対戦車防御砲 (頑住吉注:「Panzerabwehrkanonen」。いわゆる対戦車砲で、「Pak」と略されます http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Waffen/panzerabwehrkanonen.htm )

 第一次大戦後、ラインメタルは1918年11月に開発された37mmリボルバーカノンを改良した(頑住吉注:こんなのです http://www.mars.slupsk.pl/fort/a04-37hg.htm 大口径ガトリングガンといった感じですね)。すでに1926年に同社はベルサイユ条約による禁止にもかかわらず、新しい37mm砲を開発した。この砲は重量330kgであり、初速760m/sで重量0.65kgのグレネードを発射した。これは距離500m、命中角度60度において28mmまでの装甲板を貫通できた。

 厚さ5mmの装甲シールドと強化された砲架によるさらなる改良により、その重量は435kgに増加した。今や長さ1,665mmになった砲身からは、重量1.22kgのグレネード弾薬が初速745m/sで発射できた。この兵器はReichswehr(頑住吉注:1921〜35年までのドイツ国防軍)において3.7cm PAK 35/36の名称の下に採用された。その上この砲はタングステンコアを持つ重量0.37kgの対戦車グレネード(Pz.Gr.)40および炸裂グレネード40を発射することができた。後にはさらに140gの炸薬を持つRochling(頑住吉注:「o」はウムラウト。意味不明です)グレネード42も存在した。この口径での古いグレネードの効果がもはや充分でなくなったため、部隊は1942年2月以後、Stielgranate 41(頑住吉注:「柄付きグレネード」)を手にした。これは尾翼によって安定させられるオーバーキャリバー砲弾だった。この砲弾は長さ738mmで159mmの直径を持ち、2.3kgの炸薬を持つ成型炸薬を搭載していた。このグレネードは砲身にかぶせられ、180mmの装甲を貫通できた。しかしその際はたった110m/sという低い初速ゆえに敵の車両が砲から200mに近づいている必要があった。(頑住吉注:柄付きグレネードの話は終わって以後この砲一般の話に戻っているので注意してください)この兵器はスペイン内乱でテストされ、その後歩兵連隊の対戦車防御中隊、および師団の対戦車防御部隊のスタンダード砲となった。開戦時、部隊は11,200門のこの対戦車砲を持っていたが、「Westfeldzug」(頑住吉注:西戦役。はっきりどこからどこまでの戦いを指すのか不明です)ではこの兵器は多くのターゲットの場合において効果なしに留まった。1939年9月1日における弾薬在庫12,980,000発は対戦車グレネードと炸裂グレネードを合わせた数である。効果的な対戦車グレネード40の最初の59,700発は、1940年7月になって初めて供給された。この在庫が1941年7月1日までに982,300発に増加したにもかかわらず、この兵器・弾薬コンビネーションもOstfeldzug(頑住吉注:「東戦役」。これも同様です)の開始と共に部隊において「陸軍ノック器具」に格下げされた。その製造は1942年3月に中止された。終戦時、存在した886門の砲のうち16門が前線にあった。弾薬在庫は5,373,800発だった。

 Skoda社は3.7cm Pak M37(t)を1940年4月まで供給した。

 クルップによるポルトガルへの輸出用の開発品は、口径45mmおよび52mmの砲だった。しかし双方のデザインとも製造されなかった。

 ラインメタルでは1935年に5cm対戦車砲の開発が始まった。この最初のデザインはPak37として採用された。この兵器は重量585kgで長さ2,280mmの砲身を持ち、初速は685m/sだった。兵器局は大量生産の前に安定性の向上を意図した砲架の改良と貫通成績を高めることを要求した。このためラインメタルは砲身を3,000mmに延長し、これによって初速は835m/sに達した。これにより500mで60mmの装甲が貫通できた。タングステンコアを持つ対戦車グレネード40を使えば、同じ距離で95mmさえ貫通できた。しかしタングステン不足はこの弾薬を急な終わりに導いた。この時提案された兵器は5cm Pak 38の名称を得、フランス戦役の後に採用された。この兵器は戦車ハンター中隊の個々の小隊において「重小隊砲」として実戦使用された。この砲は左右方向範囲65度と仰俯角−8〜+27度を持っていた。最大射程は9,400mだった。防御シールドは2枚の4mm厚装甲板からなり、距離25mmを置いて配置されていた。

