2002年のチェチェン武装組織によるモスクワの劇場占拠事件を振り返る

 比較的最近ですが、「歴史秘話」ものの記事と言っていいでしょう。

http://military.china.com/history4/62/20131018/18096802.html


チェチェンの悪質分子、ロシアの首都を「奇襲」:モスクワ人質事件を回顧する

2002年10月23日夕方のモスクワ市には秋風が吹き渡っていた。モスクワ東南区域のドブロフカ大通り音楽庁の建築物の上の、いくつかの巨大なラテン文字で制作された照明看板の広告は赤青が交錯する灯火をきらめかせていた。「NORD-OCT音楽劇」、と。この飛行機型の建築物は本来モスクワ軸受工場に所属する文化センターで、1年前関係部門の徹底した改築を経て、現在ではすでに施設が極めて近代的な演劇のための場所に変わっていた。この劇場はクレムリン宮殿からの距離がたった45kmだった。

ここ1年近くここの中ではずっと、モスクワですこぶる歓迎を受けたアメリカの音楽劇「東南風」が上演されていた。この時巨大な劇場内には空席はなく、1,000名余りの観衆の大部分は付近の街区内に住むモスクワ市民だった。

21時30分前後、音楽劇の第2幕が終わろうとしていた時、1人の巨漢が、伝統的な黒色のイスラム服を着て、顔を隠し、拳銃を高く振りかざし、体に爆薬を縛り付けた女性テロ分子「寡婦軍」50名余りに取り巻かれて突然舞台に出現し、音楽庁全体を乗っ取り、観衆全体および100名余りの出演者と文化センターの職員はすでに自分の人質になったと宣言した。

彼は狂気じみた叫び声を上げた。「ロシア軍は1週間以内にチェチェンから撤退することが必須であり、かつあらゆる捕虜にされたチェチェン戦闘隊員を釈放しなければならない。さもないと、私はすぐにモスクワ軸受工場文化センタービルを爆破するだろう。」 かつ警告し、もし警察があえて強硬手段を採ったら、自分たちが1人「犠牲」になるごとに、10名の人質を代償として殺す、と言った。

事件発生後、モスクワ警察、内務省、「アルファ」特殊部隊はすぐに現場に駆けつけ、かつ事件発生地域周囲の街道を厳密に封鎖した。ミニコフ大通りおよびその周辺の街区は、1,000名以上の実弾を装填した銃を持ち、迷彩防弾チョッキを身につけスチールヘルメットをかぶった軍、警察がいっぱいに布陣した。劇場に近い高層建築物の上にも狙撃手が配置されて不測の事態に備えた。何十両もの装甲車と消防車、救急車が街道両側に停車して命令を待った。劇場外周の街道には、警察が何本かの警戒線を設置し、通行人を阻止し、軍、警察車両、消防車、救急車が入ることだけ許した。

「緊急状況指揮センター」も、劇場から距離500m足らずの場所に臨時に設立された。その後、「アルファ」メンバーが工事人員に変装し、劇場付近の汚水管および暖房管のための穴を掘る作業をめくらましとしてテロ分子の行動を監視した。

23時、テロ分子はここ2時間近くの間に続々と20人近い子供と人質の中のコーカサス人を釈放していたが、再度もし当局が行動を取ったら、自分たちはすぐに文化センタービルを完全に爆破するだろう、と揚言した。何人かの監禁されている人質も、こっそりとビル内から警察に電話し、テロ分子はすでにビル内に爆弾を配置し始めている、と語った。

この時まさにドイツとポルトガルを訪問し、かつその後メキシコに行ってアジア太平洋地域経済協力会議に参加しようと準備していたプーチン大統領は、情報を聞くと直ちに計画を取り消し、モスクワ警察に24日1時までに事件発生現場に指揮部を成立させることが必須であり、ロシア連邦安全局副局長プロニチェフが人質救出行動に責任を負い、モスクワ内務総局局長プローニンが指揮を取るよう命令した。

