解放軍空軍成立と日本との関係

 「歴史秘話」ものの記事です。

http://media.china.com.cn/cmys/2013-10-24/51372.html


解放軍、抗日戦争後に航空大隊成立 日本の飛行員に師事

3月下旬、海口市で「中国将軍ゴルフ親睦試合」が挙行され、27人の退役将軍の中で最年長の林虎氏が海南日報記者の関心を引き起こした。試合終了後、この83歳の老将軍は彼の軍における伝説的な飛行に関する物語を心おきなく話した。

林虎は1988年に中央軍事委員会から中将の階級を授与され、1994年末の退役の前には中国人民解放軍空軍副司令員の任にあり、共和国最初の飛行員たちの中の優秀者であり、建国式典で林虎は戦闘機を操縦して天安門上空を通過した。朝鮮の戦場では、彼はかつてアメリカの戦闘機を撃墜した。彼は70歳という高齢の時のある偶然の機会に、モスクワで成功裏にスホーイー27複座練習機を試験飛行させた。

3月26日午後、海口西海岸の美視五月ホテルで会う約束をした。眼前の将軍は頭髪がすっかり白くなり、銀色の光沢を放ち、男らしい勇ましさにあふれ、戦争の大風大波を経てきた軍人だけのことはあった。林虎は往年の事を話し始め、非常に気持ちよさげで、全く大変な老人のようではなかった。何日かのゴルフはすでに彼の体を非常に疲れさせていたのではあるが。

建国の大典礼で戦闘機を操縦し天安門を飛び越す

「私はネット上のいくつかの報道を見たことがあります。あなたの母親がロシア人だというんですが、本当ですか? もし本当ならあなたは混血児ということになります。私は文章の中でこのように書いてもよいでしょうか?」 海南日報記者は問うた。

「それは事実です。お書きなさい。」 林虎はごく落ち着いて答えた。実は、林虎の原籍は山東省招遠で、父親は若い時故郷では生活できなくなって東北のハルビンに生活のつてを求めて行った。当時一部の旧ソ連の豪商がシベリアを越えて中国国境内に入って商売をしていた。林虎の父親はその中のある家庭でクーリーとして生活していて、あるロシア人の娘と知り合った。2人は勝手に婚約し、主人に知れて家から追い出された。彼らはハルビンの街道上に簡易な雨除けを作って住み、女児が生まれ、続いて林虎と弟が1人生まれた。簡易な雨除けは夏はまだ良かったが、冬は寒さが耐え難く、家の生活状態は早急な改善が待たれた。そこで、父親はしばしばハルビンから荷物を持ってチチハルや黒河一帯に売り歩き、金をかせいで家族を養い糊口をしのいだ。不幸なことに、ある年の冬、彼は石炭を運ぶ列車の上で眠り、無惨にも凍死し、家族全体が支えを失った。ほどなく、母親と弟は病死し、姉は人にさらわれ、何歳かの彼はある林という姓の人家に引き取られ、「林根生」と名付けられた。

林虎は、こうした事情は彼が後に事情を知る人が話すのを聞いたのであって、自分では全く父母の姓名を知らず、姉の行方に関する情報もずっとないままだ、と語った。林家での日々は決して楽しく過ぎず、1938年に彼は家出して軍に参加し、「小八路」となった。「林虎」は部隊の指導者が彼に与えた名前である。

抗日戦争中、林虎は勇猛に善戦し、何度も滅多にない手柄を立てたが、負傷することも少なくなかった。最も重かったのは1941年に日本軍の砲弾の爆発で肛門括約筋を負傷した時で、排便のたびに脱肛がもたらされ、苦しさは言うに堪えなかった。解放前後、林虎はかつてこのため5回の手術を受けたが、今に至るもずっと全快していない。ドラマ性を持つのは、最初の手術は何と敗戦、投降したある日本の軍医が彼に行ったものだったことで、時期は1947年前半だった。

