「ワリヤーグ」中国到着までの経緯

 これまであまり詳しく語られたのを見たことがなかった、「ワリヤーグ」の中国到着までの経緯についてです。

http://blog.ifeng.com/article/18875274.html


ワリヤーグ空母が西側の妨害を受けることはかえって中国の覚醒を促す

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「まさに第9回目の航海試験を行っているワリヤーグ号空母」)

西側がワリヤーグ空母をを妨害するのはかえって「弄巧成拙」だ (頑住吉注:うまくやろうとしてかえって失敗する、という慣用句だそうです)。

八一建軍節が迫り、中国初の空母ワリヤーグ号は順調に第8回航海試験を完了し、まさに21日の長きに渡る第9回航海試験を進行中で、これにつれ公衆および国内外メディアの、中国初の空母ワリヤーグ号が8月1日に正式に就役するか否かに関する問題に対し、また討論が展開され、関心を集めている。現在南海の争いは異常に緊張し、加えてアメリカが組織した22カ国軍事演習が鳴り物入りで行われ、さらに日本が不断に魚釣島をめぐるもめごとを作り出し、「魚釣島防衛」が大いに騒がれるなどの要素があり、ワリヤーグ空母が多くのメディアの以前の予測通り8月1日に編入され得るのか否かが自然に焦点となっている。

ワリヤーグ空母が8月1日に正式に就役し得るか否かに関しては、我々は刮目し、落ち着いて吉報を待つしかなく、この問題にはしばらく触れない。グローバルネットに発表された「中国の船長、当時ワリヤーグ号を牽引し帰国する際の曲折の経緯を回想する」との一文を拝読した後、筆者はこの文が仲間たちに共に享受され、皆が中国初の空母ワリヤーグ号の問題を討論する時にいくつかの認識を付け加えるべきだと感じた。

私は、ワリヤーグ空母が西側の妨害を受けることはかえって中国の覚醒を促すと考える。このため我々は西側諸国の覚醒「督促」に感謝する必要がある。「中国の船長、当時ワリヤーグ号を牽引し帰国する際の曲折の経緯を回想する」の一文の読後、筆者にもいくつか感じるところがあった。5点の読後感が正しいか否か、ここで仲間たちにお見せする。拙い意見を述べて優れた意見の叩き台にする、ということにしておこう。

1.ワリヤーグ号のオークション時には間違いなく軍事目的はなかった。周知のようにワリヤーグ号は元々ソ連が建造中の空母「ワリヤーグ」号だった。思いもよらなかったのは、この艦がまだ完成しない時にソ連崩壊によりロシアには金がなくなり、そこで武器装備システムを取り外して廃棄される空箱の空母としてオークションにかけた。1998年、マカオの創律旅行娯楽会社がオークションで、この取り外され中身が空の旧ソ連空母を買い取った。牽引して帰った後、海上の娯楽施設に改装し、マカオ海域に停泊させる計画だった。ちょうど今日深セン(頑住吉注:日本語にない漢字で土へんに川)と天津の港の海辺で展示されているその他の2隻の旧ソ連廃品空母と同じ用途であり、軍事目的は毛ほどもなかった。

2.空母ワリヤーグ号の帰国途中には障害が多々あった。しかし、中国が商業用途の目的で空箱の空母ワリヤーグ号を購入した後、アメリカをメインとするNATO諸国はこれに対し議論百出で、廃品空母ワリヤーグ号を運んで中国に帰る途中、隠れて障害を設置し、各種の理由を口実として介入し、愚かにもワリヤーグが立ち往生して中国に帰れないよう企てた。筆者は、ワリヤーグがウクライナから出発し、黒海を経てトルコのボスポラス海峡に到着した時、トルコ政府の妨害に遭うのを観察した。トルコ政府は安全でないことと技術的難易度を理由にワリヤーグの海峡通過を拒絶し、後に「ワリヤーグ」は黒海でもう少しで暗礁への接触事故を起こしそうになった。事後にメディアの報道が明らかにしたが、実はこれは完全にアメリカとNATOが圧力を加えたせいだった。どうかちょっと考えてみてほしい。トルコはボスポラス海峡水域は複雑で、航路は狭く、「ワリヤーグ」の体積は極めて大きく、身分が特殊であると称したが、まさかアメリカの空母のどれかが「ワリヤーグ」より小さいというのか? 言うところの特殊とは、まさに「ワリヤーグ」がすでに中国のものになっていたことが特殊だったのである! (頑住吉注:ウクライナは黒海に面し、そこにある「ワリヤーグ」はトルコの管理するボスポラス海峡を通らない限り地中海に出ることはできず、当然中国に向かうことはできません。)

