「裏切り、逃亡」に関する歴史秘話

 ということで関連が全くなくもない記事を4つまとめて紹介します。

http://military.china.com/history4/62/20130627/17914686.html


スターリン、変節したからこそ捕虜になる、と考える 軍人が捕虜になったら家族全員殺す必要がある

ロシアが最も新しく発表した数字によると、ソ連赤軍は第二次大戦中570万人余りが捕虜になった。この570万人余りのうち、戦争終結後ソ連に帰ったのは190万人で、残りの人の大部分は当然捕虜の営舎の中で死に、また非常に多くのヨーロッパに留まりソ連に帰りたがらない人もいた。最も人を不思議がらせるのはソ連軍の捕虜になった人の数の多さではなく、570万人余りの捕虜になったソ連軍兵士のうち、100万人が何と裏切って、自らの祖国に向かって発砲したことである。

これらの裏切り者のうち、最も有名なのは元突撃第2集団軍司令の赤軍中将ブラソフである。彼は第二次大戦の中でのソ連軍最大の裏切り者で、最も有名な裏切った将官である。1942年6月25日、ある包囲突破戦の中で、ブラソフ中将は独ソ戦初期における300万のソ連軍捕虜の一員となった。古来非常に苦しいのはたった1回の死であり、人がこの状態に陥ったら、死を恐れないというのは非常に難しい。もし戦場で千軍万馬を指揮しても、ちょっと弾を受ければ死に、これは非常に光栄なことで、国のために肉体をなげうった英雄である。だが営舎に集められ、堂々たる将軍が人に威張った様子で抑圧され、最後には虐待死する、これは人をしてひどく絶望せしめる。

この時1人の人間の意志が大きな試練を受けるが、ブラソフは持ちこたえることはなかった。だが、真に彼の素早い変節を促したのは、祖国からのある悲しむべき命令だった。

1941年8月16日、スターリンはかの有名な、また暴虐な270号命令に署名した。命令は次のような内容だった。「指揮員と政治工作人員が戦闘中にもし自らの身分を隠しごまかし、逃亡し、あるいは敵に投降したら、意図を持って反乱逃亡した人員と見なす。その家族構成員は祖国に背き反乱した逃亡兵の家族と見なされ逮捕される。〜それぞれの軍人に命じる。もし所属する部隊が包囲されたら、必ず可能な一切を尽くして最期の一時まで戦闘し、厳重な包囲を脱するのが義務である。もし指揮員あるいは政治委員が積極的に軍を組織して敵を撃退せず、敵に対する投降を選択したら、一切の方法を用いて彼らを殲滅してよい〜」

この命令は後に、あらゆる敵への投降者の家族は死刑、もし捕虜の営舎から脱出してきた者も全部銃殺、というところまでエスカレートした。ソ連の統帥者の目には、いかなる捕虜もなく、変節者だけがいたのである。彼らは軍人は捕虜になりさえすれば、すなわち変節者だと考えた。この点は日本や中国など東方諸国の認識と一致していた。死ななければお前は変節者だ、というのである。本来ソ連に対外的拡張の過程でもたらされた民族的矛盾は非常に先鋭的で、ウクライナ人、コサック人、バルト三国人、チェチェン人、カルムイク人などは、平素からあなどり、圧迫を受け尽くし、ソ連軍加入後、その作戦は元々非積極的で、甚だしきに至ってはドイツ軍を解放者扱いした。このため、この命令が出るや、さらに士気は緩み、かつ彼らを敵の抱擁へと押し動かしたのである(頑住吉注:「カルムイク人」については「Molot Vepr 1V」の項目で触れたことがあります)。

270号命令はソ連軍捕虜の数を減らすことに対しいかなるポジティブな影響も決して生み出さなかった。命令が発せられた後の2ヶ月、ソ連軍捕虜はまた130万人増加したのである! (頑住吉注:まあ論理的には命令がなかったらもっと多かったという可能性も存在するわけですが) 独ソ戦全体で、捕虜になったソ連軍の人数は570万に達し、このうち裏切った者は100万人を超え、彼らはロシア解放軍あるいは類似の志願軍を組成し、銃口をひるがえして祖国に向け開戦したのである。(本文のソース:「老年生活報」2013年6月26日第6版、筆者:袁騰飛)


