朝鮮戦争関連2題
間もなく停戦60周年ということで朝鮮戦争関連の記事が多くなっています。
以前「朝鮮戦争停戦・捕虜問題をめぐる毛沢東、金日成、スターリンそれぞれの見解」という記事を紹介しましたが、今回まず紹介するのはこの3者の開戦時における動きや考え方の違いに関する記事です。
http://military.china.com/history4/62/20130719/17955041.html
秘密を明らかに:何故毛沢東は朝鮮出兵を急いだのにスターリンはそうしなかったのか
(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「朝鮮戦争中捕虜となったアメリカ兵」)
本文は「決策と勝負」より抜粋 編集長:王家声等(頑住吉注:「等」まで人名です)、出版:世界知識出版社
アメリカ空軍の爆撃は平壌を緊急事態に陥れた。
7月7日金日成はソ連駐北朝鮮大使シェンテコフとの会見を約し、再度ソ連軍事顧問ができる限り早くソウルに進駐し、かつ各軍団の軍事指揮に参加するよう請求した。さもなくば北朝鮮人民軍は「敗北」と「崩壊」に直面することになる、と。金日成はさらに、自分は多くの電話を受けており、話されるのは全て米軍の空襲がもたらす深刻な破壊であり、これには鉄道の中枢や多くの橋が破壊されたことが含まれる、と語った。シェンテコフの見たところでは、金日成は戦争勃発以来初めて「情緒不安定で、かついささかの気落ち」をはっきり示していた。スターリンは再度注意力を中国に転じ、彼は7月8日の電報の中でルオシェン(頑住吉注:ソ連駐中国大使)に指示し、毛沢東ができる限り早く代表を派遣して北朝鮮と連絡を取るよう頼んだ。
実際には鴨緑江あたりの中国軍はこの時積極的準備を行っているところだった。中国部隊が大規模に東北に向け集結するのと同時に、中国の指導者も一段と力を入れて北朝鮮入り作戦の計画を立てていた。7月12日(あるいは13日)、周恩来は金日成に、中国がアメリカの北朝鮮に対する干渉を容認することはなく、中国政府はこの戦争の中でできる限り北朝鮮に向け必要な一切の援助を提供する準備がある、と教えた。同時に、中国に各種の縮尺の「北朝鮮の地図500枚を提供し、かつ北朝鮮前線の状況を通報」するよう希望し、さらに「できる限り早く北朝鮮人民軍の軍服のサンプルを送る」よう要求した。金日成は遅れずソ連大使にこの状況を報告し、かつ「アメリカなどの国が李承晩の側に立って戦争に参加している以上、民主国家である例えばチェコスロバキア、中国なども自らの軍隊を用いて北朝鮮を助けてよいのだ。」と提案した。だがシェンテコフは故意にこの問題を回避した。
7月19日、金日成はまたソ連大使館に向け、彼の北京代表が毛沢東と会談した時の状況を報告した。すなわち、毛沢東はアメリカが長期的に参戦し、かつ北朝鮮により多くの兵力を投入する、と考えている、ということをである。毛沢東は金日成に、「部隊に命令して敵に向けての進攻を停止させ、もって自らの主力を温存する」よう提案し、さらに「北朝鮮に対し30,000挺の小銃、2,000挺の軽機関銃、200挺の重機関銃、300門の81mm迫撃砲と1,000頭のラバを与える。これらあらゆる物資は7月25日から輸送が始まる」と回答した。金日成はさらに通報した。北朝鮮の戦局、状況を理解するため、毛沢東は本来周恩来を北朝鮮に派遣することを考えていたが、飛行機に乗るのが非常に困難なため、金日成に軍事代表団を中国に派遣するよう要請するしかない、と。
毛沢東はさらに、もし北朝鮮が援助を必要とするなら、中国は「自らの軍隊を北朝鮮に派遣してもよい。中国サイドはすでにこのために4個軍、全部で32万人を準備している」と語り、かつ金日成が8月10日以前に自分の意見を知らせるよう希望した。金日成がモスクワにこの問題に関する意見を問うた時、シェンテコフは「何も知らない」と答えた。金日成はまた、自分は元々毛沢東がすでにスターリンとこの件を協議しているかもしれないと考ており、これが毛沢東自身の考え方に過ぎないとは思わなかった、と語った。シェンテコフは再度、これに対し全く知らない、とした。
(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「志願軍が鴨緑江を越える」です。)
ソ連大使は電報の中で、モスクワができる限り早く中国の出兵という問題にに対する見方を提示し、もって後日金日成が回答するのに便とするよう要求した。だがスターリンはこれに対しずっと回答しなかった。見たところ、危急の状況に至らない時点において、モスクワは決して中国軍の介入を望まなかったのである。何度か探りを入れた後、金日成もスターリンのこの種の考慮を理解した。
