いわゆる「Mayor」ピストル

 「Visier」2005年4月号の「スイス銃器マガジン」ページに、見慣れないベストポケットピストルのレポートが掲載されていました。外観はさほど変わっていない3機種で、1つの商品のファースト、セカンド、サードモデルだということです。


いわゆる「Mayor」ピストル

 パラベラム、SIG、スフィンクスピストルとならんで、スイスにおいて1つのさらなるピストルが製造された。だが、その低い普及度のためにほとんど知られないままである。(頑住吉注:この記事の)両執筆者、Jurg Siegenthaler(頑住吉注:「u」はウムラウト)とAlexander Stuckiはこの銃の研究において、興味深いディテールだけでなく、従来諸専門文献が挙げなかったモデルバリエーションにもぶつかった。
 今月号では、執筆者はまずこのピストルの歴史的背景を扱う。


イスのオートピストルが話題になると、人はまずSIG社の卓越したP210を思い浮かべる。銃器工場ベルンのパラベラムピストルと、当然今日コンバットシューターに愛用されているスフィンクス社の銃も知られている(頑住吉注:ここまではスイス人ならずとも、ここを読むような濃い日本のマニアでも知ってますわな)。出会うことが比較的稀なのは、Witold Chylevskyが設計したワンハンドピストルである。これは1919年から1921年までの間にニューハウゼンのSchweizerischen Industriegesellschaft(SIG)で生産された(頑住吉注:ここまで来ると少なくとも私は全然知りません)。Chylevskyはウィーンに住むポーランド人だった。彼の設計した銃は6.35mmブローニング仕様の小型ポケットピストルであり、トリガーフィンガーの助けによって、動くように作ったトリガーガードを使って装填ができた(この原理は他のピストルでも使われており、例えばドイツの会社リグノーゼおよびベルグマンのワンハンドピストルがそうである 頑住吉注: http://www.waffen-bellmann.de/low/ersatzteile/kurzwaffen/bilder/lignose.html )。Chylevskyのピストルは1000挺のみ作られ、特に技術的問題のせいで商業的に成功しなかったらしい。

スイスで開発され、製造された

 よりわずかしか知られていないのは(頑住吉注:「Chylevskyのピストル」すら全然知らず、検索しても中国の77式ピストルの説明で1件ヒットしただけ、画像はなしという結果なのに、これはもっとマイナーな銃だというわけです。ちなみにその77式関連のページはここです http://world.guns.ru/handguns/hg152-e.htm )、さらなるスイスの6.35mmブローニング弾薬仕様ポケットピストルである。いわゆる「Mayor」ピストルは、Chylevskyのピストルと違ってスイス国内で作られたというだけではなく、スイス人が設計した。この銃は1920年代に比較的少数が製造された、ストレートブローバックの小型ポケットピストルである。当時この種のピストルは無数のバリエーションで、さまざまな国で製造されていた。多くのこうした銃が構造および作動方式に関して非常に類似していた(しばしばFN1906をモデルにして 頑住吉注: http://littlegun.cineteck-fr.com/ma_collection/a%20be%20fn%201906%206.35%20gb.htm いわゆるブローニングベビーではなくコルトポケットと同型の銃ですね)一方で、Mayorピストルの設計者は独自の道を行った。その上この独自の構造は継続的に変更され、この結果我々は今日、3つの基本的に異なるモデルを見ることになる。外的寸法およびプロポーションは3つ全てのモデルにおいて似通っている。特異なのはグリップの配置である。グリップはずっと前方、銃の中央近くにあり、この結果ピストルの後部は明らかに目立ってグリップから後方に突き出ている。他のポケットピストルにこの種のプロポーションはほとんどない。これに関してある程度の類似性はベルギーの6.35mmポケットピストルJieffeco(頑住吉注: http://www.deactivated-guns.co.uk/detail/belg.htm )もしくはMeliorピストル(オールドモデル)にのみ見られる。この設計はいわゆるMayorピストルよりたっぷり10年古い。

