プーチン家と第二次世界大戦

 戦後70周年ということでいろいろな「歴史秘話」的記事が出ています。これなんかは速報性ある記事よりも先に紹介したいものです。

http://military.china.com/news2/569/20150502/19617693.html


プーチン、家族の第二次世界大戦の往事を回想:父親は売られ兄は奪われる

参考情報報5月2日の報道 「ロシアの先駆者」は4月30日ロシア大統領プーチンの個人特別コラムを掲載し、そこでは彼の父母の戦争中の話が語られ、同時にプーチンの夭折した兄および生活の中の人を驚嘆させる偶然の一致に言及した。プーチンは次のように書いている。

率直に言って、父親は戦争というこの話題に触れることさえ好まなかった。大人の間で相互におしゃべりし何かを回想する時、私は傍らで聞いているだけだった。あらゆる戦争や家族に発生した事柄に関し、私は全て大人たちの対話の中から理解した。だがある時には彼らは直接私に対しても語った。戦争に関し、私の父母が語ったのは全て事実であり、一言もいい加減な作り話ではなかった。こうした事情は後に全て実証を得た。

父親は進んで前線行きを要求

戦争が勃発した時、父親はある軍事工場で勤務に就いており、兵役に服する必要はなかった。だが彼は入党と前線行きの申請書を書いた。このようにして彼は28人しかいないソ連内務人民委員別働隊に派遣された。隊伍はドイツ軍後方に投入されて橋の爆破や鉄道の破壊などの行動を完成させた。だが彼らはほとんど直ちに待ち伏せ攻撃された。ある人が彼らを売ったのだ。ファシスト分子は森の中を不断に捜索したが、父親は生き延びた。彼は沼地の中に何時間も隠れ、アシを用いて呼吸した。父親はさらに語ったことがある。沼地の中で自分はドイツ兵がかたわらを通り過ぎる足音を聞き、狼犬は不断に狂ったように吠えていた、と‥‥

当時はちょうど初秋で、天候はすでに寒冷だった。私はごくはっきりと覚えている。父親はかつて私に、別働隊隊長はドイツ系の公民だったが、実は彼はまだドイツ人だったのだ、と語った。

提示しておくに値するのは、2年前ある人が国防省からこの別働隊のファイルを送ってきたことだ。私は新奥加廖沃(頑住吉注:最初の「新」が発音の訳なのか意味の訳なのかも不明。検索するとプーチンのぜいたくな暮らしに関する記事などがヒットし、別荘がある場所らしいです)の家の中にこのファイルのコピーを大事にしまっている。これにはグループのリスト、メンバーの姓名と簡単な紹介が記録されている。そう、全部で28人であり、隊長はドイツ人、私の父親が語ったのと同じだ。

28人が前線に行き、生きて帰ったのは4人だけ、その他24人は全て犠牲となった。

レニングラードで重傷を負う

幸いにも生存した者は後にレニングラード郊外の部隊に派遣された。当時ここはドイツ軍に包囲された最もホットなポイントたる地域で、戦闘は異常に激烈だった。父親は、自分はそこで重傷を負った、と語った。腿の弾片は摘出されず、彼と共に一生を終え、ここから持病となった。小さな弾片を摘出したかったら、骨を叩き割らねばならない。神に感謝するが、少なくとも足は保たれた。当時は確かに足を切断する可能性があった。だが幸いなことに良い医者にぶつかった。父親は戦争が原因で障害者となったが、最終的にマンションを分け与えられた。当時戦争はとっくに終わっており、私はすでにKGBで仕事をしていたが、まだ部屋は分け与えられていなかった。父への住宅の割り当ては非常に喜ばしいことだった。

父親が負傷した状況は次のようなものだった。当時彼と戦友はドイツ軍の後方に向け出動し、彼らはひたすら這い、結果的にドイツ軍の火力ポイントに這って入り、そのあたりから1人の壮健な男が現れて、彼らの方を見てやって来た‥‥父親と戦友は敵の機銃掃射を受けた。彼は、「その男は我々をよく見て、その後続いて我々に向け手榴弾を投げた。」と語った。生命とはこんなに簡単でまた残酷なものなのだ。

