ミグー15亡命事件

 「歴史もの小ネタをまとめて」では私の子供の頃の記憶にもあり非常に有名なミグー25亡命事件に関する記事を紹介し、また「「裏切り、逃亡」に関する歴史秘話」では中国のパイロットがベトナムに亡命しようとして失敗、墜死した事件、逆にベトナムから中国への亡命に成功した事件などに関する記事を紹介し、中には本人が死亡したり死刑判決を受けたケースもありました。今回紹介するのは同じテーマの「歴史秘話」ものの記事ですが、本人が無事亡命に成功したケースであるにも関わらず、ずっと後味が悪く重たい話です。

http://military.china.com/history4/62/20130816/18001489.html


北朝鮮空軍飛行員裏切り逃亡の内幕を明らかに:アメリカ市民になることを夢想

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「資料画像:当時の空軍中尉盧今錫と晩年の盧今錫」)

1953年9月21日午前(頑住吉注:朝鮮戦争は7月に休戦しています)、韓国金浦空軍基地の何人かの飛行員は第4戦闘迎撃機大隊の情報資料室で写真フィルムを見ていた。突然ある人が大声で叫んだ。「ミグ戦闘機1機がたった今降着した! ミグ戦闘機1機がたった今降着した!」 そこで飛行員たちは次々外に飛び出し、飛行場南側の滑走路に向け走り、争って敵軍の著名な戦闘機とその飛行員を見た。1機のミグ戦闘機がそこに駐機しており、10機の完全武装で整備され発進を待つF-86戦闘機の中間に位置していた。

北朝鮮空軍中尉盧今錫は彼の銀色のミグー15戦闘機を駐機場所のある広い場所に止めていた。何分か前、第334戦闘迎撃中隊の2機のF-86戦闘機はまさに離陸して定例のレーダー迎撃任務に飛び立とうとしていたが、今この任務は中止されていた。

しかし、盧今錫が機を操縦して降着するまで、同盟軍の防空網はずっとこのミグ戦闘機を発見することはなかった。

盧今錫の戦闘機のジェットエンジンが停止した後、この21歳の北朝鮮空軍飛行員は彼の少年時代の夢、アメリカ市民になる第一歩を踏み出すことを実現した。この夢は、盧今錫が海軍学院に志願して参加し、また後に訓練を行って戦闘機飛行員になった主要な原因だった。

盧今錫の裏切り逃亡は危険な、だが念入りに設計された行動だった。飛行過程全体の中で、彼は自分の同志、米軍の高射砲の攻撃、甚だしきに至っては彼が降りようとした金浦空軍基地周囲から殺到するかもしれないアメリカ空軍戦闘機の攻撃を避ける必要があった。幸運だったのは、盧今錫がいかなる攻撃も受けず、彼の裏切り逃亡が成功したことである。

念入りな計画

盧今錫は新たに平壌付近の蘇南空軍基地に配属された後、最も新しく交付されたミグー15戦闘機を初めて飛行させる16名の飛行員の1人となった。これらの戦闘機は鉄道で秘密のうちに輸送されてきたものだった。慌ただしく組み立てが行われたが、まだサブタンクは配備されておらず、このことはこの機の航続距離が相当に限られることを意味していた(頑住吉注:この部分ちょっとよく分からないんですが、この事件は朝鮮戦争休戦後のことで、言うまでもなくミグー15は朝鮮戦争で大活躍した機です。新たな改良型ということかもしれませんが別に旧型機でも逃亡は可能ですし、後に出てくるように彼は戦争にも参加しています)。だが盧今錫はその前に何ヶ月かの地図に対する仔細な研究を経ており、戦闘機内部の燃料で韓国の金浦に充分飛べることを知っていた。蘇南空軍基地は38度線以北およそ95マイルに位置し、金浦は38度線以南たった10マイルに位置し、これは盧今錫が計画した裏切り逃亡で選択できる最も近い着陸ポイントだった。

