ローリン ホワイトのパテントをめぐって

 「DWJ」2005年6月号に、有名なローリン ホワイトのパテントとそれを避けようとして作られた変則カートリッジ式リボルバーに関する記事が掲載されていました。


Not macht erfinderisch(頑住吉注:直訳すれば「欠乏は(人を)発明の才あるものにする」といった感じでしょうが、「必要は発明の母」とほぼ同じニュアンスと考えていいようです)

このことわざは1858年にもあてはまった。当時まだわずかの知名度しかなかったスミス&ウェッソン社がアメリカ国内初の弾薬式リボルバーを発売した時、他の銃器メーカーは皆等しくこれを真似たものを作ることを望んだ。しかしパテント権上の理由から許されなかった。そこで何か解決策を見いださねばならなくなった。

 19世紀半ば、サミュエル コルトによって開発されたリボルバーは北アメリカにおいて断然人気のある銃器であり、軍で、金掘りたちの間で、そして「ワイルド ウェスト」征服に際して真価を発揮した。自身のパテントによって、コルトは独占的地位を得ていた。彼はこれを訴訟によって厳格に守った。しかしこれにより競争や発展開発も阻まれた。

 この状況は1857年のパテント失効によって根本的に変わった。いくつかの会社がすでにこの期日に備えて準備しており、この時独自のモデルを生産し始め、これらは全てパーカッションリボルバーだった。いや、唯一例外があった。マサチューセッツ州スプリングフィールドのS&Wはある弾薬式リボルバーをマーケットに持ち込み、これも同様に売れ行きの良い商品だった。

 このリボルバーは.22(5.6mm)口径のリムファイア弾薬用に作られていた。この弾薬はS&Wにより、Flobertのかわいらしい弾薬から、薬きょうの延長と黒色火薬の発射薬内蔵によって開発され、当初は自社でのみ作られていた。結果的には口径.44までの弾薬、そしてこれにより効果に富んだ銃が生産されるに至った。

S&Wリムファイアリボルバー モデル1

 この金属弾薬用の最初のリボルバーについてはすでに非常に頻繁に記述がなされ、また写真が掲載されているので、ここでは短い解説で充分である。このモデル1は小さな、比較的突起部が少ないポケットリボルバーであり、傾斜バレル(頑住吉注:ブレイクオープン機構)とシングルアクションハンマーを持っていた。真鍮製フレームは銀メッキされ、左サイドにはマウントプレート(頑住吉注:サイドプレート)があった。スチールから削り出されたバレルは上部が回転可能に収納され、下部はフレーム内にロックされた。バレルを傾けると7連発のシリンダーは装填のため前方に引き抜くことができた。発射済み薬きょうの突き出しは、バレル下に取り付けられたピンの助けを借りて行われた。シリンダーはその周囲に小さなノッチを持ち、この中にハンマーによって作動させられるスプリングのテンションのかかったレバーがシリンダー固定のためかみ合った。トリガーはスパー状に形成され、グリップパネルはローズウッドだった。この銃は.22(5.6mm)リムファイア弾薬用に作られ、これは今日の.22ショートとほぼ同じものだった。つまり近距離でのみ一定の効果を示した。小さな、しかし危険なおもちゃであり、コンシールドキャリー用の第2の銃として好んで使われた。しばしばギャンブラーに、あるいはある種の女性によって。この.22口径リボルバーの生産は1857年から1881年まで、いろいろなバリエーションで行われた。生産数は合計で約260,000挺となった。需要が大きかったので、このリボルバーの製造は1860年以後、新しい大きな建物に移さねばならなかった。本来の製造スペースには弾薬製造のみが残った。時々は他社が下請けをする必要があったが、それでも生じた供給遅延は2年に及んだ。

 1861年から(つまりちょうど南北戦争開戦の頃)、S&Wは口径.32リムファイアのモデル2をマーケットに持ち込んだ。この銃は6連発のシリンダーを持ち、77,155挺が生産された。1865年以後、同じ弾薬仕様だが5連発でしかないポケットリボルバーがモデル1と1/2として、2つのバリエーションで合計約127,000挺世に出た。これら全てがS&W社にとって「爆弾ビジネス」(頑住吉注:「大儲けできるぼろい商売」という意味の慣用句だそうです)だった。

