中国空軍のP-43戦闘機

 私そもそもこの戦闘機自体知りませんでした。抗日戦争時代のお話です。

http://military.china.com/history4/62/20130320/17738356.html


抗日戦争時期の中国空軍の切り札戦闘機

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「国民党軍が装備したP-43戦闘機」)

アメリカのリパブリック社のP-47サンダーボルトに関して話し始めればこれに詳しくない人はいないかも知れないが、その前身であるP-43「ランサー」は無名であり、さらに知る人が少ないのは、P-43がかつて中国の抗日戦争で独特の戦史の道のりを歩んだことである。

中国、P-43に興味

1931年の日本による中国東北侵入時には早くも、アメリカ人はもうすでに中日両国の空中戦力の対比に関心を注ぎ始めた。1931年8月31日、アメリカ軍のある評価文書は、中国には80機の戦闘機、80人の飛行員しかなく、このうち10〜12人しか「一流の戦闘機飛行員」とは呼べないとした。だが当時の「国民政府」の近代化された戦闘機に対する興味は異常に濃厚で、中国の兵器調達団ははるばるドイツに赴いて新型のユンカースK-47型実戦機を購入さえしていた(頑住吉注:これも全く知りませんでしたが日本語版Wikipediaのユンカースのページの航空機リストに名前だけあり、爆撃機とされています)。これはアメリカ人から見て、まず巨大なビジネスチャンスを意味していた。この後のある時期、ソ連製戦闘機が中国空軍の主力機種となったが、いくつかのアメリカの会社が競争で中国に人員を派遣し、発注争奪の活動を行った。争奪の激烈さに、業界内では「割喉」との呼び名があった(頑住吉注:「カットスロートアイランド」みたいな?)。一例だけ挙げると、シェンノートも推薦したセバスキー飛行機社のP-51戦闘機も種々の利害関係によってボツになった(頑住吉注:こういう機はないはずですがセバスキーが誤りなのかP-51が誤りなのか分かりません。有名なムスタング戦闘機はまだないはずです)。しかし、時局は人を待たず、1940年、日本海軍の新式「零」戦が中国の戦場の上空に出現し、中国空軍の劣勢がさらに暴露されるのは疑いなかった。同年末、中国とアメリカの上層部は徐々に共通認識を達成させ、「特別航空部隊」建設を望んだ。つまり後の「フライングタイガース」である。だがPー40を装備した「フライングタイガース」にも中国を失望させるところがあった。P-40戦闘機が単に中国空軍に供給されるだけでなかったこともあったからなおさらで、「国民政府」は別の戦闘機の機種に希望を託すしかなかった。

さて、一方で中国空軍がまさに新型機を探し求めて日本軍に対抗しようと苦しんでいた時、あちらではアメリカ航空製造業もグループに分化していた。アメリカ航空業の初期の有名企業だったセバスキー飛行機社の倒産騒ぎがちょうどあり、その中からリパブリック飛行機社が分離し、その製品は改良がすでに落馬(頑住吉注:この場合の意味が分かりません)したP-35だけだった。1939年3月、アメリカ陸軍は最初の13機のP-35改良型戦闘機、すなわちAP-4型戦闘機を発注し、軍サイドのコードネームはYPー43だった。アメリカ議会がレンドリース法案を通過させた後、アメリカ軍の調達数は125機にまでまで増加し、機種はP-43A-1型と変わった。これらの戦闘機はアメリカ軍のために少数が留保された他(後にオーストラリアロイヤルエアフォースに引き渡された)、絶対多数(108機)は中国空軍に分配された。

Pー43のイメージは全く優雅とは評価できない。この機種は全長28フィート6インチ、全高14フィート、全幅36フィート、全備重量8,480ポンドだった。一見すると人に太短く無骨な感覚を与えた。だがこの機は性能に信頼が置け、馬力が強い「プラット&ホイットニー」Rー1830ー57エンジンとタービン増圧装置を装備し、最高時速は356マイル(頑住吉注:約573km/h)に達し、航続距離は650マイル、上昇限度は6,000フィートを超え、一部の性能は「フライングタイガース」のP-40Bさえ超えていた。