またプーチンは連夜、ロシア連邦安全局、内務省、ロシア南部連邦区、軍隊などの部門の最高クラスの当局者を含め共同で緊急会議を行い、救出方法を協議した。会においてプーチンは他のいくつかの国の元首のように、人質と被害者家族をいたわったりはせず、「ロシアは人質の安全を図る選択を勝ち取る」との承諾をなし、しかもロシアが長期にわたって執行している「決してテロ分子に妥協しない」との政策を強調した。

プーチンは会で、今回の人質事件は国際テロ分子が犯したまた1つの犯罪行為であり、ロシアは彼らの挑発に「決して屈服することはない」と明確に指摘した。これより、プーチンはメディアに姿を現すたびに強硬に、「ロシアは人質犯に妥協する、およびチェチェンから軍を撤退させることはない。」と表明した。何故ならプーチンは、もし政府が妥協すれば、人質犯の目的を達成させ、そうすればより多くの人質事件の刺激になる、ということを探知していたからである。プーチンがこのようにしたもう1つの原因は、彼のKGBでの経歴が彼に、一部の伝統的政治家の受けた、民心を丸め込んで味方にする視点ではなく、全てが「国家利益至上」に関係する教育と養成訓練を受けさせていたことである。

また、国内の各関連部門が力を合わせて協力するのと同時に、プーチンはさらに積極的に全世界を範囲とする世論の支持を探求した。プーチンは、彼が取るこの種の強硬な行動は必ず人質の死傷をもたらし、特殊部隊は技量に優れ胆力も大きいが、「背水の陣」を敷いたチェチェン悪質分子を相手とする作戦では、恐らく人質の安全を保障し難い、とよく分かっていた。このため、プーチンはコメントの発表からすぐ、今回の人質事件を「テロ活動」と位置付け、もって現在の全世界の対テロの大きな形勢の下で大多数の国の支持を獲得することを求めたのである。言い換えれば、プーチンは特殊部隊が間もなく取ろうとしている強硬策に対する各国の理解を獲得することを希望したわけである。

(頑住吉注:これより2ページ目)

また、プーチンはさらにロシア各方も積極的な救出活動を展開するよう要求した。チェチェン武装分子の劇場乗っ取り事件発生の1時間後、ロシアのチェチェン共和国下院議員アスラハノフは、ロシア元最高ソビエト主席で、チェチェン人の政治家であるハスブラトフと共に事件発生地点に駆けつけ、劇場の入り口の所にやってきて、そこを不法占拠するチェチェン武装分子と交渉し、彼らに理性と自制を保持し、愚かなことをしてはならない、と要求した。彼らはさらに、自分たちは自らを劇場内の無辜の人質と引き替えにし、もって事態の円満な解決を求めるのにやぶさかではない、としたが、チェチェンテロ分子の拒絶に遭った。ちょうど同じ時間、モスクワで生活するチェチェン人指導者も、自分たちには乗っ取られた劇場に行って、自らの体をもって人質の安全と引き替えにする準備があるとしたが、同様に拒絶に遭った。

24日早朝、1人のロシア警察官が酔っぱらいを装って劇場中央入り口に入り、結果的に武装分子に発砲、射殺された。また、武装分子はさらに1人の劇場からの逃亡を企図した若い女性を射殺した。対峙の過程で、劇場内からは数回の爆発音が伝わったが、警察は重大な死傷者はもたらされていないと信じた。

昼になると、ケブージンと3名の赤十字会代表が白旗を持って劇場に入り、内部のチェチェン武装分子と対話した。やや後で、1人の60歳余りのイギリス人の人質が劇場を離れる許可を獲得した。彼は見たところ非常に虚弱で、かつひどく恐れているのが目立った。数分間後、1人の女性と3人の子供が同時に釈放を獲得し、彼らは皆ロシア人だった。

ある釈放された人質が明らかにしたところによれば、武装分子は劇場内の座席、柱、壁、廊下、そして自分の体にも爆薬を縛り付けていた。ロシア議会安全委員会副主席グデコフは、武装分子が人質の殺害を開始しない限り、ロシア保安部隊がビル内に攻め込むことはない、とした。