3つの異なるモデル
 これら3つのモデルは外的にはスライドの構成によって一番よく区別できる。ファーストモデルはブリッジのある、上部がオープンなスライドを持つ。我々がいろいろなベレッタピストル、あるいはP38で知っているようにである。だからセパレートなエジェクションポートは必要なく、また実際存在しない。これに対しセカンドモデルのスライドは銃の全体の長さに達しておらず、チャンバー上にダイレクトに取りつけられている(頑住吉注:この説明はわけが分からんのですが、写真を見るとスライドが前4割、後6割くらいに2分割されているような感じで、真のスライドは後ろだけというスタイルです。閉鎖時にはあたかもエジェクションポートがないように見え、後半の真のスライドが後退すると開口する、要するにコルトウッズマンみたいな形式ですね)。発射の際その後座運動によって薬莢投げ出しのための開口が生じる。サードモデルは上部にエジェクションポートがある普通の「閉じた」スライドを持つ。同様にセーフティにも差がある。ファーストモデルが方向転換可能なセーフティレバーを持つ一方、両後継モデルは「かんぬき」を装備している(頑住吉注:トイガン独自のセーフティ、特に低価格商品にはよくありますが、実銃ではあまり見ない前後にスライドするセーフティです)。

 刻印も異なっている。我々の知る全ての銃に共通するのは、見やすく入れられたNyon出身の設計者Ernest Rochatの紋章だけである。すなわち、2重の縁取りを持つ菱形で、その中には1匹の魚があり、魚の上には「R」の文字(Rochatを意味する)、下には「N」の文字(Nyonを意味する)がある。この紋章は銃の左側、そしてグリップパネルに刻印されている。この刻印の変化は除いても3バージョンは特定できる。ファーストおよびセカンドバージョンには、魚のエンブレムとならんで銃の左面にしばしば「MAYOR AQUEBUSIER」の文字がある。さらにその右にはたいてい1つの小さなサークルが刻印されている。この意味を我々は知らない。両モデルには「MAYOR AQUEBUSIER」の文字がないものも知られている。明らかにこの文字はサードモデルでは完全に省略されている。その上セカンドおよびサードモデルは、さらにパテントナンバー(86863)およびそれに属する小さな「スイス十字」で特徴づけられている。このマーキングはセカンドモデルでは、銃の右にあるものも左にあるものもある。サードモデルでは、我々の知る全ての銃において銃の左側、魚の紋章の右に刻印されている。シリアルナンバーを除いて、このピストルには他の文字や試射マークはない。

 ファースト、セカンドモデルのグリップパネルはラッカー塗装された木製であり、ウォールナットらしい。このグリップはマガジン挿入穴の内側から、外からは見えない小さなネジで固定されている。これに対しサードモデルはマットブラックのグリップパネルを持ち、おそらくハードラバー製である。このグリップパネルは外側からそれぞれ2個のネジで止められている。このマテリアルはいくらか壊れやすく、特にネジの領域で裂ける傾向がある。全3モデルのグリップパネルはスムーズで、前述の刻印された設計者の魚の紋章を持つ。

 総合的にこの銃は非常に頑丈な印象を与え、質の高い加工が目立っている。工具跡はほとんど見られない。パーツのはめあいはタイトであり、使用者がこのピストルを揺すぶってもカタカタしたりはしない。表面加工も良好なクオリティである。ファースト、セカンドモデルのブルーイングはマットブルーブラックに見え、たいていの同時代のポケットピストルと一致している。サードモデルのブルーイングはより光沢がなく、なめらかさに欠け、いくらか白っぽい印象である。ネジは全3モデルにおいてブルーに焼きなまされている。技術的観点、特に3モデルの構造上の違いについては、記事の第2回で詳しく扱う。