Rollin Whiteパテント

 パーカッションリボルバーのシリンダーは袋状の穴ぐり(頑住吉注:この場合奥が行き止まりの穴、だけでなく内径が小さくなって貫通している穴も指していることに注意)を持っている。この穴はハンマーに向け、ピストン(頑住吉注:パーカッションキャップを装着するもの、ニップル)のためのネジに向けすぼまっている。装填はシリンダーの前面から行われる。これとは異なり、弾薬式の銃は貫通した(頑住吉注:と通常訳されますが、正確には同じ径のまま貫通した、と理解すべきでしょう、うまい訳が思い当たらないので以後「一貫した」)としますシリンダーの穴ぐりを必要とする。これにより弾薬は後方から導入できる。

 このことは今日のようにそう当たり前のことではなく、S&Wリムファイアリボルバーの出現はある意味まったく新しいできごとだった。「古きヨーロッパ」とは異なり、少なくともアメリカ国内では。ヨーロッパではEugene Lefaucheuxが1854年にピンファイア点火機構を持つ金属弾薬用のリボルバーを登場させており、これは一貫したシリンダーの穴ぐりを持っていた。北アメリカにもこれに対応するパテントが存在した。これはコルトの従業員ローリン ホワイトがナンバー12,649のもとに1855年4月3日に得ていたものだ。だが彼がこれを提示したサミュエル コルトは興味を示さなかった。

 このパテントは、ハンマー前方に自動的な点火薬供給器、およびシリンダー側前方にリネンで包まれた弾薬用のマガジンを持つパーカッションリボルバーに関係するものであり、この弾薬は装填プレスの助けにより、前方からシリンダーの穴ぐり内へと導入された。この装填システムのために、このシリンダーは一貫した穴ぐりを持っていた。このパテントアイデアに従って1挺の試作リボルバーが作られたが、この発明はその複雑さゆえに生産に移行することは決してなかった。

 マサチューセッツ州出身のHorace SmithとDaniel B.Wesson(頑住吉注:以後ホーレス スミス、ダニエル ウェッソン)は、Jenningsによる連発システムに携わっていた。このシステムでは、火薬で満たされた空洞部を持つ弾丸と、セパレートな点火薬が使われていた。彼らは弾丸、発射薬、点火薬を自身の中にまとめた弾薬を使うことによって改良することを試みていた。彼らはこれを、パリ在住のFlobertが発明したリムファイア弾薬をベースにして開発した。

 1852年、彼らは1854年2月14日にパテントが取得された連発ピストルを製造するために初めて共同経営を行うに至った。このアンダーレバー(頑住吉注:レバーアクション)メカニズムは完璧に作動したが、リムファイア弾薬と、そこから開発された「ロードされた弾丸」、ケースレス「弾薬」に関する問題が存在した。これはその空洞部の中に発射薬と、その後方に点火薬を含んだ円盤型の栓を持つものだった。

 資金が尽きかけた時、1855年にスミスとウェッソンは彼らの持ち株を売却し、Volcanic Repeating Arms Company(1857年にOliver Winchesterが買収)を設立した。この社においてダニエル ウェッソンは「plant superintendent」のポストを得た。そこでの活動と同時に、彼はリムファイア弾薬に関する実験を続行した。.22口径弾薬用リボルバーの木製モデルは1856年8月に完成し、53.24ドルのコストがかかった。当時は、コルトのパテントが失効するやいなや生産を開始するという、希望を持ち得る根拠があった。

