中国人による三八式歩兵銃擁護論

 ちょっと珍しい、中国人による日本兵器の擁護論です。

http://www.360doc.com/content/10/0117/02/207370_13771648.shtml


三八式のどこがそんなに劣っているのか

三八式は中国を侵略した日本軍のかつての制式小銃であり、後に日本軍が降伏すると、我が軍の主要装備にもなった。昔からこの銃の名が革命文学作品の中に出現することは、他の小銃と比較すると明らかに多い。そこでこのことは官方の視点にけちをつけることが好きなインターネットユーザーたちの疑問をかきたて(頑住吉注:たぶんネットユーザーの多くが、「何で革命文学に侵略国日本の銃がこんなに頻繁に登場するんだ。たいした銃でもないのに。」と反発を感じており、またこの反発は官製の視点の押しつけに対する反発とも結びついている、というようなことではあるまいかと思います)、加えて三八式には疑いなく種々の欠点があることもあり、さらに人々がこの銃を否定する理由となっている。そこで日本軍の小銃は国軍の小銃に及ばないというお手本となる記述が広範に転載されている。私はこれが正しいとは思わない。ここで分析を加えることを試みる。

1.弾丸の威力に関する問題

これは語られることが最も多い問題であり、一説によれば中国制式銃が三八式より優れている最大の理由でもある。だが私はそうは考えない。確かに有坂6.5mm小銃弾薬の殺傷力はモーゼル7.9mm小銃弾薬より小さい。これは争いのない結論である。ただし、だから三八式は中国制式銃に及ばないと説明するのはそんなに簡単なことでは全くない。

まず、有坂小銃弾薬は不致命であるというこの言い方をいろいろな方面から考慮し、はっきり見定める必要がある。確かに三八式は口径が小さく、弾丸の飛行安定性が特に高く、人体に命中後容易に貫通してしまう、この問題は存在する。多くの当時の抗日老兵が揃って、三八式は人道銃だ、6.5mm弾は人体に命中後、急所に傷を及ぼさない限り一般に皆生還できた、と語る。小説「烈火金鋼」の中の史更新は1発の6.5mm弾が目の下に命中して後頭部に貫通したが、依然戦闘を続けることができた。これは小説ではあるが、ここで描写された事情は確かに発生していた。忻口戦役において李仙洲は1発の6.5mm弾がまさに前胸部に命中して背中に貫通したが、依然として常のごとく走り、全くこれに気付かなかった。しかも史更新はこうも言った。「これは6.5mm弾だ。もし7.9mm弾だったら俺はいちころだった」と。李仙洲が負傷後に治療を受けた軍医もほとんど同じことを言った。早くも当時、6.5mm弾に対してこの種の批判がすでに存在していたことが見て取れる。

有坂6.5mm小銃弾が人体に命中後、容易には転倒せず、このため肉体に対する破壊作用が理想的でないという現象に関しては、多数の文章が近距離でこそ出現するのだと語るが、中、遠距離でこそ出現するのだと語る文章もある。しかもこれらは当時の国民政府の兵工署が実験を経て出した結論である。だが、今までオリジナルの実験データを見たことはない。この二種の言い方は明らかに食い違っているが、いずれも有力な証拠による支持を欠いている。だが私本人は二番目の説を信じる方に傾いている。すなわち三八式は、近距離における殺傷効果は中国制式に劣らないが、中、遠距離における停止作用は少し低い、と考える。ただしそうは言っても、結局三八式の停止作用は当時の各主流小銃の中にあって最弱であり、これは不動の事実である。