 対戦車グレネード40が廃止されたため、この砲用にも柄付きグレネードが開発された。これは1943年3月に柄付きグレネード42として兵器局に受け入れられた。このグレネードは重量13.5kgで、重量2.3kgの成型炸薬を搭載していた。これにより180mmの装甲を貫通できた。

 7.5cm Pak 40は兵器局の緊急の要求にもかかわらず、1942年2月になって初めて部隊に支給でき、しかも最初の月にはたった15門だった。この重量1,425kgの兵器は長さ3,450mmの砲身を持ち、この砲身から対戦車グレネード39が初速750m/sで発射され、距離500mで91mmの装甲が貫通できた。1000mでもなお80mm貫通できた。対戦車グレネード40を使った場合はそれが500mで108mm、1000mで87mmとなった。この兵器は左右方向範囲65度、仰俯角−5度〜+22度を持っていた。この兵器は「Selbstfahrlafette」(頑住吉注:直訳すれば「自己走行砲架」、自走砲のことです)「Marder」にも使用されていたのが見られる。

 平行してクルップ社は7.5cm Pak 41を開発した。しかしこれは150門しか作られなかった。この砲の場合はより良い成績を目的に、弾頭の径が発射時に、ひっくるめて長さ2,950mmの砲身上の長さ950mmの逆テーパーつきアタッチメントによって55mmにまで絞られた。ハードコアを持つ重量2.6kgの対戦車グレネード41(HK 頑住吉注:「HK」はドイツ語のハードコアである「artern」の略と思われます)を使った場合初速は1,260m/s、距離1,000mで136mmの装甲を貫通した。タングステン不足のため対戦車グレネード41(W)が採用された。これは1,000mでもはや67mmしか貫通しなかった。この砲の左右方向範囲は60度で、仰俯角は−10度〜+16.45度だった。

 4.2cm leichte Pak 41(頑住吉注:「軽対戦車砲」)はAschersleben所在のBillerer & Kunz(頑住吉注:「u」はウムラウト)社で製造された。ラインメタルとモーゼルもサンプルを提出したにもかかわらずである(頑住吉注:メジャーなメーカーも候補を出したのにマイナーなメーカーのものが採用された、ということでしょう)。この兵器は円錐状に走る砲身を持ち(頑住吉注:逆テーパー砲身のことです)これが砲弾を40.3mmから29mmに圧縮した。このカノンは3.7cm対戦車砲の砲架上にマウントされた。この兵器は重量560kg、左右方向範囲41度、仰俯角は−8度〜+25度だった。重量1.55kgの対戦車砲弾は初速1,270m/sに達し、100m、命中角度60度で100mmの装甲を貫通した。砲身の短い寿命とタングステン不足が生産を中止に導いた。

 7.5cm Pak 40/42は1942年秋において1門のサンプルだけしか存在しなかった。この砲は重量1,700kgであり、7.5cm Pak 42のさきがけである。この砲は長さ5,535mmの砲身を搭載し、この砲身はHeller & Nurtingen(頑住吉注:「u」はウムラウト)で作られた。1942年前半にひっくるめて253門の砲が支給された後、この対戦車砲はKwK 42(頑住吉注:「戦闘車両カノン」、つまり車載砲)に改造され、新しいPanzer X 「Panther」およびPanzerkampfwagen W/70の対戦車砲として組み込まれた(頑住吉注:5号戦車パンターと4号駆逐戦車ラングのことです)。

 7.5cm Pak 97/38は暫定的なものとして、ロシアのT-34およびKV-1戦車の初の出現時に製造された。この砲は1897年製のフランス製カノンにマズルブレーキが備えられたもので、5cm Pak 38の砲架に乗せられていた。この兵器は重量1,190kgで、長さ2,720mmの砲身を持っていた。最初はまだフランスおよびポーランド製の鹵獲弾薬が発射されたが、その後特製の新しい成型炸薬弾薬が製造された。初速は450m/sで、75mmの装甲が貫通できた。左右方向範囲は60度、仰俯角は−8度〜+18度だった。

 Pak 40の砲架上へのマウントもより良い成績はもたらさなかった。この新しい兵器は今や重量1,425kgであり、1943年6月までにひっくるめて160門が作られた。