 国家の重大な危機に際してやむを得ない面もあったんでしょうが、逆効果になる面も同時にあったようです。

http://tuku.news.china.com/history/html/2013-06-19/216867_2363292.htm#pic


対ベトナム作戦で我が軍の飛行員が機を操縦しベトナムに反乱逃亡

閻穏昌の操縦する殲ー6戦闘機はベトナムに逃げる過程で墜落した

1979年4月15日昼1時頃、航空隊某部の陜西籍の飛行員閻穏昌は昇進問題と指導部に不満が生じたため、またこれに加えてベトナムに行けば何人かの妻をめとれるなどの敵の放送を聞いた影響があり、あわただしく30398号殲ー6戦闘機(頑住吉注:ミグ-19中国版)を操縦してベトナムに逃亡した(当時4月16日の新聞は、我が外交部は声明を発表しベトナムの抗議に答え、我が空軍某部の30398号機は正常な訓練中に航行方向を見失い、不幸にもベトナムに墜落した、とした。)

(頑住吉注:2ページ目)画像はベトナム軍兵士が墜落機を調査しているところ

離陸した時に地上勤務人員がいなかったため、起動用電源車を引きずって強行離陸した(電源車は滑走路ですでに飛行機から離れた)(頑住吉注:そりゃまあ電源車をぶら下げたまま飛んで行ったとは思いませんわな)。我が空軍戦闘機の追跡を避けるため、海康上空で閻穏昌はサブタンクを投下し、我が軍のレーダーの追跡を避けるため離陸から何分か後には直ちに超低空で北部湾海面すれすれに飛行したが、離陸から10分前後でやはり我が軍のレーダーによって発見された。我が広西前線のウーシュー飛行場は直ちに4機の殲ー7(頑住吉注:ミグ-21中国版)を発進させ閻穏昌の殲ー6を迎撃させた。閻穏昌は後方から殲ー7が追跡してくるのに気付き、さらに海面すれすれに飛行した。当時、ベトナムの天候は見通しが非常に悪く、彼はベトナムの海岸防衛線から距離80km前後の場所において、最終的に山に衝突し機は破壊され彼も死亡した。

(頑住吉注:3ページ目。なおページタイトルが前ページと同一の場合は省略します)以下はメディアの報道である:1979年4月15日昼、広西前線の某飛行場の持ち場の交代の後、ある若い当番兵が1人の軍装を着た将校が飛行場に向かって散歩していくのを見た。知らない人だったが、必ずしも警戒性はあまり高くなかった。ここに駐屯するのは異なる部隊の兵で、来たばかりでもあり、知らない人が多すぎた。さらに言えば誰も機を操縦できず、爆発させさえしなければOKだった(頑住吉注:この文の意味分かりません。少なくとも閻穏昌はそんなに未熟なパイロットではなかったようです)。そこで当番兵はこの将校が飛行場の方向に歩いて去るのを見送った。

(頑住吉注:4ページ目)閻穏昌の墜落現場

12時48分、各歩哨位置の当番状況を検査する警備小隊長孫洪文がこの歩哨の持ち場に来て、まだ兵士といくらも話さないうちに、もう飛行場の方向から猛然とエンジンの音が伝わってくるのを聞いた。今発進する機があるとは聞いていないが? まさか整備員のエンジン試運転か? 彼はあわただしく走って行って見た。彼が見たのはまさに始動中の機のキャノピーがすでに閉じられ、点検のようではない状況だった。

