「サボタージュ焼夷手段」

 「Waffen Revue」4号に、あまり知られていない「これぞまさしくアンダーグラウンドウェポン」とも言うべき特殊兵器に関する記事が掲載されていました。


第一次および第二次大戦における

サボタージュ焼夷手段

 すでに第二次大戦の準備の際、最も多様なドイツの官庁が焼夷サボタージュおよびこれに対応した防御の問題に取り組んでいた。第一次大戦由来の経験レポートや複数の外国(当時「オリエントから」と言われた)から集められた基礎資料が基本となった。

 ドイツの専門担当官は、未来の紛争においてはサボタージュ、特に焼夷サボタージュが従来よりももっと重要性を増すと計算しなければならず、そして想定される敵国ではこれに対応する技術的方策が開発されるだろうという結論に到達した。だが基礎資料の総括は、以前の時代においては焼夷サボタージュのための技術的方策はたいてい必要なケースになって初めて「ありあわせのもので作」られたのであるという結論になった。だがこれが未来においてもこうなるとは思われなかった。それはそうとしてそうしたありあわせのもので作った手段に対する対策を取らないということはできず、自陣営の治安部隊の訓練において特別にこれを取り上げることは可能だった。

 こうした事情を考慮し、大量生産されたサボタージュ手段に関心が向けられた。以前と同じ形状でではなくても、非常に似た形状で使用されるだろうことは前提とされた。つまりそれらは当時の評価によれば最終的解答と考えることができた。なぜなら従来のサボタージュ手段は全ての要求を満たし、本質的な改良は想像できなかったからである。

 こうした前提の下、ドイツの治安担当者の教育が計画された。国防軍、警察、防空機関、ナチ党幹部、産業における工場保安隊、帝国郵便職員、帝国鉄道職員、そして限定的範囲で民間人も、有り得る敵のサボタージュを解明すること、そしてその妨害における協力を要請された。

 1934年から1939年までの間にドイツ治安維持部隊の訓練において特に教育が行われた第一次大戦のサボタージュ手段の中では、「時限点火機能を持つ焼夷筒」が抜きん出た地位を占めていた(図1)。これはフランスの開発品で、第一にはドイツ国内の戦争捕虜に発送することに決められていたらしい。これは贈り物の包みにこっそりとしのばせ、労働に投入されている捕虜がサボタージュ手段として役立てることが意図された。

 この「時限点火機能を持つ焼夷筒」は「形状および大きさが薬のパッケージと同じ」黒色の紙筒からなっていた。この筒内には焼夷液剤が入ったガラス製アンプルが収められていた。長く引き伸ばされたアンプルの先端部は筒内に圧入された紙製の固定板を通って突き出していた。このワンセットの周囲には2と1/2、3と1/4、3と1/3の文字を持つ紙テープがぐるっと貼り付けられており、これによってこのワンセットの始動から炎を発するまでの時間数が表されていた。記述にはより詳しい内容はなかった。



図1 フランス製の時限点火機能を持つ焼夷筒

 この「時限点火機能を持つ焼夷筒」の始動は考え得る限りの単純さだった。すなわちそれは固定板から突き出たガラス製アンプルの端部を折ることによって行われた。その後使用者はこのワンセットを燃焼しやすい物質の上に直立させた。記された時間経過の後、アンプルに含まれた液体が空気の影響下で着火し、燃焼継続時間およそ5分の細長く吹き出る炎が発生した。

 鹵獲された戦争捕虜のための秘密指令書からは、このサボタージュ手段が主に国の生存上重要な大規模農場や工業施設の破壊用と決められていたことが明らかになった。戦争捕虜がこうした場所で一番活動的になり得ることは前提とされた。見張りが(そもそも居た場合にはだが)軍事施設のそれより少なかったからである。農業現場においては焼夷筒と病原体(家畜の飼料に混入されることが意図された)の同時使用が推奨された。これにより感染した家畜が、厩舎が燃えた後で近隣の農家の家屋敷に収容され、その後そこの獣にも伝染することが計算されたのである。最後に発車準備状態の鉄道貨車内に焼夷筒を設置することが推奨された。

 第一次大戦由来のレポートにはさらに一連の他のサボタージュ手段および応急手段が挙げられていた。それによればその中にはチョコレート型をした固形燃料アルコール、巻かれた燃焼紐(これは缶詰の缶の温めに役立てる意図とされたが、実際のところそのためには不適だった)があった。この紐にはステアリン(頑住吉注:食用油脂の一種)、パラフィン、あるいは類似の可燃物質が染み込み、巻いた状態でも導火線として使用できた。