 7.5cm Pak 50も暫定的なものだった。この兵器の場合は7.5cm Pak 40の砲身が2,245mmに短縮して使われ、5cm Pak 38の砲架に設置された。この兵器は重量1,095kgしかなかったが、低すぎる初速しか持たなかった。実戦使用されたのは小数の砲のみである。

 7.5cm Pak 44はテストに留まった。この砲には逆テーパーの砲身が使われ、ここにノーマルな施条された砲身体が装着された。初速は1,300m/sに達したが、砲身は250発の発射にしか耐えなかった。

 7.5cm Pak 37の名称の下に、「Infanterie-Geschutz 37」(頑住吉注:「u」はウムラウト。「歩兵砲」)が存在した。これは1944年7月までにこの名称をつけていた。しかしこの兵器は軽歩兵砲18の弾薬を発射したので、名称が変更された。

 対ロシア戦役の開始時、ナチ・ドイツ軍は大量のロシア製1936年型7.62mmカノンを鹵獲した。このカノンはF.K. 296(r)として陸軍に引き継がれた。その薬室はPak 40に適合させられ、砲身はマズルブレーキを得、7.62cm Pak 36(r)が作られた。この兵器は重量1,710kgで、長さ4,179mmの砲身を持ち、初速は740m/sだった。これにより1,000mで82mmの装甲が貫通できた。タングステンコアを持つ対戦車グレネード40を使えば初速は990m/sに向上でき、1,000mで112mm貫通できた。この7.62cm Pak 36(r)は腕のいい射手の手で扱えば非常に成功したものになり得た。このことは歩兵G.Halmが「装甲歩兵連隊104」の中で示している。彼は1942年7月22日、北アフリカのアラメインでこの兵器を使い、9台の敵戦車を次々に撃破した。

 さらに識別文字(r)を持たない模造品がHanomag社で着手されたが、1門のサンプルが製造されただけだった。後にそのPak 39の名称は再びあるラインメタル製7.5cm兵器につけられた。この重量1,235kgの対戦車砲はW号突撃砲n.A.(頑住吉注:新方式)および駆逐戦車38(頑住吉注:ヘッツァー)に組み込まれ、その後戦車ハンター砲40と呼ばれた。長さ3,615mmの砲身から発射された重量6.8kgの対戦車グレネード39はこの場合初速750m/sに達した。重量4.2kgしかない対戦車グレネード40を使えば930m/sにさえなった。

 7.62cm Pak 30(r)は1939年製の、7.62cmカノンの後継機だった。この砲の場合も同じ改造措置が実施された。この兵器は長さ3,480mmで、重量1,610kgだった。最大射程は13,300mだった。

 クルップにおいて8.8cm Pak 43が設計された。本来ラインメタルで製造された8.8cm Flak 41(頑住吉注:「対空防御砲」、つまり高射砲)の競合サンプルと考えられたこの砲は、兵器局によって対戦車砲として受け入れられた。この重量3,650kgの兵器は長さ6,280mmの砲身を持ち、新しい十字型砲架を持っていた。この新方式の砲架は左右方向範囲360度を可能にした。防御シールド付きでこの砲は高さ1.72mだった。対戦車グレネード39/40は初速1,000m/sに達し、1,000mで165mmの装甲を貫通した。タングステンコアを持つ対戦車グレネード40/43を使えば初速は1,130m/sにでき、205mmの装甲さえ貫通した。しかしこのグレネードを使うと寿命が1,200発から700発に低下した。最初の量産兵器は1944年2月に受領された。

 しかし部隊に出来るだけ早くこの兵器を供給できるように、再び妥協することで関係者が合意した。8.8cm Pak 43の砲身が軽野戦榴弾砲の砲架にセットされ、これ全体は8.8cm Pak 43/41と呼ばれた。この兵器はすでに1943年2月に最初の引き渡しが行われた。製造は1944年4月に終了した。「hohen Aufzug」が不可能なため、この砲は「納屋の戸」とも呼ばれた(頑住吉注:「hohen」は「高い」ですが、「Aufzug」には「エレベーター」、「行進」などいろいろな意味があります。以前も出てきましたが「納屋の戸」は「外しようがない的」というような意味です。対空射撃ができないため、航空攻撃を受けたら終わりだというような意味でしょうか。知識不足でよく分かりません)。極端に大きい開脚砲架はこの砲をきわめて扱いにくくした。