午後2時、プーチンは初めて公開で声明し、今回の人質危機は「外国のテロ組織のセンターが画策したものだ」と語った。彼は特殊部隊に、「人質救出を準備せよ、同時に最大限人質の安全を保障せよ」と命令した。

この時、人々はいかにして危機を処理するか諸説紛々だった。人質はプーチンに手紙を書き、ロシア軍が武力行使せず、かつチェチェンから撤退するよう希望する、とした。全国のテレビ局も、人質がプーチンにチェチェン戦争を終わらせるよう要求するアピールを発表した。すなわち、「我々はあなたが賢い決定をなし、戦争を終わらせるよう要求する。我々は戦争に飽き飽きしており、平和を希望する。」というものだった。50名余りの人質の家族はさらに町に出てデモし、ロシア政府が人質犯の要求を受け入れ、チェチェン戦争を停止するよう要求した。国家下院は緊急会議を開き、下院議長シェリェツニアオフは、悪質分子と談判するべきだと強調した。ゴルバチョフも発言し、談判による人質危機の解決を主張した。多くの国が続々と声明を発表し、チェチェンテロ分子を非難するのと同時に、人質危機の平和的解決を希望した。

だがプーチンはこれに動かされることなく、依然強硬な立場を堅持し、かつ豪腕的手段の採用を極力主張した。プーチンは、ロシア政府は決して人質犯に妥協せず、決してチェチェン反乱武装勢力に譲歩せず、決してロシア軍をチェチェンから撤退させない、と宣言した。唯一の譲歩は、「もし全部の人質を釈放したら、人質犯は死を免れ、彼らをロシアの国土から送り出す」としたことだった。

ロシア国家下院もアピール文書を起草し、チェチェン人質犯に自制を保ち、感情的に事を行わず、随意に無辜の人質を殺傷してはならないと要求した。ロシア連邦委員会も世界各国の議会に宛てた公開の手紙を発表し、共同で人を激怒させる人質事件を非難し、かつロシアと協力し共同で今回の人質危機を解決するよう要求した。

24日午後4時前後、これまでずっとチェチェン人指導者と良好な関係を保持してきたロシア国家下院議員カーバイソンは、国際赤十字会の2名の代表および1名のイギリスの記者に随伴され、武装分子にジャックされた劇場に入り、テロ分子との接触を開始した。カーバイソンの後の説明によれば、今回劇場をジャックしたチェチェン人の「頭脳は充分冷静で、話にも非常に論理性がある」ということだった。彼らはロシア製府がチェチェン地域での軍事行動を中止し、すぐに部隊をチェチェン地域から撤退させるよう強烈に要求し、さもないと人質と共に死ぬ、とした。「彼らがひとたび来れば、生きて戻ろうとは思わない」 だが武装分子は3名の子供の人質の釈放に同意し、かつ政府への人質釈放談判の条件を持たせた。すなわち、外国人の人質が釈放を獲得するには各国大使館の外交官が劇場に入って談判を行うことが必須で、外国赤十字会メンバーは劇場に入って負傷者を応急手当しても良く、ロシアの著名な自由経済学者でヤブロコ党指導者のヤブリンスキーと女性記者アンナ ボデリコワを劇場入りさせて談判に参加させるよう要求していた。

午後6時30分、2名の女性人質が策を講じてある窓から逃げ出した。「寡婦軍」は彼女たちに向け発砲し、かつ手榴弾を投擲し、このうち1人が負傷した。夜、26歳の販売員ロマノワが劇場への進入を企図した時、「寡婦軍」によって発砲、射殺された。「寡婦軍」は、自分たちはロマノワを政府が派遣してきたスパイだと思った、と語った。

