イランイラク戦争

 「歴史秘話」ものの記事です。

http://www.hinews.cn/news/system/2014/11/13/017111406.shtml


イランイラク戦争の残酷な戦術:イランの1万人以上の少年、体を使って地雷排除

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「1980年10月、イラク軍指揮官がイランイラク戦争の前線で地形を実地調査」)

1980年、「中東の覇者」になることを一心に願うイラク大統領フセイン(頑住吉注:原文ではサダムですがピンと来ないのでフセインにします)は、宿敵イランが内戦に陥った機に乗じて「火事場泥棒」し、論争のあるシャットゥルアラブ川の支配権を奪取し、続いてペルシャ湾に雄を唱えようとした。彼が選択した開戦の方式は電撃戦で、1939年にナチスドイツがポーランドに侵入した方式にならって、「30日の電撃戦によって戦争の勝利を獲得する」ことを希望した。しかし、運命はこのひどく傲慢な者に味方しなかった。

戦役の背景

伝統的には、イラクは決してイランのライバルではなく、例えばイランの面積と人口はいずれもイラクの3倍で、加えてイラン国王パーレビは親米で、アメリカの全方位の軍事援助を獲得しており、このためフセインには1079年までは、決してイラン侵入の考え方はなかった。

しかし、こうした一切は1979年にイラン国内で勃発したイスラム革命と共に変わった。この革命はパーレビの逃亡をもたらし、新たに権力を掌握したホメイニは別途革命防衛隊の建設を行い、かつ旧国王の軍を「反動の残存勢力」と見なし、イラン軍は7ヶ月以内に1.2万名の将校を失い、多くの軍人が退役した。1980年の開戦直前になると、イラン軍(革命防衛隊含まず)の兵力は28.5万人から15万人に急減しており、多くの歩兵師団の人数はイラクの一個旅団に及ばなかった。振り返って積極的に戦いに備えていたイラクはと見れば、軍隊の人数は20万人まで増加し、12個旅団が秘密のうちに師団に拡張編成されていた。

また、フセインはさらに積極的にイランの「革命の輸出」を恐れる湾岸のアラブ諸国を籠絡し、こうした国の支援の下にイラク軍は2,750両の戦車、2,500両の装甲車、920門の火砲、240機の実戦機を装備した。一方イランはパーレビ時代から残された447機の軍用機(77機のアメリカ製F-14戦闘機含む)、1,735両の戦車、3,140両の装甲車、1,000門余りの大砲を持っていたが、いずれも完備率は40%を超えず、このことは明らかにフセインの自信を強めさせた。

戦役の経過

1980年9月22日早朝、イラクは「イランがシャットゥルアラブ川の上のイラク国旗を掲揚する船舶を砲撃した」を口実に、実戦機を出動させてイランの15の都市と多くの空軍基地を爆撃した。フセインはさらに空軍指揮官に命令し、「霹靂的手段」を用いてイラン空軍を地上で麻痺状態にせよとした。イラクは全部で2波の機群を出動させ、第1波は少なくとも192機、第2波は少なくとも60機だった。しかし、目標の情報が欠乏し、かつ誤ってイランの飛行場の滑走路を主要な攻撃目標としたため、イラクの実戦機がイランの飛行場と機格納庫を攻撃する時にあいにくと弾薬不足の状況が出現するという結果をもたらした。

統計によれば、イラン機群は決していくらも損失せず、1機のテヘランのマハディアバド飛行場に駐機していたF-4E「ファントム」戦闘機が撃破されただけだった。当然、イラク空軍の奇襲にも全く効果がなかったわけではなく、飛行場の滑走路が短時間麻痺した他、イランが倉庫に貯蔵していた航空燃料の損失も深刻で、止むを得ず貴重な外貨を費やしてソ連、ユーゴスラビア、シリアから燃料を購入した。

3ルートの突撃の戦果はごくわずか

フセインの戦略目標は実現できなかったが、それでも地上進攻は予定の時間通り開始された。23日、イラク軍は国境線を越え、3つのルートに分かれてイランの縦深に向け推進し、その主力は北ルートと中央ルートの4個歩兵師団で、目標はイランの産油地域であるフーゼスタン州を直接奪取し、もってシャットゥルアラブ川をイラン内陸と隔絶し、かつここにイラクの支配を受ける「緩衝区」を建立するのに便とすることだった。戦略目標を達成するため、イラクはさらに1個装甲師団と1個機械化歩兵師団を出動させて南進させ、ホッラムシャフルとアバダンに進攻させ、イランを混乱させることを企図した。

イラク軍の進攻は当初イランサイドの有効な抵抗に遭わなかった。何故ならイランには準備が全くなかったからである。例えばイラクが重要都市であるカスル-Eシリンに進攻する時、現地のイラン守備軍は定員に達しない一個師団だけだった。まさに指揮がうまく機能しないことが原因で、イランは戦争の初め有効な防御が組織できなかった。戦いは10月中旬に至り、イラク軍はすでにイラン国境から40km〜80kmにまで深く入り込み、カスル-Eシリン、ホッラムシャフルなどの重要都市をを奪取していた。だが、フセインが期待したイラン軍崩壊の局面はそれにもかかわらず終始出現することはなかった。

海空の反撃、すぐに効果を見せる

10月24日、フーゼスタン州の半分以上の土地を占領したイラクは進攻の停止を決定し、既存の陣地を強固にし、かつ講和のシグナルを発する方向に転じた。しかし、まさにこの消極的な決定がイランに力量を再整備するチャンスを与え、しかも外敵の侵入はかえってホメイニが人心を結集するのを助け、本来不安定だった統治の基礎を堅実なものとした。

