ソ連のアフガニスタン侵攻とは何だったのか

 歴史ものです。なお、「侵入」と「進入」の区別などは原文通りとし、「侵」だけのような原文通りにできないものも価値判断が原文に極力近くなるようにしました。

http://military.china.com/history4/62/20130402/17758998.html


ソ連のアフガニスタン侵入戦争の新解釈:ソ連は失敗したが決して戦敗していない

ソ連のアフガニスタン侵攻の原因に関する新解釈

ソ連のアフガニスタン侵攻の原因を理解するには、いくつかの歴史的背景の考察が必須である。19世紀にイギリス、ロシアは中央アジアを争奪し、勢力伯仲だったためこの二強は勢力範囲を画定し、アフガニスタンは「緩衝国」となった。イギリスは北に向けさらに一歩進むことはできず、一方ロシアもその兵士に「インド洋に達して靴を洗う」の宿願を達成させることはできなかった。1917年から1945年までの間、イギリスは分不相応にアフガニスタンを欲しがったが、これを勝ち取ることは決してなく、強大なソ連はアフガニスタンを立ち入り禁止区域とした。1945年以後、アフガニスタンはいわゆる「中立国」となったが、実際上はすでにソ連の勢力範囲だった。だが「冷戦」構造の下に、アフガニスタンは米ソが争奪する戦場となった。

ソ連にはアフガニスタンに対し拡張するイデオロギー上の動機があった。1978年4月、アフガニスタンにいわゆる「四月革命」が勃発し、新たに政権についた「人民民主党」はソ連路線を行くことを言明し、スースロフ(ソ連共産党中央第2書記、イデオロギーを主管)、ボノマリョフ(ソ連共産党中央国際部書記)などソ連指導者は欣喜雀躍し、アフガニスタンは「もう1つのモンゴル」になり、「世界革命」の壮麗な光景の実現はほとんど目の前だ、と考えた。もしアフガニスタンがソ連陣営に加われば、ソ連は直ちに南アジア、中東などの地域に推進するための新たな場所を持ったことになるのである。

だが、共産主義イデオロギーとアフガニスタン社会は相容れず、「人民民主党」の影響力は限られ、ただその親ソ外交路線ゆえに、やっと国内で政治的動力を獲得できただけだった。ソ連の専門家の援助の下で、タラキ政権はこの国に対し社会主義的改造を行った。すなわち土地改革、組織化を実行し、イスラム教の国教としての地位を廃止し(イスラム教は「ただ階級的利益を搾取するだけのもの」と考えられた)、宗教の上層部を鎮圧し、部族上層の権力を剥奪し、甚だしきに至っては肉体的な殲滅を実施した。パシュトゥーン族の武装解除を強行し(彼らには武器携帯の伝統があった)、婦女がベールをつけないことを許し、教育を受けさせる、等々である。こうした政策は国民の憤怒を引き起こし、「人民民主党」は矢面に立たされた。1979年9月、アミンが政変を発動し、タラキを殺害し(ソ連指導者はタラキに対し非常に好感を持っていた)、彼に取って代わった。アミンはソ連の警告をかえりみず、「党粛正」を実施した。元政府メンバーは免職され、あるいは殺され、ソ連はアフガニスタンにおいて危機に直面した。ソ連指導者は心配した。もしアフガニスタンの姉妹政党への支持を放棄したら、ソ連の威信が損なわれる、と。またアミンがアメリカに傾倒することを心配した。これが侵入を引き起こした直接の原因である。ソ連軍の主要な任務はアミンを倒し、カーマイルを首班とする臨時政権を根付かせて守ることだった。

アフガニスタン情勢はソ連の国境地域の安全と安定に関係した。隣国として、ソ連の中央アジア各民族とアフガニスタンは言語、種族、宗教、文化などの方面で近い。もしアフガニスタンの共産主義政権が転覆させられたら、中央アジアの安定に影響する。