 12.8cm Pak 80 L/54.8(Pak 43、Kanone 43、Pak 44、K 44、K81も)の試作品は1943年に作られた。クルップによる最初の設計は、最大限の仰角をつけることを放棄していた。特別の価値を対戦車砲に置いたからである。第2の設計は仰俯角-5度〜+45度を予定していた。この十字砲架には重野戦榴弾砲も搭載できた。クルップの設計は1つのモデルに仕上げられ、そのテストは1944年に終えられた。製造はもはや開始されなかった。この兵器はマズルブレーキ付きの砲身と、8.8cm Pak 43のそれに似た十字砲架からなっていた。閉鎖機構は「Schubkurbelkeilverschluss」だった(頑住吉注:「押す」+「バケツ」+「クサビ」+「閉鎖機構」といったところですが、砲の閉鎖機構に関する知識が乏しいのでどういうものか分かりません)。発射は電気式だった。均質な装甲板への貫通力は、距離100m、命中角度30度で202mmだった。クルップ製の試作品は2x1軸の台車に乗せられ、車輪は発射位置では持ち上げられた。ラインメタル製の試作品は複数の台車に載せられていた。砲身は戦車ハンターカノン44として「Jagdtiger」に組み込まれた。この砲は卓越した設計で、より小さい欠点を除去した際、最も完熟したドイツ経済にふさわしかった(頑住吉注:この時期のドイツには手に余るものだったということでしょうか)。この兵器は発射位置において重量10,160kg、砲身長は7,023mm、最大射程は24,414mだった。最大連射性能は5発/分、初速は920m/だった。

 同様に1943年、ラインメタル社によって口径10.5cmを持つさらなる重対戦車砲が提案された。この兵器はFlak 40をベースに作られることが意図された。しかしその長すぎる砲身のためこの兵器は却下された。

 この重火器の際に兵器局は、兵器重量があまりにも重過ぎることに気付いた。このため12.8cm Pak 80はいくつかの例を除き、たいていは「ヤクトティガー」のみに組み込まれた。兵器局はクルップに今度は1,000mで100mmまでの装甲を貫通でき、そして最小限の兵器重量の対戦車砲を要求した。クルップはこのときすでに存在する7.5cm KwK 42をベースにしたが、この砲身はすでに1,180kgあり、この結果この兵器は重くなりすぎることになった。その後の2月末、クルップは最終的な設計を提出した。これは重量540kgの砲身を持つ5.5cm対戦車砲だった。初速1,080m/sで望まれた貫通成績に達した。しかしこのグレネードの命中時の力は兵器局にとって小さすぎ、これは1,000発と見積もられた砲身命数にも当てはまった。続いてこのことが6.5cmの口径を導いたが、これでは重量4.8kgのグレネード、925m/sの初速で94mmの貫通成績となって要求が満たされなかった。兵器重量を抑えるため、この場合の砲身は4,850mmに短縮されていたのである。

 ところが採用決定が下される前に、兵器局は貫通成績に関するその要求を150mmに引き上げていた。クルップがすでに存在する、これを使えば200mmにさえ達する10.5cm Panzerwurfkanone(頑住吉注:無反動砲)を指し示したにもかかわらず、兵器局はその要求に固執し、そして最大重量を1,850kgと定めた(頑住吉注:重量はもっと軽く、貫通力はもっと大きく、打撃力が大きくなるように砲弾はもっと大きくしろと無理を言われて、「そんなら無反動砲を使うしかないですよ」と答えたのに、どうしても従来型の砲でそういうものを作れと厳命された、ということのようです)。

 この時の解決策は、発射時に6.5cmに径が小さくなる口径8.8cmサボ付きグレネードだった。5.25kgの装薬で発射されるグレネードの発射時における重量は6.1kgで、飛行重量は4.8kgだった。しかし長さ6,285mmの砲身によって初速1,150m/sにしか達せず、これにより要求は満たせなかった。そこでエンドキャリバーが5.5cmに減らされ、このことが飛行重量3kgで初速1,300m/sをもたらし、これにより望まれた成績となった(頑住吉注:ん? 5.5cm砲弾では小さすぎるとされたはずでは)。しかし砲身は1,125kgと実に重くなり、兵器重量はほとんど2,000kgと見積もられた。まだ準備中のサンプル製造品は、1945年2月23日におけるEssenへの空襲(投下された1,173トンのうち300発以上の爆弾が工場施設に命中した)の後、もはや続行されなかった。