 ウェッソンはこの構造によってパテントが得られるかに関する調査において、一貫したシリンダーの穴ぐりを持つローリン ホワイトのパテントに行き当たった。この時彼はこのパテントの無効を主張することもできただろう。何故ならそれは(頑住吉注:ピンファイアリボルバーですでに使われていた一貫したシリンダーの穴ぐりという)既知のアイデアを含んでいたからである。だがそれが成功した場合、他社全ても同様に弾薬式リボルバーを作ることが可能となったはずだ。ダニエル ウェッソンは独占権を得ようと努め、1856年10月31日にローリン ホワイトに手紙を送った。彼にある「協定」を提案するためである。1856年11月17日にはすでに会合が持たれ、ここで独占的ライセンス契約が締結された。この際には(頑住吉注:Volcanic Repeating Arms Companyではなく)S&Wが契約パートナーとして登場した。つまりその前に第2の共同経営が発足していたことが明らかである。彼の兄弟のパテント侵害による訴訟に関する厳しい経験から学んでいたダニエル ウェッソンは、契約内容を確実なものとした。すなわち、ローリン ホワイトはパテント有効期間中に生産される一貫した穴ぐりのシリンダーを持つリボルバー全てに関し0.25ドルの報酬を手にする。ただし他方において、全てのパテント抵触を自身の出費で訴える義務を負う。これは彼にとって非常に高くつき、その結果収入は大幅に使い果たされ、彼がリッチになり得ることは決してなかったのである。

 新設された会社にホーレス スミスは1646.68ドル、ダニエル ウェッソンは2003.63ドル出資した。最初に彼らはリボルバーの金属製モデル1挺を作った。これは1857年1月に完成し、46.64ドルのコストがかかった。この時彼らパートナーはスプリングフィールドの第5マーケットストリートに小さな店を賃借し、生産準備を始めた。これは1858年1月には終わった。これにより銃器史に、S&Wが重要な地位を占める、新たな1章が開かれた。

模倣者、そして追随者

 新しいリムファイアリボルバーがヒット商品となると、他社は「列車に飛び乗る」(頑住吉注:「電車に乗り遅れるな」と似た言い回しですね)ことを望み、単純にこれを模造した。出自を隠ぺいするため、しばしばメーカーの表示なしで。

 他のメーカーは独自構造の新しいリムファイアリボルバーを作った。例えばAllen&Wheelockのようにである。この会社はペッパーボックスリボルバーで有名であり、さらには閉じられたフレーム(頑住吉注:ブレイクオープン等でないソリッドフレーム)を持つパーカッションリボルバーを生産していた。これらは簡単にリムファイア弾薬の使用のために構造変更することができた。こうしてS&W同様7連発の.22ポケットリボルバーだが、コルトのRootリボルバーのようにサイドハンマーと閉じられたフレームを持つ、つまりより堅固で、その上S&Wの銃より2cm短いモデルが登場した。



 装填のためにはシリンダー軸が後方に引き抜かれ(頑住吉注:上の写真で、シリンダー軸の後部がつまみ状になっているのがわかります)、シリンダーが取り外された。このリボルバーはスパートリガーを持つシングルアクションで、金属部品はニッケルメッキされ、グリップパネルはウォールナット材だった。シリンダー上に刻印されたメダリオンは、紋章、銃、馬に乗った人、船を示していた。バレルには次のような刻印があった。「ALLEN & WHEELOCK, WORCHESTER, MASS. U.S./ ALLEN'S PATENTS SEPT.7,NOV.9, 1858.」 1858年から1862年までに、合計1,500挺が生産された。

 ひょっとするとS&W弾薬から距離を置くため、しかしメリットを期待したためでもあったが、アレン&フィーロックは独自の弾薬を開発した。円周状のリムの代わりに1つだけの突起部(つまり点火薬のための「リップ」)を持つものだった(頑住吉注: http://mselect.free.fr/gallery/img1/2408-.jpg 言うまでもなくピンファイア同様この突起をシリンダーの外側に合わせなければならず、装填が面倒です http://cwsimages.wsmgt.net/clients/404/full_3287_photo7.jpg それにしてもこの銃は異様な排莢機構を備えてますね)。このリップファイア弾薬に関し、イーサン アレンは1860年9月25日、U.S.パテントナンバー30109を得た。パテントの理由付けの中で、リムファイア弾薬の1/8しか点火薬を必要とせず、薬きょう底部により抵抗力があるとされている。後者の理由は当たっていた。というのは、すでに早い時期において大口径弾薬を製造することができたのである。より詳しく言うならポケットリボルバー用の.25および.32、そしていわゆるネービーおよびアーミーリボルバー用の.36および.44である。