林虎の飛行機との縁が結ばれたのは、日本敗戦後のことである。当時、東北には日本の航空連隊があって撤収が間に合わず、これには20機余りの飛行機と30名余りの飛行員、および200名余りの地上勤務人員、医療看護人員が含まれた。共産党の軍隊は彼らの投降を受け入れ、その前提は彼らが我が方向けに飛行機の操縦と維持修理の技術を伝授することが必須だというものだった。ほどなく、我が軍の抽出された110人で航空大隊が成立し、日本の飛行員に師事して飛行を学習し、林虎もその中の1人だった。

1946年3月1日、東北民主連軍航空学校が吉林省通化に成立し、これは解放軍史上初の航空学校だった。しかし、事情は決して順風満帆ではなかった。敗残の日本軍が日本移民の発動する暴動、および国民党軍の大部隊が山海関に進攻するのと結託するにつれ、航空学校は一度牡丹江まで撤退することを迫られた。1947年、前線の戦事が不利なため、航空学校は再度大後方である中ロ国境付近まで撤退した。

航空学校は再三移転したが、学員たちの訓練は全くだらけることがなく、しかも皆が先を争い後れを取るのを恐れて機に搭乗して飛行した。しかし、結局のところ練習機の数が限られており、皆の需要を満足させることは全くできなかった。「2機の日本の初等練習機だけを使って訓練を開始したが、後に1機が墜落損壊し、条件はさらに困難になり、学校は止むを得ず高等練習機を使用した。こうした飛行機は日本人の投降前に破壊を経ており、機体は修理を経ないと使用できず、私が操縦したことのある高等練習機などは機体に100カ所余りの「継ぎ」があたっていた。林虎は語る。「だが、戦友たちはやはり争って離陸し試験飛行した。航空学校は実際の状況に基づいて決定をなし、全ての新しい学員はまず6ヶ月の数学、物理学、気象学などの理論課程を経ることが必須であり、その後試験を経て合格者だけが飛行できる、とした。」

まさに砲火が舞い散る中、また非常に困難な条件下で、東北航空学校は間もなく誕生する共和国のために初の飛行員たちを養成した。林虎はその中の優秀者の1人だった。建国の大典礼において、林虎が操縦する戦闘機は第1の編隊の中で天安門上空を通過した。

朝鮮の戦場上空でアメリカの飛行機を撃墜

1949年11月11日、ソ連の支援下で、中国人民解放軍空軍が成立を宣言した。司令員劉亜楼はかつて東北野戦軍の参謀長で、東北航空学校の校長だったこともあった。空軍は成立したが、まだ1つの正規の作戦部隊もなかった。林虎は、空軍成立後に用いられた飛行機は地上戦の中で鹵獲された少数のアメリカ式飛行機を除き、大部分の飛行機はソ連が援助したものだった、と語る。

1950年5月1日、第4野戦軍が海南島を解放した後、第3野戦軍も舟山群島を攻略した。しかし、台湾に退却した蒋介石は国民党空軍を派遣して連続的に東南沿海を空襲した。この情勢の下に、共和国の若き空軍初の航空隊の誕生が促された。‥‥空軍第4混成旅団である。

混成旅団は1950年6月19日に南京で成立した。「この旅団は4個連隊から組成され、それぞれ2個戦闘機連隊、1個爆撃機連隊、1個低空強襲連隊だった。各連隊の機種は全てソ連製だったがタイプは全て異なっており、ミグー15、ラボーチキン-11、ツポレフー2、イリューシン-10があった。」 林虎は語る。「混成旅団の職責は上海と東南沿海の保護で、それぞれ上海の虹橋と江湾、南京、徐州の4つの場所に駐屯し、私が当時所在した連隊は上海の江湾に駐屯していた。」

混成旅団成立後ほどなく、朝鮮戦争が勃発した。林虎は命令を受けて北京空軍司令部に行き、某師団第9連隊副連隊長に就任し、30機余りのミグー15戦闘機を率いた。この師団はその他の戦力と共に朝鮮の戦場に赴き、米軍相手の作戦を行った。この期間、彼自身撃墜され、2機のアメリカ戦闘機に損傷を与えた。