10月25日早朝6時30分、7名の男女が釈放された。昼12時30分、1人のスウェーデン人女児を含む8名の8〜12歳の子供が釈放された。だが人質犯は元々回答していた75人全ての外国人人質の釈放に関する約束は実現させなかった。午後4時45分、ロシア連邦安全局長パテルシェフはメディアに向け、もし人質犯が人質を釈放すればその生命の安全を保証する、と言明した。夜7時、プーチン大統領は再度強力な部門責任者会議を開き、今回の危機の当務の急は「人質の生命の安全の確保」であると語り、チェチェン人質犯と談判したいとし、かつ大統領駐南部連邦区全権代表カザンツェフに授権してこの重任を担わせた。8時、プーチンはテレビで演説し、自分のチェチェン戦争に対する立場は不変であるとした。10時35分、ロシア当局者は、また3名の女性と1名の男性人質が釈放され、彼らは全てアゼルバイジャン人である、と語った。

(頑住吉注:これより3ページ目)

人質事件発生後ほどなく、ロシア情報部門はすぐに今回の人質事件の画策者と実施者は、すでに射殺されているチェチェン軍閥アービ バライェフの甥で、不法武装勢力「イスラム特殊戦団」団長のマフザー バライェフであると事実確認していた。

アービ バライェフは誰もが知る恐怖の人物だった。この人はチェチェンで最も有名な匪賊の首領の1人で、その家族はチェチェンでも悪名高かった。アービ バライェフは残忍狡猾で、彼が自ら殺したロシア軍将兵とロシアのチェチェンにおける官僚だけでも170人余りに達したとされる。例えば1998年10月、アービは4名のチェチェン首府グロズヌイにいた電話修理システムの技術者を連行し、イギリスの人質の雇い主が1,000万アメリカドルの身代金を支払った後、彼はそれでも残忍にこの4名の西側の人質を殺害し、かつ人の頭部を道ばたに遺棄した。

全盛時、バライェフファミリーはチェチェンの利潤の非常に多い石油交易、およびチェチェン全域を貫通する主要道路を支配した。アービ バライェフは石油の商売によって大いにアメリカドルを儲け、公然と金持ちとしての生活を送っていた。言っても多くの人は信じないだろうが、アービはまぎれもなくモスクワによって指名手配されたトップのチェチェンのテロの頭目だったが、彼は何と大手を振ってしばしば公然とした場に出没し、甚だしきに至っては公然と2回の豪華な婚礼を挙行した! 2001年6月25日、アービはロシア部隊のヘリのミサイル攻撃の中で死んだ。

マフザーはアービに「追随」する過程で、どんどん叔父の不可欠な助手となった。すぐにこの駆け出しの若者は叔父が指導する匪賊の中のナンバー2になった。叔父と甥は協力して悪事をはたらくこと自由自在と言え、彼ら2人の「努力」の下に、その指導下のチェチェン不法武装勢力はすぐにテロ、人身売買、密輸を一身に集めたテロ集団となった。

さらに人を肝胆寒からしめるのは、マフザーが170人を殺したことのある叔父に心服し切っており、ある日「殺したロシア軍将兵の人数できっと叔父を超える」と誓いをたてていたことである! 前述の1998年の人質事件で、この4名の人質の「処理」任務はまさしくマフザーによって完成されたのである。

アービ バライェフの死後、マフザーは「バライェフ帝国」の残された支配権を引き継ぎ、継続して誘拐の悪事を働いた。

マフザーはさらに「イスラム特殊戦団」の団長を務め、かつチェチェン女性から組成される専門の決死隊を組織した。マフザーが人を招く条件は、ロシア軍に射殺されたチェチェン悪質分子の残した「寡婦」だけ、というものだった! こうした「寡婦」はロシア軍に対し恨み骨髄で、加えて衣食に事欠き、生活に希望がなく、このためすぐにマフザーによって傘下に招き入れられ、その後例えば射撃、地雷敷設、爆弾製造などのテロ技能の訓練を受け、同時にマフザーの洗脳を受けた。マフザーのそろばん勘定通りだったのは、チェチェン武装分子はそれまで女性を招聘したことが全くなく、このためロシア軍、警察にはチェチェン人女性に対する警戒心が全くなく、このようにして一撃での命中ができたのである。

2001年8月、ロシア軍は攻勢を発動してマフザー バライェフの掃討を図り、かつすでにチェチェンのアルガンスで彼を射殺したと言明していた。だが今、マフザーはまた奇跡のように出現したのである。