アフガニスタン出兵はソ連のアメリカに対抗する具体的な措置でもあった。1979年3月、アフガニスタン国内には連続的に反乱が発生し、こうした反乱にはいずれもはっきりした外国の背景があった(1998年1月、ブレジンスキーは、1979年7月にアメリカのスパイが当時すでにカブールに浸透し、反対派のアフガニスタン政府転覆を支持した、というのが事実だと認めた)。ソ連指導者は知った。ホメイニの「イスラム革命」後にイランを追い出されたアメリカ人はすでにアフガニスタンに無線電信監視ポストを作っており、ソ連全土の電話の内容を傍受できる、と。また、ソ連政府はかつて、ソ連がもし出兵しなければ、アメリカ軍がすぐアフガニスタンを占領した、というのが事実だと認めた。‥‥ソ連軍はアメリカ軍より何時間か早く到着しただけだったのである(頑住吉注:これはちょっと信じられないですね)。

また、ソ連が決定したアフガニスタン出兵の期日(12月12日)は、NATOがヨーロッパにアメリカの中距離ミサイル配備を決定した日付と「偶然に一致」しており、これがソ連のアフガニスタン方向における西側に対する強烈な回答だったことを示している。

アフガニスタン情勢はあらゆる周辺国に影響する。アフガニスタン「革命」政権はかつてパキスタンの憂慮を引き起こした。「人民民主党」はソ連に頼ってパキスタンに対し領土上の要求を提出することを希望した。パキスタンには多くのパシュトゥーン族がいて、またソ連はパキスタンの敵インドとの間に友好関係が存在するからである。また、ソ連はこの地域にもう1つの潜在的競争者を持っていた。イランである。もしイランがアフガニスタンなどの隣国に「革命」を輸出したら、ソ連の中央アジア地域もイランのイスラム原理主義の影響を受けることになる。

ソ連のアフガニスタン侵攻のもう1つの目的は、中国への対抗と威嚇である。1950年代末から中ソ関係は悪化し、軍事・政治的対抗が開始された。ソ連指導者は、アフガニスタンへの出兵は中米が協力しての反ソを防止できると考えた。

このため、各方面から見ると、ソ連のアフガニスタン侵攻は決して普通の侵略行動ではなく、その主要な目的は地縁政治的任務の達成だった。

ソ連は失敗したが、決して戦敗はしていない

1978年タラキ政権はアフガニスタンの社会構造、イスラムの伝統、民族の心理を無視し、一部のレベルの低いソ連の専門家の助けの下に「ソビエト化」を軽々しく行い、アフガニスタン社会の非常に大きな反発を引き起こし、国内矛盾を激化させ、反政府勢力が急速に強大化した。1979年3月から、アフガニスタン政府は何度もソ連に軍を派遣しての関与を請求した(ロシアの学者が事実確認したところによれば、このような請求は20回を下回らない)。当初ソ連政府は比較的慎重で、食料、武器の援助を大幅に増加しただけだった。だがアフガニスタン政府はそれでも局面をコントロールできず、巻き込まれる程度が不断に深まる状況下で、ソ連は最終的にアフガニスタン出兵を選択した。長い年月が経った後で、ロシアの論者の多くは、アフガニスタン侵攻は何人かの老いぼれて頭の働かなくなったソ連指導者の間違った決定だったと非難した。だが出兵はその前における対アフガニスタン政策の論理的結果であり、さもなくばアメリカが優位に立つに任せることになっていた。また当時のソ連というスーパー大国の角度から見れば、譲歩は全く不可能だった。

ソ連政府の決策メカニズムは当然完備されたものとは呼び難い。最高指導者ブレジネフは脳血管の疾病が深刻で、ややもすれば執務できず、アフガニスタンでなにが起こっているかも知らなかった。出兵を力説したアンドロポフ、外務大臣ガロミク、国防大臣ユスティノフなどの人たちはアフガニスタン情勢に対し調査研究をしていなかったのにもかかわらず決策過程を主導した。ある軍事界の人物は警告し、出兵はアフガニスタン各派の一致しての反ソをもたらし、かつソ連とイスラム世界との良好な関係に損害を与える、としたが、重視されることはなかった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