 戦争捕虜への贈り物の包みに入れて発送するためのさらなる放火手段もあり、例えばこれはパラフィンを染み込ませたトウモロコシの軸穂だった。これらはドイツサイドにおいて遅い時期にはもはやさほど危険ではないことが分かったので、治安維持部隊の教育の際これに関しもはや取り上げられなかった。

 これとは異なり第一次大戦時以来の「炎青鉛筆」は大きな注目を集めた。紛争ケースにおけるその改めての登場はドイツサイドでは戦争前の時代に確実視されていた。特別な教育図表すら存在し、そこにはこれが外観図と断面図で表現されていた。

 ちなみに実際どの国がこのサボタージュ手段を開発したのかは知られていない。ドイツはこれはイギリスのエージェントが作ったものだと主張した。英米等の国々ではこの「ジャーマンブルーペンシル」はドイツのエージェントのサボタージュ手段として認知されている。

 治安維持および救援業務のための官庁(SHD。後に防空警察 頑住吉注:防空と言っても敵機を撃ち落す目的ではなく空襲時の治安維持や被災者への対応を行う組織だったようです)の訓練の中では第二次大戦前、敵の炎青鉛筆が特別に際立った戦闘手段として教育された。この時代の教育ノートには以下のような記述と図が見られる。 「敵のサボタージュエージェントの炎青鉛筆は外観上普通の鉛筆と全く同様に見えた。」 つまり1人のエージェントが誰にも気付かれず多くのこれを身に付けて持ち運ぶことが可能だった。炎青鉛筆1本の重量はたった12.5gだった。木製の鉛筆ジャケットは先端と後端が本当の鉛筆の芯の小片で閉鎖されていた。芯の小片の間にある内部の空洞には放火装置が入っており、これは次のような個々の構成要素を持っていた。

1.内部スペース下部を閉鎖するコルク栓
2.塩化カリウム入りのセルロイドカプセル。
3.焼いた粘土でできた遅延部品
4.濃縮された硫酸入りのツーピースのガラス製アンプル
5.サイドに組み込まれた始動ボタン

 炎青鉛筆の機能は次のようであった。エージェントは始動のため木製ジャケットのサイドに組み込まれたボタンを押した。これにより薄く引き伸ばされた酸アンプルの端部が壊れた。酸は流出し、およそ半時間のうちに焼いた粘土製の遅延部品からしみ出した。酸はその後セルロイドカプセルを溶かし、塩化カリウムと接触した。これにより化学反応が起こり、結果として猛烈に燃焼する炎が発生した。これは燃焼しやすいものに急速に点火する状態だった。そういうわけで使用は主に資材置き場、倉庫等の設備に対してなされた。

 さらに言及に値するのは、連合国サイドによる遠洋における炎青鉛筆を使っての船舶放火が多数行われたことがドイツの対サボタージュエージェントによって解明されたことである。この鉛筆は特に綿花ボールなど燃えやすい品に取り付けられたらしい。この説が正しいかどうかは不明のままであろう。このエージェントはその後、自分の炎青鉛筆の短い遅延時間に応じてそれぞれ自分自身が燃える船上にいなければならなかったと思われる……。

 ちなみにドイツサイドでは炎青鉛筆は決して自陣営の人間によって使用されていないと常に主張された。

 第二次大戦開戦後、ドイツの治安維持組織はしばしば敵のエージェントによるサボタージュ手段使用、特に戦争捕虜によるそれに割り当てられた。だがエージェントは姿を見せず、そして戦争捕虜(特にフランス人の)は農業においてすばらしい働きをしていた。彼らは全ての主張と正反対にサボタージュ能力を準備していなかったし、適する戦闘手段を手にしてもいなかった。ずっと後(戦争後半)になって初めて西側連合軍が大量生産したサボタージュ焼夷手段を実戦投入した。これは主に占領された西および北ヨーロッパの国々の抵抗運動に供給するためだった。1942年初め、イギリスで大量生産されたサボタージュ焼夷手段がより大量に、特にフランスおよびベルギーで実戦使用されるようになった。それらはロシアにも供給されたとされる。1942年6月、ドイツ当局は敵の開発品に関する概観的知識をほぼ手にした。鹵獲品は調査され、対応する教育書が国防軍、警察等の全部署に配布された。だがそれだけでなく敵の弾薬を無力化する任務を持つ特殊な部隊、例えば爆破作業班にも特に配布された。