状況をさぐってはっきりさせた後、プーチンは「アルファ」特殊部隊に、突然の襲撃の準備を整えるよう命令した。

25日真夜中、マフザーを惑わすため、ロシアの著名なチェチェン戦地女性記者ボリテコフスカヤが、マフザーと当局の調停人に任命され、かつマフザーと面と向かっての会談を行った。会談の中でマフザーは、もし当局がチェチェンから軍を撤退させることを計画している証拠を出さなかったら、自分たちは「最も極端な措置」を取ることになる、と強調した。「プーチンはチェチェン戦争を終わらせ、チェチェンから一切の軍隊を撤退させることを表明することが必須である。」と。

10月26日2時30分、救護人員は撃たれて負傷した男女1名ずつを劇場から救出した。3時30分、マフザーが提示した「最終期限」はすでに到来し、そこで彼は人質の射殺を開始した。一部の人質はそれを見て逃走を企図し、「寡婦軍」は銃を挙げ射撃した。たちまち劇場内は銃声と爆発音に包まれた。最後に8人の人質が逃走に成功した。

早朝5時30分、「アルファ」特殊部隊は襲撃の発動を開始した。彼らは通風パイプラインから劇場内に向け大量の「神秘の気体」を放った。これは一種の麻酔剤だった。かつ爆弾を使ってビルの壁に大穴を開けた。劇場に突入した「アルファ」特殊部隊と「寡婦軍」は激烈な銃撃戦を展開した。激戦の中で「寡婦軍」はいくつかの天井板を支える支柱に縛り付けた爆弾を起爆させた。

数分間の戦闘の後、人質犯の頭目マフザー バライェフを含む30名余りの人質犯が射殺された。特殊部隊兵士に重傷者や死亡者はなかった。7時、爆発音と銃声は静まってきた。7時10分、特殊部隊兵士は生きている人質犯を劇場から連れ出し、多くの救われた人質も続々と離れていった。さらにいくつかの死体が搬出された。7時25分、インターファックス通信社は、安全保障部隊はすでに完全にこの劇場を制圧し、あらゆる人質はすでに救出された、と報道した。当局者は後に、750名の人質が救われ、34名の人質犯が射殺された、と言明した。8時15分、内務省副大臣ワシーリェフは、大多数の人質犯は射殺され、「ごくわずかの人質犯」は人質の中に紛れて逃走した可能性があるが、当局はすでに彼らを指名手配する命令を発している、と語った。

(頑住吉注:これより4ページ目)

57時間にわたる、世界を驚愕させたこの事件は、ここにやっとのことで幕を下ろしたのである。

26日夜、プーチンは自らシカリフソフスキー病院に行って救出された人質を見舞い、かつ1人の意識を取り戻したばかりの救出された人質をおどけて笑わせた。

モスクワ人質危機の円満な解決は、プーチンを再度いくつかのメディアの注目の焦点たる人物とした。彼の人質事件処理問題での方法は独自の旗印を示すもので、その強硬な態度は少なからぬ評論家の肯定を得た。世論調査によれば、85%以上のロシアの公民がプーチンの取った行動に対し賛同を表明している。

だがこの時の人質救出は成功を獲得したものの、決して充分に円満と言えなかったのも確かである。その間に重大なミスも起き、これは主に「神秘の気体」を放ったことによるものだった。プーチンは、最も重要な任務は人質の生命の安全の保護だと強調したが、全過程でそれでも128名の人質の死亡がもたらされ、さらに500名余りの人質が負傷し、入院治療が必須だった。人質の死亡は20%を超えておらず、救出行動は成功と評価される、と言う人がいるが、128名の人質の死亡というのは結局のところただ事とは言えないのである。

