コルトパイソン誕生50周年

 「Visier」2005年5月号に、誕生から50周年を迎えた日本でも人気の高いリボルバー、コルトパイソンに関する記事が掲載されていました。


1つの神話の終わり?

1つの銃器モデルが50年間マーケットにあった場合、本来ならばサクセスストーリーである。だが、コルトのリボルバーの古典、パイソンの場合、事実は異なるようである。


メリカのハンドガンのファンたちが「パイソン」の名を聞くと、彼らは卵生の10mまでの長さになる巨ヘビのことは考えず、おそらく20世紀における最もよく知られたコルトリボルバーのことを考える(頑住吉注:パイソンは10mにはならんだろう、と思って検索したところ、パイソンとはニシキヘビのことで、10mになるアミメニシキヘビも含まれるそうです)。‥‥それは口径.357マグナムのパイソンであり、ちょうど50年前にマーケットに登場した。祭典の理由を提供するはずの誕生日だが、そうはならなかった。というのは、コルトパイソンは多くの同年代の労働者とさして変わらない道をたどったからである。彼はひっそりと「古い鉄」に分類された(頑住吉注:ドイツ語の名詞には性があり、以前も触れたようにピストルは何故か女性、リボルバーは男性です。ここではパイソンを仕事についてから50年で引退することになった男性労働者になぞらえているわけです)。

 というのは、実務家の視点からは要するに記念祭よりもむしろ葬式なのである。今日.357口径リボルバーをスポーツで射撃する人は、たいていスミス&ウェッソン686を選択する。この、今日最も頻繁にカスタマイズされる、最もバリエーション豊富なリボルバーは、その上良好な価格:成績比に恵まれている。コストだけを気にする人はタウルスを手にするし、がっしりした.357口径を望む人はルガー社のプログラムに狙いをつける。マニューリン、コルス、Janzのようなヨーロッパメーカーを選ぶ人はいくらか特別のはずである(頑住吉注:「Janz」というメーカーは知りませんでした。 http://www.jtl.de/revolver/revolver_d.htm こんなのです。バレルとシリンダーの交換で.22LRから.454カスールまで撃てるという無茶な製品を作っています)。それに対し爬虫類の名前を持つこのコルトは究極的に最後のバイオリンを弾く(頑住吉注:変な言い回しですが選ぶ人が最も少ないということでしょう)。コネチカット州ハートフォードから来た豪華な品にとっては屈辱的な運命である。

 同様にパイソンは疑いもなくハンドガンにおけるクラシックに属する。自動車における、ほぼ同時代にアメリカのストリートを走り始めたシボレーBel Airのようにである(頑住吉注: http://www.geocities.jp/cadillac1958_62sedan/chevy.html こんなのです。古い臭いデザインだなーとは思いますが、私は車のこと全然知らないので例えとしていまいちピンと来ません)。この新しいダブルアクションリボルバーは、工場長Alfred deJohnとガンスミスAl Guntherによって案出され、造形され、そのデビュー時の1955年に具現化された。この銃はコルトを多くのライバルたち全てから抜きん出たものにさせるものだった。このためにファーストクラスの加工グレードが配慮された。これには特別に費用のかかる磨かれた表面、そして手作業ですべすべに研磨されたメカニックが属した。スポーターはその調節可能なサイト、グルーブ入りのマッチトリガー、ワイドなターゲットハンマー、大型で上部が半円形に湾曲したグリップパネルに喜んだ。その上コルトパイソンはそのエレガントな、取り違えようのない造形によって好感を与えた。この銃はわざわざ開発したミドルサイズのフレーム、打ち抜かれたバレルレール、マズルまで達したエジェクターケースつきで登場した。こうしたディテールのコンビネーションはこの6連発のハンドガンに非常に調和した均整を与えた。長方形の打ち抜き部のあるバレルレールは際立った外観をもたらし、後に指針として影響を与えた。同様のミドルサイズのフレームやロングのエジェクターケースを持たない場合でもである。