 チェコへの進駐の際、3.7cm Pak M37(t)がナチ・ドイツ軍に引き継がれた。この重量364kgの兵器は長さ1,778mmの砲身を持ち、ここから対戦車グレネード弾薬37(t)が発射された。初速750m/sで、1,000mにおいて33mmまでの装甲を貫通できた。1940年5月、生産は中止された。戦争勃発時、883門が部隊に存在した。貫通成績の向上のため、この兵器用にも柄付きグレネードが開発された。

 ポーランド製の3.7cm Pak 36(p)は621門陸軍に引き継がれた。しかしその後556門はルーマニアに輸出された。この重量370kgの兵器は長さ1,670mmのバレルを持っていた。初速800m/sで、600mにおいて40mmまでの装甲を貫通できた。

 4.7cm Pak(t)は重量595kgで長さ2.62mの砲身を持っていた。対戦車グレネード弾薬36(t)は初速775m/sで1,000mにおいて55mmまでの装甲を貫通できた。この対戦車砲は「Panzerjager 1」(頑住吉注:2つめの「a」はウムラウト。直訳すれば「戦車ハンター」、要するにいわゆる1号対戦車自走砲です)にも変更されたマウント付きで使用されているのが見られた。その上この砲はフランスのRenault Panzer R35(頑住吉注:ルノーR35戦車)にもマウントされ、対戦車自走砲として実戦使用された。

 4.7cm Pak 35/36(o)(頑住吉注:「o」はウムラウト)は1938年、オーストリア進駐の際に陸軍によって引き継がれた。それはひっくるめて330門だった。この兵器は重量277kgで、長さ1,680mmの砲身を持っていた。生産は1940年9月に中止された。この兵器の大部分は1941年2月にイタリアに売却された。

 フランスでは「Canon de 47 antichar SA37」(頑住吉注:私はフランス語は全く分かりませんが、「char」が戦車であることは知っており、「antichar」は対戦車砲のことで間違いないはずです)が鹵獲され、4.7cm Pak 181(f)として陸軍に引き継がれた。この兵器は重量1,070kgで、2,491mmの砲身を持っていた。重量1.7kgの対戦車グレネードは初速855m/sで発射された。この対戦車グレネード弾薬は重量3.5kgで、長さは556mmだった。後にこの東方で多数が実戦使用された兵器用にさらに対戦車グレネード弾薬40が製造された。これはタングステンコアを持つ重量0.8kgのグレネードを装備していた。しかしマテリアル不足のため、このケースでも生産は再び中止された。兵器局はこのカノン803門を実戦使用準備状態で、そして20門を分解状態で引き継いだ。

 フランスからは25mmという非常に小さい口径を持つPak 112(f)およびPak 113(f)が引き継がれた。この兵器は大西洋岸およびノルウェーに投入された。

 4.7cm Pak 185(b)はベルギー由来だった。この砲は重量568kgで、長さ1,580mmの砲身を持っていた。ここから重量1.5kgのグレネードが初速720m/sで発射された。この砲はベルギー海岸およびチャネル諸島に配置された。

 ロシア製4.5cm Pak 184(r)は東方前線において大量に鹵獲された。この重量426kgの兵器は長さ2,973mmの砲身を持ち、ここから重量1.45kgのグレネードが初速760m/sをもって発射された。これにより1,000mで46mmまでの装甲が貫通できた。

 5.7cm Pak 208(r)はおそらく最も成功した鹵獲対戦車砲だった。この砲は重量1,120kgで、重量3.2kgのグレネードを初速1,020m/sで発射した。この結果500mで140mmまでの装甲が貫通できた。

 高・低圧原理に従って、8cm Panzerabwehrwerfer(PAW)600(頑住吉注:「対戦車防御投射器」)がラインメタル社で開発された。この兵器の場合尾翼によって安定させられる重量2.75kg、径81.4mmの砲弾が発射された。重量0.36kgの発射薬は投射グレネードの尾部にあった。発射時、圧力は約1,100気圧に達した。この圧力は穴プレートを通って減らされ、約550気圧が投射グレネードの後方に蓄えられたとき、セーフティピンが折れてグレネードは砲身を去った。この全てが、軽い砲身とこれによる軽い砲架を結果としてもたらした。部隊においてPanzerabwehrkanone PWK-8 H63と呼ばれたこの重量610kgの兵器の長さ2,980mmの砲身から、長さ620mm、重量7kgの投射器グレネード弾薬4462が発射された。この重量2.7kgの成型炸薬弾はその際初速520m/sに達し、145mmの装甲を貫通した。

