イギリス製対戦車防御ハンドグレネード

 「Waffen Revue」101号に、存在すら知らなかったイギリス製対戦車ハンドグレネードに関する記事が掲載されていました。


イギリス製対戦車防御ハンドグレネード

No.73 Mk1



 この極度に効果的な対戦車戦闘用ハンドグレネードは使用者に対しても非常に危険であり、慎重な取り扱いを要求した。

 これは第二次大戦勃発当時に、予想されるドイツ製戦車に対する効果的手段を持つ必要から生まれたものである。その危険性と頻繁な事故ゆえにこれは1941年10月に使用が取り止められたが、急速に、安価に、そして大量に製造できる対戦車防御手段の逼迫した需要ゆえに1943年3月に再び採用され、1946年1月頃最終的に姿を消した。

 このハンドグレネードは1500gのゼラチン・ダイナマイト充填剤が入ったブリキ製の肉の薄い円筒と、敏感性の高い着発信管No.274(ドイツ名「707(e)」)からなっていた。

 1個のハンドグレネードケース内で10個のこのハンドグレネードと専用容器入りの10個の炸裂カプセルが携行された。

 使用前にグレネード本体のブリキキャップを信管ごとねじって外し、炸裂カプセルNo.8を入れ、キャップを再びねじ込んだ。

 投擲前、ベークライト製セーフティキャップをねじって外すと、信管頭部に巻かれている安全飛行バンドが見えるようになった。このバンドは1本のピンによって信管頭部に結合されていた。つまりこの時にこのピンを引き抜かねばならなかった。鉛ウェイトが付けられているピンの端部は人差し指と親指の間で保持し、この端部は投擲の当初まだ保持しておかなければならなかった。その後それは頭部から巻きほぐされ、信管のセーフティが引き抜かれた。

 その後の飛行の間、このバンドは前方に向かって飛び、この時爆発可能になった全方向に作用する着発信管がグレネードの着弾の際に炸裂カプセルによって充填剤を爆発に導いた。爆発の力は大きいので、戦車のキャタピラは(これが命中した場合)爆破された。

 このハンドグレネードは約2kgというその重量ゆえ短い距離しか投擲できなかったので、使用者はこれを遮蔽物(例えば石やレンガ製の壁の後ろに立って)からしか投擲してはならなかった。自身が爆発効果にさらされないためである。

 さらなる注意措置として使用者は安全バンドを固定ピン取り除き後、事前に巻きほぐし、そして安全ピンを抜いてはならないということに絶対に注意しなくてはならなかった。こうすれば信管は機能可能となり、最もわずかな動きの際に効果を表すからだった。イギリスの、そしてドイツの使用規則には、グレネードを再び安全状態にすることはできず、今や信管は移動の際に効果を表す可能性があるため不発弾を収容してはならない旨が特に指摘されていた。つまり出土品は安全な距離から爆破されねばならない。

 未使用状態で発見されたハンドグレネードはキャップを信管ごとねじって外し、炸裂カプセルを取り除くべしとされた。








 このハンドグレネードはドイツに存在したような成型炸薬を使ったもの(「パンツァーヴルフミーネ」=「対戦車投擲雷」)ではなく、単に強力な爆発力を持ったものです。外観上は本当に油か何かが入った単なる缶にしか見えません。着発信管を持つものでありながら飛行中の姿勢を安定させて先端から命中する仕組みがない点はユニークで、どんなものかと興味を持ちました。上の図のように、ショックを与えると鉛球が慣性で動こうとしますが、鉛球を抑えている天井が屋根状に盛り上がっているのでストレートに下に動こうとする場合だけでなく左右に動こうとしてもファイアリングピンを押し下げてプライマーに触れさせる、でこのプライマーを極端に敏感にしておいてちょっとファイアリングピンが触っただけでも爆発するようにした、ということのようです。上の信管の図で上が先になって命中したら爆発しないように思えますが、一瞬遅れて鉛球がバウンドして発火するか、あるいは敵戦車にあたって跳ね返って落下した際には爆発したはずです。かなり無理のある方法に思えますが、実際プライマーが敏感すぎるため危険極まりないものだったようです。構造は全く異なりますが、安全機構だけは「パンツァーヴルフミーネ」と似ており、信管の途中のくびれた部分にテープ状の安全帯が巻いてあり、端部を持ったまま投げると帯がほどけ、伸び切ったらファイアリングピンがプライマーを突くのを妨害している安全ピンを引き抜く、という形式でした、この方法は1913年、すでにノルウェーの技術者N.W.Aasenが実用化しており、第一次大戦でも使用された周知の方法です。

 ちょっと意外なのは「その危険性と頻繁な事故ゆえにこれは1941年10月に使用が取り止められたが、急速に、安価に、そして大量に製造できる対戦車防御手段の逼迫した需要ゆえに1943年3月に再び採用され」という経緯です。読み飛ばすとステン等のようにドイツのイギリス侵攻作戦が危惧された当時に危険であるのを知りながら背に腹は替えられず再採用されたように思ってしまいそうですが、一時使用が中止された1941年10月はバトル・オブ・ブリテンが終結してその危機が一応遠のいた時期で、再採用された1943年3月はそのずっと後、北アフリカでの戦闘も終結し、すでにPIATも存在していた時期です。この時期にこんな危険なものをあえて再採用したのは何故だったのかちょっと気になるところです。











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