 このバレルレールはそれ以来いくつかの.357口径リボルバーメーカーが借用し、これに対し他の両ディテールはほとんど全てが受け継いだ(頑住吉注:.まず357マグナムリボルバーにはS&WのNフレームとKフレームの中間であるこのサイズのフレームを使うということ、もうひとつはマズルまで伸びたエジェクターシュラウドを装備するということでしょう)。マサチューセッツ州スプリングフィールドに所在するコルトの大ライバル、スミス&ウェッソンでさえこれを避けて通ることはなかった。70年代の終わり、パイソンのライバルであるディスティングウィシュドコンバットマグナム586(ステンレスは686)の開発を始めたときにである。

 左回りのライフリングと右回りのシリンダーを持つハートフォードの人のモデルは印象があまりに強かったため、1960年代のヨーロッパではしばしば、これがそもそも最初の.357口径であるというイメージが生じた。これは正しくない。S&Wはそれより20年前に.357マグナムハンドエジェクターによってこの弾薬仕様の最初のリボルバーをすでに紹介していた。このモデル同様パイソンにも多くの几帳面さが傾注されていたのだが、初期にはライバルとはならなかった。

 このことはコルトのむしろ乏しい販売数が証明している。最初の5年のうちの数は1万を大きく下回っていた。これは1960年以後に変わった。年間生産数は初めて1万挺台以上に上昇し、1970年以後の時代は3万すら超えた。1970年までにコルトは約12万挺のパイソンを製造した。この銃は1955年から1969年までに1〜99999まで通しナンバーがつけられた。1969年からE1001をもって新しいナンバーリングが開始され、1975年まで、そしてナンバーE99999まで続いた。1978年まで、そして挺数99998まで、後におかれた「E」によって新しい表記方式が続いた。その後は分かりにくくなる。コルトがほとんど1年サイクルで新しいナンバー方式を採用したからである(全て前に置かれた文字を持つ)。すなわち、「V」を持つバージョンは1978〜80年に生じ、「AL」、「LA」、「VA」は1980年、「K」が1980〜83年、「T」が1983年に生じた。1990年代のいつか、パイソンは総数50万挺を超えた可能性が高いと思われる。

 最もポピュラーなバリエーションは6インチバレルつきで登場した。「ジェームス ボンド」の作者イアン フレミングと歌手のエルビス プレスリーはこのリボルバー1挺を持っていた。このロックンロールの王の銃は2005年始め、ニューハンプシャー州にあるアメリカのオークションハウスJ.C.Devineで競売にかけられた(頑住吉注:ドイツ語では「ハンマーの下に来た」という面白い言い回しが使われます)。この6インチパイソンは、俳優デビッド ソウルが「Kenneth Hutchinson」の名で1970年代半ばに放送されたアメリカのテレビシリーズ「スタスキー&ハッチ」の中でこの種のコルトを携えた際、ワールドワイドに有名になった。
 
 しかしこのハートフォードにある企業は、パイソンをスタンダードに4および8インチバレルつきバリエーションでも製造した。2.5インチバレルつきの型はよりレアであり、希望によりカリフォルニアの取り扱い商が作った3インチの銃は真正にレアである。これはアメリカの専門家界では「コンバットパイソン」と呼ばれている。表面処理もバリエーション豊富である。シリーズものとしてコルトパイソンは「ロイヤルブルー」として知られるブルーイングフィニッシュを持った。そのミッドナイトブルーの色調は、特別に徹底的に行われた研磨のおかげであった。後にはさらにニッケルフィニッシュが加わった。1982年にはステンレススチール製の初のバージョン、そして1985年には高度な輝きをもつように研磨されたステンレス型が続き、これをハートフォードの人は「パイソン ウルティメイトステンレス」と呼んだ。そして1980年には熱狂的ハンターであったコルトのマーケティングチーフThomas A. Thornberのおかげで、スコープを装備した8インチバージョン、「ハンター」が、直後にはスコープが「ハンター」いくらかより後方にセットされた、シルエット射撃用の同じ長さのバリエーションも続いた。両者は長くは製造されず、そのため非常に珍しい品となっている。さらに、Thomas A. Thornberは1979年、パイソン用にブラックのラバーグリップを製造するきっかけを与えた。