(頑住吉注:5ページ目)正常な状況ではない! 彼は直ちにその機に向かって突進した。だが遅かった。孫洪文が機からまだ距離何mかの時、機は矢のように電源車を引きずって滑走路を突進した。飛行機のコックピット内に座っているのは飛行ヘルメットをつけていない軍人だった。孫洪文は拳銃を抜いて追っていき、大声で叫んだ。「止まれ! 早く止まれ!」 だが彼の叫びもむなしく、機は継続して前方に滑走していった。そこで孫洪文は発砲した。この時その軍用機の尾部からは火炎と暴風が噴出し、暴風は孫洪文小隊長をごろごろと転がした。彼は猛然と立ち上がり、そばの芝生上を走りながら射撃した。

(頑住吉注:6ページ目)当時中国外交部が発表した声明の文字版

飛行機とミサイルの迎撃をかわすため、閻穏昌は機を操縦して起伏の多い山間の地に入れ、左右に旋回し、一切の近代化されたナビゲーション設備は彼にとってすでに無意味と言えた。飛んでいると前部燃料タンクの燃料が尽きた信号が点灯した。後部燃料タンクの信号灯もすぐ点灯した。最後の500リットルの警告灯も点灯した。これは赤色のランプで、点滅が特に目を刺激した。もう10分余りで機の燃料は完全に消耗する。どうするか? 彼は考えた。唯一の方法は雲の下に降りて飛行場を探し、どうしても見つからなければ不時着することだった(頑住吉注:つーか単独で逃げた本人死んでんのに何でこんな詳細分かるの)。

そこで、閻穏昌は殲ー6を飛び込み競技者のように濃密な雲と霧の中に突っ込ませた。この時彼は呆然とした。何故なら雲の中は山の群れだったからである。数分後、雲の中に轟音が響き、閻穏昌と彼の殲ー6機、そして反乱逃亡の夢想はある山の上に全て消え去った。猛烈な炎が上がり、閻穏昌は一瞬にしてあの世行きの不名誉な物語を残した。

(頑住吉注:7ページ目)1981年の新聞に掲載されたベトナム飛行員がHU-1ヘリを操縦する様子

必ず対になるものがあるもので、閻穏昌の反乱逃亡から2年後、すなわち1981年、ベトナムサイドからも何名かの兵士が機を操縦して中国に逃げてきた。1981年9月30日午前8時51分(ハノイ時間7時51分)、1機のベトナム軍用UH-1Hヘリが我が国の広西省チワン族自治区の大新県の田畑に降着した。機から降りてきたのはベトナム空軍少尉で飛行員の喬清陸、ベトナム空軍准尉で空中機械担当者の黄春団、退役した元准尉・空中機械担当者の黎玉山、建築工程師の楊文利ら10人だった。彼らは情報を聞いて駆けつけた中国人民解放軍国境防衛部隊と民兵に進んで武器を提出し、かつ自分はレ・ズアン(頑住吉注:ホー・チミンの後継者)集団の統治に不満だからこそ機を操縦し中国に投降に来たのであり、中国に政治亡命を希望すると説明した。すぐに彼ら一行10人は北京に送られた。10月8日、人民日報のトップ記事は簡単な情報を発表し、「レ・ズアン反動集団の暗黒の統治に反対し、喬清陸ら10人、機を操縦しベトナムから我が国に逃亡 自由と幸福の追求という来た意図を表明した後我が関係方面の接待を受ける」として全世界に向けこの事件を公表した。

(頑住吉注:8ページ目)画像は3人のベトナム飛行員の機の前での集合写真

ベトナム国内からは素早い反応があり、上述の人員はベトナムで殺人罪を犯し、法律の制裁を逃れるために中国に逃亡したのだ、と非難した。10月16日に人民日報は「我が方の関係部門、中国の法律の規定を根拠に、喬清陸ら10人の我が国への居留を許す」との情報が掲載された。10月16日午後、喬清陸、黄春団、黎玉山、楊文利の4人は北京で国内外記者招待会を行い、ベトナムから逃亡した原因を説明し、かつベトナム国内の情勢、ベトナムのカンボジア侵略などの状況を説明した。10月20日午後、ベトナム共産党元老黄文歓は喬清陸一行と会見した。