ある記録は、中国が非常に早くからこの機種に注意を向けていたことを示している。1939年5月、国民党行政院院長の孫科がアメリカ航空商会主席John Jouett(1932年当時中国に来て杭州筧橋中央航空学校の発展に参与した:訳者注)にあてた手紙の中でP-43に言及し、「セバスキー社(原文ではこうなっている:訳者注)が保証する320マイルの時速を信じてよいのかどうか訊ねている。数週間後、重慶においてアメリカの外交官と会った時、孫科は再度この新戦闘機を用いて立ち後れたPー35に取って代わらせることができるか否かに言及している。同年12月、国民党空軍の毛邦初少将(当時航空委員会の最前線副総指揮の任にあった:訳者注)と一部の中国兵器調達団代表とがワシントンでアメリカ国務省統制担当部署のヨセフ グリーンに向け購入リストを渡し、P-43の名は前の方にあった。1941年3月、アメリカは正式に「レンドリース法案」を批准した。P-43は初のレンドリース法案に依拠して中国に援助されるアメリカ製戦闘機となった。

だがP-43が中国にやって来た真の原因ということで言えば、「レンドリース法案」が言う共同事業たる戦闘のため友邦の援助を継続するというのは公式な面での理由の1つに過ぎなかった。もう1つの原因も極めて重要だったのである。すなわち、アメリカの兵器工業はこうした外国からの発注で生産規模を拡張する必要があった。後のアメリカの参戦に準備するためである。P-43の発注こそその中の典型的事例である。1939年の年末から1940年、リパブリック飛行機社は発展が最も困難な時期にまさにこうした発注に頼って生存したのである。P-43がなかったら、アメリカ軍は後日ヨーロッパ大陸を震撼させたP-47サンダーボルトを持つことはできなかった、というのは全く誇張ではない。

「作戦に不適合」な戦闘機?

最初の30機のP-43A-1は1942年初めに始動した。3月20日にインドのカラチのMalir 飛行場に到着し、組み立てと試験飛行が行われた。1942年2〜3月の間は、ちょうど日本がビルマを猛攻していた。カラチは連合軍の活動の重要な中枢であり、P-43の工期はこのため大きな影響を受けた。最初のP-43は4月初めになってやっとテストが終了した。ここに来てこの新式アメリカ製戦闘機を受領したのは中国空軍の著名な第4大隊だった。アメリカ軍飛行員も隊と共にやって来て援助しており、当時の双方の重視ぶりを見て取るに足りる。しかし、P-43は中国サイドの飛行員にとってもアメリカの飛行員にとっても新しい戦闘機で、輸送過程での事故率は相当に高かった。4月24日、第4大隊第24中隊の副中隊長の呉曾華(音訳)はカラチから昆明に飛ぶ途中で墜落して死亡した。4月29日、2機のP-43がインドのティンジャン飛行場で油漏れの現象を発生させた。

アメリカ軍上将ロバート L. スコットの回想によれば、P-43の油漏れは深刻で、加えて機の腹部にタービン増圧機があり、極めて空中で引火する危険が起きやすかった。「中国人はこの2機の戦闘機の引き取りを拒絶し、一路帰国していった。」 5月12日、第24中隊の中隊長の陳羅昆も昆明での訓練飛行中に着陸に失敗し、機は壊れ彼も死亡した。7月、第4大隊の大隊長で空戦の英雄である鄭少愚が操縦するP-43は飛行途中で発火し、彼は不幸にも犠牲となった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

このように多くの事故と損失は、本来すでに実力が弱かった中国空軍にとってはまさにいわゆる泣きっ面に蜂だった。当初積極的にP-43を先を争って購入した毛邦初(頑住吉注:抗日時代の空軍の英雄)らの人のこの時の反応は最も激烈で、彼らはP-43は全く「作戦の必要性に適合しない」と考えた。7月2日、駐中国・ビルマ・インド戦区アメリカ軍高級航空将校クレイトン ビッセル准将は蒋介石への手紙の中で、中国がこれらの戦闘機を修理するのを援助するか、あるいは新たな機種を提供したい、と書いた。ビッセルは全てのP-43をアメリカに送り返し、この機のR-1830エンジンをC-47およびC-53輸送機に用い、より早急に必要とする戦争用の物資の輸送に用いてもよいと提案した。事後になって見ると、このいい加減な決定は実際上P-43の持つより出色のパフォーマンスを見せる機会を断つに等しく、部品と後続の支援機隊が欠乏すれば、P-43は中国空戦史上のあわただしい通りすがりの客となるしかないと運命付けられた。