3.まさに西側の妨害が中国に再認識を促す啓示だった。西側諸国は空母ワリヤーグ号の帰国を妨害するのと同時に、躍起になってメディアを通じてデマをまき散らし、中国が空箱の空母ワリヤーグ号を購入したのは本当は商業用途に使うのではなく、ワリヤーグ号は中国の初の真正な空母になるのだ、と名指しで非難し、新たな「中国脅威論」を作り出した。しかし筆者は思う。まさに西側の妨害およびやかましく騒ぎ立てての推測が中国に再認識を促したのである。そうではないか、西側がこのように微妙な名指しの非難と猜疑を加える以上、相手の逆手を取って、大胆に廃物を軍用として新しく生まれ変わらせることができるか否か、どうして試さないことがあろうか?

4.西側の妨害が促してそれを中国初の空母にした。筆者の見たところによれば、当時中国はまさに侃々諤々の空母建造に関する大討論中で、多くの公衆が中国空母建造のため寄付金を差し出していた。こうした背景下で、西側の妨害はことのほか国内の人を刺激した。何故西側はこのように妨害し、このように中国がこれを修復して軍用とするのを恐れるのか?中国軍サイドのある人はこの機を借りて考察し、この廃棄された空箱の空母以外のものを望んだ。香港、マカオの一部の良識ある有力者は中央に向け、まさに西側の「提示」した方法通りにやることを提案した。すなわち原計画では牽引して戻った後、海上の娯楽施設に改装されるはずだったワリヤーグ号を、国が買い取って修復し、中国初の空母として建造するのである。だがこの時、マカオ港の水深は「ワリヤーグ」を受け入れられず、「ワリヤーグ」が牽引されて戻った後、どこに安置するかがすでに買主にとっての頭の痛い問題となり、手放したいと思うようになっていた。筆者は考える。中央はまさに大局的に見て香港、マカオの同胞の提案を取り入れたのである。こうしてやっと廃棄された空箱の空母「ワリヤーグ」の運命が変わり、中国初の空母となる輝かしい今日があるのである。

5.ワリヤーグ空母の13年という非常にゆっくりした長い道のりは、中国空母科学技術のために堅実な基礎を固めた。「ワリヤーグ」の困難な帰国から新たに出航するまでの13年間は、道のりはゆっくりしていても風雲急だったと言うべきである。筆者は思う。現在修復された新たなワリヤーグ号は8回の航海試験を無事完了し、この期間に我が国の造船業や空母建造に関係する科学者たちがどれほどの心血を注いだか、その辛酸苦楽は明らかに我々局外者の知り得ないところである。しかし、ワリヤーグ修復への探索は、いかなる悪条件で事業を成功させた人と比べても少し良かった。こうした探索の経験は、中国による真正の国産空母建造に対し、疑いもなく極めて大きな助けになる。(頑住吉注:原ページには次に画像がありますが、国産空母のあまりうまくない想像図でどうでもいいです。)

以下はリンクのための原報道

「中国の船長、当時ワリヤーグ号を牽引し帰国する際の曲折の経緯を回想する」

2012年7月2日12:02 グローバルネット

現代の軍事科学技術の発展につれ、人類は20世紀初めに空母の時代を迎えた。世界の列強は次々に空母を研究開発、建造し、現代の海上戦争は新しい模式に入った。1922年12月、日本の「鳳翔」号空母が率先して進水、就役し、同年アメリカの「ラングレー」号空母が本国海軍に編入された。次の年、イギリス、フランス両国の空母が相次いで就役した。ソ連、スペイン、インドなどの国は相前後して自主研究開発あるいは購入改装の方式によって海軍に空母を装備した。2011年7月、中国国防部は初めて旧ソ連の古い廃品の空母「ワリヤーグ」号を改造し、科研試験と訓練に用いることを認めた。2011年8月から今までに、中国空母はすでに相次いで8回の航海試験を行い、ほどなく正式に就役すると予想されている。その時から、中国も自分の空母を持つ時代を迎えることになる。

