零戦

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Mitsubishi A6M
フリー百科事典であるWikipediaより

 Mitsubishi A6M Rei Shiki Sento Ki(「タイプ ゼロ 戦闘機」。日本の時代計算で就役年が2600年であることによる。Rei-senと略される)は日本の艦上戦闘機であり、第二次大戦中に帝国海軍によって使用された。

 初飛行は1939年4月1日に行われ、合計生産数は10,611機である。A6M1からA6M8までの8つのプランニングステップがある。A6M4は実現されず、A6Mの設計者であるJiro Horikoshiの忘備録からターボチャージャーエンジン付きバリエーションのために取って置かれたことが分かる。

 このZero(nullの英語)とも呼ばれる戦闘機の初の実戦使用は生産許可が出る前に早くも行われた。15機のプロトタイプが1940年半ば、中国の目標に向けた攻撃のために使用された時にである。これが成功したので1940年7月、すぐに生産が開始された。

 A6M(連合軍側のコードネームはZeke。角張った主翼を持つA6M3はHamp)は妥協なしに飛行成績のために設計された戦闘機だった。A6Mがたいていの連合軍戦闘機よりも明らかに運動性がいいことを証明していたにもかかわらず、A6Mはこの観点からすると帝国海軍の見方ではMitsubishi A5M(頑住吉注:96艦戦)と比較しての退歩だった。これはより良い飛行成績、特に長い航続距離によってのみ正当化された(頑住吉注:ちなみに「航続距離」と訳した語は「Reichweite」で、これは銃などの射程距離と同じ語です)。

 最もモダンなテクノロジーと素材、翼と胴体中央部を貫通した桁を持ち重い分割位置のない一体で作る製法により、ただし装甲とセルフシーリング燃料タンクの断念にもよって、海軍の高い要求が充足された。

 中国に投入されていたアメリカ人ボランティアグループの司令官であるClaire Chennault(頑住吉注:シェンノート)がA6Mの強さをアメリカ参戦前にすでに理解し、文書化していたにもかかわらず、太平洋戦争におけるアメリカ人たちはまず最初A6Mの性能に驚かされ、重い損失をなすすべもなく受け入れねばならなかった。

 (最初にはアメリカ海軍のパイロットたちによって)相互支援によって性能上の劣勢を埋め合わせることを可能にするために編隊を組んでの空戦に重点を置くという改良された戦術が開発されることによって、初めてA6Mの優勢は打ち破られた。パイロットおよびタンクのための防護に関する不足が重大であるということが明らかになり、そしてA6Mの軽量な構造方式および低速時の戦闘に意味を持つその設計は、高速時(特に急降下において)に連合軍航空機に有利さを与えた。Zeroの素材が張られた補助翼は高すぎる速度の際にもはやほとんど機能しなかった。

 しかしこうした有利さの程度は、アリューシャンに機体の損傷を伴う不時着をしたA6Mが収容され、修理され、事後に飛行したときになって初めて完全に分かった。

 A6Mのより遅い時期の諸バージョンは、特に日本の高性能ピストンエンジンの欠如によって連合軍機の性能に後れを取った。1944年、A6Mはもはやほとんど競争力がなく、多数がKamikaze攻撃(Shimpu Tokkotai)に投入された。
(頑住吉注:以下テクニカルデータ等は省略)


 さすが「Wikipedia」といいますか、日本語版に比べればはるかに情報量が少ないですが、その内容はかなり正確のようですし、論調も現在の日本におけるそれとあまりずれていないようです。零戦が当時としては進んだ技術で作られ、開戦当初非常な強さを発揮したことは事実であり、この点は正しく評価されていると思います。
 「BATTLEFIELD 1942 WEAPONS」ではヘルキャットやコルセアが登場して初めて優位が逆転したように書かれていましたが、ドイツ語版「Wikipedia」では海軍戦闘機が編隊戦闘を導入することによって優位が逆転したという記述になっています。これは後者の方が正しく、ヘルキャットやコルセアの登場以前、ワイルドキャットによる編隊戦闘によってすでに零戦に対し優位に立ち始めていたというのが正しいようです。






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