ソ連の指導者は、出兵は実は愚かにもアフガニスタン内戦に巻き込まれることだと決して認識していなかった。アフガニスタン政権にはいかなる社会的基礎もなく、非常に弱体で、しかもソ連軍の侵入はアフガニスタン民衆に敵愾心を生じさせ、ソ連軍およびその傀儡政権を全民族の敵と見なさせた。イスラム教は一種の強大な精神的戦力となり、アフガニスタン社会を動員し、ソ連軍に対し「聖戦」を発動させた。ソ連軍はアフガニスタン人民の支持を得ることができず、従ってその軍事的成果を政治的成就に転化させることはできなかった。まさにソ連軍参謀長アヘロメイイェフ元帥が「我々はカブールと各省の中心を支配したが、占領した領土に政権を建立することはできなかった。我々はアフガニスタン人民を勝ち取る闘争に敗れた。政府を支持するのは人民の中の少数だけだった。」と語るようにである。

ソ連はアフガニスタンの地縁政治的スペースを必要とした。一方「人民民主党」は当然ソ連軍がその既得権益を守ることをも必要とした。ソ連軍が国内に入った後、アフガニスタン政府はソ連軍が全ての軍事任務を引き受けることを極力推進した(アフガニスタン政府軍の戦闘力は低下し、しかもしばしば反政府武装勢力に内部に入り込まれ裏切りの煽動を受けた)。1980年2月から、ソ連の一部の軍サイドの人物が、早くも何度もソ連軍撤退を主張したが、アフガニスタン政府は策を講じてソ連軍と自らが離れないよう結びつけ、ソ連政府に何度も軍撤退を遅延させ、ソ連軍の死傷者は不断に増加していった。

ソ連指導者は国際情勢の判断を誤った。多くのロシアの論者は、ソ連はアフガニスタンで西側の戦略的落とし穴にはまった、とする。実は、ソ連自身が相手のためにチャンスを提供し、西側はただ良いチャンスを捕まえただけである。ソ連軍のアフガニスタン侵入後、アメリカは迅速にワンセットの戦略、戦術計画を制定し、全ての資源を動員して政治、経済、外交などの方面からソ連に対抗した。パキスタンはアフガニスタンゲリラの信頼できる後方基地となり、アメリカ、イラン、サウジアラビアなどの国は実際上すでに「間接参戦」していた。ソ連は政治および道義的災難に陥り、全世界から孤立した。

ソ連軍の劣勢は次の所にあった:山地作戦に長けていなかった。元々あった山地師団は1945年以後すでに解散していた。アフガニスタンの劣悪な地理、気候条件はソ連軍を極めて不適合にさせ、多くの者が戦闘できなくなり人員の減少がもたらされた。「聖戦者」は地形を熟知しており、山の群を基地としてソ連軍を待ち伏せ攻撃した。精神方面においてソ連軍は「聖戦者」に遠く及ばなかった。ソ連軍は侵入者であり、士気は低下し、誰のために戦っているのか分からなかった。一方「聖戦者」は信念のために勇んで死に赴いた。ソ連軍は四方に敵を受け、一方「聖戦者」はアフガニスタン民衆の支持を得ており、至る所で援助と補充が得られた。ソ連軍は情報方面にも深刻な欠陥があり、「聖戦者」に対し突然の打撃を発起することができなかった。「聖戦者」はアメリカ、パキスタンの情報的支持を得ていた。1997年、マスードはインタビューを受けた時、一部のKGB高官がかつて情報を「聖戦者」に提供し、彼らに半月あまり前にソ連軍の作戦計画を知らせていたことが事実であると認めた。