 1945年1月、最初の81門のこの兵器が前線に供給された。これはほとんど全てWolf-Magdeburg社の製造によるものだった。終戦時、装甲歩兵連隊30および31はひっくるめて105門のこの兵器しか持たなかった。

 クルップでは10cm PWK 10H64が開発された。これは「オーバーサイズの装薬スペース」システムで作動した。1つの拡張スペースが装薬スペースの周りに同軸で配置され、これと多数の開口によって結合されていた。発射薬はその際リング状弾薬筒として投射グレネードのシャフトの周りに位置していた。この兵器はほとんど5,000mの射程を持っていたが、1,000mにおいて1.5x1.5mの命中像であり、これが戦車制圧のための最大限の距離だった。この重量900kgの兵器は長さ2,400mmの砲身を持ち、ここから重量6.6kgの投射グレネードが発射された。この砲弾は1,000mで200mmまでの装甲を貫通できた。

 この系列の最後の開発品として、1945年1月になってなお2機種の15cm PWKに着手された。このためには重野戦榴弾砲の変更を加えた砲身が使用された。軍の崩壊がこの最初のサンプルのテストを妨げた。

 歩兵が戦車に対する効果的な近接戦闘兵器を自由な使用のために持てるようにするため、モーゼル社において8cm Gerat W20(頑住吉注:「a」はウムラウト。「器具」)が開発された。この兵器からは重量3.3kgの成型炸薬グレネードが発射された。これは400mにおいて140mmまでの装甲を貫通できた。1943年8月に行われたテストにおいて、グレネードのライフリングによる安定のせいで不充分な貫通成績がもたらされ、その上この兵器の重量は250kgと重過ぎた(頑住吉注:成型炸薬は爆発による超高温、高圧の噴流を前方1点に集中して装甲を破るものですが、ライフリング回転を与えるとこれが拡散して貫通力が弱まってしまいます)。

 「Grosse Pfeil」(頑住吉注:「大きな矢」)は尾翼によって安定させられる径8.8cmの砲弾を使用し、これを使って160mmが貫通された。1943年11月テストされたサンプルは500mで良好な命中像を示したが、230kgとこれもまた重すぎた。

 暫定的解決として7.5cm ruckstossfreie Kanone 43(頑住吉注:「u」はウムラウト。「反動フリーカノン」、つまり無反動砲)が採用された。この重量42kgしかない兵器は、軽量砲の原理で作動した。この砲は長さ688mmの砲身を持ち、ここから重量2.6kgの成型炸薬グレネード43が発射された。初速165m/s、距離200mで165mmまでの装甲が貫通された。ひっくるめて900門が製造された。

 7.5cm ruckstossfreie Kanone 43 n.A.(neue Art 頑住吉注:「新方式」)は高められた発射薬で作動し、これでグレネードは初速270m/sに達した。これにより射程を300mに上げることができたが、2門のサンプルが作られただけだった。

 このグループにおけるさらなる開発品は「Hammer」だった。これはパンツァーシュレックと「Panzerwurfkanonen」(頑住吉注:「対戦車投射カノン」。無反動砲)の間に分類されるものである。この開発は本来パンツァーシュレックの射程距離を200mから500mに引き上げるという要求から生じた。ラインメタルはこのシステムのためにチャンバーレスの砲を選択した。この場合発射薬は投射グレネードのシャフトの周りに配置されている。この長さ2200mmの砲身からは、いくらか変更が加えられた口径81.4mmの投射グレネード5071(すでにPWKに使用されていたのが見られる 頑住吉注:「対戦車投射カノン」の略)が発射された。しかしこの1943年10月に開始された開発は、1944年初めにストップされた。要求された命中精度を持たせようとしたならば、効果距離(頑住吉注:実用有効射程のことでしょう)を300mに短縮しなければならなかったのである。