 没落は1980年代には明瞭に示された。これには、コルトにおける大規模な労働者のストライキを度外視しても、さらなる理由があった。コルトの、1900年以来ほとんどさらなるモデファイがなされていないコルトのDA発火機構は、例えばS&W686より良好に洗練することができなかった。パイソンの所有者は彼らの銃の板バネをより軽いものと交換することがS&Wやタウルスのようには簡単にできなかった。その上メカニズムの全体配置は結果としてロックタイムを、後に開発された発火機構を持つライバルモデル群の場合よりいくらか長いものにした。

 それにもかかわらず、(頑住吉注:もしそれだけの問題だったら)パイソンファンは愛することができただろう。しかし常にVISIERテスターたちから不平が出た、高い価格とコンビネーションされた中でのクオリティの喪失もあって、それはできなかった。だが、こうした病像はこのモデルのみを襲ったものではなく、この社の全民間部門をも襲ったものだった。結果としてコルトは前世紀の終わり、何回もアウト寸前に置かれた。たっぷり15年、この「締めるヘビ」は病み衰えた。このことは、1997年に初めて「パイソンエリート」の名の下に紹介されたバージョンも変えることができなかった。これはこれによって古い時代を引き継ごうと望んだものだったのだが。1999年秋、当時の社長退役中将William K. Meysとコルトホールディングの代表Donald Zilkhaは、社が「品目の新しい構成」目的でのDAリボルバー群の組み立てを完全に中断することを発表した。

 だが、周知のように「死んだと思われている人」はさらに生き続けている。中古マーケットでは「グッド」から「トップ」のコンディションに維持された1980年代製のパイソンが、すでに400〜700ユーロで提供されている。1960年代の品はおよそ1000ユーロのものがざらにある。だが、このクラシック銃の新しいバージョンを望む人は、インターネットで http://www.colt.com/ の自社のカスタムショップのサイトをクリックすべし(頑住吉注:‥‥そんな項目見当たらないんですけど)。コルトパイソンエリートは再び4、6インチバレル、およびステンレス、ブルーイングの型で供給可能である。

 そしてこの大蛇がいつか最終的に死ぬべき時でさえ、製造の終了にもかかわらず神話は終わらない。というのは、神話というものはその後で初めて真に生き生きするものだからである。


 私が銃に興味を持ち始めた頃、今からおよそ30年前には、コルトパイソンはS&W M29とならんで最も人気のある機種のひとつだったはずです。高くて買えないMGCのパイソンは当時憧れの存在で、私に買えたのはLSのプラモでした。そういえば6インチタイプだったものを後に2.5インチに切り詰め、これはガンスミスの最も初期の体験のひとつです。S&WのLフレームが登場したときには、日本でもイチロー氏の記述などからパイソンは実用面ではもう終わりという認識が広まり、その後はモデルアップされることも比較的少なくなっていったような気がします。
 日本でパイソンといえば第一に浮かぶのが「大捜査線」の杉良太郎演じる刑事‥‥ではなく「シティーハンター」の冴羽涼でしょうな。今年はこの作品の連載開始から20周年だそうです。ちなみに言っちゃ悪いですが1985にはもう、「いまどき分かってる奴はパイソン使わないよな」感があったもんです。コルトパイソン誕生50周年、「シティハンター」連載開始20周年、「大捜査線」放映25周年でDVD-BOX発売、を因縁で結びつけるのは無理矢理すぎますか(←過ぎるよ)。

 ちなみにコルトパイソンは「リボルバーのロールスロイス」と呼ばれる、てなことが昔よく言われましたが、ここには出てきませんでした。スタハチまで出てきているのにこれは変だ、ひょっとして当時誰かが捏造したフレーズちゃうかと疑い、検索しましたが「The Rolls-Royce of revolvers」、「The Rolls-Royce of sixguns」というフレーズが確かにいくつか出てきます。確かに英語圏でも言われていたようですね。