 あるイギリスの開発品が初めて鹵獲されたが、これにはドイツによって「遅延点火棒」の名称が与えられた(図4)。これは単純に作られた酸による信管であり、一部は小さなエレクトロン(頑住吉注:マグネシウム合金)テルミット(頑住吉注:アルミニウムと酸化鉄の混合物)焼夷剤と、一部は導火線用の接続装置とともに供給された。エレクトロン-テルミット充填剤を持つサボタージュ手段には2つの型が存在した。これらは互いに信管と焼夷体の間の結合部品の構造に些細な差異があるあるだけだった。

 遅延点火棒のケースはスリーピースだった。これは酸アンプルのための銅製筒、ファイアリングピンおよびコックスプリング用真鍮筒、接続部品が付属したプライマーキャリアだった。プライマーキャリアは個々の型においていろいろの性質を持っていた(下記参照)。

 アンプル筒の上端はネジを形成しており、これは同時に鉛製パッキングおよびスチールワイヤー(ここにファイアリングピンがひっかかっている)を保持していた。

 スチールワイヤーは2つの綿製の詰め物の間に位置する酸アンプルのサイドを通過しており、アンプルスペースの下の閉鎖部品を通ってファイアリングピン収納部に至っていた。

 スプリングのテンションがかけられたファイアリングピンはスチールワイヤーによって保持されている。納入状態ではさらに安全ピンがファイアリングピン収納部を横方向に貫通している。テルミット充填剤用点信管型の場合これらは曲げられたリングが付属する1本のワイヤーであり、導火線用接続部品を伴う信管の場合は遅延の識別色がつけられた金属薄板片からなっていた(下記参照)。

 テルミット充填剤用信管の場合下の閉鎖部品はプライマーキャリアからなっており、これは点火剤も受け入れた。点火剤は充填剤のエレクトロンジャケット内にねじ込まれた。

 この焼夷体はその構造が「塵焼夷弾」(頑住吉注:テルミット焼夷弾)に比較し得るものだった。側面に2つのガス漏出穴を持つエレクトロンジャケットは圧縮されたテルミットで満たされていた。

 ここで取り組んでいるサボタージュ遅延信管の他の型は下端に導火線を差し込むための「かえし」を持つトラップ設備を持っていた。これは各5個が粘着バンドを巻いて水密包装され黒色にラッカー塗装されたスライド箱にまとめて入れられて供給された。ある鹵獲された郵便物の場合紙箱の中身は異なる遅延時間によって分類されていた。すなわち次の通りである。

半時間=赤のマーキング
2時間=白のマーキング
3時間=緑のマーキング
8時間=黄色のマーキング
20時間=青のマーキング



図4 (頑住吉注:一番上はテルミット焼夷弾に接続された遅延点火筒、その下はその断面図、その下は導火線に接続された遅延点火筒、その下はその断面図です。遅延点火筒はどちらに接続するかによって接続部が異なるだけで基本的には同じものです。上の型では遅延点火筒の内部には非常に強力なスプリングとファイアリングピンが内蔵され、左に進もうとしていますが、スチールワイヤーによって止められ、さらに安全ピンによっても左進が阻まれています。内部右には酸の入ったアンプルが入っています。安全ピンを抜いた後で肉の薄い銅製筒を潰すことによってアンプルを壊すとスチールワイヤーが酸に浸されます。一定時間後、スチールワイヤーがちぎれてファイアリングピンがプライマーを突き、発生したスパークによってテルミット焼夷弾が発火するわけです。下の型ではテルミット焼夷弾の代わりに導火線が接続されていますが、プライマーの発火によって導火線に点火することだけが異なります。もちろん導火線の先には何か強力な爆薬等があるんでしょう。「かえし」というのは釣り針についているような逆トゲで導火線の抜け止めです。「導火線限定フック」というのは導火線が深く入り過ぎないためのものらしいです。どうでもいいですけどドイツ語では綿のことを「Watte」と言います)



(頑住吉注:遅延点火筒はこのように5本セットで金属薄板製ケースに入れて供給されました)

 その実戦使用に関して間違いなく最重要だったのはイギリス最後のサボタージュ手段であり、これはドイツサイドにおいて「長時間遅延信管付きイギリス製サボタージュ焼夷点火手段」の名を得たが、すぐ「焼夷小パック」の名の下に一般に知られるようになった(図6)。これは1944年に初めて出現したが、やはり大量に、そしてやはり帝国領域内にであった。

 

図6 最初にドイツによってイギリス製焼夷小パックに関して作成された図。



(頑住吉注:これは当時の新聞に掲載された実物の写真です)