 その後この(頑住吉注:大口径リップファイア弾薬の)ために銃も開発された。名称は「アレン&フィーロック センターハンマー リップファイアアーミー」で、6連発リボルバー、口径は.44リップファイア、7と1/2インチのバレルを持ち、半分はオクタゴン、半分はラウンドだった。このバレルにも「ALLEN & HHEELOCK, WORCHESTER, MASS. U.S./ALLEN'S PAT'S SEP.7, NOV.9, 1858」の刻印があった。この弾薬は後方からシリンダー内に装填され、シリンダーにはリップのための切り欠きがあった。この銃は閉じられたフレームを持ち、バレル側面にはエジェクター、シリンダー後方には回転可能なローディングゲートがあった。グリップパネルはウォールナット材だった。このモデルは1860年代初めに製造され、その数は約250挺だった。

 .25口径の7連発ポケットリボルバーは200挺より少ない数が生産され、これは3インチバレルを持っていた。この銃も固定されたフレームを持ち、スパー型のトリガーと、左サイドにある丸いサイドプレートが特徴だった。この銃は通常メーカーの表示を持たない。全てのリップファイアリボルバーは極度にレアで、このためコレクターが切望している(頑住吉注:そりゃ元々そんな少数しか作られてないんですから150年以上経ったら極度にレアになるのも当然です)。



.44および.25口径リップファイアリボルバー

 これらリムファイアリボルバーもリップファイアリボルバーもローリン ホワイトのパテントに抵触した。後方から装填される、完全に一貫した穴ぐりのシリンダーを持っていたからである。このためアレン&フィーロックも訴えられたが、裁判は長引いた。1863年11月、審理においてアレンは攻勢に出た。ローリン ホワイトのパテントの有効性に異論を唱えることによってである。このパテントは無効と見られた。何故ならアメリカの大衆はそれ以前に外国のパテント(これは特にEugene Lefaucheuxのことを言っていた)により、ローリン ホワイトのパテントの根幹部分を使用している状態にあったからである。このためアレンは本来的には正しかった。だが法廷は最終的にS&W勝訴の判決を下した。生産は中止を強いられ、賠償金が支払われた。

 これは過酷なことだったが、アレン&フィーロックは破滅しなかった。というのは、南北戦争による銃器需要は大きく、再びパーカッションリボルバーさえ生産し始めたからである(頑住吉注:またペッパーボックスさえ一時的に人気を回復しました)。

 困難はスプリングフィールドアームズカンパニーにも降りかかった。この会社は1863年頃すでに比較的効果の大きい.30口径リムファイア仕様のポケットリボルバーを約6,000挺生産していた。形状はS&Wリボルバーモデル1に似ていたが、閉じられたフレームを持ち、このフレームは同様に真鍮製で銀メッキされていた。装填のためには右サイドのローディングゲートを下にスイングした。このゲートにはスプリングのテンションがかかっておらず、上部が小さなレバーで保持されていた。シリンダー軸は、スプリングのテンションがかかった保持部品を押すと前方に引き抜くことができた。バレルはブルーイングされ、上部のレール状部分には「SPRINGFIELD-ARMS-CO. MASS」の刻印が、シリンダー外周には「MANUFACTURED FOR SMITH & WESSON PAT. APRIL 3, 1855」の(頑住吉注:つまり他社のパテントのため、という奇妙な)刻印があった。

 これには次のような事情があった。ローリン ホワイトのパテントを理由とする権利闘争の際、スプリングフィールドアームズCo.は予想通り資金難に陥った。1,513挺のリボルバーが紛争の調停のためS&W社に譲渡され、その前に前述のシリンダー刻印が打たれたのである。これらの銃は今日、この追加刻印がないリボルバーよりも15から20パーセント高値がつけられる。