従来の知識水準
 参考文献の中におけるいわゆるMayorピストルに関する説明は、断片的にのみ見られる(J.Howard Mathews著「Firearms Identification Volume 1」第2版、スプリングフィールドにおいて1973年刊、241ページ、およびAlexander B.Zhuk著「Revolver und Pistolen」、Schwabisch Hallにおいて1996年刊、244ページ、そしてIan J.Hogg、John Weeks著、「Pistols of the World」、ロンドンにおいて1978年刊行、166ページおよび次ページ参照)。その記述は程度の差はあれ似たような内容である。しかしこれらは非常に不完全で不備のあるものだと分かっている。例えばこれらの参考文献では一致して2つの異なるモデルしか扱われていない。最新のサードモデルは我々が知る限り今日まで言及されないままである。たいていの出版物は、Mathewsによる有名な基本文献の中の比較的詳しいレポートを根拠にしているらしい。この本は1950年代の遅い時期に、Ernest Mayorにコンタクトまで取って書かれたものらしく、その叙述の内容に特別な重さを与えている。前述の参考文献は以下の記述に依拠していることが分かる。

 このピストルはNyon出身のErnest Rochatの設計であり、彼は対応するパテント(1919年から。No.86863)の持ち主でもあった。彼はピストルを自分で製造し、このためふさわしいビジネスパートナーを探していた。だから彼は1917年または1918年、すでにジュネーブとローザンヌで働いていたErnestとFrancoisのMayor兄弟と会談した。彼らはFrancois Mayorがこのピストルをローザンヌの自分の工場で製造し、一方彼の兄弟Ernestがマーケティングを担当することで意見が一致したらしい。だからこの銃は設計者の紋章とならんで、両兄弟の名前のマーキングもされている(「MAYOR AQUEBUSIER」)。(頑住吉注:明記されていないので非常に分かりにくいですが、ここまでが「以下の記述」の内容らしいです)

 このピストルは大きな成功はしなかったようだ。参考文献では、比較的少数のみが製造されたということで一致している。HoggおよびWeeksは、製造は20年代のうちに終了し、総生産数は1000挺よりずっと少ないと見積もられるとしている。この両著者はこれに関し、彼らの知るピストルのシリアルナンバーを根拠としたようだ。このやり方は全く普通ではあるが、証明されている通り特別に信頼の置ける方法でないのも確かである。

 Rochatが設計した銃は、参考文献の中では今日まで統一的にMayorピストルと呼ばれている。これが基準となったことに貢献したのも、おそらくMathewsの表現である。「Mayorの名前は、このピストルの知られている全ての個体に現われるので、この場合これが正確な名称なのだろう。」(J.Howard Mathews著「Firearms Identification Volume 1」第2版、スプリングフィールドにおいて1973年刊、242ページ参照)。この参考文献の記述を短く要約するならば、次のようになる。「このピストルは1919年以前にErnest Rochatによって設計され、引き続いてErnestとFrancoisのMayor兄弟によって製造され、販売された」。

さらに続く研究
 さらに続く研究は、この見方を一部のみ証明する。前述の参考文献は、不完全な、そして一部間違ってもいるイメージを与える。我々はまず最初にもう一度Mayorファミリーを扱う。Mathewsは前述のFrancoisとErnestの両兄弟に言及した。だが我々は、Hugo Schneiderの権威ある著作(Hugo Schneider著、「スイスの銃器メーカー 15〜20世紀」1976年チューリッヒで刊行、186ページ)の中に、Mayorの名を持つ、20世紀前半に活動していた合計7つの銃器メーカーを見つける。この中で少なくとも6つは互いに親戚関係であったと見られる。ErnestとFrancoisの名は2回登場する。その際それぞれは父と息子である。SchneiderとMathewsの記述が正しかった場合、そこから次のイメージが結果として生じる。すなわち、Mathewsが言及した兄弟はFrancoisが若く、Ernestが年長であった。年長の方のFrancoisは両者の父であり、同時に若い方のErnestの祖父であった。Francois父子はローザンヌで働き、一方父と後の息子Ernestは、Mayor社の支店をジュネーブで経営していた。2人のさらなる家族(おそらくやはり年長の方のErnestおよび若い方のFrancoisと兄弟)は、BleiとMontreuxで銃器メーカーとして働き、ファミリー企業のその地の支店を経営していた。その上、さらに一定数の支店がスイスに存在したと見られる。今日、ジュネーブにのみこの店がまだ存在している(Ernest Mayor SA 住所rue de la Corraterie 18 1204 Geneve  頑住吉注: http://www.sphinx-systems.ch/Pages/Distributeurs/Suisse.htm ここを見ると、確かにスフィンクス社の「スイスにおけるディーラー」のリストにこの店があります)。