(頑住吉注:9ページ目)ハノイはベトナムで最も防空体系が最も完備した地域で、全国で最も先進的な、最も完備された防空探知計測システムを持ち、全方位、全高度の立体探知計測網を構成していた。ベトナムの東北部もベトナム空軍・防空軍の配備が最も厳密な地域だった。だが喬清陸らの人はヘリを操縦してハノイの白梅飛行場から離陸し、ベトナム国内を130km飛行したが、ベトナム軍によって撃墜されず、最終的に中国国内への着陸に成功した。これは世界飛行史上の奇跡と称するに堪える。

(頑住吉注:10ページ目)博物館に置かれた1981年にベトナムの飛行員が蜂起し中国に投降した時のUH-1ヘリ

H-1はアメリカのベル社によって研究開発され、社内の設計コードネームはベル204、ベル205などだった。研究開発初期のタイプはH-40と呼ばれ、生産に入った時機種名はHU-1(すなわちH-1の汎用型)と改称され、すぐUH-1に改められた。

(頑住吉注:11ページ目)この機は大戦後から今日まで、世界で最も広範に使用され、知名度が最高の軍用中型多用途ヘリであり、ニックネームは「ヒューイ」だが、より多くの場合に「イロコイ」の名前が使われた。

(頑住吉注:12ページ目)1955年2月、ベル社は救護ヘリ研究開発の契約を得て、社内のコードネームは204と定められ、軍サイドの初期のコードネームはH-40だった。第1機目の原型機は1956年10月に初飛行し、1959年6月30日に空軍に引き渡されて使用され、かつ「HU-1イロコイ」と命名された。1962年9月、改めて「HU-1」と命名された。

(頑住吉注:後のページは最初のページの内容が繰り返されているだけです。)


 台湾への逃亡に成功したケースは多かったようですが、このケースは知りませんでした。

http://military.china.com/history4/62/20130608/17880963.html


ソ連の大型対潜艦、かつて西側への反乱逃亡を企図 途中でソ連軍に撃沈される

1947年の冷戦開始後、ソ連・アメリカ2大陣営は非常に長い軍事的対峙の時期に入った。この時期、ソ連軍の三大反乱逃亡事件がかつて世界に大きな驚きを与えた。

ベレンコ、反乱逃亡という手段を使って国家に報復

1947年生まれのビクター ベレンコは航空学校卒業後、軍隊で勤務に入った。ベレンコは何度もグロモフ試験飛行学院の試験飛行員になりたい旨申請したが、いずれも認められなかった。

この後、ベレンコは国土防空軍の業務に異動させられ、副大隊長代理を務めた。

ベレンコは何の前途もないと感じ、機を操縦して外国に逃亡し、当時世界最良の大型迎撃機だったミグー25Pの秘密を売り渡すことによって大金を手に入れ、同時にソ連に報復することも望んだ。

1976年9月6日、ベレンコはミグ-25Pを操縦して離陸し、日本に飛んだ。米日の専門家はこのミグ-25Pを逐一分解し、もって技術的秘密を明らかにし、その後この機をソ連に返した。

ベレンコはアメリカCIAの報奨金を手に入れ、かつアメリカのある農場で名前を隠して生活を続けた。

ズーイェフの操縦する機、トルコに逃亡

1989年5月20日、飛行員アレキサンダー ズーイェフは部隊に装備されてやっと数週間のミグー29型戦闘機を操縦してソ連のツハカヤ飛行場から反乱逃亡し、トルコのある飛行場に降着した。

ズーイェフは何の異なる政治的見解を持つ者でもなかった。彼は試験飛行員学校について深く研究したかったが、願い通りにはできなかった。打撃を受けた彼は部隊から勝手に離れることを始め、他の女性と不真面目な生活をし、何度も叱責されたことによって心に恨みを抱いていった。

