マシンガン( http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Waffen/maschinengewehre.htm )

 第一次大戦の終戦後、将来のマシンガンを空冷にする計画が決定された。しかしベルサイユ条約がオートマチック銃の開発を禁止していたため、Reichswehr(頑住吉注:1921〜35年のドイツ国防軍)のラインメタル社への注文によって水冷式ドライゼマシンガンの改造が始められ、これに空冷式のバレルが備えられた。この銃は25発および75発弾薬入りマガジンを持っていた。最初のテスト射撃は1928および29年に行うことができた。ボックスマガジンを持つ改良された銃がModell Dreyse 13bとして披露され、これは1930年に採用されるマシンガンの基礎だった。この銃は1930年にMG Modell Dreyse 13の名称の下にReichswehrに採用された。この銃は全長1,340mmで、長さ720mmのバレルを持ち、、重量は11.4kgだった。発射速度は550発/分、初速は820m/sだった。実用射程は1,000〜1,400mだった。弾薬は25発ボックスマガジンによって供給された。バレルは熱したバレルを冷たいそれと交換するために交換可能だった。75発ドラムマガジンつきのこの銃はMG Modell Dreyse 13kdと呼ばれ、対空防御に使用された。対空防御時の効果的射程は800〜1,000mだった。この銃の製造はベルサイユ条約により歩兵用銃器を作ってもよい唯一のドイツの会社であったSuhlのSimon & Co.で行われた。1マシンガン隊の装備には空の状態でそれぞれ重量0.39kgのボックスマガジン8個が属した。

 1926年、Vollmer社はあるマガジンを提示した。これはたった78の部品からなり、一方MG08/15は少なくとも383の部品からなっていた。しかし良好な射撃結果を示したにもかかわらず、このVolksmaschinengewehr(VMG)27と呼ばれたマシンガンはナチ・ドイツ軍に採用されなかった。ただしこの銃は軽機関銃および重機関銃として使用可能ではなかった。

 MG29はラインメタル・ボルジヒ社およびソロサーンの銃器工場で開発され、25連マガジンを持っていた。同社はこの銃の開発によってベルサイユ条約の規定に違反していた(頑住吉注:スイスの会社であるソロサーンは関係ないのでラインメタルのことです)。部品はオーストリアの会社ステアーから供給された。しかしちょうどMG Dreyse 13がReichswehrに採用された結果、この銃には買い手がなかった。そこでこの銃をモーゼルの7.92mm弾薬用に改造する決定がなされた。これがMG30を導いた(内部名称S2-200)。この銃も同様にナチ・ドイツ軍に採用されなかったが、オーストリア陸軍がこの銃を注文し、ハンガリーでもこの銃が調達された。この銃は全長1,172mm、銃身長は600mmだった。このマシンガンは重量9kg、初速は760m/sで発射速度は600発/分に達した。7.92mmと8mm弾薬用のバージョンが存在した。弾薬は25発カーブマガジンから供給された。実戦使用射程は2,000mだった。オーストリア併合後ナチ・ドイツ軍はこの銃を引き継いだ。

 MG35/36はKnorr-Bremse社由来だった。この銃は重量10kgで、490発/分の発射速度しか持たなかった。このためこの銃はナチ・ドイツ軍に却下された。1943年以後SSが在庫を買い占め、さまざまな義勇軍部隊に投入した。

 モーゼル社は金属工業Kreuzlingenと共同でMG31を開発した。この銃は重量10kgでMG13のマガジンを使用した。このマシンガンが成功をもたらさなかったため、さらに手が加えられ、LMG32として形成され、MG34の基礎となった。

 MG34はユニバーサルな銃だった。この銃は軽機関銃としてバイポッド上でも、重機関銃としてトライポッドの上でも使用できた。その上シングルおよびダブル銃架にセットして対空防御に使用することもできた。1930年以来、ネッカル川流域のオベルンドルフに所在するモーゼルとVollmerはあるデンマーク製銃器を基礎にユニバーサルマシンガンを開発していた。その後の1933年12月、モーゼルの開発による、MG34のさきがけと見なされる銃がテストされた。特に新しかったのは、ボルトが直接レシーバー内で動いたこと、バレルジャケットとレシーバーが1本の回転ピンによって方向転換可能に互いに結合されていたこと、底部部品が簡単な操作によって取り外せることだった。このテスト射撃の後、正式な開発注文がラインメタル社に与えられた。MG34と呼ばれるにもかかわらず、この銃は1939年1月24日になって初めてナチ・ドイツ軍の組織的装備として受け入れられた。この最初の銃はまだベルトドラムホルダーを備えており、毎分600発あるいは1,000発に調節できる発射レートの選択レバーを装備していた。その後この銃は毎分800〜900発の固定した発射速度を持つようになった。