 供給は航空機からの投下によってなされた。添付された取扱説明書は11の言語で、この焼夷小パックが第一にドイツ国内で働かされている多数の戦争捕虜と強制労働者用であることを分からせていた。

 焼夷小パックは投下弾薬に該当した。そういうわけでドイツ国内官庁による対策と情報公開は帝国航空省監査第13部局によってなされた。1944年11月3日、同局は初の回状を図表付きで発した。この中ではイギリス空軍が最近、「従来知られていなかった長さで直径410mmのサボタージュ焼夷点火手段入り紙製貯蔵コンテナ多数」を投下してきていることが報じられた。

 この焼夷小パックは150x40x10mmの大きさのセルロイド容器からなっていた(頑住吉注:普通の用途の場合セルロイドはよく燃えることが欠点とされます)。内部スペースは大小のチャンバーに分けられていた。大きいチャンバーには35立方cmの焼夷剤が、そして小さいチャンバーにはすでに記述した30分の遅延時間を持つ遅延点火棒が収められていた。この場合の遅延点火棒はより短い導火線と点火ヘッドを持つ新しい特殊型だった。

 それぞれの焼夷小パックは赤い紙製の板上に何枚かの粘着バンドで固定され、紙製の板の裏側には取扱説明書があった。前述のように11の言語で書かれたさらなる取扱説明書は折りたたんで粘着バンド片で焼夷小パック上に固定されていた。

 焼夷小パックの始動は簡単だった。すなわち、遅延信管はすでに説明した方法でセーフティ解除され、始動させられた。30分の遅延時間後、遅延信管は導火線と点火ヘッドに点火し、そしてこれにより全セットが音もなく燃え上がった(頑住吉注:上で説明した遅延点火棒が焼夷剤の入った箱と組み合わせてあるだけです)。

 焼夷小パックの効力は、それがどのような方法で可燃物の下に取り付けられたかによった。

 当然帝国航空省の前述の部局の側からもサボタージュ焼夷点火手段発見時の行動に向けた指示が出された。すなわちすぐに警察に届け出るべしと。「全ての着服、そして全ての悪用、特に外国人および遊んでいる子供によるそれは妨げられるべきである。届け出および安全義務の無視は刑法上の訴追を受けることになる。」 さらに締めくくりとして、図示された焼夷小パックは不発弾の知識があり敵の焼夷投下手段の除去訓練を受けた警察構成員によって深さ1mの穴の中で焼き払われるべしとされた。西連合軍によってドイツ前線を越えて膨大な量で投下されたビラの中では再三にわたってこの「焼夷小パック」が報じられていた。このレポートは一方では焼夷小パックの危険性と成功裏の使用を指摘すること、他方ではサボタージュ能力を鼓舞することを意図していた。こうした、そして似た種類のビラは「サイコロジカルな戦争」の1つの本質的な部分だった。それはドイツ部隊の戦意を弱め、降伏を促す任務を持っていた。

 ドイツサイドにおいて発見された焼夷小パックが自分たちの使用のために集められなかったことは事後にしてみれば不思議である。これはドイツの対パルチザン戦争の準備に従事するナチ党当局がオーソドックスな仕事をしている航空省の監査部局とつながりを持たなかったことに原因が求められるようだ。

 第二次大戦後アメリカの委員会はドイツへの焼夷小パック投下の成果に特別に興味を持った。彼らはこれに関しこうした措置が少なくとも農業分野においては全く成果なしに留まったことを確認した。それは「彼らの」穀物倉に点火するにはあまりにも多く、農民が戦争捕虜の中にいたからである。工業分野においていかに広範にサボタージュ焼夷手段が設置されたかについては確認不能である。空襲で生じた多数の火災ゆえにである。つまりサボタージュの要求は西では(東とは異なり)特別に意義のあるものではなかった。


 サボタージュと言うと怠業のことかと思われ、実際ドイツ軍のために兵器を生産させられていた人々が故意に品質の低い製品を作るといった抵抗も行われたらしいですが、ここで語られているのはもっと積極的な破壊活動です。国際法上捕虜は保護されますが、破壊活動を行ったことがばれれば恐らく処刑されることになるはずで、安全な場所にいる人間が捕虜への贈り物にこういったものを忍ばせて破壊活動を促すというのはどんなものかとも思われますが、事実としてそういったことが行われていたわけです。

 明確な記述はないんですが、「複数の外国(当時「オリエントから」と言われた)から集められた基礎資料が基本となった」、「サボタージュの要求は西では(東とは異なり)特別に意義のあるものではなかった」といった記述から、日本の支配に対する破壊活動の方が活発に行われ、また成果を挙げていた、ということのようです。








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