アメリカ戦闘機を撃墜したのは1952年12月25日のことで、当時我が空軍の100機余りの戦闘機はアメリカの200機のF-86戦闘機を正面から迎撃した。林虎が1機の敵機を追尾していた時、相手は突然減速し、彼を前方に飛び出させ、後方からの射撃を企図した。林虎は素早く反応し、側転して速度を落とし、また迅速に後ろについて敵機に「噛みつき」、発砲してその主翼半分を撃ち飛ばした。見る見るF-86戦闘機は濃い煙を吹き出しながら地面に向かって落ちていった。

林虎は記者に、部隊の規律に照らし、空戦指揮官として、彼の主要な職責は隊伍をうまく率い、戦術をうまく使い、そして安全を保証することで、この3項目の任務を完成させた状況下で敵機を攻撃することができたのだ、と教えた(頑住吉注:自由に行動できればもっと撃墜できたのに、というニュアンスですかね)。

抗米援朝の勝利後、林虎は空軍某師団の師団長に昇進した。当時彼はやっと27歳だった。

70歳でモスクワにおいてスホーイー27を試験飛行させる

1997年夏、退役後の林虎将軍は中国珠海国際航空展の顧問として、珠海国際航空展に企業を誘致するためフランスのパリを訪問し、その後さらにロシアに行ってモスクワ国際航空展を視察した。

当時、ロシア試験飛行院副院長のケウォチューが、林虎と一緒にロシアが新たに製造したスホーイー27複座練習機で飛ぼうと提案した。何故なら彼の父親と林虎は朝鮮戦争での古い戦友だったからで、このため林虎と一緒に飛ぶことを強く望んだのである。

非常に多くの林虎と知り合いの旧ソ連将校の息子たちも、傍らで次々に林虎の試験飛行を強烈に要求した。「実は私はあの時1回飛ぶことを非常に渇望していた。何故ならその前にスホーイー27の性能は極めて良く、航続能力は3時間半に達し、モスクワからパリまで飛べ、航続距離は3,200kmであると聞いていたからだ。だが、この状況下ではロシア当局の許可がなくてはダメだった。」

幸い林虎の旧友で、かつて中国に来て空軍の集中訓練を指導したあるソ連軍上将が前面に出て一切の手続きを済ませるのを助けた後、林虎はコックピットに座り、ケウォチューは彼の後方の副操縦手席に座った。30分余りの間、林虎はフルセットの飛行動作を完成させ、これには空中とんぼ返り、半回転、横転などの動作が含まれ、難度最大だったのは機首を垂直に立て、まるで憤怒のコブラが直立し、上を探るような動作だった。この動作は「コブラ」と呼ばれ、飛行機の性能と飛行員の操縦レベルに対する要求が非常に高い。さもないと、ちょっとの不注意ですぐに機は墜落して人は死亡することになる。

「あなたは当時緊張しましたか?」 記者は訊いた。結局のところ、老将軍が1971年に飛行を停止してから26年経過しており、70歳の高齢で全く新しい機種の飛行機を操縦して青空に再び戻るというのはとんでもないことなのである。

「開始時はやや緊張したが、後にはすぐ適応した。」 林虎は、「私はスホーイー27の性能を非常に信頼していた。だからこそあえてフルセットの動作を行ったのだ。一方ロシアサイドも私を非常に信頼していた。だからこそ飛行機を私に与えて飛行させたのだ。」

ロシア試験飛行院の林虎に対する信頼に関して言えば、まず半世紀前の中ソ双方には協力があり、林虎はかつて旧ソ連空軍と一緒に事を行った。次に、ロシアサイドは彼の飛行技術に対し信頼を持っていたのである。


 これはまた波乱万丈の人生ですな。記述を読む限りアメリカの戦闘機を撃墜したのは1回だけで、それで英雄扱いされるんですから中国の戦闘機がアメリカの戦闘機を撃墜するのは珍しいことだったんでしょうね。

http://baike.baidu.com/subview/222921/7914855.htm

 中国語のこの人を紹介するページですが、どう見ても純粋な東洋人ではないと分かります。





















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