ロシアの特殊部隊が放った「神秘の気体」は実際には「諸刃の剣」だった。それは一方では人質犯の抵抗能力を失わせ、爆薬に点火するのも間に合わずすぐに知覚を失わせ、あるいは死亡させた。だがもう一方ではまた多くの人質の死亡をもたらした。この「神秘の気体」は一体何だったのだろうか? それは某種の生物化学兵器だったのか否か? これに対しロシア当局は「国家機密」を厳守し、遅々として真相を説明しようとはせず、ただ曖昧に一種の「特殊物」とし、その成分を発表しようとしない。横からある医者が、これは一種の「催眠気体」であると言ったが、それでも少なからぬ人が「神経ガス」ではないかと疑っている。後に、ロシア厚生大臣が登場して説明し、当時使用したのは「医療用麻酔剤フェンタニルの誘導体」であって、決して「国際化学兵器条約が使用を禁じた化学物質」ではないと語った。ロシア当局者は弁解もし、もしこの気体を使用しなかったら、人質は全て死んでいた可能性がある、と語る。だがアメリカの専門家の言によれば、これは一種の神経を麻酔するアヘン剤であり、これには有毒物質ヘロインあるいはモルヒネの化学成分が含まれているという。

だがどのように弁解しようとも、「神秘の気体」問題はそれでもモスクワの巷のホットな話題と論争の焦点となり、ロシア政府を巨大な圧力に直面させた。死亡した人質の家族は不満と憤怒を表明し、一部の住民はさらに困惑を感じ途方に暮れた。メディアは軍の「行動が軽率」、「薬物を濫用」、事前に正確な薬剤の量をうまく計算することがなく、人質の虚弱な体質を充分に考慮することもなく、加えて軍は遅れず病院に告知することもできておらず、医者の現場の救護を間違わせ、多すぎる人質の死亡をもたらした、と非難した。ロシア共産党指導者ジュガーノフは文章を発表し、100名余りの人が死亡し、さらに多くの人が心身に深刻な傷を負い、これは許されざる損失だ。」と語った。

また人々は、今回のモスクワ人質危機は催眠気体の助けの下に解決されたが次回、次々回、もしチェチェン人質犯が防毒装置を持っていたら、こうした救出方法はそれでも効を奏し得るのか否か、とも心配した。

モスクワ人質事件の発生は、チェチェン戦争をさらに一歩激化させ、かつロシアの首都まで延伸させた。そこで、プーチンは「歯には歯をもって」することを宣言し、マスハドフ(頑住吉注:チェチェン最高指導者。比較的穏健だったが2005年ロシア特殊部隊によって殺害)の和平談判提案を拒絶するだけでなく、しかも徐々に軍を撤退する計画を停止し、チェチェンで大規模な掃討行動を展開するよう命令を下した。この種の状況は、疑いなくロシア政府のチェチェン反乱軍に対する立場をより強硬な方向に向かわせ、ロシア、チェチェン両民族の深い憎しみをさらに一歩深め、かつ衝突をさらに先鋭なものにさせた。今後、ロシア軍の掃討行動はさらに強化され、チェチェン反乱軍のテロ活動もより凶悪、残忍さを加え、彼らは「人体を爆弾」に充当し、もはや条件を提示せず直接無辜の平民を殺害するだろう。

プーチンの強硬な立場は現在優勢を占め、ロシア当局はメディアが対テロおよびチェチェン問題に対し報道、論争するのを制限し、チェチェン問題政治解決の呼び声はしばらくはまた押さえつけられていくが、ロシアが間もなく行う議会選挙と大統領選挙の中で、チェチェン問題が必ずや再度焦点となり、各派政党の激烈な論争を引き起こし、プーチンを新たな試練に直面させると予測できる。


 「回顧する」という記事ですけど、最後のところを読むとこれが書かれたのは事件からさほど時間が経過していない段階のようです。

 「人質の家族はさらに町に出てデモし、ロシア政府が人質犯の要求を受け入れ、チェチェン戦争を停止するよう要求した。国家下院は緊急会議を開き、下院議長シェリェツニアオフは、悪質分子と談判するべきだと強調した。ゴルバチョフも発言し、談判による人質危機の解決を主張した」という国内の動きはやや意外でした。これはソ連時代ならば考えられなかったことと思われますね。






















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