ならば、父親が意識を回復した後直面した最も深刻な問題は何だったか? 当時すでに真冬の時期で、ネバ川は凍結しており、川の対岸まで這っていって専業の医療の救護を探し求める必要があった。だが父親にはすでにこのための力がなくなっていた。川のこの部分はナチスの砲火や機銃によって支配され、彼らが対岸まで這っていくのを援護できるものはほとんど何もなかった。だが偶然にも、父親は何とペテルゴフでの隣人にぶつかった。隣人は全く躊躇なく父親を病院に連れて行くことにし、2人は這っていった。隣人は父親が手術を終えるのを確認するまでずっと病院で待った(頑住吉注:何故そんな確認が必要なのかは後のエピソードと関係してきます)。その後彼は、「よし、これで君は生き延びた。私は死にに行かなければならない。」 そこで隣人はまた前線に戻っていった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

この後、彼らは相互に連絡を失い、父親は隣人はすでに亡くなっていると思った。だが1960年代のある日、父親は家に戻るやすぐに泣き出した。実は彼はレニングラードの商店内でこの命の恩人に偶然会ったのだった。これはまさに百万分の一の確率だった。

死神の手中から母親を奪い返す

母親は自分がいかにして病院に行って負傷した父親を訪ねたかを語った。レニングラードはすでにヒトラーによってしっかり包囲され、人々は飢餓に耐えていた。当時彼らには3歳の子供がいて、父親は医者と看護師に隠れ、病院が配給する食事をこっそり母親に与え、彼女が家に持ち帰り子供に食べさせられるようにした。後に父親は病室で飢えのため意識を失い、医務人員は状況を確認した後もはや母親に見舞いをさせなかった。

後に子供は奪い去られた。母親は、小さな子供たちを餓死させないため、彼らは幼稚園に集められて移動を待ち、このことには家長の意見さえ求められなかったのだ、と語った。

この子供、つまり私の兄は、幼稚園でジフテリアにかかり、最終的に生き延びることができなかった。父母は彼がどこに葬られたのかさえ告知されなかった。

子供が奪われた後、家の中には母親1人だけが残った。父親が松葉杖をついて退院し家に戻った時、衛生員が餓死した人を運び出しているところなのを見た。こうした人の中に彼は母親を見たが、彼は母親はまだ息があると思った。父親は衛生員に対し、「彼女はまだ生きている!」と言った。衛生員はそれにもかかわらず答えた。「途中でこの女はすぐ『逝く』さ。」 父親は、当時自分は松葉杖を挙げて衛生員に向かっていき、彼らが母親を屋内に運び戻すのを強いた、と語った。父親の看護の下に母親は生き延び、しかも1999年までずっと生きた。一方父親は1998年末にこの世を去った。

父親の一族は大家族だった。彼には6人の兄弟がいて、そのうち5人が戦争で死んだ。1つの家族にとって、これは災難である。母親の家にも家族の死亡があった。私が生まれたのは遅く、母は41歳になってやっと私を生んだのだ。

ロシアではそれぞれの家全てに戦争中の死者があった。これは当然災難であり悲劇である。だが人を不思議がらせるのは、彼らがこのために敵を恨んでいないことだ。実を言うと、今日になっても私はまだ完全に理解できていない。私の母親は非常に穏和で善良な人だった。彼女はかつて、「どうしてあの兵士たちを恨めるの? あの人たちはただの普通の人で、やはり戦争の中で死んでいったのよ。」と言ったことがある。

我々は敵を恨むソ連の書籍や映画の中で育った。だが私の母親にはそれにもかかわらずこのような感情が全くなかった。彼女の話を私は非常にはっきり覚えている。「彼らから何を得ることができる? 彼らは私たちと同じ、普通の労働人民で、前線に追い立てられただけだったのよ。」

こうした話を、私は小さい頃から今に至るもしっかり覚えている。


 ソ連は第二次大戦で最大の死者を出し、傷の深さは想像以上なんでしょう。プーチン自身はもちろん戦後生まれですが、両親から聞いた話は人間形成にも影響しているはずです。また間もなく行われる勝利記念閲兵の時も、プーチンはこうしたエピソードを回想するかもしれませんね。
















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