「ワリヤーグ」購入から初の試験航海までの期間には13年の時間を費やした。中国政府と民間人はいずれもこのために辛い努力をした。2012年4月、グローバルネット記者は三亜において、2001年末に南アフリカ共和国ケープタウン付近の海域に行き、「ワリヤーグ」の牽引しての帰国に参与した中国の牽引船船長余新洪にインタビューを行った。これは彼が初めてメディア向けに10年前のこの経歴を語ったものだった。

1998年、マカオの創律旅行娯楽社はオークションによって未完成の旧ソ連空母「ワリヤーグ」号を購入し、牽引して戻った後で海上の娯楽施設に改装し、マカオ海域に停泊させることを計画した。説明によれば、航海知識に基づけばマカオ港の水深は「ワリヤーグ」を受け入れられず、このため「ワリヤーグ」が牽引されて戻った後、どこに安置するかにつき、当時まだ定まった意見がなかった。1999年7月、「ワリヤーグ」は1隻の2万馬力のロシアの牽引船に牽引され、ウクライナの港を離れ、ゆっくりとして長い帰国の旅を開始した。ゆっくりとして長いという言葉をここで使うのは全く誇張ではなく、具体的期間に言い換えれば2年8カ月である。

トルコ、「ワリヤーグ」のその海峡通過を拒絶

「ワリヤーグ」が黒海を経てトルコのボスポラス海峡に到着した時、トルコ政府の阻止に遭った。余新洪は次のように説明して語った。ボスポラス海峡水域は複雑で、航路は狭く、「ワリヤーグ」号は体積が極めて大きく、身分が特殊であり、トルコ政府は安全でないこと、技術的難易度を理由に、ワリヤーグの海峡通過を拒絶した。

「ワリヤーグ」は黒海においてもう少しで暗礁への接触事故を発生させるところだった。「ワリヤーグ」が牽引船の牽引下で黒海を徘徊すること約1年、この期間に劣悪な天気に遭遇し、牽引ケーブルが折断し、「ワリヤーグ」は一度コントロールを失ってもう少しで暗礁に接触するところだった。中国サイドはずっとトルコ政府を説得し、「ワリヤーグ」を通過させる試みを努力して行っているところだった。説明によれば、双方は当時一連の旅行に関する協議に署名し、トルコ政府はさらに中国サイドに多項目の、「ワリヤーグ」通行時に備えることが必須な安全上の条件を提出した。

中国サイドは複数の牽引船を雇って「ワリヤーグ」の海峡通過を助けさせた。余新洪の説明によれば中国サイドは数隻のギリシャの牽引船を雇って臨時に「ワリヤーグ」の海峡通過を助けさせた。海峡を出た後、ロシアの牽引船と1隻のギリシャの牽引船が牽引して航行を継続した。中国の牽引船はケープタウン海域で牽引作業に加わった(頑住吉注:内容が前後しており、これは元々小見出しのようです)。エーゲ海(頑住吉注:トルコとギリシャの間の海)に到着した後、エジプトサイドが「ワリヤーグ」のスエズ運河通過を拒絶した。「ワリヤーグ」は一路西に向かうしかなく、地中海を経てジブラルタル海峡へ進路をとり、さらに南下して喜望峰を回った(頑住吉注:日露戦争時、バルチック艦隊の大型艦もスエズ運河を通ることができず、同様に喜望峰回りの迂回を強いられました)。2001年12月、中国サイドは当時広州救難局の9000馬力の救助牽引船「穂救201」号をケープタウン付近の海域に派遣し、「ワリヤーグ」牽引の任務に加入させた。これは唯一牽引作業に参与した中国の船舶でもあった(頑住吉注:先ほどの説明によれば余新洪はここで加わったわけで、ここまでの「説明によれば」は伝聞ということになります)。