7月18日、モスクワはソ連大使館の北朝鮮情勢に関する長編の総合報告を受け取った。中心的内容は、北朝鮮指導者と住民がすでに当初のパニックの心理を脱し、勝利の自信を回復している、というものだった。報告は、アメリカ空軍の空襲に遭ったばかりの時、北朝鮮人はソ連と中国の武装援助なしではアメリカという武装干渉者に勝利できないと心配していたが、人民軍が南に向け推進するにつれ、特に7月5日と11日にアメリカ部隊と交戦しかつ重大な損害を負わせ多くの米軍兵士を捕虜にした後は、「人民の戦闘精神はまた新たにかき立てられている」としていた。明らかに、戦局の発展に対する楽観的見積もりにかんがみて、スターリンはしばらくのところ中国(頑住吉注:北朝鮮でしょう)への出兵は不必要との決定をしたのである。他方において毛沢東が見せた北朝鮮出兵を急ぐ心情は、中国の出兵はその北朝鮮における地位と影響力を拡大させ、長い目で見ればこのことはソ連に対し不利なのではないか、とのスターリンの疑念をも引き起こした可能性が高い。
あるいは中国の出兵の提案が遅々として北朝鮮の回答を得なかったから、毛沢東は別のルートを通じてモスクワにこの考えを提出することを決定したのかもしれない。8月19および28日、毛沢東は2度にわたって北京で「毛沢東選集」の編集に協力していたソ連の哲学者ユージン院士に朝鮮戦争の件を話した。毛沢東は自体の発展に関する2つの可能性を語った。もしアメリカ人が朝鮮で現在の兵力だけを使用したら、彼らは遠からず半島から追い出され、二度と戻ってこられないかもしれない。だが、アメリカが朝鮮で勝利を獲得しようと決心したら、彼らは30〜40個師団の兵力を必要とする。この種の状況下では、北朝鮮人だけに頼ったのでは対応できなくなり、彼らは中国の直接の援助を必要とする。もしこの種の援助を行えば、すぐアメリカの30〜40個師団を殲滅できる。この方案がもし実現できれば、第三次世界大戦の勃発を遅らせることになり、このことはソ連にとっても中国にとっても有利である、と。
毛沢東のこの話は当然モスクワの聞くところとなった。しかし、スターリンはそれでも心を動かされなかった。
(頑住吉注:3ページ目)英雄的に作戦中の志願軍兵士
(頑住吉注:4ページ目)陣地を堅く守る志願軍兵士
(頑住吉注:5ページ目)朝鮮戦争に参加したソ連空軍
(頑住吉注:6ページ目)1953年7月、朝鮮停戦談判に参加した双方の連絡官は双方の司令官が署名した各種の文書を板門店で交換した。
(頑住吉注:7ページ目)アメリカ代表が朝鮮停戦協定書に署名する
(頑住吉注:8ページ目)志願軍の烈士の墓地
スターリンと毛沢東の微妙な関係はここでも浮き彫りになりました。本筋と関係ないですが、少なくとも毛沢東は東西陣営による第三次世界大戦の勃発は不可避で時間の問題、と考えていたんですね。これに関しては次に紹介する記事とも関連します。
次は今日の中国から見た朝鮮戦争の評価です。
http://military.china.com/important/11132797/20130724/17962380.html
人民日報:何故朝鮮戦争を忘れるべきでないか
(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「志願軍、鴨緑江を渡る」)
1953年7月27日、朝中代表団の代表と「国連軍」代表は朝鮮の板門店で「朝鮮停戦協定」を締結した。ここに至り、3年1ヶ月と2日にわたる朝鮮戦争の全線での戦火の停止が実現し、朝鮮半島は残酷な洗礼を経て、ついに平静を迎えたのである。
この戦争は第二次大戦終結からたった5年で発生し、日本の朝鮮半島植民地統治からも5年しか隔てず、中華人民共和国成立からは8ヶ月だった。世界の人民は第二次大戦の悪夢の中からさめたばかりで、まさに平和を迎える希望でいっぱいで、故郷を再建している時に戦争が発生した。しかもこの戦争の惨烈さ、死傷の悲惨、重大さ、消耗の巨大さは、過去のいかなる局地戦争をも超えた。中国はこの戦争のために巨大な民族的犠牲を払い、非常に高い代価を支払った。