1989年5月、彼は不眠を装い、大量の睡眠薬を購入した。19日の夜、彼は全ての睡眠薬を粉にしてケーキの中に加え、口実を探して皆に食べさせた(頑住吉注:コメディーみたいですが)。

多くの人が意識不明から醒めない時、ズーイェフは外界と連絡する電話線を切断し、ミグー29で飛び立った。

アメリカは軍事機密を搾取するため、ズーイェフのために政治的避難を提供した。

軍艦「警戒」号の反乱逃亡、ついに制止される

ヴァレリー サブーリンはバルト海艦隊「警戒」号大型対潜艦上の政治工作副艦長だった。彼は、ソ連の官僚体制はすでに国を方向から逸脱させており、「革命」を発動して軍艦を奪取し、軍艦をレニングラードより外の公海まで航行させ、その後スウェーデンに反乱逃亡することを決心した。

1975年11月6日、「警戒」号はラトビア加盟共和国の首都リガに行き、検査、修理を行った。11月8日19時、サブーリンは艦上で異常な状況が発生した、と称し、艦長と共に軍艦の水中音響室に来た時、彼は突然船室の扉を閉め、艦長と艦上の人員を隔離した。

11月9日2時50分、「警戒」号はリガ湾を出て、高速航行でバルト海に向かった。

ソ連軍事当局は状況をクレムリンに報告し、ブレジネフは自ら命令を下した。「撃沈せよ!」 最終的に、「警戒」号はスウェーデンとソ連の境界水域で爆弾の命中を受け、方向舵の機能を失った。

この時、反乱逃亡に反対の30名の水兵が閉じこめられていた将校と艦長を救い出した。激戦の中で、サブーリンは撃たれて負傷し、反乱逃亡は制止された。

1976年7月13日、サブーリンは国家反逆罪で死刑判決を受けた。


 以前も取り上げたミグ-25亡命事件以外は知らなかったので興味深かったです。最後の事件は「レッドオクトーバーを追え」のモデルになった、とも言われているそうです。

http://military.china.com/history4/62/20130604/17871430.html


「南京防衛戦」の中での売国奴 夜間に日本軍のために信号を発し松明を振る

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「日本軍が南京城を包囲攻撃した時の激戦の場面」)

我々は1937年11月に南京に到達した。当時の南京はすでにほとんど空城となっており、市民たちの大部分は避難していた。これはただ単に南京がもうすぐ戦場となるからではなく、さらに日本軍が8月から不断に南京に対し空襲を実施していたからで、南京防衛戦開始前、実は南京はすでにもう血と火で構成される都市となっており、日本機の不断の爆撃の下で、南京城内はすでに至る所が廃墟だった。

南京に着いてすぐの時、私はしばしば病院に行って薬品を受け取るため南京を出入りし、毎回必ず八府塘と呼ぶ場所を経る必要があった。その場所は南京の城南にあり、戦略防御要地の中華門から距離が遠くなく、南京の貧民区と評価され、至る所に低い家屋があり、非常に多くは木造住宅だった。だが城防衛の要地に近いため、この全くいかなる戦略的意義も持たない貧民区はほとんど壊滅的災いに遭った‥‥

私は、あの時雨花台方面の野戦病院を建築するため私が南京城に戻って医療器材を受け取り、八府塘付近に到着したばかりの時、日本機の空襲に遭遇したのを覚えている。我々はすぐ車を降りて退避した。鬼子の機は続けざまに爆弾を投下してきて、八府塘は一面の火の海と化した。

空襲が終わった後、至る所が燃えており、我々は急いで負傷者を救護した。非常に多くの無辜の民衆があるいは爆死し、あるいは火の海に葬られ、ある母親は1人の子供を連れ、2人とも焼死していた。母親の遺体は大火で焼け焦げていたが、それでもしっかりと子供の手を引いていた。