中国にとっては、新機種の事故は絶えなかったが、前線における戦いの非常に重い圧力に迫られ、空軍にはできる限り早くこの入手可能な戦闘機を受け取るしかなかったということもあった。8月3日、第4大隊副大隊長の陳森(音訳)が操縦するNo.1222号のP-43が搭乗員ごと損壊し、このことは中国空軍がP-43を受領し続けていたことを示している。8、9月の期間、第4大隊は最後のP-43群を受領し、かつ訓練を終え、成都に場所を移動した。最終的に中国軍の手中に到達したP-43は47機(一説には41機)だけだった。

戦闘におけるP-43

1940年から1942年は抗日戦争における空中の戦場の最も暗黒な歳月だった。中国空軍は少しの爆撃任務しか執行せず、天空にはほとんど中国の飛行員の姿は見いだし難かった。「フライングタイガース」の不断に高まる名声は、別の側面から中国空軍の薄ら寒い光景を証明するものに過ぎなかった。1942年夏、形勢に変化が発生し始めた。シェンノートは当時すでにアメリカ陸軍准将になっており、彼は中国援助飛行隊を第23戦闘機大隊に改組し、この支部隊は後日、「アメリカ駐中国航空特別派遣部隊」(CATF)の中核戦力ともなった。P-43およびその後にすぐ続いたP-66(頑住吉注:これも知りませんでしたがバルティ社製バンガード戦闘機)、A-29(頑住吉注:ロッキードハドソン)などの実戦機も続々昆明に到着しつつあった。

8月6日、のスティルウェル将軍への報告の中で、シェンノートは空中の戦場の態勢に関し全面的評価を行っている。彼は、日本軍は優勢を占めるが、完全に制空権を奪取するのも非常に難しい、と考えた。当時日本軍の主力は襄陽、武昌に駐屯する第62航空師団(九七式重爆撃機を装備)、黎城と北平に駐屯する第99航空師団(九九式双発軽爆撃機を装備)、上海と杭州に駐屯する第65航空師団(単発軽爆撃機を装備)、漢口、南昌に駐屯する第54航空師団(九七式戦闘機を装備)、漢口に駐屯する第10独立飛行中隊と広州に駐屯する第24航空師団(いずれも一式戦闘機を装備)を含んでいた。このような北は北平、南は広州に至る非常に広い戦場において、日本軍が優勢な兵力を集中することは決してやさしいことではなかった。加えてさらに多くの偵察任務と部隊防御任務が日本機の足を引っ張っており、その実際の支配区域は長江流域の狭く長い地帯だけに限られた。これに基づきシェンノートは中国・アメリカの2つの航空部隊が分業、協力し、日本軍の相手をし、有利な戦機を戦い取ることを提案した。「フライングタイガース」は主に長江以南および重慶地域の防御任務を担当し、中国空軍は主に長江以北の行動を担当した。このようにすれば両軍の共同作戦にも有利だし、核心的要地の防御強度を保証するのにも有利だった。シェンノートの見積もりによれば、中国空軍には当時65機のなお作戦可能な戦闘機しかなく(主にP-40B、P-40E、一部のP-43A-1)、主力には第16、第24、第75、第76中隊が含まれ、これとは別に第11爆撃機中隊が8機のB-25C型爆撃機を装備していた。シェンノートは、中国空軍がこの時少なくとも150機の戦闘機と50機の爆撃機まで回復するよう提案したが、当時の状況から見て、中国空軍の手にできる増援戦力は第4大隊のP-43機隊しかなかった。