だが我々はこの事実を承認すると同時に、いくつかの個々の問題を考慮すべきである。1つ目として、6.5mm小銃弾の威力は一体どの程度まで低いのか、この威力が実用上充分であるのかないのかという問題を考慮する必要がある。私の考えでは、その威力が一定の距離において正確に目標を射殺するという要求を満足させられさえすれば、すなわち充分であると見る。それでは有坂小銃弾はこの要求を満足させられるのか否か? 有坂小銃弾の銃口エネルギーは2613ジュールであり、確実に当時におけるそれぞれの現役大威力小銃弾の中で相対的に小さい(モーゼル7.9mm小銃弾、30-06小銃弾、1908小銃弾、303小銃弾等の銃口エネルギーはいずれも3000ジュールを超えている)。ただし6.5mm弾は当時存在した小銃弾の中で最も細長く、ライフリングによる回転速度が最高なので、エネルギー残存性が比較的良好で(頑住吉注:回転速度が高いと、いわゆるみそすり運動が起こりにくいからエネルギー残存性がよい、ということでしょう)、600mにおいて依然正確に目標を射殺でき、これは当時において威力はすでに充分だった。後に発展したモーゼル7.9mm短小弾やM43弾等の中間威力小銃弾の銃口エネルギーはいずれも2000ジュール前後しかなく、それらがダメだとする意見を聞くことは少ない。したがってそれらの威力はすでに実用上充分だということであり、充分だということはOKだということである。

2つ目に、6.5mm弾が人間の急所に命中しても(実際には急所に命中したように見えて急所に命中していない)死に至らない確率が一体どのくらいあるのかを考慮する必要がある。私はひそかに、この言い方(頑住吉注:6.5mm弾が急所に命中しても死なないことが多い)は宣伝によるものではないのかと感じている。こういう情況はあるのか否か、すなわち100人が6.5mm弾で急所を撃たれ、99人が死んでも、誰も不思議には感じない。もし史更新、李仙洲のような情況が起きたら、往々にして針小棒大に拡大した宣伝が行われる。これはまさに犬が100回人を噛んでもニュースにならないが、人が1回犬を噛めば必ずニュースになるというのと同じ道理である。実際のところ李仙洲のような不幸中の幸いの確率は百分の一もないのであって、私はおかしいと思う。逆に、李のような状況はその他の銃でも起こったことがある。2004年、黒竜江で、犯罪取り締まりを行うある警察官が、小説の中の史更新とそっくりな状況に遭遇した。彼も1発の弾丸(51式7.62mm拳銃弾)が目の下に命中して後頭部に貫通したが、半年の療養後、何の後遺症も残さずに健康を回復した。遠く離れて昔、東条英機が拳銃で自分の心臓部位を狙って撃ち、それにもかかわらず死ななかったというケースもある。だから私は李仙洲のような、急所に命中したように見えたが実際には間一髪急所をそれたといった状況は、その他の銃でも全て出現する可能性があると考える。ただ、6.5mm弾によってこのような状況が出現するのは、その他の弾に比べて少し多いかもしれず、7.9mm弾ではこのような状況は起こりえないか、あるいは起こることが非常に少ない、というだけのことである。ただしどんな銃、どんな弾に関して言っても、これはきわめて例外的なケースに過ぎず、その確率は極めて低く、三八式でもそうなのである。

3つ目に、戦争中1人を撃って負傷させ、その抵抗能力を喪失させることは、1人を撃ち殺すことと比較して相手側に与えるダメージが大きいのか小さいのかという問題を考慮する必要がある。これに関しては具体的な問題を具体的に分析する。もし今日の米軍であれば、1人が死亡することによるダメージは、間違いなく1人が負傷するダメージと比較してより大きい。アメリカでは人命は高価だからである。しかし前世紀前半の中国では、状況は必ずしもこのようではない。当時の中国では、多くの状況下で戦死した兵士への補償は行われず、戦死者は往々にしてすぐ地面に埋められ、家族が政府の前に行ってデモをすることもあり得なかったし、民衆がこのために政府に圧力をかけることもあり得なかった(頑住吉注:今ならあり得るような書き方ですが‥‥)。少しいい場合は戦後になって薄板製の棺桶を買って収め直すかもしれないが、少し悪い場合は埋めてそれでおしまいで、白布やむしろ1枚を買う金さえも省かれるかもしれない。欠員が出た兵士は再び安価に、そして無尽蔵に補充できた。中国はこんなものだし、多くの東洋の国家は日本も含めて大差なかった(頑住吉注:「一銭五厘」というやつですね)。しかし戦傷を受けた兵士は放っておくわけにはいかない。人を手配して看護させなければならないし、人を手配して背負わせ、あるいは抱きかかえさせ、病院に送り届けて治療させなければならない。このための費用、このための労力はむしろ1枚、鋤で数回かける黄土とは全く比べものにならない。前述の李仙洲、史更新のごとき例のようにその時は極度の興奮状態にあるためすぐに倒れはしなかったにしても、その後は数か月間病床に伏さねばならず、その後やっと戦場に戻れるのである。しかも敵を1人負傷させれば、同時に3人の戦闘兵員を減少させることになるかもしれないのである(頑住吉注:1人の重傷を負って動けない兵を2人がかりで後送する必要が生じるためですね)。さらに受傷者が痛みのために大声でわめき、のたうちまわれば、同じ塹壕の中の戦友たちに生ずる心理的なマイナスの影響も、とうてい映画の中のような軽いものでは済まない。このように、私は当時の中国の戦場では、1人を撃って負傷させ、その抵抗力を喪失させることが敵方に与える負担とダメージは、1人を撃ち殺すことよりはるかに重大、深刻だったと考える。この点を考慮すると、6.5mm小銃弾で撃たれた後、往々にして救護が可能で、したがってこの弾薬はダメだと考える、かのごとき基準は、再検討の価値大ありである。