3隻の牽引船が力を合わせて「ワリヤーグ」牽引作業を行う

2001年12月、「穂救201」はケープタウン付近の海域で牽引船隊と合流した。余新洪の説明によれば、「穂救201」は主に航路護衛の任務を担当し、2隻の外国船籍の牽引船を助けて牽引作業を執行した。帰国途上で、「ワリヤーグ」は他国の港に入って停泊することはできず、2隻の外国籍の牽引船が港に入って補給を必要とする時、「穂救201」がそれらに代わって「ワリヤーグ」を牽引した。

牽引作業の難易度は高く、海上の生活条件は苦しかった。空母の体積が巨大なため、大馬力の牽引船の牽引下であっても航行速度は非常に緩慢で、ケープタウンから大連まで航行するのに3カ月前後の時間を費やした。船舶機械の故障と補給の必要のため、3隻の牽引船の共同作業が必須で、順繰りに「ワリヤーグ」を牽引した。船隊がマダガスカル海域に到着した時、ギリシャの牽引船が港に入って給油し、「穂救201」が交代して牽引作業を執行した。牽引を代わる時はまず相手の牽引ケーブルを外し、その後に後任船舶のケーブルをしっかり固定する必要があり、これを航行中に行う難易度は高かった。帰国途中、牽引船の上での生活は非常に苦しかった。余新洪は回想して語る。補給が不足した時、船員たちは緑豆と黄豆をもやしにして食べ、大連に到着する数日前、船上にはすでに野菜はなく、数個の缶詰が残っているだけだった。

帰国の途上、「ワリヤーグ」は不審船舶の偵察を受けた

ケープタウンから一路北上する過程で、中国サイドは念入りに航路を設計した。その時はちょうど冬で、インド洋には台風が比較的多く、南海の状況は劣悪だった。「穂救201」はさらに同行する船舶のナビもする必要があった。余新洪は回想して語る。天気のよい時、彼らはボートを下して「ワリヤーグ」に接近させ、乗船して牽引具を検査した。当時、「ワリヤーグ」内部にはまだいかなる生活施設や武器装備も取り付けられてはいなかった。2000年、陳水扁が台湾地区の最高指導者の任につき、台湾海の情勢は一度緊張した(頑住吉注:陳水扁は独立色の強い総統でした)。「ワリヤーグ」はわざと台湾海峡を避け、バシー海峡を経て北上を継続した(頑住吉注:バシー海峡は台湾とフィリピンの間の海で、要するに台湾と大陸の間を通過するのを避け、台湾の手前で太平洋側に出たということです)。しかし広大な海の中であっても、巨大な体形と潜在的な軍事上の意義ゆえに、やはり「ワリヤーグ」は猜疑と偵察の対象だった。余新洪は回想して語る。台湾の東を通過する時、不審船舶が船隊を追尾するのを見た。ある船員は潜水艦の潜望鏡を見たとさえ語った、と。

数カ月の困難な航行を経て、「ワリヤーグ」と牽引船隊は大連外港に到着した。この時黄海海域の天候は良くなく、霧や靄が立ちこめ、港に入って停泊することができなかった。3隻の牽引船は「ワリヤーグ」を牽引し、大連付近の海域で2日前後徘徊した。2002年3月3日、見通しが比較的良くなり、港に入ることができた。余新洪の説明によると、大連サイドは3、4隻のタグボートを派遣して「ワリヤーグ」が港に入るのを助けた。港は全面的に厳重な警戒体制で、いかなる歓迎儀式もなく、記者を集めるなどのこともなされず、過程全体がとても低調だった。2隻の外国船籍の牽引船は補給を終え、短時間停留して当日のうちに港を離れた。「穂救201」は大連港務局の埠頭に停泊し、物資を補給し、やはり翌日には出航して広州に帰った。