あの日盧今錫中尉に割り当てられた任務は熟練飛行を行うことだった。計画通り盧今錫は第1機目に離陸する戦闘機を操縦した。彼は自分がやはり最初に降着するはずになっていることを知っていた。このことは彼の行動が慌ただしすぎるものになることを意味していた。このため、彼は2号飛行員と彼で機の位置を交換するが、自分が最初に離陸するよう要求した。さらに2号飛行員に、「自分は今日ちょっと長く飛びたいから君はあまり早く降りるな。だって君が降りてしまうと連中はすぐ私に降りるよう言うから。」と告げた。

盧今錫は幸運に出会った。まるで神の意志のように、盧今錫がミグー15戦闘機を操縦して離陸した時、金浦北方のアメリカ防空レーダーが日常の維持メンテナンスの便のためしばらくOFFになったのである。運が良かったから盧今錫は金浦に飛行する時いかなる脅威も受けなかったのである。

盧今錫が戦闘機を操縦して米軍基地に接近した時、米軍のF-86戦闘機が北側で発進や降着を行っているのが見えた。明らかに、空中交通規則を真面目に遵守するアメリカ飛行員たちは、盧今錫の後退翼戦闘機が敵のミグー15だと気付くことはなかった。何故なら彼らの飛行ルートはずっと変わらなかったからである。だが、米軍基地の防空部門に気付かれるのを避けるため、盧今錫は順風降着を選択した。米軍の着陸および離陸の航路に入ったのである。真正面から接近して着陸する危険を冒したにもかかわらず、盧今錫はぞれでも成功裏に全ての作戦能力を具備したミグー15戦闘機を完全な状態で損傷なく停止させることに成功した。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「資料画像:盧今錫が裏切り逃亡する時に操縦したミグー15戦闘機(アメリカ国立空軍博物館にある)」です。)

裏切り逃亡の考えはずっと以前から

北朝鮮の飛行員盧今錫の裏切り逃亡は長期的影響によって生まれた結果である。1949年7月、盧今錫は北朝鮮海軍学院に入学が認められた。彼は大学レベルの教育の必要を認識しており、しかも海軍は彼に裏切り逃亡の機会を提供することができた。

北朝鮮海軍学院の規律は相当に厳しかった。卒業前、学員は作業日と休息日の別なく基地を離れるチャンスはなく、休暇はなく、来訪者もなかった。髭を生やすことは禁止され、学員は毎日髭を剃ることを要求されたが、カミソリは提供されず、解決方法は爪で髭を抜くことだった。

学員の課程には微積分、物理、化学、気象学、ナビゲーション、共産主義の歴史、体操、フィットネス、甚だしきに至ってはさらに歩兵訓練と軍事隊列が含まれ、毎日7時間、毎週7日だった。学員は毎日2時間の学習時間しかなく、毎晩の睡眠は約4時間だった。

学院の生活条件も非常に悪かった。寒冷な冬、兵舎や教室にはいずれもまともな暖房はなかった。水に関してはそれぞれの兵舎には3つの蛇口しかなく、お湯は出なかった。「食べ物は足りず、皆いつも飢えていた。」盧今錫は回想する。彼は海軍学院を「まるで監獄だった」と表現する。

盧今錫のある同級生は退学願いを提出したが、断固拒絶された。同時に、もし再度退学願いを提出したら監禁される、と警告を受けた。学院の当局者はいかなる人がここを離れることも希望せず、このため学員たちは継続して極端に辛い生活を我慢することを迫られた。

朝鮮戦争開始以後、学員たちの日常生活はより辛いものに変わった。盧今錫と150名の学員は北に向け60マイル移転し、新たに建設されまだレールが敷設されていない鉄道のトンネル内に置かれた。地面は泥濘で、空気は湿っていた。盧今錫と彼の同級生はここに住まわされ、歩兵訓練を受け、また絶え間ないアメリカの侵略行動を非難する政治集会に耐えた。

その後ある日、何人かの医者が彼らの居住地に来て、ランダムに100名の学員を選択して全面的身体検査を行った。この任務は秘密だったが、盧今錫はこれは飛行訓練と関係があると疑った。彼は直ちに空中から南方へ逃げる可能性を意識するに至った。

