中国初のジェット戦闘機

 歴史秘話ものの記事です。中華民国のCXP-1001は実際に作られませんでしたし、当然ミグー15だろうと思いましたが違いました。

http://military.china.com/history4/62/20140530/18534856_3.html

 ここを見て翻訳したんですが現在表示されません。基本的にこれに沿って紹介しますが、ページの区切りとかどれがキャプションなのかとかはっきり分からなくなってます。

http://zjsj.tgbus.com/sxzhanji/204771.shtml

 ここにほぼ同じ内容の記事があり、画像もあります。


中国が最初に導入したジェット戦闘機:ソ連が研究開発したミグー9戦闘機

ミグー9(Mig-9)はソ連が戦後研究開発した最初のジェット戦闘機の1つで、ミコヤン設計局によって研究開発され、コピー生産されたドイツのBMW003ジェットエンジン(ソ連のコードナンバーはRD-20、1台あたりの静推力は800kg)を採用していた。Mig-9の空力レイアウトは旧式なピストンエンジン機に似ており、ジェットエンジンは機体前下部に置かれ、前三点式の脚で、主翼は直線翼の中翼単葉で、機首に3門の機関砲が装備され、砲身は機体外部に伸びていた。1946年3月に原型機が工場を出、4月24日に初飛行に成功し、ソ連最初のジェット戦闘機となった。ジェット戦闘機としてMig-9は決して成功ではなかったが、全部で約1,000機生産された。就役期間は長くなく、1952年にMig-15が就役するとすぐ退役した。

技術パラメータ

外形寸法:9.75(全長)x10(全幅)x2.59(全高)m

主翼面積:18.3平方m

空虚重量:3,540kg

最大離陸重量:5,501kg

最大水平飛行速度:時速910km(マッハ0.8)

実用上昇限度:12,800m

航続距離:1,100km

エンジン:2台のРД-20型ジェットエンジン(ソ連がコピー生産したBMW-003エンジン)、1台あたりの静推力800kg。

武器システム:37mm航空機関砲1門(弾薬40発)、23mm機関砲2門(弾薬各80発)。

研究開発の背景および過程

ソ連がドイツのMe262あるいはHe162ジェット機を直接コピー生産したか否かの問題では論争が発生した。この時ソ連軍はすでに相当な数のドイツ機とエンジンの完成品と部品を鹵獲しており、一定数の飛行機を組み立てることができ、鹵獲した技術資料と工業装備もコピー生産を開始するのに充分だった。だが、このようにしたのではソ連自らの設計を扼殺することになる。最終的に、ヤコブレフなどの人の頑張りの下に、自ら研究開発することが決定された。面子の問題の他、もう1つ実際の問題があった。すなわち、ドイツの設計の技術的要求は高過ぎ、ドイツの予備部品が消耗され尽くした後、ソ連の技術水準では自ら大量生産するには不足で、コピー生産しても品質が保証し難かったのである。ソ連が自ら研究開発したジェットエンジンは進度の上で間に合わなかったので、上層部はまず鹵獲したドイツのJumoあるいはBMWジェットエンジンを用い、しかる後に方法を講じてイギリスから「ニーン」および「ダーウェント」エンジンを輸入し、1940年代末あるいは1950年代初めにソ連自らのジェットエンジンに移行することを決定した。上層部は同時に、ミコヤンとスホーイにBMW-003(ソ連のコードネームRD-20)を用いて双発戦闘機に集中させ、ヤコブレフとラボーチキンにはJumo-004(ソ連のコードネームRD-10)を用いて単発戦闘機に集中させる決定をした。

ミコヤンの当初の方案はMe262そっくりで、これは当時のジェット戦闘機の主流レイアウトでもあった。だがこのレイアウトの前面面積は大きく、抵抗は大きく、重いエンジンが機の軸線から遠く離れ、横転時の回転運動の慣性重量が大きく、機動性が良くなく、片発停止後の偏向モメントも大きかった。風洞実験は、エンジンの推力が限られているという状況下で、このようなジェット戦闘機の速度上のポテンシャルは大きくないということを示した(頑住吉注:当初のジェットエンジンは寿命が短く、信頼性が低かったので翼に独立して吊り下げる方式の方が整備や交換に便利だったという理由もあるようです)。