朝鮮戦争を忘れてはいけないのは、それが間違った時に発生したからである。中国は解放を獲得したばかりで、一斉に復興が行われ、まだ負担の大きい残敵追撃の任務に直面し、さらに台湾とチベットの問題の早急な解決が待たれていた。時期的に適切でない戦争は国内の議事日程を完全に混乱させ、中国共産党と中国政府は厳しい試練に直面していた。出兵しなければ北朝鮮の政権はすぐ滅亡し、アメリカの勢力は我が東北の辺境を圧迫するに至り、北東アジアの戦略構造は完全に変わることになる。出兵すれば、これは我々が最も強大な敵と戦うことを意味し、非常に大きな代償が避けられない。だが中国の指導者の胆力と識見、そして知恵は近視眼的で狭い考え方に打ち勝った。朝鮮で戦ったことで、中国人の威風と気骨が打ち出され、中国の国際的威信が高まり、北東アジア60年の平和が作り出されたのである。
朝鮮戦争を忘れてはいけないのは、それが間違った場所で発生したからである。第二次大戦終結からほどなく、冷戦がヨーロッパで始まった。アメリカとソ連の戦略的重心はいずれもヨーロッパに置かれ、双方いずれも積極的に戦いに備え、雌雄を決する可能性が大いにある情勢だった。第二次大戦後初の局地戦争が意外にもアジアで発生するとは誰も予測しなかった。実は、朝鮮問題は米ソの勢力範囲の区分けがもたらしたのであり、冷戦の産物でもあった。1945年8月、アメリカはソ連の極東における勢力が強大で、半島を独占することが大いにあり得る勢いであるのを見て、北緯38度線を境界とし、38度線以北の日本軍はソ連軍に投降させ、38度線以南の日本軍はアメリカに投降させるよう提案したのである。「38度線」は朝鮮半島を2つの朝鮮に分断することになった。何年間かの努力と準備を経て、朝鮮の北、南双方はいずれも自分には相手方をやっつけ、祖国統一を実現する能力があると考えた。このため、朝鮮戦争はまず内戦として起こり、これは誤判から引き起こされた戦火だったのである。
(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「志願軍ソウルを攻略」です。)
朝鮮戦争を忘れてはいけないのは、その発生の原因が戦略的誤判だったからである。多くの局地戦争は往々にして誤解、誤判から衝突が引き起こされ、衝突から戦争にエスカレートし、さらに外部勢力が巻き込まれていく。朝鮮戦争もまたこうだった。新中国の成立はソ連をリーダーとする社会主義陣営を強大化させた。アメリカは第二次大戦の政治、軍事、経済上の大勝利者として、野心にあふれて「世界をリード」し、いわゆる共産主義の拡張を抑止しようとした。朝鮮戦争の勃発はアメリカに戦略的抱負を現実に展開させるよい機会を提供した。戦争が始まるやアメリカはすぐに国連の名義で軍事介入し、かつ第7艦隊を台湾海峡に派遣した。北朝鮮を侵略するアメリカ空軍は中国領土を爆撃、掃射し、戦火は鴨緑江の岸を焼くに至り、直接的に中国の安全に脅威を与えた。
つまるところ、中国の抗米援朝は国家を防衛し平和を守るための戦いだったのである。朝鮮の北、南双方が殺し合ったのは祖国統一のための戦いだった。アメリカの軍事介入は「共産主義の拡張」を阻止し、アジアでの覇権を拡大するための戦いだった。戦争の結果は、半島が冷戦構造に戻ることだった。
朝鮮戦争を忘れてはいけないのは、それが今日も依然警鐘の意義を持つからである。朝鮮で停戦が実現して60年、依然真の平和に変わってはいない。60年前企図された武力をもっての統一実現は目標を実現しなかったし、60年後の今日も武力をもって半島問題を解決することは依然目的を達してはいない。
冷戦を繰り返してはならず、戦略的誤判は力を尽くして避けるべきである。半島問題の根本的解決の道は平等な対話と談判にあり、半島の統一は半島の北と南の人民によってのみ解決され得る。早期に平和が半島に戻ってくることを願う。
(頑住吉注:3ページ目)志願軍の戦車部隊
(頑住吉注:4ページ目)志願軍某部が召集した動員大会
(頑住吉注:5ページ目)志願軍の空軍
(頑住吉注:6ページ目)英雄的に作戦を行う志願軍兵士
(頑住吉注:7ページ目)朝鮮戦争の双方が停戦協定を締結
(頑住吉注:8ページ目)志願軍の烈士の墓地
我々とは全く違う見方ですが、中国からはこう見えているんだ、という意味で非常に興味深い内容でした。「朝鮮戦争を忘れてはいけないのは、それが間違った時に発生したからである。」というのは要するにもっと後ならより有利に戦えたのに、ということですが、中国軍の戦力が本格的に強化されるようになったのは近年のことで、5〜10年程度後でも決定的な違いはなかったのでは。もちろんその間にアメリカの軍事技術も進歩しましたしね。あるいは中国には「ベトナムでさえ勝てたのに」という意識があるのかもしれませんが。