代水陸両用戦車と考えても差し支えない。20トンクラスの戦闘全備重量、105mm戦車砲、溶接式砲塔、光点注入式火力コントロールシステム、より強大な動力装置、より強大な波風に抗する能力と、こういったものはその戦闘力を63式水陸両用戦車に比べ倍増させている。

63A水陸両用戦車の研究開発成功はさらに、中国が現在世界唯一の水陸両用戦車生産国であることを示している。アメリカおよびロシアはいずれももはや水陸両用戦車を研究開発していないが、それには彼らの国情がある。中国が継続して水陸両用戦車を研究開発および改良するのにも中国の国情がある。この点を人々は当然よく分かっている。人々には、未来の一定の時間内、中国の水陸両用戦車がまだ適度な発達を得ると信じる理由がある。


 アメリカは全世界で作戦行動する可能性があるわけで、アメリカが必要としないものを中国が必要とするのは何故か、また例えばロシアが中国・ベトナム国境地域で使用するための水陸両用戦車を改良してベトナムに売り込まないのは何故か、もう少し詳しく説明してほしかったところですが。

















戻るボタン