 だが1944年12月、このプロジェクトは再び俎上に上がった。今回は105mmに拡大された口径を使い、この場合長さ725mmの投射グレネードはシャフト上のリング状発射薬の他に、さらに追加の発射薬を尾部に搭載していた。しかしこの兵器は重すぎた。そこで今度はサボつきのグレネードが選ばれた。この場合単純に古い投射グレネードに追加的に適合する10.5cmの円盤が備えられた。グレネード重量は4.2kgに増加し、シャフト部の発射薬1.2kgを使って初速540m/sが達成された。この初速は戦闘距離500mを結果として生じさせ、この場合160mmの貫通が得られた。

 この距離において命中精度はびっくりするほど良好だった。すなわち、命中弾の50%が辺の長さ1mの正方形内に位置したのである。兵器重量は小さな2輪砲架込みで45kgだった。砲身長は重量削減の理由から1365mmに短縮されていた。発射の高さ、すなわち砲身軸線の地上からの高さは、350mmと極端に低かった。しかし、さらに「Panzertod」という暗示的な名称を得たこの3つの部分に分解可能な兵器は、終戦時に2つのサンプルがテストされていただけだった。

 量産されたこのグループのさらなる対戦車防御兵器が8.8cm Raketenwerfer 43「Puppchen」(頑住吉注:「Raketenwerfer」は「ロケット投射器」、「Puppchen」には「小さな人形」というような意味があるようです)だった。この兵器は小型の砲との類似性を持っていたが、長さ490mm、重量2.7kgのRPzGr. 4312(頑住吉注:「ロケット対戦車グレネード」の略)を発射した。これはその後同じ弾薬がいくらか変更されて「パンツァーシュレック」に使われたのが見られる。この重量100kgの兵器は長さ1,600mmの砲身を持ち、初速は110m/sだった。250mで160mmが貫通され、その際命中弾の50%が1m四方の中にあった。しかしこの兵器は「パンツァーシュレック」と比較して同じ成績でかなりコストが高かったため、1944年2月に生産は中止された。終戦時まだ1,649門の8.8cm Raketenwerfer 43が存在した。


 対戦車ライフルの場合は早々に戦車の装甲強化についていけなくなり、対戦車兵器の威力強化と戦車の装甲強化というシーソーゲームから脱落したわけですが、対戦車砲は37mm、50mm、75mm、88mm、128mmとどんどんスケールアップし、ついには対戦車砲として使うのには重すぎてヤクトティーガーのような巨大な駆逐戦車にでも搭載しなければ満足に運用できなくなるところまでエスカレートしていきました。対戦車砲もここで限界に達したわけで、第二次大戦後は対戦車専門の砲はあまり見られなくなり、成型炸薬を使った対戦車ロケット、ミサイルが主要な対戦車兵器になっていきました。

 こうしたシーソーゲームが展開するにつれ、古い兵器は少なくともそのままでは対戦車用として第一線では使い難くなっていくわけですが、その救済策として砲身にかぶせて発射する柄付き成型炸薬弾が開発されました。37mm砲用のものは確かタミヤの1/35プラモにも付属しており、よく知られているはずですが、50mm対戦車砲、チェコ製37mm対戦車砲用にも同様のものがあったというのは知りませんでした。また、いわゆる「T34ショック」は有名ですが、このとき応急的に19世紀のフランス製カノンが引っ張り出されたという話も知りませんでした。

 ナチ・ドイツは鹵獲兵器を多用しましたが、それは現場の判断で小規模に流用するといったものではなく、正式名称を定め、ロシアから鹵獲した砲を北アフリカに運んで使用したり、チェコから鹵獲した対戦車砲をフランスから鹵獲した戦車の車体に搭載するなどといった大規模かつ組織的な運用だったわけです。

 軽量な対戦車兵器としては別の項目で取り上げられているパンツァーシュレック、パンツァーファウストが開発されましたが、程度の差はあれ射程あるいは遠距離における命中精度が不足で、これだけに頼るわけにはいきませんでした。そこで砲身に逆テーパーをかけたりサボ付き砲弾にしたり、いわゆる「高・低圧理論」による砲、無反動砲、「Hammer」のような特殊システムの砲を開発したりといった努力が続けられました。「Hammer」の項目でも触れましたが、これは誘導システムが確立していなかったからだと考えられ、現在では一部を除いて廃れています。

http://mythicpanzers.jexiste.fr/Files/Infos/05-Artillery/Antitank-Guns.htm

 ここにここで登場したいろいろな対戦車砲の画像がありました。37mm→50mm→75mm→88mmと、兵と比べて対戦車砲のサイズがどんどん大きくなっていくのがよく分かります。









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