 MG34はバイポッドつきで重量12.1kg、全長1,225mm、銃身長は625mm、初速は755m/sだった。発射速度は900発/分に達した。実際上の発射速度は毎分300〜400発だった。この銃の射程は3,000mで、間接射撃の場合は3,500mでさえあった。しかし照準設備は2,000mまでしか達しておらず、これがこの銃の効果的射程だった。この銃は7.92x57mmモーゼル弾薬を発射した。

 MG34は装甲車両内にもマウントされた。この銃は冷却穴つきバレルジャケットの代わりに、厚くて非常にマッシブな、射撃の影響に対して比較的敏感でない冷却穴のない特殊ジャケットを得た。その上このジャケットにはフロントサイト、サークル状フロントサイトのホルダーおよびバイポッドの固定のための設備がなかった。こうした部品はショルダーストック、バイポッド、キャリングベルトとともに金属薄板製ケースに入れて戦車内で携行された。この銃は必要な場合は取り外され、歩兵戦闘に使用できた。

 この銃はトライポッドにもマウントできた。トライポッドは軽量型が6.75kg、大型が34kgだった。弾薬は50発のベルトドラム、75発の弾薬ドラム、250発のスチールベルト、あるいは300発のケース入りベルトから供給できた。

 多数の精密に削り出し加工された部品と、工場自身のものでない弾薬の場合の弾薬供給はこの銃の実戦使用能力に不利に作用した。

 発射速度を上げるため、多くのテスト銃が開発された。特に短縮されたバレル、変更された閉鎖システム、改良された反動増幅器、モデファイされたバッファー設備を持つMG34Sである。発射速度は毎分1,700発に上げることができたが、作動確実性と銃の寿命が犠牲になった。そのためこのシステムも採用されなかった。さらに改良されたMG34/41の場合発射速度は1,400発/分に達した。だがこの銃もテストの際に耐久性に問題が出、生産は中止された。

 開戦時、部隊はすべての種類で126,800挺のマシンガンを持っていた。そのうち多数(84,078挺)はMG34で、この銃は1943年まですべての前線で主要な責任を負担した。

 兵器局は1937年にはすでに金属薄板プレス部品製の新しいマシンガンを要求していた。MG34の弱点を理解していたからである。公募にはラインメタル、Stubgen(頑住吉注:「u」はウムラウト)、Grossfuss各社が参加した。前2社はガス圧ローダーを提出したが、その作動は敏感すぎ、却下された。これに対しGrossfuss社は新方式のローラー閉鎖機構を持つ単純な金属薄板プレス構造の銃を提出した。この1938年4月に披露された銃は1939年2月に部隊テストに登場した。このマシンガンの見本品はまだMG34/41の名をつけていたが、1941年以後この銃はMG42として部隊に導入された。1941年の終わりまでに1,500挺の銃が戦闘状況下でテストされ、1942年の始めにはこの銃はスタンダード兵器に指名され、組織的装備内に受け入れられた。初の実戦使用は1942年5月にアフリカにおいてなされた。

 MG34と比較して、MG42の場合原材料マテリアルは49kgから27.5kgに、製造時間は150時間から75時間に低下していた。これにより生産高も1941年秋の毎月3,000挺から1944年始めの毎月24,000挺に上げることができた。第二次大戦終了までに約352,000〜400,000挺のMG42が生産された。

 MG42は全長1,230mmで、銃身長は530mmだった。重量はバイポッドつきで11.6kg、重トライポッド42は重量20.5kgだった。この銃は新方式のローラー閉鎖機構を持ち、これが発射速度を(頑住吉注:MG34の)毎分900発から1,500発に上昇させていた。実戦使用射程は軽機関銃としては800m、重機関銃としては2,200mだった。弾薬は50発ベルトまたはケース入り250発ベルトで供給され、もはやドラムマガジンは存在しなかった。この銃の場合も7.92x57mmモーゼル弾薬を発射した。この銃は対空防御用としてはタイプ36双子台座にセットされた。MG42は非常によく真価を発揮し、今日のドイツ連邦国防軍のマシンガン(MG3)もほとんど正確にMG42と一致する。

 1944年に包括的なマテリアル節約措置が導入された後、MG42の単純化されたバージョンが要求された。MG42の多数の部品の使用によって、完全にロックされず、これにより発射速度が1,800発/分に達する新方式のローラー閉鎖機構を持つMG45が誕生した。この銃は重量9kgで、1944年6月にはすでにテストされた。だが、さらなる開発は遅延し、この結果終戦時において10挺が製造されていただけだった。

 SSだけのためにチェコ製のMG26(t)が採用され、戦争最初の年に生産された。この銃は全長1,165mmでバレルは600mmだった。重量は9.6kgで、初速は760m/s、発射速度は520発/分に達した。改良されたバージョンであるMG30(t)は全長1,200mmだった。この銃はチェコの在庫から引き継がれたが、ユーゴスラビアでも鹵獲兵器として生じた。