当時の南京城は基本的に開戦の前にもうすでに大半が爆撃によって破壊されていた。ここで少数の憎らしい売国奴について語らざるを得ない。当時南京は夜になるや命令により全城で夜間外出禁止が実行され、あらゆる灯火を消し、もって日本軍の爆撃に遭うのを免れる必要があった。だがある時私が夜間水西門付近を通過した時、また日本の爆撃機の爆撃に遭遇したが、意外にもあのあたりのある場所に松明があって揺れ動いているのを発見した。続けて松明の付近がすぐ日本軍の正確な爆撃に遭った。翌日になってやっと聞いたところでは、水西門付近の守備軍の兵器貯蔵庫の場所が爆撃に遭い、弾薬の損失が非常に大きかったという。あの揺れ動く松明は城内に潜伏する売国奴の仕業に違いない。

当時は本当に憤り、非常に悲しみもした。すでに国破れ家滅ぶ状態にさえ至っているのに、まだ売国奴は全力を出しきっている。甚だしきに至っては生命の危険を冒して鬼子が自らの同胞に災いを及ぼすのを助けている。これはどんな心理のせいなのか? 私はいくら考えても分からない。

売国奴が日本軍の飛行機のために爆撃目標を指示するのには、松明を使う以外に、懐中電灯も重要な道具だった。後にある時城内を巡回する憲兵がある爆撃の後1人の売国奴を捕まえた。翌日、その売国奴は即銃殺と命令が下った。その男は非常に若く、二十歳ちょっとだったがひどく無頼で、聞くところによれば元々青幇(頑住吉注:犯罪組織)のチンピラだったが後に日本人に買収され、専門に日本軍爆撃機のために爆撃目標に誘導していた。彼を護送し城を出て銃殺する路上で、南京市民たちは次々と口汚く罵り、甚だしきに至っては1人1人殴っていき、子供たちも傍らで頭に石をぶつけていた。その売国奴は強がり始め、このような辱めと殴打の下でも気勢を失わなかったが、聞いたところでは銃殺前恐怖により尿でズボンを汚していたという。

爆撃の他、売国奴はさらに毒を投げ込む方式を利用して我が兵士を毒殺した。私はある時病院で食事していた時、ちょうどある分隊の兵士が送られてきて胃洗浄を行うのに遭遇した。食物中毒だった。後になってやっと、彼が水を飲んだ井戸に人為的に毒が投げ込まれていたことが分かった。全分隊の兵士は少数が中毒に至らなかったが、大部分は中毒が重症だった。緊急救命を経て大部分の人は生き延びたが、ある1人の兵士は中毒症状が重すぎたため死亡し、考えてみれば彼は城内の売国奴の「傑作」に違いない。

このため、そのとき以後、私には売国奴に対し1つの相当な直感的認識ができた。命令に従って事を行った鬼子兵に比べ、こうした人間性を失った売国奴はより人を心から憎ませると言える。抗日戦終結後、多くのかつての売国奴がまた国民政府の上客に変身する状況が何度も発生した。これは私が抗日戦後断固として国民党部隊を離脱した1つの主たる原因ともなった。(本文は「抗日戦体験者の口述」から抜粋。作者:白渋)


 私は南京で大規模な虐殺があったことは歴史的事実だと思いますが、中国の主張する犠牲者数は到底考えられないほどに膨張してしまっていると考えています。この体験者の証言にも「当時の南京はすでにほとんど空城となっており、市民たちの大部分は避難していた」とあり、20万人の犠牲者はどこから生じたのかという疑問が当然に浮かびます。ただこの問題は気軽に論じられる問題ではないので深くは触れません。

 証言者の価値観で「売国奴」と評価される人はいたんでしょうが、果たして松明で爆撃目標を誘導した者は実在したんでしょうか。普通に考えてそんなことをしたら自分も死ぬことになるのではないでしょうか。例えば3人で非常に大きな正三角形を示してその中心を狙え、という合意でもあったんでしょうか。ちょっと難しい気がしますが。「売国奴」のキャラクターからも、追い詰められた集団心理から、普段からの鼻つまみ者が魔女狩り的に「あいつが売国奴だ」とされたのではという疑問が残ります。































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