その次に、弾薬の経済性から優劣を考えて決定する必要がある。当時の戦争の中では小銃弾薬は疑いなく最大の消耗材だった。充分な殺傷力を保証する前提下で、できるだけコストを下げ、もって長期にわたる戦争の消耗にさらに耐えるようにする、これこそ今日に至るも小火器研究者たちが往々にして百分の一グラム、百分の一ミリにあれこれこだわって計算する問題である。この点に関して、有坂6.5mm弾薬は節約の手本と言うに足りる。第二次大戦における各主要参戦国の制式小銃弾薬の中で、有坂6.5mm小銃弾薬は薬莢が最短で、発射薬量が最少で、重量が最も軽く、口径が最小だった。一方同様のデータにおいて、モーゼル7.9mm小銃弾薬はほぼ正反対に位置する。これは全てお金に関わってくる! 万単位で計算される弾薬の消耗の中で、このコストの差は無視できない。ちょうど我々がトンプソンサブマシンガンとステンサブマシンガンの優劣を論じる時に似て、コストはどうしても計算に入れないわけにはいかないのである(トンプソン1挺を生産するコストで20挺のステンが生産できる)。

このように、単に威力から言えばモーゼル7.9mm小銃弾は有坂6.5mm小銃弾よりも大きい。前者は後者に勝ることを私は認める。ただし単純に小銃弾薬は威力が大きければ大きいほどよいというのであれば、私は賛成できない。もしそうならばモーゼル7.9mm短小弾薬やM43弾薬も生まれ得なかったことになる。

2.銃の構造に関する問題


中国制式小銃系統は有名なモーゼル銃を直接コピーしてできたものである。モーゼル銃のボルトの構造は画期的な、1つの時代を切り開くさきがけだった。非自動小銃領域にあって主席合格、空前絶後である。中国制式小銃もこのおかげをこうむっており、すなわちその構造は三八式に勝るのだという論法がある。こんなことを言う人は、三八式のボルトの構造も同様にモーゼルを真似たものであり、ただモーゼル銃のボルトを基礎にして改造を加えたにすぎないのだということを知らないのである。こうした改造点は、あえて出藍の誉れと言うわけではないにしても、絶対に原型となった銃と比べて遜色はないし、この銃の多くの独創的部分は目を奪う輝きを放ってもいるのである。

例えばこの銃のボルトである。三八式のボルトは当時の各機種の小銃の中で構造が最も簡単で、分解が最も簡単、便利で、部品点数が最少だった。完全分解後のボルトユニットの部品点数は5つしかなかった。この簡略化されたボルトは製造コストを下げるだけでなく、勤務保障性(頑住吉注:手入れや必要な場合の部品交換が容易、といったことでしょうか)や信頼性も高めた。

例えばこの銃のセーフティである。三八式のセーフティは平たい円柱形をしていて、その上には花のような模様が加工されている。これはモーゼルのセーフティに比べて明らかに簡潔で、豪快かつ上品であり、実際の使用において衣服や装具にひっかかることが避けられ、操作に便利で、酷寒地で綿入れの手袋をしている時の操作では特にそうである。