だが、ソ連軍がアフガニスタンで戦敗したというのは決して適切ではない。ソ連の失敗は政治の失敗である。ソ連軍は親ソ政権とソ連の戦略的利益を保護しただけでなく、豊富な作戦経験を積んだ。すなわち純軍事的角度から見れば、ソ連軍のパフォーマンスにいいところがまるでなかったわけでは決してない。西側の専門家はかつて、1980年代中期、ソ連軍はすでに非常に良好に作戦任務に耐えた、と考えた。2001年11月11日、ロシア大統領プーチンは一群のアメリカの記者に対し、ソ連はアフガニスタンで決して戦敗してはいないし、しかも「軍事方面においてあらゆる既定の目標をも実現した」が、「多くの許されざる政治的誤りを犯した」だけだ、とした。

ちょっと見たところでは、今日のアメリカ軍はアフガニスタンにおいて当時のソ連軍に比べずっと成功しているようである。2001年から今までの8年内に失った将兵は800人でしかない(頑住吉注:全文を通じて最も新しい年号の表記も2009年であり、この文章は2009年に書かれたようです)。だが忘れてはならない。ソ連軍のアフガニスタンにおける相手は全世界だった。一方アメリカはほとんど全世界の支持を得ており、最も先進的な武器装備を持ち、アフガニスタンは貧弱で外部からの援助を欠いている。アメリカはさらにソ連の経験と教訓を吸収している。また、タリバンとの長期にわたる「平和共存」もアメリカ軍が死傷者を減らせている「秘訣」である(頑住吉注:手の内を知っている、ということでしょう)。

「アフガニスタン症候群」

ソ連はアフガニスタンにおいて悲惨、重大な代価を支払った。1978年から1990年までに、アフガニスタンに対する各種の援助、融資などは全部で85億ルーブルにも達した。しかも戦争に用いた費用はこれよりずっと多かった。ソ連軍の参戦者は時期を通して62万人に達し、文官の人員も2.1万人いた。このうち1.5万名近い将兵が戦死し、負傷者数は53,753人(このうち少なからぬ人が障害者となった)、戦病者は415,932人だった。また、アフガニスタン戦争はさらにソ連の深刻な制度上の危機を引き起こし、1991年12月、ソ連は崩壊した。1992年、ソ連帝国の延長物たる親ソのナジブラ政権も短期間で倒れた。

多くのソ連軍兵士は帰国後、アフガニスタンでの暴行を話し、ソ連社会を震撼させた。1989年12月、ソ連第2回人民代表大会は決議を通過させ、ソ連軍のアフガニスタン侵攻は違憲で、「政治および道義的譴責を当然受けるべき」と判断した。ブレジネフ、アンドロポフ、ガロミク、ユスティノフらの人はその咎を免れ難かった。かつてアフガニスタン作戦における「ソ連邦英雄」たちはそのオーラを失い、すぐに続いて来たソ連解体、社会の変化はアフガニスタン戦争の老兵(「アフガニスタン人」と呼ばれた)の生活をどん底に陥れ、「殺人者」、「犯罪者」呼ばわりされ、社会の蔑視に遭い、多数の「アフガニスタン人」が自己異化した(頑住吉注:意味不明です)。

1989年以後、ソ連ではアフガニスタン関連の「傷跡文学」(小説、散文、歌曲、映画など)が急速に流行し、また「アフガニスタン症候群」(医学用語では「心的外傷後ストレス症候群」)という言葉もかつてなく流行した。ある歌の歌詞には次のような内容がある。(頑住吉注:きちんとした文章になっていない情緒的な歌詞なんで訳せないです)

(頑住吉注:3ページ目)

調査は、1/3以上の老兵に「アフガニスタン症候群」があり、心理的な助けを必要とすることを示している。その具体的表れは、怒りやすい、凶悪で残忍、罪悪感、不眠、自殺あるいは殺人の傾向等々である。この種の「症候群」は戦争終結後半年、あるいは何十年後に起きることがあり、このため一種の心理的な「時限爆弾」である。肢体の障害者に比べ、彼らはある意味心理的障害者である。75%の「アフガニスタン人」は離婚し、あるいは家庭内の矛盾が先鋭化した。2/3の「アフガニスタン人」は仕事に対し満足せず、しばしば転職する。50〜70%の「アフガニスタン人」はいつもアフガニスタンに帰る準備をしている。多くの人は大酒や禁止薬物によって緊張した心理を和らげている。一部の「アフガニスタン人」はすでに平和な生活に適応しているようだが、「アフガニスタン症候群」はいつでも発症し、壊滅的結果をもたらす。