ハンマーの下に見える銀色の長方形のパーツを前方にスライドさせてゲートを保持する、また三角の突起部を押し込むことでシリンダー軸を抜くということと思われます。

迂回モデルはアイデアを要した

 スミスとウェッソンがパテント侵害を理由とする全ての訴訟に勝利を収めた後、全ての侵害行為は不可避的に失敗に導かれることが明確となった。間に合わせではだめだったのである。割のいい「ケーキ」の一片を確保したい(頑住吉注:これもパイを分け合う、といった言い回しに似てますね)者は、いくらかの思いつきができる必要があった。このために作られるリボルバーは、弾薬を使用して発射を行うが、弾薬はシリンダー後面から装填されてはならなかった。しかし前方からのシリンダーへの装填(front loading)は特殊な弾薬を必要とし、これは開発を要するものに該当した。多くの発明家がこれに取り組み、30以上のパテントが申請されたが、大部分は現実のものとならなかった。

 ここでは以下において、ローリン ホワイトのパテントの迂回のために開発された2つの最も重要な弾薬の方式と、それに属する銃について解説したい(頑住吉注:私は歴史的に最も重要なのはコルトのThuerシステムかと思っていましたが、その生産数は5,000挺ですからこれから解説される機種よりずっと少数にすぎません)。

カップファイアシステム

 前方から装填される弾薬は、2つの要件を満たさねばならなかった。すなわち、後端にはハンマーによって到達可能なように点火薬が配置され、そしてこの弾薬はハンマーの打撃を前方に逃がす可能性がない、ということである(頑住吉注:前方から装填されるのに、後方からハンマーで叩かれてもすっぽ抜けてはいけない、というわけです。ちなみにThuerシステムはテーパーのかかったチャンバーに同じくテーパーのかかった弾薬を強く押しこんで固着させるという方法でした。これだと両者とも非常に正確に作る必要がありますし、発射後薬きょうはガス圧によってさらに強烈に押し込まれてしまうので抜くのが困難になります)。

 「カップ」弾薬は円筒形の薬きょうを持ち、その底部は内側に向かってアーチ状にすぼまり、(頑住吉注:この文の後半意味不明)。円筒形の外部ジャケットとすぼまった底部の間のschmale(頑住吉注:狭い、細長い、薄い、などの意味があり、そのいずれか不明)な空洞はすっかり点火薬で満たされていた。落ちたハンマーはその大きく湾曲したノーズで外壁を内壁に打ちつけ、点火を引き起こす(頑住吉注:薬きょう底部が二重構造になっていて、その間に点火薬があった、という説明のようです。 http://www.municion.org/Cupfire/30Cupfire.htm この断面図ではそう見えないんですが、硬いものの間で強く挟まれなければ確実な発火は望めないはずです)。弾丸は完全に薬きょう内にあり、ギザギザ加工部(頑住吉注:クランプ)まで押し込まれている。薬きょうのマウス部はバレル後面にあてがわれ、この際弾薬の一部にある外側に湾曲した縁が支持をなしとげる(頑住吉注:先端のカップ状部分の径がバレル内径より大きいので、ハンマーの打撃により弾薬が前進して先端がバレルに入り込んでしまうことはない、ということです)。

 パテント文書によると、この縁は薬きょうの引き抜きの際、指のためのより良い保持に役立つという意図である。Willard C. ElisとJohn C. Whiteはカップファイア弾薬に関し、1859年7月12日にパテントナンバー24,726を手にした。この弾薬には.28から.42までの5つのサイズがあり、最も多かった口径は.30だった。この弾薬は「hollow-base cup primer cartridge」と呼ばれた。

Plantリボルバー

 このカップファイアパテントは、コネチカット州ニューヘブンのPlant's Manufacturing Companyに買収され、多くのリボルバータイプに使用された。1860年代半ば、いわゆる「アーミー」リボルバーが登場した。これは決して制式採用銃器ではなかったが、一部私的に購入されて南北戦争でも使用された。この銃は.42カップファイア弾薬用に作られていたが、標準装備のパーカッション仕様第2のシリンダーも持っていた。特殊な弾薬がしばしば入手困難だったからである。ファースト、セカンドモデルは少数生産だったが、サードモデルは10,000挺に達した。