 1941および42年、SSはブルーノでチェコ製の重機関銃であるMG Kulomet vz.37を製造させた。この銃はトライポッドつきで重量19.5kgであり、全長は1,095mm、銃身長は730mmだった。発射速度は550発/分で、初速は790m/sだった。このマシンガンはMG37(t)として採用された。

 MG M20はオランダ由来で、このうち3,900挺がMG100(h)として引き継がれ、主にチャネル諸島で実戦使用された。この銃は重量13kg、口径6.5mm、97連ドラムマガジンを持っていた。全長は1,260mm、銃身長は654mmだった。初速は730m/s、発射速度は450発/分だった。

 イタリア製のMG30は主としてアフリカ部隊に投入され、MG099(i)の名称を得た。このブレダで製造された銃は全長1,235mm、口径6.5mmで銃身長は450mmだった。重量は10.8kg、初速は630m/sに達し、これが460発/分の発射速度をもたらした。

 1943年秋におけるイタリアの政権転覆以後、s.MG259(i)が引き継がれ、イタリアに投入されていたさまざまな部隊において使用された。この銃は重量19.4kgで、トライポッドは18.8kgだった。全長は1,270mm、銃身長は750mmだった。8mm弾薬を使用して初速は780m/sに達した。これが450発/分の発射速度をもたらした。

 戦争最後の年に生じた兵器不足により、空軍で兵役を終えたMG15MG81のような機上兵器が引っ張り出された。こうした銃はショルダーストックとバイポッド、さらに必要不可欠な照準設備を得た。

 1945年4月1日までの第二次大戦間の陸軍向けマシンガン生産は次の通りである(MG34/41を除く全ナチ・ドイツ軍向け生産はMG34が354,020挺、MG42が414,964挺だった)。

名称 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
MG 34 12,822 54,826 80,952 63,163 48,802 61,396 20,297
MG 34/41 - - - 1,705 - - -
MG 42 - - - 17,915 116,725 211,806 61,877
MG 30(i) - - - - - - 270
MG 37(i) - 1 2,240 2,920 - 1,250 -
MG 26(t) 7,947 2,486 - - - - -

 1945年3月始め、部隊にはまだ77,288挺のMG34と153,712挺のMG42が存在した。これに加え兵器廠は4,004挺以上の銃を持っていた。さらに一定の鹵獲兵器を含め、24,511挺のさらなるマシンガンがあった。

 鹵獲兵器を除き、ナチ・ドイツ軍は第二次大戦中に787,803挺のマシンガンを手にした。

 他のナチ・ドイツ軍部分および武装SSは陸軍兵器局から、すでに挙げた量の他に次のような銃器を供給された。

1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
空軍
MG34 - 348 - - - - -
MG42 - - - - 2,381 1,633 -
海軍
MG34 - 1,350 4,349 3,950 1,178 - -
MG42 - - - - 769 1,633 -
武装SS
MG34 - 256 209 122 - - -
MG42 - - - - - 225 -

 こうしたマシンガンからは、カラビナー用にあるような7.9mm弾薬のいろいろな種類が発射されたが、それはすでに生産において選別された製造グループであった。


 マシンガンの分野においてもドイツは非常に進んでおり、軽機関銃、重機関銃の両方に使える汎用機関銃のコンセプトはアサルトライフルや9mmパラベラムを使用するダブルアクション軍用拳銃同様戦後世界中に広まりました。汎用機関銃の第1号であるMG34は大傑作ではあるものの生産性が悪い、構造が精密で汚れなどによって信頼性が低下しやすいといった欠点もあり、MG42が開発されました。ルガーP08とワルサーP38みたいな関係と思えばいいでしょう(ご存知のようにP38も戦後ほとんど同じものが西ドイツ軍で使用され続けました)。MG34とMG42の具体的な資源の使用量、必要とするマンパワーの数値は興味深かったです。ただし生産数を見ればMG34のそれはMG42にはるかに追い越されてはいるものの、1944年まで大きく低下していないことが分かります。ちなみに「突撃銃」の項目によればMP44は1944年に281,860挺生産されており、MG34、MG42を合わせたよりも多かったことが分かります。そもそも機関銃は全員が持つタイプの銃ではないので単純な比較はできませんが、機関銃の生産が手間のかかるものだったことが伺えます。そのことは省力化機関銃の導入が戦前、戦争末期と2度にわたって失敗していることからも分かります。ちなみにMG42の後継機となるはずだったMG45の閉鎖機構は文からも想像できるようにH&Kが戦後多用したハーフロックのローラーロッキングの原型となるもので、バレルは固定され、チャンバーにはフルートが備えられてていました。ここでは明記されていませんが開発はGrosfuss社によって行われました。試作品は戦後ソ連にあった「らしい」とのことです。残念ながら検索しても画像は見つかりませんでした。






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