まず中国で戦績を創造したP-43はアメリカの飛行員によって操縦された。かつてカラチに留まっていた10機のP-43は修復を経てシェンノートが指揮する第23戦闘機大隊に引き渡された。アメリカサイドの記録は、これらの戦闘機の燃料タンクは「ファンボレイ」膜を持つ自封燃料タンク(頑住吉注:ゴムで覆われ、機銃弾が貫通すると熱で溶けたゴムが穴をふさぐ奴でしょう)に交換されていたことを示している。1942年8月17日、桂林に駐屯するアメリカ第75戦闘機中隊は、1機の日本機が侵入したとの空襲警報に接した。2機のP-40、2機のP-43が離陸して迎撃した。Pー40は接敵できず帰還したが、P-43は目標を発見した。オコンネル中尉はまず射撃位置に占位したが、機載無線と機銃に同時に故障が起きた。僚機のブレナムはぴったりついて来た。この時すでに察知した日本機は加速して逃げ延びようと企図していた。2機は時に急降下し、時に高速飛行し、時に上昇し、ブレナムには1回の射撃のチャンスしかなかったが、ついに距離が遠すぎたため成功しなかった。ブレナムは事後に報告し、この日本機は速度が驚くほど速く、20,000フィート(頑住吉注:約6,100m)の高度の時Pー43と互角だった、とした。これは日本軍の機種の中で実際稀に見るものだった(頑住吉注:もう機種が想像ついた人も多いでしょう)。事後の分析によれば、この機は広州に駐屯する第18独立中隊に属する百式偵察機の可能性が高く、この機種の最高速度は時速375マイル(頑住吉注:約604km)に達し得た(頑住吉注:新司偵は速度は速いですが機体強度上本来急上昇、急降下に向かず、本当にこの機だったとしたら速度だけでは逃げ切れない強敵に直面してのまさに必死の操縦だったと思われます)。9月3日、アメリカ第75戦闘機中隊のクルック中尉はP-43を操縦して偵察任務を執行していたが、途中で機械故障のため帰投し、基地付近で日本機の不意打ちに遭った。クルックは強行着陸し、機から飛び降りて逃げ、幸いにも難を逃れた。このP-43は日本軍が初めて撃墜したランサーとなった(頑住吉注:これ撃墜に入るんですかね)。9月12日、アメリカの第74飛行中隊の中隊長フランク ヒル少佐は自らP-43を操縦して昆明から発進し、単機でベトナムのハノイに偵察に行った。途中相次いで3機の日本機が迎撃を試みたが、いずれもヒルに逃げられた。この偵察飛行で得られた重要な情報は数日後におけるアメリカ軍の爆撃行動の中で重要な作用を発揮し、ヒルはこのためシルバースター勲章を獲得した。ヒル本人は同年12月8日昆明付近で墜落して死亡し、死後昆明付近の小山の上に埋葬された。1942年11月、F-4型実戦機(P-38戦闘機の偵察改造型)が中国に到着した。だがP-43の良好な機動性能と速度の優勢ゆえに、この機種は依然目視偵察飛行を執行し続けた。

(頑住吉注:3ページ目)

単に執行した任務の種類から見ると、P-43は実はP-40と優劣がなかった。多くの場合P-43はP-40のために「航路護衛」を担当する必要さえあった。1942年12月14日、4機のP-43がハノイを攻撃するP-40のために高空援護を担当し、P-40にスムーズに任務を完成させた。同月30日、3機のP-43が再度6機のP-40のために高空援護を担当し、P-40にビルマにおいて1機の日本軍戦闘機撃墜を成功させた。

1942年9月初め、スティルウェル将軍は作戦会議を招集した。シェンノートは、Pー43のパフォーマンスにかんがみて、中国空軍と「アメリカ駐中国航空特別派遣隊」のこの戦闘機の部品補給問題を重視すべきだと提案した。だが会議はこの問題の可否を決めなかった。皆は、ビッセルがインドにおいて「忠実」に彼の保証を履行し、カラチに残されたPー43のエンジンを全て取り外し、輸送機に取り付けてしまったことに気付いた。このため中国の戦場におけるP-43の1機の損失は、直ちに1機の減少となった。

中国空軍のランサー機隊

10月13日、約5万の中国民衆が重慶商用飛行場に集まっていた。中国空軍の20機のP-43は2つの編隊に分かれ、盛大なデモンストレーション飛行を行った。この挙は中国空軍の戦闘力をはっきり示すためとされた。どんな目的から出たことであろうと、2週間後、中国空軍の出動率は顕著に上昇した。10月24日、2機のP-43は江西南城から発進し、1機の日本軍偵察機の撃墜に成功し、中国空軍初のPー43による戦績を創造した。27日、少なくとも12機のPー43が山西運城を爆撃するA-29爆撃機編隊のために航路護衛を提供した。

1943年新年、中国空軍のP-43機隊も新しい状況を呈した。1月、P-43は何度も出動してP-40の高空航路護衛に充当された。1月12日、2機のP-43が漢水西岸に沿って宜都上空まで偵察飛行した時、2機の「零」式戦闘機と遭遇した。中国サイドの戦報は、日本機の撃墜、撃破各1としている。ここに至り、当初は「作戦に不適合」と思われたP-43の機隊は中国空軍のその名に恥じない主力機種となったのである。