例えばこの銃の防塵カバーである。これはこの銃の外観的特徴だというだけではなく、この銃の最大の長所でもある。防塵カバーを装着すると、有効に泥や砂、埃がボルトに侵入することを防止できるだけでなく、銃全体の外観を明らかにクリーンに、きちんとしたものに見せる。しかもこのようなカバーを1つ装備するのには技術的に難しいことは要求されないし、生産コストも特別に高くはならない。小さな代価で大きな貢献が完成されると言うことができる。この画竜点睛の一筆は、当時類例がなかっただけでなく、今日に至るもそのメリットは依然充分突出したものである。

例えばこの銃のチャンバーである。この銃のチャンバーの上方には2つの排気口が開けられている。この2つの排気口は、ボルト開鎖の瞬間、銃口とともに、戦車砲の抽煙筒に似た作用をすることができ、これは疑いなくチャンバーの冷却に極めて有利である(頑住吉注:私は知らなかったので検索してみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E7%85%99%E5%99%A8 この記述によれば別に砲身の冷却とは関係ありませんね。空薬莢を引き抜くときにバレル内の熱いガスではなく冷たい外気が吸引される、ということを言いたいんでしょうか。ちなみにこの穴は日本の資料では、異常に高圧の弾薬を使用した際にガスに逃げ道を与え、射手が負傷するのを防ぐもの、と説明されていることが多いようです)

例えばこの銃のマガジンである。この銃は弾薬を撃ち終わるとボルトヘッドがさえぎられて止まり、再び前進して定位置に戻ることができなくなる。これは射手に装弾すべきことを知らせることになる。今日のボルトストップの機能に似たところがあり、実戦において、特に緊急の応戦中や夜戦では非常に重要な意味を持つ。この他、このマガジンの底蓋は工具を使わずに指で軽く一押しすればすぐに、きわめて便利に取り外すこともできる。これがクリーニング、メンテナンスや素早く弾薬を抜く上でメリットとなることは言うまでもない。

例えばこの銃のサイトである。この銃が採用したのは独特のスタンドフレーム式照尺である。300m以内の目標を射撃する時は照尺のフレームを立てる必要はなく、フレーム板上のリアサイトで直接照準する。400m以上の目標を射撃する時は、照尺のフレームを立てて可動式の表示器を上に移動させる。照尺フレームの下端には別のリアサイトがある。500m以上の目標を射撃する時は可動式の表示器を一番下に動かし、3つ目のリアサイトを使用する。さらに遠い目標を射撃する時は、逐次可動式の表示器を目標との距離と対応させる。当時において500m以上の射撃は多くなかったので、この調節式照尺はきわめて便利だった。もし新兵が目を閉じても充分素早く変換ができ、間違いを犯すことはなかった。さらに大きなメリットがまだあった。100m以内の目標を射撃する時、スタンドフレーム式照尺を立ててもよく、この時はただ目標を照尺のフレーム内に保持してフロントサイトと合わせるだけでよく、すなわち素早く大雑把な照準で目標に命中させることができたのである(頑住吉注:この裏技は知りませんでした。日本軍でも行われていたんでしょうか)。

例えばこの銃のライフリングピッチである。この銃のライフリングピッチは第二次大戦における各国の小銃中最も急で、たった200mmで1回転した。したがって弾丸の回転速度は最高で、飛行安定性が最良だった。弾丸の初速が同時期の各機種の小銃中ほとんど最低でもあったが、その射撃精度は最も優れ、射撃時の反動が最もマイルドでもあった。アメリカは戦後、鹵獲した三八式をそのままスポーツ射撃に使ったが、これでこの銃の精度に対する評価の高さが分かる。当然弾丸の飛行がきわめて安定していることは、この銃の停止作用の低下をもたらしているが、これはいかなる物事にも異なる2つの面がある、ということである。