「アフガニスタン人」はかつて積極的にソ連の政治闘争に巻き込まれた。1991年の8.19事件の中で、グラチョフが指揮する航空降下兵は両派の政治力量の争奪の対象となった。エリツィンに味方するのか、それとも「非常事態委員会」に味方するのかは、闘争の結果を決定する重要なカギとなった。1994年にはチェチェン戦争が勃発し、多くの「アフガニスタン人」が自ら名乗り出てチェチェン戦争に参加した。

ロシア警察部門はかつて「アフガニスタン人」に対し門戸を大きく広げていた。だがこうした「アフガニスタン人」は警察官になった後、戦場のやり方を持ち込み、ややもすれば凶悪な行動に出、暴力を振るい、ある種の社会問題になった。メディアはかつて次のように報道した。1995年2月、すでに妻をめとり子をなして長年になる「アフガニスタン人」シェフチェンコは警察の同僚たちと一緒に狩りをしていたが、突然その同僚に発砲、掃射した。事後彼は、ぼうっとしている間に自分がまたアフガニスタンに身を置いている感覚になり、狙撃手の本能が突然蘇り、周囲全てが敵になったのだ、と語った。アフガニスタン戦争は別の形でロシア社会で続いているのである。

多くの「アフガニスタン人」は傭兵に充当され、国外に出て武装衝突に参加している。会社の警備に当たっている人もいる。さらに少なからぬ人が犯罪組織に加入さえしている。

戦争の悪しき結果はこれに留まらない。1989年のソ連撤退後、アフガニスタンは急速に残酷な内戦に陥り、戦火はタジキスタンなどの国に延焼した。短期間内にアフガニスタンは世界最大の麻薬生産国に「勃興」し(全世界の麻薬生産量総量の90%を占める)、ロシアに大きな害を与えた。ある数字は、ロシアで毎年アフガニスタンの麻薬が原因で死亡する人の人数は、ソ連軍のアフガニスタン戦争期間の死亡者数の2倍だということを示している。麻薬使用、麻薬販売は相互に関連しており、さらに売春、エイズ、組織犯罪などもある。ロシア社会はアフガニスタン戦争のために残酷な報復に遭っているのである。

取り入れられなかった教訓

アメリカは朝鮮、ベトナムで非常に大きな代価を支払い、「症候群」を残したが、ソ連は再びその轍を踏み、アフガニスタンを自らの「ベトナム」とした。2001年10月、アメリカはまた慌ただしくソ連の後を追った。見たところ、いわゆる教訓はいつも事後性を持ち、いわゆる教訓も決していつも取り入れられるわけではないのである。同様に、アフガニスタンの傷もまだ癒えないうちに、ロシアはまた「チェチェン症候群」を患った。‥‥あの内戦の中で、ロシアはアフガニスタンの時より小さくない代価を支払った。

アメリカがかつて撮影したベトナム戦争を題材としたシリーズものの映画(例えば「First Blood」)は、ランボーというベトナム戦争の英雄を作り出したが、その意図は侵略戦争の美化、罪悪感の打ち消し、「ベトナム症候群」の治療にあり、「忘却のための紀念」を行っているのである。ロシアは「アフガニスタン症候群」に対しかつては何もしようとしなかったが、時間の流れと共にその態度にも変化が発生した。