まずジェット戦闘機を戦場に投入したドイツは当然この問題にも注意していた。第二次大戦後期、ドイツの秘密兵器が盛んに作られていた期間、Fw190戦闘機の設計で有名なクルト タンクはTa183ジェット戦闘機を設計し、機体内のエンジン、機首からの空気取り入れというレイアウトを採用し、空力設計上Me262の非常に多くの問題を解決した。機首からの空気取り入れの他、Ta183はさらに先進的な後退翼を採用していた(頑住吉注:Me262も後退翼ですが後退翼の効果を意識した設計ではなかったとされてますね)。ミグと当時のソ連のその他の第1世代ジェット戦闘機が機首からの空気取り入れを採用したのはドイツの影響を受けてのことか否かに関しては、東西両サイドにずっと論争が存在する。ソ連はTa183のサンプル機と大量の技術資料を鹵獲したが、クルト タンクと彼の部下は全員米英軍の占領区に逃げ、西側連合国に投降した。同音異曲だろうと完全な真似だろうと、一般に戦後初期の東西サイドの非常に多くのジェット戦闘機はTa183の影響を受けていると考えられている。これには多種のミグ戦闘機、アメリカのF-84「サンダージェット」、F-86「セイバー」、フランスの「ウーラガン」、「ミステール」などが含まれる。これらの飛行機の中でのそれぞれの具体的な技術の実現はいずれもTa-183とでは非常に大きな差異があるのではあるが。

1945年夏、ミコヤンはためらいなく翼下の双発レイアウトの中止を命令し、機首から空気取り入れを行う機体内部双発を採用した。つまり、2台のエンジンは並列で前部機体内に装備されるのである。エンジンを前に置いた機首からの空気取り入れは見たところ太っちょで不格好だが、風洞実験はこの新たなレイアウトの抵抗が非常に大きく減少していることを示した。新型機はI-300と呼ばれ、ミグー9とも呼ばれた。1946年4月24日、ミグの最初のミグー9がモスクワ郊外のチェカロフスカヤ飛行場に牽引して運ばれ、試験飛行が準備された。この時ヤコブレフのYak-15も準備が整っており、やはり試験飛行しようとしていた。ミコヤンとヤコブレフは最終的にコイントスをしてどちらが先に試験飛行するかを決めた。ミコヤンが勝ち、すぐに試験飛行員がミグー9を操縦して離陸し、20分間の試験飛行を行った。これはソ連初のジェット式による飛行だった。何時間か後、Yak-15も離陸して試験飛行に成功した。

エンジンを機体前部に置いたのは、あるいはミグー3以来ずっとの習慣から出たことかもしれないが、エンジンを前寄りにすることは重心も前寄りにさせ、俯仰安定性に有利だった。だがこのようにすると機体後部をエンジンの噴流の中に暴露させることになる。ミコヤンには当初この問題の深刻さに対する認識は決してなかった。地上エンジン試運転の時、エンジンが噴出する灼熱の噴流はすぐにアスファルトの地面を焼き溶かし、このことはミグの機体後部の放熱の問題に対する注意を引き起こした。機の尾部が灼熱の噴流によって損壊されないように保護するため、ミグはミグー9の機体尾部下半分に防熱鋼板を追加装備した。試験飛行中、ミグー9は非常に強い機首上げの傾向を持ち、押さえつけても下がらず、かつ深刻な振動が発生した。試験飛行員Glinticは機の性能に対し大いに満足したが、振動に言及するとGlinticは半分冗談で、目玉が揺すぶられたグラグラが止まらず、夜になってやっと止まった、と言った。研究は、防熱鋼板自体の重量はこのように深刻な機首上げ効果を生むには不足だが、ベンチュリー効果の作用により、高速の噴流が実際上機体の尾部の下に不安定な低圧区を形成しており、機体の尾部のマイナス揚力と振動をもたらしている、ということを示した。鋼板に穴を開けると問題は非常に大きく緩和したが、多くの穴を開けた鋼板と機体尾部構造の熱を受けての膨張率が異なることは、深刻な引き延ばしとねじ曲げをもたらした。環境空気取り入れによる冷却は熱を受けての膨張の問題を解決したが、不安定な低圧区の問題がまた戻ってきた。最終的には反復しての試験を経て、特殊な形状の多くの穴を開けた防熱鋼板を用い、やっとこの問題が解決された。

