サブマシンガン 
(頑住吉注:原文では「Mascinenpistole」、すなわちマシンピストルですが、この語にはピストル強化型のサブマシンガンを指すような語感があるので通常はサブマシンガンと訳しています。 http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Waffen/Maschinenpistolen.htm )

 マシーネンピストーレSchmeisser MP28/2は1928年以後Suhl所在のC.G.Haenel社で生産された。この銃は第一次大戦時代からのものであるMP18/1の発展開発品だった。この銃は自己の選択によりセミ、フルオートに調節でき、口径は9mmだった。その上この銃は右側にバヨネット保持具を持っていた。弾薬は棒状マガジンによって供給され、このマガジンは20、32、50連が選択できた。この銃の全長は810mmで、未装填重量は4kgだった。この銃はすでにスペイン内乱において実戦投入され、1942年には7,000挺が軍で使用されていた。

 マシーネンピストーレVollmer Erma 9mmは同様にMP18/1の発展開発品だった。その最初のプロトタイプは1925年に作られた。この銃の口径は9mmで、空虚重量4kg、32連棒状マガジンを持っていた。初速は380m/sだった。この銃の新規性は新しいリコイルスプリングで、これは続く全てのマシーネンピストーレに使用された。ピストルグリップ内には銃を依託できるようにテレスコープ支持具が収められていた。

 マシーネンピストーレErma EMP9mmはVollmer Ermaの発展開発品だった。この銃は口径9mmで、空虚重量4.1kg、20連および32連棒状マガジンを持っていた。初速は360m/s、銃身長は250mmだった。この銃はリコイルスプリングの安定のため新方式のテレスコープパイプを装備していた。銃には起倒式またはタンジェントサイト付きのものがあった。ストックはVollmer Ermaと同一だった。この銃にはスペシャルバージョンとしてサイレンサー付きもあった。このタイプは4.74kg、全長1,187mmだった。初速は305m/sに低下した。特にSSが1936年以後大量のEMPを受け取った。

 Bergmann社はMP34を開発した。この銃はBMK32としてデンマークにおいてライセンス生産され、その地で1940年以後駐屯部隊において使用された。この銃は2つの異なる銃身長で製造された。すなわち200mmと320mmである。ショートバレル付きの銃は全長840mmで、サイドに装着される32連マガジン付きで重量4.7kgだった。発射速度は650発/分で、これはあまりにも高かった(頑住吉注:現代の感覚ではちょうどいいくらいなんですが、後のサブマシンガンでは発射速度がさらに落とされており、こういう判断だったんでしょう)。照準設備は50mから1000mまで調節できるタンジェントサイトだった。バレルにあるマズルブレーキはフルオート時に安定させ、リコイルショックを和らげた。この銃はデンマーク軍において正式採用され、南アメリカに輸出もされた。多くの型が存在するが、ディテールが異なるだけである。この銃もSSによって採用された。約4,000挺が製造された。

 MP35はMP34からいくらか変更することによって生じた銃であり、SSだけのために製造された。

 ラインメタル・ボルジヒ社によって開発されたMP37は却下された。この銃は膝関節閉鎖機構(頑住吉注:トグルジョイント)を持っていた。この銃は40連マガジンを装備していた。

 スペイン内乱の間に参加国はモダンな戦闘における多くの経験を勝ち取った。ドイツではそのときまでまだマシーネンピストーレは採用されておらず、第一次大戦においてこうした銃による良い経験をしてきていなかった(頑住吉注:どう読んでもこうなんですが、これまで登場した旧世代のサブマシンガンの一部は採用されているはずですし、ドイツは第一次大戦の塹壕戦でサブマシンガンを有効に使用した経験を持っていたはずです)。だがスペインでは例えば家屋、森における戦闘でのマシンガンに対するマシーネンピストーレの戦術的優越が示された。そういうわけで陸軍兵器局は1938年初め、開発注文をエルマ社に与えた。同社はすでに出来上がったプランをキャビネットの中に持っており、1938年8月にはすでにこの設計はMP38として兵器局に承認された。この銃は完全に金属とプラスチックからなっており、木材は全くなくなっていた。この銃は円筒形の重量閉鎖(頑住吉注:ストレートブローバック)ボルトとジャケットのない空冷バレルを持つリコイルローダーだった。この銃はストックを伸ばすと全長856mmで、たたむともはや630mmでしかなかった。重量は4.1kg、銃身長は250mmだった。32発の弾薬は初速390m/sの場合420発/分の発射速度で発射された。マガジンが下から挿入されるのも新規性だった。これは戦車搭乗員には長所だった。開戦時8,773挺の銃が部隊にあった。この銃の重大な欠陥は伸縮式コッキングレバーを持たなかったことで、これは多くの事故を導いた。この銃はこのときそのようなコッキングレバーを事後装備され、レシーバーに追加のフライス削り加工が入れられ、MP38/40と名付けられた。

 1940年夏、MP38においても金属薄板プレス技術への切り替えが行われ、今や重量たった3.7kgとなった銃はこのときMP40と名付けられた。この銃は後にさらにいくらか繊細さが取り除かれ、MP40/1の名を得た。弾道学的成績および寸法は異ならないか、本質的でない程度のみだった。