ここで三八式の初速の問題に関し少々触れる。多くのネットユーザーたちは、三八式の弾丸の初速は一般的小銃と比べて高い、あるいは中国の制式銃と比べて高いと言っているが、これは不可解である。こうしたネットユーザーたちがどこから、またどんなデータを根拠にこのような結論を出したのかは分からない。実際には、三八式小銃の初速は762m/sでしかなく、この銃の初速が高いというのは必ずしも間違いではないものの、一般的な小銃と比べて高い、あるいは中国制式小銃と比べて高いというのは大間違いである。もしこの言葉の中の「高い」を「低い」に換えれば、むしろその方が適切というべきである。なぜなら当時の各国の主流であった小銃の多く、例えば中国の制式および中国で普及していたVZ24、FN24、アメリカのM1903、M1、ソ連のM1891/30、M44、ドイツのモーゼル98、M24などは、初速が全て800m/s以上であり、三八式よりずっと高かった。これは余談であるが。

例えばこの銃のストックの加工方式である。一般的な小銃のストックは下部も含め一体の木材から削り出して作られている。しかし三八式のストックは、下部が別の木材をつなぎ合わせて作られている。すなわちストック後端の下に向かって傾斜している三角形の部分が、小さな木材をつなぎ合わせて作られているのである(私は画像は貼れないが、興味のある方はネット上で三八式の画像を検索すれば明瞭に見ることができる)。小日本の精緻さと節約ぶりはここに徹底して体現されている。これだけのことで、どれほどの木材が節約できるか分からない。後に中国制式銃もかつてこの種のつなぎ合わせの手法を参考に木材を節約したが、徹底したものではなかった。

以上のことは、あるものは独創的で三八式のみが持ち他の小銃が持たないものであり、あるものは三八式のみが持つわけではないが最もよく体現したものである。しかしこれら一切は全てこの銃の使用をさらに手軽で素早いものとし、作動をさらに信頼性の高いものとした。

3.銃身の長短の問題

三八式の全長は1280mmであり、これは同世代の小銃中比較的長く、特に中国制式と比べれば明らかに長い。これもまた三八式の評価を下げる1つの理由である。確かに前世紀の2、30年代になると、歩兵分隊の支援火器が強化されたため、また歩兵を載せる機材が増えたため、小銃の銃身の短縮はすでに1種の潮流となっていた。この一大潮流の影響下で、中国が制式採用したドイツのM24式はその見本とも言うべきものだった。ただしこれに関しても中国の戦場の実際の状況を考慮すれば、三八式のあの長い銃身も時代遅れではなかった。いや時代遅れでないどころか、かえって明確なメリットだった。なぜなら中国の戦場では、西欧の戦場のように歩兵がしょっちゅう車輛、艦船、航空機に乗るような状況は少なく、ほとんど無視していいほどだった。歩兵の支援火器も西方の第一次大戦時のレベルでしかなく、それにすら及ばない時さえあった。車輛、艦船、航空機等の運輸手段に搭載するために小銃の銃身を短縮することはさほど切迫しておらず、小銃が担う必要のある作戦任務も軽減されないままだった。

三八式の長銃身にはどんなメリットがあるのか? 少なくとも以下のようないくつかのメリットがある。

1つ目は照準長が長く、正確度が高いことである。三八式小銃の照準長は695mmに及び、第二次大戦における各国の現役小銃中最長である。照準長が長ければ自然に射撃精度の向上がもたらされ、この1点は非常に好ましいことである。

2つ目には銃身が長いと火薬の燃焼が充分となり、無駄がないと同時にマズルフラッシュも小さくなって、夜戦や狙撃作戦での生存能力が向上する。三八式小銃の銃身長は769mmに及び、これも第二次大戦における各機種の小銃中最長である。しかも有坂6.5mm小銃弾薬の中の発射薬量は逆に同時期の各機種の小銃中最小であり、たった2.14gである。火薬は非常に長い銃身の中で充分な燃焼を得、これは火薬のエネルギーの利用率を高め、コストを節約するだけでなく、マズルフラッシュに良好な抑制が得られ、狙撃作戦や夜戦時に敵がマズルフラッシュから自分を見つけることを難しくし、さらに有利に隠蔽させ、このため有効に生存能力を向上させる。