生産への投入の過程

軍と航空工業省の指導者に成果を見せるため、ミグー9はある内部での飛行デモンストレーションに参加した。まず1機の鹵獲されたドイツのHe162が離陸し、続けてGlinticが操縦するミグー9が離陸した。だが、200mの低空で主賓席を通過する時、ミグー9のエルロンの1つが損壊、離脱し、機は瞬く間にロールし、真っ逆さまに墜落し、Glinticはその場で犠牲となった。Glinticは出色の飛行員だっただけでなく、優秀な技術者でもあり、自らの技術的知識を用いて設計師たちを助けて正確に問題を説明し、問題を探し出すことに長けていた。Glinticの犠牲はミグにとって特別に大きな打撃だった。

Glinticが犠牲になった後、ミグー9の試験飛行はさらに継続して行う必要があった。試験飛行員たちはGlinticの筆記を仔細に研究し、ミグー9の一切の技術的ディテールをしっかり覚え、大胆にして細心な1回1回の試験飛行の中で、ついにミグー9を飛行させた。試験飛行中、3号機は深刻な方向安定性の問題を見せたが、2号機にはこの問題はなかった。仔細な分析の結果は、両者の製造公差上の差異によるもの、というものだった。このことは人々の注意を呼び覚ました。ジェット時代の製造に関する要求は、プロペラ時代とではすでに同列に語れないのだ、と。

1946年8月18日のソ連空軍記念日の時、スターリンと多くの高官はモスクワ郊外のトゥシノ航空展でミグー9とYak-15のデモンストレーションを視察した。スターリンは非常に満足し、同年の10月革命記念日の閲兵の時、両社それぞれ10〜15機の飛行機を出して編隊飛行するよう命令を下した。スターリンの有り難いお言葉がひとたび発せられるや、ミコヤンとヤコブレフは悲惨な状態に陥った。ミグー9とYak-15は単なる手工業で製造された原型機で、大量生産の程度にはほど遠く、少量生産すらダメだったのである。ミグは臨時に6万枚の図面を寄せ集め、実験工場内で死にものぐるいで突貫工事し、規定の数を何とか作り上げた。だが飛行機だけあってもダメで、さらに飛行員がいなくてはならない。結果として各大規模設計局と空軍の精鋭中隊から緊急に試験飛行員と優秀な飛行員を抽出し、集中的に強化訓練した。ミコヤン自らもほとんど倒れそうで、夫人によってクリミアに療養に送られたが、やはり心臓病が突発し、幸いなことに2ヶ月休息した後大体回復した。このようにしてかろうじてできるようになった閲兵は最後の時になって天候が原因で中止された。皆は運がいいのか悪いのか分からなかった。。

だが1946年はソ連航空工業にとって良い年ではなかった。戦争は終わり、軍から民に転じるのは意外に困難で、いくつかの設計チームは解散するはめになった。スターリンは1947年5月1日の閲兵で、ミグとヤクがそれぞれ50機のジェット戦闘機を出動させて閲兵に参加するよう再度命令した。この命令は言うのは簡単だが実現は困難で、Yak-15の滞空時間は30分しかなく、ならばこんなに多くの飛行機が空中で編隊を完成させるには、すでに実に多くの時間を用いてしまっていることになる。最終的に閲兵の任務はやっとのことで完成された。

閲兵の他、ミグー9はさらに非常に多くの実際の意義のある試験を行った。このうち最も重要だったのは空中射撃試験だった。戦時にミグー3に機銃火力しかなく、攻撃力が不足したという問題を解決するため、ミグー9は37mm機関砲1門と23mm機関砲2門を配備し、甚だしきに至っては57mm砲を試験したが、後座力が大きすぎて放棄した。試験は、ミグー9の空中射撃の時にエンジン停止がもたらされる可能性があることを示した。この問題は以前には予測していないものだった。さらに悪いことに、この問題は地上架台試験では起こらず、空中の反復試験の時も、ある時は起こり、ある時は起こらなかった。最終的に原因は砲口煙に帰せられた。本来プロペラ時代の航空機関砲の取り付け位置はプロペラの非常に大きな影響を受けた。やっとのことでプロペラをなくし、ミグー9の1門の37mm航空機関砲は本来はまさに2台のエンジンの空気取り入れ口の間の「鼻中隔」(頑住吉注:日本語で何というのか知りませんが左右の鼻の穴の間の隔壁部分ですね)に置かれていた。もう2門の23mm砲は下方両側に配置されていたが、こうすると37mm砲の砲口煙がちょうどエンジンに流れ込み、エンジンの正常な作動に危険を及ぼした。最終的に中間の37mm砲をやめ、2門の23mm砲を追加するしかなく、4門の23mm砲は2門ずつ両側に配置された。