 (頑住吉注:原サイトではここにMP40の取扱説明書へのリンクがありますが、ほとんど文字だけです)

 MP38とMP40がロシアにおいて敏感すぎることが示された後、鹵獲マシーネンピストーレのPPD−40とPPSb−41が引っ張り出され、MP715(r)およびMP717(r)として部隊に引き継がれた。この銃にならってステアー社はMP40/11を製造した。この銃は64連ダブルマガジンを持っていた。しかしこの銃も複雑すぎたため、生産は開始されなかった。

 ハーネル社は輸出専用に想定された、全長860mmで木製ストック付きのMP41を製造した。この銃は重量4.4kgで長さ250mmのバレルを持ち、下から挿入されるマガジンは32発を収容した。この銃はMP28とMP40のコンビネーションだった。

 銃器工場ブルーノのチェコ製MP383はSSだけのために作られた。この重量5.4kgの銃は長さ325mmのバレルを持ち、ピストル弾薬08(頑住吉注:9mmパラベラム)が初速425m/sで発射された。30連マガジンは左からセットされた。発射速度は500発/分だったが、ボルトにあるウェイトを取り出すことによって700発/分に上げることができた。

 SS兵器アカデミーは同様にチェコ製のZK403をMP42としてSS用に導入することを試みた。この自身の選択でドラムマガジンあるいは棒状マガジンを装備できる銃は全長915mmだった。この銃は生産に移行しなかった。

 「Gerat Potsdam」(頑住吉注:「a」はウムラウト。「ポツダム器具」。ポツダムはドイツ北東部、ブランデンブルグ州の都市です。言うまでもなくこの名がつけられたのはポツダム宣言の前ですが、何故ポツダムなのかは説明がなく不明です)はイギリスのステンサブマシンガンのコピーだった。この銃は1944年終わりに登場し、主として国民突撃隊の部隊用と決められていた。この銃は全長787mm、空虚重量3kgで、32連棒状マガジンを持っていた。モーゼル社によるゲラートポツダムのいくらかモデファイされたバージョンはMP Neumunster 3008(頑住吉注:2つめの「u」はウムラウト)と名付けられた(頑住吉注: http://www.mek-schuetzen.de/Blueprints/volksmaschinenpistole_1.jpg )。Blohm & Voss(頑住吉注:「ブローム ウント フォス」。当時左右非対称の偵察機やら巨大飛行艇やらを作っていた変なメーカーで、意外と言っては失礼ですが船舶メーカーとして現存してます)社もステンコピーを製造したが、これは劣ったクオリティでストックにはピストルグリップが付属していた。

 同様にワルサー社は1944年12月にVolksmaschinenpistole(VMP)を発表した。しかしこれももはや生産に移行しなかった。EMP44はパイプ材から溶接して作った、かなり単純化された銃だった。この銃はエルマ社によって開発され、長さ250mmのバレルを持ち、全長は720mmだった。その重量は3.6kgで、マガジンとしてはMP40/11のダブルマガジンが使用された。これももはや製造開始されなかった。

 イタリアでは兵器局用にMP3S142が製造された。この銃は全長798mmで銃身長は210mmだった。重量は40連マガジン付きで4kgだった。この銃は木製ストックを装備し、バレルに冷却用の縦方向の冷却フィンを持っていた。初速は380m/sだった。

 1945年4月1日までの第二次大戦中に陸軍によって受け取られたマシーネンピストーレの生産数は次の通りである。

名称 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
MP28 1,850 1,650 - - - - -
MP38およびMP40 5,360 96,396 139,681 152,681 220,572 74,564 189
ベレッタ - - - - - 145,693 85,500

 つまり製造されたひっくるめて908,17挺のMP38および40のうち陸軍は戦争中に689,403挺手にした。陸軍兵器局を通じて次の量のMP38および40が他のナチ・ドイツ軍部分に供給された。

1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
空軍 - 18,500 96,400 64,300 9,973 6,244 -
海軍 - 1,400 3,750 12,500 3,766 2,081 -

 1944年6月以後兵器局からもはや他のナチ・ドイツ軍部分にマシーネンピストーレは渡されなかった。1945年3月、陸軍は独占的にベレッタの銃を持ち、これは252,046挺のサブマシンガンだった。そのうち6,023挺は武器庫にあった。言及されたロシア製銃器を除いてこれら全てのマシーネンピストーレはピストーレ08として知られる9mm弾薬を発射した。


 映画では非常に多くのドイツ兵がMP40を持っているイメージがあるんで個人的には意外な感じがしますが、「ライフル」の項目で示されている生産数と比較すると、この銃の生産数がピーク時でもKar98kの1/8以下でしかなかったのが分かります。また、1944年にはすでに明確に生産が縮小されているのも分かります。ベレッタ製サブマシンガンの数の多さにも意外な印象を受けます。1944年頃にはサブマシンガンはベレッタに任せ、ドイツ国内の生産はサブマシンガンからアサルトライフルに重点を移行したということでしょうか。









戻るボタン