「Pistolet Automatique R.N.」 Rochatピストル
 Rochatが1917年または1918年にFrancoisとErnestのMayor兄弟と手を組んだとき、彼らはまだ比較的若かったと思われる。Schneiderの記述がその根拠になる。すなわち、当時Francois Mayorの父がこの企業を率いていた。明らかに、このファミリー企業MayorはRochatの設計によるピストルの販売を引き継いでいた。我々の手元には1冊の宣伝パンフレットがある。これの中でMayor社はこのポケットピストルのファーストモデルを宣伝し、その上これが独占販売であることを強調している。パンフレットにはさらに、この銃がスイス国内で製造されているとある。それに対しMayor社で製造されているという説明はない。Mayorがこの銃を独占販売する権利を手にしていたという事情は、「MAYOR AQUEBUSIER」の刻印のみですでに説明されている。当時、銃を外部で製造させ、続いてこれを自分の名前で供給するというのは全く普通のことだった。例えば、我々の手元にはベルギーで製造されたリボルバーがある。このフレームブリッジ(頑住吉注:たぶんフレームの、シリンダーの上を通っている部分でしょう)上には「F.Mayor Fils Lausanne」の刻印がある。この銃はスイスの7.5mmリボルバー弾薬1882年型仕様である。ジュネーブのErnest Mayorはベルギーの銃器メーカーAuguste Francotteにハンティングライフルも製造させ、続いてそれを自分の名前で市場に出していた。その上、ドイツでもスポーツピストルが製造され、この銃には現地のメーカーによってすでに「Maison Mayor」の刻印が入れられていた。その種の例はたぶんまだいくつか見つけられるだろう。だが、6.35mmポケットピストルに関しては、Mayorがこの銃を当時Mayorピストルとしてではなく、「Pistolet Automatique R−N」として、別の言葉で言えばRochatピストルとして提供していたことが確認されている(「R−N」とはRochat−Nyonを意味する)。このことは前述のMayor社の宣伝パンフレットおよびモデル2用の短い取扱説明書から推論される。だから、コレクターたちの間で、そして専門文献の中でも普通であるMayorピストルという名称は訂正されるべきである。すなわち、この銃は「オートマチックピストルR−N」、もしくはRochatピストルと見なされる。だがこの名称を、(頑住吉注:Rochatが)この銃の生みの親であり、そして明らかに当時すでに普通の名称であったことにのみ基いて強いるのではない。というよりはむしろ、Mathewsによって挙げられたMayorピストルという名称のための根拠付け(「Mayorの名前は、このピストルの知られている全ての個体に現われるので、この場合これが正確な名称なのだろう。」)が無効になったからでもある。我々の知るRochatピストルの中で、半分以下しかMayorの刻印を持たない。確かにここにある我々のデータベースも非常に控えめなものではあるが、Mathewsはその記述の際、非常に少数の銃を根拠としていたと思われる。その上、何挺かのRochatピストルにMayorの刻印がないことは、次のような疑問を投げかける。すなわち、この銃の販売は本当に前述の宣伝パンフレットで主張されているようにErnest Mayorによって独占的に行われたのかということである。特に遅い時期のRochatピストルがMayor社の刻印を持ったということには根拠がない。他の取り扱い商も、Rochatピストルを彼らの品揃えに導入していたということは充分ありうることである。だが、この仮説の証拠となるもの、例えばさらなる会社名を持ったRochatピストルは、現在まで提出されていない。