1947年10月、ラボーチキンのLa-11も研究開発に成功した。これはソ連最後のピストンエンジンプロペラ戦闘機で、あらゆる戦時の経験を凝縮し、最高峰と称するに堪えた。生産への投入直前、スターリンはラボーチキンを招き、自分は一体La-11を生産に投入すべきなのか、それともミグー9なのかを質問した。ラボーチキンはスターリンに、もし今日すぐに戦争をするのならLa-11を生産に投入し、すぐに戦闘力を形成すべきであり、もし戦争がしばらくは勃発しないのならば、ミグー9が未来を代表している、と教えた。ラボーチキンの率直で誠意のある言葉は正解で、スターリンは結果的にLa-11とミグー9を同時に生産に投入した。

ミグー9は速度が速く、上昇限度が高かったが、初期のジェット戦闘機の一切の欠点全てを持っており、出動性、信頼性、機動性が全て大いに問題になった。だがミグー9はジェット時代の非常に多くの空力、操作コントロール、設計、製造上の特徴を見せており、ソ連航空工業のマイルストーンである。

主要な改良型 (頑住吉注:この部分は何故か上に示したページのうち後者の方が内容が多いのでそちらを紹介します。)

ミグー9M(I-308あるいはFPプロジェクト)戦闘機

ミグー9Mはミグー9の改良型で、ミグー9に比べるとミグー9Mには各方面に比較的大きな改良がある。2台のRD-21ジェットエンジンに換装され、1台あたりの推力が9800キロニュートンに到達し、RD-20に比べ20%アップし、空力外形が最適化され、コックピットの位置が前に移り、飛行員の下方の視野が改善された。コックピットには与圧措置が採用され、かつ飛行員のために射出座席が提供された。減速板も追加された。機首の37mm砲が機体左側に移され、2門の23mm機関砲は機体右側に装備され、かつ機関砲が全部機体内に埋め込まれた。またミグー9Mはさらに燃料系統が改良された。

1948年2月22日、試験飛行員チェノボロフはミグー9Mを操縦して初飛行に成功した。この後の工場によるテストは、ミグー9Mの最大速度はミグー9に比べ55km/h向上しており、かつ5,000mまで上昇するのに用いる時間は1分36秒減少していることを示し、しかも一連の射撃試験中ミグー9Mは二度とエンジン停止事故を発生させたことはなかった。1948年4月26日、ミグー9Mはソ連空軍試験飛行院に引き渡されて正式な試験が行われた。試験全体は8月末までずっと続いたが、この時新世代ジェット戦闘機ミグー15がすでに出現しており、ミグー9Mは暗然と退場するしかなかった。

ミグー9UTI(I-301T FTプロジェクト)練習機

ミグー9の機体に教官の座席を追加装備し、1号機体内タンクを廃止し、かつ2号機体内タンクの容量を33%増加させた。

ミグー9П

簡易レーダーを追加装備した全天候迎撃型

中国のミグー9

中国空軍のミグー9は朝鮮戦争の時期にソ連から輸入され、1951年5月に毛沢東は中国人民解放軍総参謀長徐問前に、政府の兵器工業代表団を率いてソ連を秘密訪問し、武器買い入れの問題を協議するよう命令した。5月22日と26日、スターリンは2回毛沢東に電話し、次のように指摘した。過去ソ連は中国向けにより多くのミグー15機を提供できず、かつミグー9機はアメリカの最も良いジェット式戦闘機に対抗できると見積もっていたが、今見るとこれは誤りであり、この誤りの責任はソ連によって負われるべきである。この誤りを正す行動として、ソ連は中国に向け無償で372機のミグー15戦闘機を提供し(輸送費だけ受け取った)、6個ミグー9戦闘機師団の装備変更に用いた。すなわち中国が元々ソ連が提供を準備していたミグー9をそのまま買い取ることを希望したのである。中国サイドはこれらの機がまだ訓練用にできることを考慮し、さらに双方の友好関係に配慮し、やはり同時に買い取った。


 左右の空気取り入れ口の隔壁からにょっきり37mm砲身が突き出したデザインはかなりインパクトありますね。技術的問題の克服の過程や、設計者、試験飛行員、スターリンらの生々しいエピソードもなかなか興味深かったです。中国での運用で問題点があったのかどうかなどに関する記述がもう少し欲しかったところですが。












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