あるいは自らの戦略ミスを意識したのか、フセインは軍隊を組織し、イランの第二線陣地デズフルとアフヴァーズに向け改めて進攻を発起し始めた。だが時すでに遅しで、彼らはイラン軍の頑強な抵抗に遭った。11月になり冬季が到来するにつれ、イラク軍はイランにおいて進むも退くも両方難しいというまずい境地に陥り、フセインは止むを得ず予期したのよりもはるかに高い代価を払って、この間もなくイラクの国力を消耗し尽くさんとする戦争を維持した。

戦闘区域にしばしば大雨が激しく降るため、後方勤務補給は困難で、1980年11月から1981年5月、戦事は「冷バランス」状態に陥った。この期間、イランは先進的なアメリカ製戦闘機や海軍艦艇を利用してイラクに少なからぬ苦杯をなめさせた。例えば1980年11月28日午後、イランは戦闘機を出動させイラク南部の重要都市バスラに対する空襲を展開した。次の日の夜間、イラン海軍は6隻の艦艇を派遣し、突撃隊を護送して成功裏にシャットゥルアラブ川河口のバカルとアオマイェの石油掘削プラットフォームを奇襲した(それらはイラクの早期警戒レーダー基地でもあった)。

全体的に言って「冷バランス」段階の中で、イラクはイランの占領区域内に戦略道路を建設し、もって占領軍に対する物資補給を保持することを企図した。一方イランサイドは海空の優勢を利用して戦場の主導権を奪い、同時に国内の調整の歩みを加速し、退役を迫られた将兵を召還し、軍事院校の訓練養成過程を再始動させ、反攻のために力量を蓄積した。

「人海」戦術による反攻が功を奏す

1981年5月、イランはフーゼスタン州の被占領地域の回復を開始し、重点的に包囲に遭って半年余りの石油輸出港アバダーンを解放救出した。

フセインにはイランの反攻に対し早くから予測があったが、それでも打撃を受けてひどく狼狽した。激戦3日で、イランの2個歩兵師団と1個革命防衛隊旅団は戦車と砲兵の支援の下に、アバダーンを包囲攻撃するイラク軍を成功裏にカールーン川の向こうに追いやった。アバダーンでの惨敗はイラク人を極めて落胆させ、敗戦ムードの蔓延はイラク軍に深刻な脱走兵が発生する現象の出現をもたらした。

他方において、イランは11月29日から12月7日、7個革命防衛隊旅団と7個正規軍旅団を投入し、コードネーム「エルサレムの道」の攻勢を発起し、成功裏にイラク2個師団、1個旅団を撃滅し、フーゼスタン州の重要都市ボスタンを奪回した。

提示しておくに値するのは、イランがボスタンで初めて「人海」戦術を試みたことである。現地時間11月30日午前10時、イラク兵士がボスタン陣地外に寝て日光浴していると、突然砲弾が雨のごとく落下し、イラク兵士は這ったり転がったりして壕の中に身をかわした。砲火が射程を伸ばすのを待ってから、彼らは徐々に消え散る硝煙を通して、1万名以上の革命防衛隊の少年がスローガンを高く叫び、一列また一列と体を用いて地雷を起爆させ、戦車の進攻のために道をクリーニングしているのを見た(頑住吉注:対戦車地雷は基本的に人間が乗っても起爆しないようになっているはずですが)。続けて多くの革命防衛隊が地雷原を抜け、急速にイラク人の防衛線を突破し、イラクが1年近く守ってきた要塞を攻略した。

戦いは1982年5月に至り、イラン国内のイラク軍は基本的に粛清され、戦争はまたイランイラクの伝統的な境界線上に戻った。

戦役の総括

イラン軍の猛烈な反撃に恐れをなし、元々もう自信が不足していたフセインは講和を探求し始めた。1982年6月、フセインは非公開のルートを通じて停戦の条件を下げたいとし、イランが停戦協定締結を望みさえすれば、無条件で軍を撤収させることに同意するとした。しかしイランは決してそれを有り難いとは思わず、逆に一連の猛烈な攻勢をもって回答とした。1982年9月になって、イラン軍はやっと徐々に防御の態勢に転じ、イランイラク戦争の第一段階の作戦はここに至り終結が宣告された。

この段階の作戦の中で、イラク軍は「電撃戦」を利用して有効にイラン軍民の抵抗の意志を麻痺させることはできず、かえって自らを持久戦の泥沼に陥らせた。報道によれば、1980年9月から1981年11月までだけで、イラク軍はもう8.5万名の将兵を損失し(イランによって捕虜にされた将兵は3.5万名に達した)、戦車、装甲車を損失すること400両余り、イラク空軍にも120機余りの実戦機しか残っていなかった。イランに関しては、人員の損失は13万にも達したが、国土を回復し、かつ兵がイラク国境に迫ったため、軍隊はかえって戦闘の熱情が充満し、ホメイニは「フセインを倒せ」のスローガンさえ提出した。

しかしイランの究極的な国力には限りがあり、加えてホメイニが「宗教革命」輸出路線を堅持したことがあり、アメリカ、ソ連ないし湾岸のアラブ諸国いずれにもイランに徹底的にイラクを打ち破らせることを希望しなくさせた。このためイランが戦争を継続し続けていく決心をした時、イランが実際に直面したのは極めて孤立した局面であり、イランに向け軍事物資を提供したがる他国はほとんどなく、一方フセインは逆に外国の援助という「輸血」に頼ることができ、結果として本来1982年には終わるべきだったイランイラク戦争は1988年まで延び、イランの国力は極めて大きくそがれたのである。(畢暁普)


 フセインは「電撃戦」の再現を期待したようですが、戦争の流れはナチスドイツのソ連侵攻にやや似た流れになってしまったようです。今思えばいったい何のための戦争だったのかという感じですね。




















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