 .28および.30口径のポケットモデルがよく知られており、これらはPlantパテントのもとに1860年代半ば、いろいろなメーカーによって生産された。

 コネチカットアームズカンパニー社のリボルバーはブルーイングされたバレルを持っていた。このバレルは、真鍮製で銀メッキされたフレームにねじ込まれ、ピンで固定されていた。堅固な構造で、その上加工グレードも良好だった。他がしばしばそうだったようにこの銃もスパートリガーと、磨かれたローズウッド製のグリップパネルを持っていた。この銃は形状からS&Wリボルバーとの親類関係を否定することができず、18cmという全長もおおよそ一致していた。

 弾薬は中間位置でシリンダー内に前方から導入され、ハンマーがコックされ、あるいはダウンした状態では落下する可能性はなかった(頑住吉注:ハンマーがコックされる途中では落下する可能性があるわけで、クイックドロウしながらハンマーをコックしたら重力プラス慣性によって弾薬が前方に抜け出てシリンダーを止めてしまうおそれがあると思われます)。ハンマーノーズはフレームとシリンダーのスリットを通って上方から弾薬を叩き、これに点火した。射撃後、薬きょうは下方に位置する回転可能なレバー(シリンダーのスリット内にかみ合う)によってシリンダーの穴ぐりから前方に押し出され、取り出すことができた。このリボルバーはバレル上に「CONN. ARMS CO. NORFOLK CONN.」の刻印、シリンダー上に「PATENTED MARCH 1th 1864」の刻印があった。これはS.W. Woodがこの銃のディテールに関して手にしたパテントを示していた。



シリンダーストップ用ノッチのように見えるものは実は貫通していて、ハンマーはここを通して弾薬後部を叩いて発火させ、またこのようにレバー操作で薬きょうを前方に押し出すわけですね

 さらなるPlantリボルバーはすでに外観が前述のタイプとは異なっていた。この銃はフレーム右サイドにピン付きのケースを持っていた。このピンは球状の操作部を持ち上げると、弾薬の突き出しのため前方にスライドすることができた。このエジェクターはReynoldsによって発明された。このエジェクターに与えられた前提条件は自明である。シリンダーは(前述のモデルとは異なり)貫通した穴ぐりを持っていた。その後端はパテントを侵害しないため、チャンバーよりいくらか小さかった。この銃にはシリンダーのスリットは不必要だった。ハンマーがその長い、湾曲したノーズでシリンダーの穴ぐり後部を通って弾薬の丸みをおびた部分内側に到達するからである。



ボルトアクションライフルのボルトハンドルのような部分を持ち上げ、前方にスライドさせると薬きょうを押し出すことができるわけです

 この銃は他の点では(サイズ上も)コネチカットアームズによって製造されたリボルバーと同様だったが、シリンダー軸を前方にスライドさせるとシリンダーを取り外すことができた。この銃のバレル上には「EAGLE ARMS. CO. NEW YORK」の刻印が、シリンダー上には「PATENTED JULI 21. 1863」の刻印があった。このパテントは同様にEllisとWhiteに与えられたもので、後部の小さなシリンダー穴ぐりに関係するものだった。この銃は.30口径弾薬用に作られていた。

 すでに挙げたメーカーの他に、ニューヨークのMerwin & Bray Firearms Co.、コネチカット州ニューヘブンのReynolds, Plant & Hotchkissもこのリボルバーを生産した(合計約20,000挺)。写真を掲載したのはMerwin & Brayの.30口径、付属の弾薬とともにケースに収められた型である。真鍮製フレームにはエングレーブが彫られ、研磨され、バレル、シリンダー(5連発)、ハンマー、トリガー、エジェクターはブルーイングされ、グリップパネルはパール製だった。バレル上には「MERWIN & BRAY FIREARMS. CO. NY」の刻印が、シリンダー上には「PAT. JULI 12. 1859 and JULI 21. 1863」の刻印があった。