1または2のメーカー
 「MAYOR AQUEBUSIER」の刻印は、メーカーに関する1つの説明でもありうる。前述のようにMathewsはこれに関し、Francois Mayorがこのピストルを彼の工場で製造していたと指摘している。それに対し、ジュネーブのErnest Mayor SA社(頑住吉注:前述の、このグループの現存する唯一の生き残りである銃砲店)は我々に、この企業は銃を決して製造していなかったと説明している。だが、この発言はジュネーブの支店にのみ関するものかもしれない。前述の宣伝パンフレットの中で自分での生産に関する説明がないことも、RochatピストルがMayor社によって生産されたという我々の考えに原則に関わる反対を提示しない。特に情報源(MathewsはErnest Mayorから直接聞いた発言を根拠としたらしい)に基き、我々にはMathewsの描写は信用できるものであると思われる。我々は、RochatピストルがローザンヌにおいてMayorによって製造されたと結論する。だが、全ての生産物にあてはまるかどうかは疑わしい。「MAYOR AQUEBUSIER」の刻印が遅い時期のピストルに欠けていることは、ある新しいメーカーの存在のヒントである可能性もある。その上我々の手元には、Nyon所在のA.Rochatによる製造を示唆するセカンドモデル用の取扱説明書がある(「Fabrique suisse d’Armes,A.ROCHAT,NYON(Suiss)との記述」)。このため、このピストルが遅い時期にはRochatファミリー自身によって製造された可能性が存在する。これはモデル2(一部)およびモデル3に関わることである。Schneiderによれば、NyonにいたErnest Rochatは1927になって初めて自分の店を持った(Hugo Schneider著、「スイスの銃器メーカー 15〜20世紀」1976年チューリッヒで刊行、228ページ」)。これにより、Rochatピストルが、Rochat自身の生産が可能になるまでに限ってMayorで生産された、という仮説は完全に納得がいく。しかしこれは我々がさらなる証明を行うことのできない推測に過ぎない。その上混乱しているのは、前述の取扱説明書におけるメーカーの、A.Rochatに関する、そしてそれによってErnest Rochatとは関連しない申し立てがあるという事情である。設計者(頑住吉注:Ernest Rochat)とA.Rochatの関係は不明のままである。すでに販売の事情が不明であったのと同様、Rochatピストルの生産の事情もまだいくらか闇の中である。