盧今錫は最初に身体検査を行うよう選択された学員の1人ではなかった。だが彼は気付いた。回転椅子のそばで学員の回転テスト成績を記録する人がまさしく彼の共産主義の歴史の教師であることに。盧今錫は彼に歩み寄り、テストに参加できないか尋ねた。この教師もこの学員の3ヶ月前の歴史のテストの成績がAだったことを思い出した。彼は盧今錫の請求をちょっと考え、その後うなずいた。

回転テストと身体検査に参加した100名の学員の中で50人しか選ばれなかったが、その中に盧今錫が含まれていた。彼は今回唯一の志願しての参加者で、「特殊な、未知な分配の」学員と形容された(頑住吉注:意味分かりませんが今よりもっときつい生活に自ら志願する変わった奴と見られた、ということでしょうか)。ある日の夜、彼らが汽車で中国のある飛行場に運ばれた時になって、責任者はやっと彼らが訓練を受けて戦闘機飛行員になるのだと教えた。

盧今錫と学員たちは1951年9月にミグー15戦闘機の訓練を完成させた。北朝鮮の戦闘機飛行員として、規律は非常に厳しかった。彼と学員たちには全く休暇あるいは夜間外出はなく、空軍基地外に1日留まることさえできなかった。彼らは公共の場所での飲酒を許されなかった。若い飛行員は皆独身だったが、女性とのデートは禁止だった。彼らは、多くの若い北朝鮮の女性は韓国のスパイだと警告された。

新たに卒業した学員は北朝鮮第1空軍師団第2航空連隊に配属された。1951年11月8日、19歳の戦闘機飛行員盧今錫は機を操縦して彼の初めての戦闘任務を執行した。飛行プログラムは離陸後直ちに国境を越え、中国領空の避難所に入り、その後再度国境を越えて北朝鮮に戻るというもので、飛行高度は初期のアメリカのF-86戦闘機が到達できる高度よりも高かった。

北朝鮮飛行員の事故や戦闘によってもたらされる損失率は相当に高かったが、政治的原因で減ることもあった。盧今錫がいる部隊の、およそ50回の作戦任務を執行したことのあるとある飛行員は、突然屈辱的に解職された。何故なら安保人員が、彼の兄弟が1950年に韓国軍に参加していたことを知ったからである。また、すこぶる飛行員に歓迎されていた北朝鮮第11空軍師団の指揮官は、西側への裏切り逃亡を画策したと告発され、結果的に審判を経ずに即銃殺された。

政治的高揚も盧今錫に対し影響を生じさせた。彼の叔父である尤吉昂は供給部隊の少佐で、断固とした共産主義者でもあった。1953年の春、彼は盧今錫に、彼の母はすでに空爆で命を落としたと告げた。だが実際には盧今錫は母が韓国でごく安全にしていることを知っていた。中国軍が朝鮮への進入を開始した時、盧今錫の母はアメリカ海軍によって興南から韓国に疎開させられていたのである。

だが明らかに、尤吉昂は北朝鮮第1空軍師団の指揮官に、盧今錫の母が韓国でまだ生きていると教えた。同年4月、問題はさらに複雑化した。米軍は大量の宣伝ビラをまき、投降した北朝鮮戦闘機飛行員は10万アメリカドルの賞金が手にできるとしたのである。これらの要素を総合し、北朝鮮安全部門は盧今錫というこの若い飛行員に対する調査を行った。幸運だったのは、彼の副大隊長と第1空軍師団指揮官がいずれも盧今錫に非常に良い評価を与え、彼は戦闘機飛行員でもあり、断固たる共産主義者でもあると言ったことだった。こうして盧今錫は継続して飛行任務を執行することができた。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「資料画像:北朝鮮空軍飛行員盧今錫が操縦した裏切り逃亡機ミグー15。元々の機体のコードナンバーは2057である。」です。)