MooreのリムファイアおよびTeatfireリボルバー

 禁を破ってリムファイアリボルバーを製造し、供給した会社の中には、ニューヨーク州ブルックリンのMoore´s Pat. Firearms Companyも含まれる。しかしこれは1861年に.32口径リムファイア弾薬が登場した後のことだった。この銃はオープンなフレームを持ち、バレルとシリンダー(7連発)は装填のため、一定距離右にスイングできた(頑住吉注:この写真はないのではっきりわかりませんが、ヨーク、クレーンにあたる部分に垂直の軸があってバレルとシリンダーが一体でコルトNo.3デリンジャーのように横にスイングするんではないでしょうか)。これはH.P. Musterが評価したように「発達上の際立ったステージ」だった。

 発射済み薬きょうの除去のためにはバレル下の引き出し可能なピンが役立った。4から6インチまでの銃身長と7連発シリンダーは、このリボルバーを南北戦争における個人的購入銃器として非常に好まれるものとした。しばしばこの銃は6連発でしかないS&Wモデル2(アーミー)よりも好まれた。

 ホワイト、スミス、ウェッソンのムーアに対する最高の、「悪行をやめさせる」時がやってきた(頑住吉注:この文はしゃれた慣用句が複数使われているようでうまく訳せませんが意味は大体分かるのでよしとしましょう)。これは1863年に起こった。スプリングフィールドの場合と同様に、銃の一部はバレル上に「MF´D FOR SMITH & WESSON」の刻印を得た。

 この時ムーアの社は他の道を歩まねばならなかった。つまりPlantのようなフロントローダー方向に、しかし当然他の弾薬をもってである。
この弾薬では点火薬は縁にではなく、中央の突出した「ニップル」の中にあった。このニップルは、この場合も当然完全に一貫してはいないシリンダーの穴ぐり後部から突き出し、そこでハンマーに到達された。ニップルのハンマーに叩かれる部分は円形の横断面を持っても、あるいはいくらかつぶした形でもよかった。この弾薬の場合も弾丸は完全に薬きょう内部に位置し、薬きょうのマウス部はアンロード時に持つ部分として明瞭に外側に広げられていた。

 この弾薬はブルックリンのDavid Williamsonによって発明され、1864年1月5日にパテントナンバー41,183が与えられていた。この弾薬は公式には「Central Fire Waterproof Copper Shell Cartridge」と言ったが、一般にはTeatfire弾薬と呼ばれた。

 明らかに開発は(頑住吉注:ウィリアムソンとムーアが)協力して行われた。というのは、ムーアは1863年4月28日にはすでにこれに対応するリボルバーに関するU.S.パテントナンバー38,321を手にしたからである(頑住吉注:弾薬が発表されてから銃の開発に着手したのならこんなにインターバルが短いはずはない、ということです)。このパテントは袋状の穴ぐりと、後面の小さな開口部を伴うシリンダーを伴っていた。そしてシリンダー前方に回転可能なレバーを持ち、このレバーは閉じた状態では弾薬が落下してしまうことを防いだ。

 このムーアTeatfireリボルバーは全長17.5cmのコンパクトなポケット銃器で、口径.32のバレルはラウンド、6連発のシリンダーにはノッチがなく、トリガーはスパー、バーズヘッドグリップはウォールナット製で、より稀にはグタペルカ(頑住吉注:硬質なゴムの一種)あるいはパール製だった。バレルとフレームの結合は、コルト製パーカッションリボルバーを思い出させる横方向のくさびで行われていたが、これは本来技術的には退歩だった。装飾付きの銀メッキされた真鍮製フレームは、この場合スタンダード型だった。



シリンダー前下方のパーツを反時計方向に回転させて銃と密着させると、銃口を下に向けてゆっくりコックしても弾薬は落ちない、というわけです。エジエクターはありませんが、リコイルシールドの一部が切り欠かれており、ここから適当な棒で押し出せ、というわけでしょう

 手元にある銃にはバレルの刻印がないが、シリンダー後部には「D. WILLIAMSONS PATENT JANUARY 5. 1864」の刻印がある。このリボルバーがよく売れたにもかかわらず(S&Wが.32口径のポケットリボルバーを登場させたのは1865年になってからのことだった)、ムーアの社は1867年に財政難に陥り、National Arms Co.として他の経営陣の下で運営継続された。