3つ目には白兵戦に有利だということである。いわゆる「ちょっと長ければちょっと強い」で、抗日戦中、中日双方の白兵戦は西方の戦場と比べずっと多かった。銃剣を使った戦闘で第1に必要なのは死を恐れぬ闘志と自分は無敵であるとの必勝の信念であり、技術は二の次だということは誰でも知っている。三八式の軽く精巧(三八式は銃身は長いが重量は中国制式より軽い)で細長い銃身と鋭利な銃剣は、疑いもなく使用者のこうした自信を増強するし、(頑住吉注:次のセンテンス意味不明)。抗日戦の時期、我が軍は日本軍との白兵戦で、してやられることが比較的多かった。東北地方解放戦争の時期、兵員が主に雲南の湖南貴州から来た、全員が中国制式銃を装備した国軍の第七十軍が最も恐れたのはまさに、兵員が主に魯冀遼寧から来た、三八式一色で装備された共産軍独立第二師団の銃剣だった(頑住吉注:満州国崩壊後、国民政府軍と共産軍が戦った時、共産軍は鹵獲した三八式を装備していた、ということですね。これに加え出身地の違いによって体格差もあったようです)。これは後者が身長が高く闘志にあふれていただけではなく銃が長く、前者が確実に不利だったからである。

まとめると、三八式の停止作用は当時の各小銃の中にあって確かに比較的弱いものだった。ただしその射撃精度は当時のいかなる小銃よりも高かった。この2つの長所短所を選択するにあたり、小銃手たちはたいてい精度を優先すると私は思う。なぜなら停止作用は遠距離射撃に用いる小銃に関して言えば、拳銃とは違いそれほど要求が高くないからである。正確に目標に命中させることを確保すれば、射殺しようが数カ月病院送りにしようがどちらでもいいのである。かつて抗米援朝(頑住吉注:朝鮮戦争のことですね)の初期、弾薬の補給の便のため、入朝部隊は師団、あるいは連隊単位で小銃の使用弾薬を統一した。全軍の小銃を取り換え、連隊、あるいは師団全体で口径を一律としたのである。この時ある感情上の問題が発生した。すなわち要求されて手にする三八式を返納し、別の小銃に換装した兵士が皆そろって抵抗感を示したのである。一方命令により別の機種の銃を返納した兵士にも不満は生じたが、個別の現象に過ぎず、三八式を返納した場合のような普遍的な問題は起きなかった。銃を使用する人のこうした反応は、この問題をよく説明していると言うべきである。


 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という例え話のくだりは非常に論理的で好感が持てました。しかし全体的には私の考えとかなり違っています。

 三八式が当時使用された小銃の中で銃身長、全長が長く、これがある時には有利に働いた、ということは確かにあったでしょう。しかしこの銃は明治三八年という古い時代に制式化され、換装が間に合わなくて使い続けられたに過ぎません。後の九九式短小銃がより短くなったことでも分かる通り日本軍も小銃の短小化の趨勢には従っており、「同世代の小銃中比較的長」い、という評価は妥当ではないでしょう。

 兵器には登場すべきタイミングがあります。日本海軍戦闘機は20mm機関砲を主に使い、アメリカの戦闘機は12.7mm機関銃を主に使いました。戦後20mm以上の機関砲が主流になったことから、「日本の方が先見の明があった」という人がいますが、私はそれは違う、第二次大戦期には12.7mmクラスの方が有利だったはずだ、と思います。同様に、後の小銃弾薬が短小化したことから「三八式は進んでいた」という人もいますが、私はこれも違うと思います。第一次大戦以後、歩兵が敵の航空機や装甲車両と戦わざるを得ない場面が多くなりました。対空兵器、対戦車兵器の発達が充分でなかった頃には小銃でそれらに対抗するしかないことも多く、また初期の航空機や装甲車両には小銃で何とか対抗できなくもないものも多かったわけです。こうした敵と戦う場合に三八式は明らかに不利でした。これは三八式登場よりかなり後に起きたことですから予測できなかったことを責めるのは無理ですが、結果的に不利な装備になってしまったことは間違いないと私は考えます。













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