1943年1月までに、中国空軍は3つの爆撃機大隊を持つと称していたが、本当に持っていた戦力は実際上A-29爆撃機1個中隊、SB爆撃機1個中隊でしかなく、4個戦闘機大隊の状況も大差なかった。P-66、I-153(頑住吉注:複葉機ですよ)混成の3個大隊は、実際にはいずれも2個中隊しか使用に耐えなかった。P-40とP-43を装備した第4大隊の4個中隊だけが全部戦闘力を持っていた。この大隊は唯一「攻勢作戦任務」を持つ飛行機隊でもあった。

アメリカ軍部隊のP-43も新年、戦果を挙げた。この時期、昆明からハノイに至る航空ラインの偵察任務はほとんどアメリカ軍のP-43の専売特許だった。第76中隊のジェフリー ウィルバーン上尉はビルマ北部で偵察任務を執行して帰投する時、1機の日本軍の高空偵察機を発見した。当時日本機はアメリカ機の上にいて、上尉は機を操縦して密かに追い、敵機の後ろに占位した。日本機は全く気付いていなかった。アメリカ機が機先を制して発砲すると、日本機は驚いて直ちに急降下に移り、ウィルバーンは緊迫してその後を追い、どうにかその機に命中弾を与えて発火させ、墜落させた。

しかし、この素晴らしい勢いも長くは続かなかった。燃料供給が逼迫したため、2〜3月、中米航空部隊は守勢に転じ、空戦が発生することは少なくなった。P-43は少数の偵察と連絡任務だけ担当した。アメリカ人は、この戦闘機の荷物コンパートメントが比較的大きく、このため時々快速輸送機に変え、わずかな乗客を輸送することもあった。3月、シェンノートの駐中国航空特別派遣部隊はアメリカ第14航空隊に正式に昇格した。

4月1日、空中の戦事は再度緊迫した。アメリカ第75中隊の1機のP-43、14機のP-40K-1は12機の日本軍戦闘機を迎撃した。アメリカ軍は高度、数の優勢に頼り、一挙に4機の日本機を撃墜し、これには2機の新型二式(キ44)戦闘機が含まれた。5月には日本軍は長江に沿って洞庭湖湖地域に進攻を発動した。激烈な地上戦は、アメリカ第14航空隊と中国空軍の全力投入を迫った。しかし、この戦いの中で士気がすこぶる高い中国空軍のP-43機隊は何度も日本軍との交戦の良いチャンスを逃した。5月29日、第4大隊主力は全機梁山から発進し、重慶に向かって日本機を迎撃した。事後、これは誤報と分かった。機隊が基地を離れた後、19機の日本機が梁山飛行場を繰り返し爆撃した。2日後、9機のP-43が5機のA-29を護衛して宜昌と宜都の間の連絡船を爆撃した。これと同時にジョン アリソン中佐と別の2名が操縦するアメリカの僚機が第4大隊の7機のP-40を率いて9機のB-24の宜昌爆撃を援護した。アリソン中佐は今回の任務執行後にすぐ帰国することになっていた。この空戦のエース再び戦績を作ろうとあせり、心から戦いを求め、先頭にいたところを逆に日本の迎撃機群に乱打された。日本軍の第33航空師団の第1中隊中隊長大坪雅志(頑住吉注:検索しましたがヒットせず)は混戦の中でアリソンの乗る機に重大な損傷を与えた。危急の時、第2304号のP-40機が遅れず駆けつけ大坪雅志を撃墜し、アリソンはこれでやっと幸運にも難を逃れた。この機を操縦していた第4大隊の飛行員臧錫蘭中尉はこれによりアメリカ軍の授与するシルバースター勲章を獲得した(頑住吉注:後に台湾空軍作戦司令部参謀長にもなっています)。この戦役で唯一遺憾だったのは、P-43機が空戦の終わる前に到着できず、敵機を包囲殲滅する良いチャンスを逃したことである。

5月末、アメリカ第14航空隊はP-40K、Mという新型の受領を開始し、2ヶ月後、より多い数のP-38高空戦闘機が中国に到着した。7月中旬、数回のP-43の偵察飛行が天候的原因により中止され、これはアメリカ航空部隊の中で最後のP-43に関する言及である。8月、P-43は正式にアメリカ航空部隊戦闘機序列から退出した。


 結局この機自体はさほど大きな戦果を挙げておらず、だから無名なわけですが、機材が足りなかった時期にそれなりに重要な役割を果たしたということのようです。














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