すなわち1990年代末から、ロシアはもはやひたすらアフガニスタン戦争の非正義性を譴責し、傷跡を誇大宣伝するのではなく、ソ連のアフガニスタンに対する友好的援助、出兵の合法性と必要性を強調している。ソ連の出兵はアフガニスタンに対する「友好的な援助」であり、しかもソ連・アフガニスタン条約第4条に依拠したものだ、と。あるロシア政府要人はインタビューの時、いわゆる「アフガニスタン症候群」は反ロシア勢力の誹謗に源があり、この心理的疾病を治療する必要があり、ソ連軍がアフガニスタンで行ったのは侵略、甚だしきに至っては犯罪だと考える自虐的観念を放棄することが必須だとの考えを述べた。

2005年、ロシア映画「九連」(頑住吉注:「第9中隊」?)は一群のロシア版ランボーたちを作り出した。その機能は「First Blood」シリーズに似ており、意図は「アフガニスタン症候群」(および「チェチェン症候群」)の解消にある。

2007年6月、アメリカの映画監督テレンス ヘンリーはロシアのワルンニコフ将軍をインタビューした。将軍は次のように断言した。決してアメリカの「スティンガー」ミサイルが戦争の結果を決定したのではなく、「我々は自らアフガニスタンを離れたのだ」 しかもソ連軍のアフガニスタン進入は決して侵略ではなく、アフガニスタン政府の再三の請求に応えて出兵したのだ。アフガニスタン人民はかつてソ連軍を保護者と見なし、生花をもって出迎えた。送別の時は「生花があっただけでなく、目に涙もあった」、と。

あらゆる征服者はアフガニスタンで失敗しているが、唯一ロシアだけが例外だ、とされる。ある論者は、1925年、1929年、1930年と、ソ連はかつて3回アフガニスタンに対する用兵に成功している、と事実確認する。しかも当時のソ連軍の指揮員グロモフ将軍はかつて次のように書いている。1979年末、ソ連軍は妨害を受けずにアフガニスタンに進入した。アメリカ(ベトナムにおいて)とは異なり、ソ連軍は「アフガニスタンにおいて任務を完成させた後、組織的に祖国へ帰ったのだ。」

一部の政界や学会の人物を切歯扼腕させるのは、すでにもはや1979年の侵入ではなく、1989年の撤退なのである。

1991年以後、ロシアはアフガニスタン政府への支持を放棄し、このことは近視眼的な外交政策であると考えられている。2009年2月、ロシアの学者ユーリ ケルプノフはインタビューを受けた時、20年前のアフガニスタンからの撤退は非常に愚かなことで、ソ連はかの地で非常に多くの代価を支払ったのに最終的に手を引き、本来の投資を水の泡とした、とした。

今日アメリカはアフガニスタンでまた十字路にさしかかっている。アメリカはすでに前途の見通しが立たない現実を見ているようで、兵員増強を言明すると同時に、ソ連軍の経験を重視し始めている。すなわち2009年9月、かつてアフガニスタン戦争に参加したアウシェフ将軍(イングーシ共和国の元大統領)がホワイトハウスに呼ばれ、アメリカ人のために「顧問」に当たっている。甚だしきに至ってはアメリカはロシアに、「アフガニスタン民主化プロセスへの参与の拡大」を提案し、ロシア軍が共同でタリバンに対処するよう誘っている。12月16日、NATOはロシアサイドがアフガニスタンに軍隊を駐留させるという援助をお願いしている。ソ連のかつての出来事にかんがみて、ロシアのこのような提案に対する態度は非常に慎重である(ある学者はこれもまた1つの落とし穴だと指摘している)。もしアフガニスタンがアメリカの悪夢になるのなら、ロシアはまさに対岸の火事として見ていてよい。アメリカをアフガニスタンという落とし穴に深く陥れることは、明らかにそのコーカサス、東欧方面でのロシアに対する圧力を減少させる助けになるからなおさらである。(シンヤンヤン 文章は「南風窓」から抜粋)


 一部意味不明の部分もありますが、非常に興味深かったです。国際政治の複雑さと共に、「自虐史観」批判というものが客観的にはどう目に映るものなのか、考えさせられます。




















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