1500挺より少ない-Rochatピストルは珍品である
 Rochatは彼の本来の構造を継続的に発展改良したことが明らかである。このことは設計者とメーカーにとっての発明の楽しさを物語っているが、ビジネスの有能さは物語っていない。わずか何百挺ごとに製造をニューモデルに切り替えたことは、経済的に非常に良くはなかっただろう。前述のように、我々は調査においてまだ知らなかった第3のモデルにぶつかった。これは我々の知る限り参考文献の中で従来ここ以外まだどこでも言及あるいは図示されていない。だからといってこのピストルが両既知のモデルよりレアであるのかは未解決のままにしなくてはならない。ともかく我々はいくらかの幸運をもって同じようないくつもの個体をようやく見つけ出すことができた。このモデルが今日まで参考文献に登場しなかったのは、むしろ偶然であるらしい。我々が知っているサードモデルの全てのRochatピストルは、シリアルナンバーが1000と1200の間である。それぞれのモデルにおいてどのくらい多くの個体が製造されたのかは、乏しいデータベースに基いて判断するのは困難である。ひっくるめて我々はシリアルナンバー42から1198までの11挺の銃を知っている。3つのモデルは同じシリアルナンバー領域内にあるように思われる(頑住吉注:それぞれのモデルのシリアルナンバーが1から始まっているのではなく、続いているということです)。ファーストモデルの場合我々の知るナンバーは42から207までの間にある。セカンドモデルは510と633の間であり、サードモデルは1023と1198の間である。おそらくひっくるめて1500挺より少ないRochatピストルが製造されたと思われるが、しかしひょっとすると総生産数はそれよりさらにずっと少ないかもしれない。銃器メーカーが全てのナンバー領域を使用せずに飛ばすことは当時異例なことではなかった。一方では高いシリアルナンバーによってより大きな販売を装うことができ、他方ではニューモデル導入の際、端数のない数字から始めれば分かりやすいという事情もあった。基本的には、手元にある情報からは生産数に関して確実なことは言えない。1モデルの相対的頻度の評価も、データベースが乏しいため不確実である。だが、我々がファーストおよびサードモデルをセカンドモデルより約倍多く把握できていることが目立つ。このことから、セカンドモデルが他2モデルよりずっと少数生産されたことが推測される。だがこれはひっくるめて11の個体が知られている状態では許容範囲内とはほとんど言えない。

結論
 要するに次のようにまとめられる。いわゆるMayorピストルは正しくはRochatピストル、もしくは「Pistolet Automatique R.N.」と呼ばれる。
 この銃はErnest Rochatによって開発され、1919年にパテントが取得された。続いてローザンヌのMayorによって生産が開始されたらしい。後に生産はRochatもしくは設計者の親戚(A.Rochat)によって引き継がれたのかもしれない。Ernest Rochatは彼の構造を継続的に変更し、この結果そのつどわずか何百挺の個体の後、ニューモデルが市場に登場した。生産は1920年代の終わりに、サードモデルをもって停止されたらしい。おおざっぱに見積もって1000から1500より多くないRochatピストルが生産されたらしい。

 生産とならんで、ファミリー企業であるMayorはRochatピストルの販売とマーケティングにも取り組んだ。ローザンヌのF.Mayor Fils社はスイスのいろいろな町における代理店を持ち、この銃の販売を独占的に引き受けていた。Rochatピストルの販売は他のルートを通じても行われたかもしれない。

 この銃が商業的に成功したか否かは、少ない生産数と比較的コストのかかる製造に基き、どちらかといえば疑わしい。いずれの場合もRochatピストルはレアで興味深いコレクターズアイテムである。結局のところ、スイス国内で開発、製造されたオートピストルはわずかしか存在しないのである。


 恐ろしく無味乾燥な、史学論文のような記事です。たぶん多くのスイス人が二式拳銃に関する詳細な記述を読んだら同じように思うと推測されますが、スイス人以外には「こんなマイナーな銃にここまでこだわることないんじゃないの?」と思われそうです。実は私もちょっとそう思いました(笑)。難解な長文をえらい時間をかけて苦労して読んだわけですが、今回は銃をめぐる背景であり、次回銃自体の説明でこの銃が銃器発達史上いささかでも注目すべき価値のあるものだと分かったらその時点で初めて意味を持つという感じです。これで中身がたいしたことなかったら脱力しますよ。

 しかしちょっと不安なのは、「特異なのはグリップの配置である。グリップはずっと前方、銃の中央近くにあり、この結果ピストルの後部は明らかに目立ってグリップから後方に突き出ている。他のポケットピストルにこの種のプロポーションはほとんどない。」という記述です。皆さんの多くは写真を見ていないんでこのたいそうな表現からどんな凄い特徴かと思うでしょうが、はっきり言えばただ単に「ちょっとケツが長い」というだけのことです。外観は普通でも例えばせめて浜田式くらいのオリジナリティーを期待したいところですがどうでしょうか。もしなるほど面白い特徴があると思ったらイラストで説明しようと思いますが、とりあえず今回はパスしておきます。







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