裏切り逃亡、少なからぬ人に累を及ぼす

盧今錫は後に、彼の裏切り逃亡に関わった少なからぬ人が処刑されたことを知った。彼の最も良き友(実際に彼は盧今錫の裏切り逃亡計画を知っていた)は第1の被処刑者だった。続いて処刑された人には次の人々がいた。盧今錫が所属していた部隊の大隊長(盧今錫が蘇南空軍基地にいた最後の日に彼と一緒にいた人)。少し前の安全調査過程で盧今錫の忠誠を証明した副大隊長と大隊の教育指導員。第1空軍師団首席武器担当将校(盧今錫の入党の紹介者)。彼の連隊長と北朝鮮第1空軍師団指揮官。

ミグ戦闘機の評価

盧今錫の裏切り逃亡は重大な代価をもたらしたが、米軍はこのために初めて完備され損傷のないミグー15戦闘機を手にした。このため彼の裏切り逃亡はアメリカにとっては重要な価値があったと言える。

3名のアメリカ空軍試験飛行員(アルバートボイド、チャールズ アイガー、コリンズ)はこのミグ戦闘機に対する評価を行った。彼らは、同時代のアメリカのF-86戦闘機は各方面いずれにおいてもミグ戦闘機より優れていることに気付いた。ミグー15戦闘機はより良い推力:重量比を持ち、初期型のF-86戦闘機より高く上昇できるが、F-86戦闘機も55,000フィート(16,764mに相当)の高度に到達できる(こうするとエンジンの排気温度の制限を超えるのではあるが)。F-86戦闘機の通常の飛行任務高度は49,000フィート(14,935mに相当)であり、巡航速度はマッハ0.9だった。

飛行試験中、このミグ戦闘機は速度がマッハ0.83の時に深刻な機首が上を向く状況が出現することが分かった。当局による速度制限はマッハ0.92だが、この時赤色警告灯はすでに点灯していた。また、アメリカ人はさらにこのミグ戦闘機には超音速飛行はできない、ということにも気付いた。あるテストの中で、アイガーはこのミグ戦闘機にフルパワーで垂直降下をさせ、もって機に可能な最高速度に到達させた(全ての飛行機がこうする)。だがこの戦闘機の速度はマッハ0.98を超えなかった。このような速度の下では衝撃波が深刻な飛行を抑える振動をもたらし、マッハ0.93以上の時、この機の反応はもう鈍っていた。テスト中さらに少なからぬその他の問題が発見された。これには意図しない機首の上下、回復不能の自転、いかなる失速警告もない、非常に立ち後れた増圧システム、特別に危険な緊急燃料ポンプなどが含まれた。

1957年、アメリカはこの裏切り逃亡したミグー15戦闘機を返却したいとしたが、いかなる回答も得られなかったため、最終的にこの機はアメリカ国立空軍博物館に移され、公開展示が行われた。

アメリカに移民

まさに米軍がまいた宣伝ビラが言っていたように、盧今錫は機を操縦して裏切り逃亡をしたことによって10万アメリカドルを獲得した。後に盧今錫はアメリカに移民し、かつ英語の学習を開始した。その後、彼はアメリカのデラウェア大学で機械および電気工程の学位を獲得した。彼は韓国の開城から来た移民の女性を娶った。彼らは2人の息子と1人の娘を養育した。息子たちは大学卒業後技術者になり、娘は弁護士になった。盧今錫本人はいくつかの国防と関係のある会社(ボーイング社、ゼネラルダイナミクス社、ロッキード社含む)で働いた後、最終的にエンブリー リドル航空大学(フロリダ州)航空工程学教授の身分で引退した。

引退後、年齢はすでに高かったが、ケネス ロー(盧今錫の英語名)は依然メディアの関心を集めた。彼の物語に基づいて書かれた本、「A MiG-15 to Freedom」は、盧今錫の北朝鮮政府統治下でのエキサイティングな生活ぶりについて記述している。


 検索したら日本語版「Wikipedia」にも関連記事がありましたが、私は全く知りませんでした。記事には明記されてませんがまだ存命のようです。もちろん責めるわけにはいきませんが、立場が悪くなった時にかばってくれた人が処刑された、そして本人もある程度こうした結果は予想できたはずだと考えると複雑な気持ちにならざるを得ません。












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