 ムーアの下で約20,000挺のこのモデルが製造され、ナショナルアームズでは約5,000挺だったことは忘れてはいけない。遅い時期の型である約7,000挺のリボルバーは側面に薬きょうを排出するためのフック部を持つスイング金具を得た。この回転軸はシリンダー後壁の下側にあった。

 ナショナルアームズCo.はさらに、大型フレームと.45口径の7と1/2インチバレルを持つ「Large Frame Teatfire Revolver」を製造した。つまり6連発シリンダーを持つ一種のアーミー型である。このリボルバーも同様に銀メッキされた真鍮製フレームを持ち、バレルとシリンダーはブルーイングされていた。生産数は明らかに少なく、このためこのリボルバーは非常にレアなコレクター品目である。

 エングレーブ、銀メッキされたフレームと、バレルおよびシリンダーのオリジナルディープブルー仕上げはこのポケットリボルバーの外観を良くし、さらに当時としては比較的強力な弾薬を発射するという長所もあった。これに加えこの銃は、弾薬がシリンダーの穴ぐりの後壁に非常に確実にあてがわれる、との論拠で推奨された。これに対しS&Wリボルバーは弾薬のリムが露出し、射手を脅かすというのだった(頑住吉注:リム部が破裂する、ということか、あるいは発射時の圧力で後方に押された薬きょうが銃の構造の一部を破壊して後方に飛ぶ、ということでしょう。確かにこうした可能性は前方から装填する、後部が狭窄したシリンダー穴の方が低くなるはずです)。さらには後方がオープンなチャンバーを持つシリンダーの場合よりもエネルギーの損失が少ないともされた。約32,000挺の生産数により、同社はS&Wにとってのシリアスなライバルだった。同社が1870年にコルト社に買収されたのは理由のないことではなかったのである。


 あまり期待しないで読み始めたんですが、非常に興味深い内容をたくさん含んだ記事でした。

 まず私は、この記事に「これ用の実用的弾薬さえまだ存在しないそのようなパテントにコルトが何を望めただろうか?」という記述があったことから、ホワイトのアイデアが完成されたものではなかったことは分かっていましたが、まさか今回の記事にあったような、フリントロックリボルバーを思わせるような珍奇で実用性の全くないものだとは想像していませんでした。コルトは頑迷にダブルアクションも否定しており、自信過剰で頭の固い面があったのは確かのようですが、このアイデアを却下したのはまあ当然でしょう。

 次に私は、発明当時コルト社の従業員であったホワイトがコルトにアイデアを提供したものの拒否され、その後ホワイトのパテントをS&Wが取り上げ、後にコルトとの交渉で法外な使用料を要求した、という経緯から、将来性ありとアイデアに自信を持ったホワイトが冷淡に却下したコルトに恨みを抱き、アイデアを評価してくれたS&Wと一心同体になり、交渉のテーブルにも同席して「ざまあみろ」とにやついていた、といった漠然としたイメージ(ここまで行くと妄想?)を持っていましたが、これも全く違ったようです。むしろホワイトはしたたかなS&Wに利用された形だったようです。まあしかし全く実用性がないアイデアを出しただけの人間が金持ちになれなくてもしょうがないかな、という気もします。

 そして私はドイツでは、すでにヨーロッパではピンファイアリボルバーが広く知られた段階でホワイトのパテントが認められたのはおかしい、とする評価が多いことは知っていましたが、この件はアメリカではほとんど無視されてきたのかと思っていました。しかし記事のようにこの件は法廷で争われ、しかもそれを主張したのはあのイーサン アレンだったわけです。どういう根拠でこの主張が退けられたのか、ちょっと興味があります。

 前方から装填する変則リボルバーは苦し紛れの一時しのぎにすぎなかった、というのも誤解で、非常に多数が新規に生産され、(一部疑問があるとはいえ)後方から装填する方式に勝るメリットが主張されていた、というのも意外でした。

 検索していてこんなページも見つけました。

http://www.armscollectors.com/mgs/rollins.htm

 上の2挺は今回紹介されたものですが、一番下のは全く知らなかった形式です。まあこれは一定以上の高圧にはとても耐えられそうになく、まさに苦し紛れの一時しのぎでしょうが。





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