1人1人の具体的な人、1つ1つの具体的な事情が「ワリヤーグ」の運命を決定した。船体を組成する数万トンの鋼鉄は「ワリヤーグ」の重さを構成しているが、この艦はこの非常に大きく頑丈な身体を使って、1つの民族の夢の重みを受け入れなければならない。これは万トンに比べてもさらに重いヘビー級の夢である。「ワリヤーグ」の困難な帰国、そしてまた新たに出航するまでの十数年間、無数の余新洪のような身をもって努力し実行する、青春と汗水を使って「ワリヤーグ」の運命を決定付けた人たちがいた。まだあまりにも多くの、人に知られない感動的な物語や苦しい回想があるのかもしれない。部外者として我々が見たのは1つの群体の支払いと報告であるが、余新洪にとってこの過程は一生の記憶となる。何故なら彼はこの偉大な夢の実践者の中の1人だからである。

中国人の空母の夢はあまりにも長く、実現の過程はあまりにも曲折を経た。改造し完成した空母は将来において中国海軍の1隻の試験・訓練艦に過ぎないが、その存在は億万人の心の中に空母コンプレックスを持つ中国民衆を感動させて止まない。またこの艦を起点に、中国は徐々に壮大な空母作戦群の力量を建立し、遠方360万の青色国土(頑住吉注:文脈からたぶん外国との争いのある島々のことかと思います)の無敵の守護者となる。


 「中国はワリヤーグを軍事利用するつもりは全くなかったが、西側の妨害によって西側の中国に対する敵意を再認識させられた結果、ワリヤーグを修復し空母として使うことになった。」という論理は、先日の北朝鮮による、「北朝鮮は核実験など計画したことはなかったが、アメリカが核実験説をあおって対決を強いるなら本当に核実験を行わざるを得なくなる」にそっくりです。注意していただきたいのはこれは別に中国当局の主張ではなく、この筆者が勝手に思っているだけだということで、この人は北朝鮮的センスの人なんでしょう。引用されたグローバルネットの文章も、その中の余新洪のコメントも、基本的に「こんなに大変な仕事だったんだよ」という内容であって、別に不当な妨害を受けたという意味の内容はありません。

 この筆者は「トルコはボスポラス海峡水域は複雑で、航路は狭く、「ワリヤーグ」の体積は極めて大きく、身分が特殊であると称したが、まさかアメリカの空母のどれかが「ワリヤーグ」より小さいというのか? 言うところの特殊とは、まさに「ワリヤーグ」がすでに中国のものになっていたことが特殊だったのである!」と感情的(というかむしろ被害妄想的)に書いていますが、素人考えでも自ら航行して狭い海峡を通過するより牽引して通過する方が難易度が高いこと、熟練した空母の操縦者よりすぐそこからたぶん初めて空母を牽引してきただけの船乗りの方が信頼し難いことは容易に想像がつきます。何かの本で船乗りには「舵のない船は引けぬ」ということわざがあるというのを読んだことがありますが、当時ワリヤーグの舵が機能したとは思えず、仮に機能したところでそもそも基本的に誰も乗っていなかったわけです。その後の航行で3隻の船を使っても牽引が困難だったこと、広い黒海でも悪天候に見舞われると制御不能に陥って事故を起こしかけたことを考えても、トルコが拒絶したのは安全上の理由からと考える方が自然でしょう。そもそも拒絶し続けたわけではなく相応の安全対策を取れば許可を出したわけですし。

 トルコ政府と交渉したのは「中国サイド」という表現になっていますが、おそらく1旅行娯楽会社ではなく中国政府でしょう。全く軍事利用するつもりのない娯楽施設用の廃船を旅行娯楽会社が持ち帰るために中国政府が交渉に乗り出すのも、公用の船を派遣するのも極めて不自然で、少なくともこの時点では軍事利用するつもりだったとしか考えられません。ちなみに「ちょうど今日深センと天津の港の海辺で展示されているその他の2隻の旧ソ連廃品空母と同じ用途であり、軍事目的は毛ほどもなかった。」とも書いてますが、この2つの艦だって構造などを研究して参考にはしてるはずだと思われます。







戻るボタン