Joseph Carl Doerschの点火針小銃

 「Visier」2005年2月号に、ドライゼの点火針小銃に影響を受けた改良型であるJoseph Carl Doerschの点火針小銃に関する記事が掲載されていました。検索すると、この銃と日本の意外な関係も分かりました。


影のような存在

ドライゼによる点火針小銃だけが存在するわけではない。(頑住吉注:ドライゼ銃初登場から)複数十年の後でさえなおいくつかの構造がドライゼの後を追った。だがこれらは決してブレイクしなかった。

 「より実用的、より単純、より軽い……」 Suhlのライフル製造者Simson & Luckは1866年4月、Wiesbaden所在のナッサウ公国国防省に彼らの点火針小銃システムDorsch & von Baumgarten(頑住吉注:最初の「o」はウムラウト)M1862をそう言って勧めた。これは典型的な宣伝用の決まり文句で、当然もっと古くからあったものである。しかし今日、この比較的レアで技術的に興味深い点火針システムは識者やコレクターを等しくその魅力でひきつける。

 秘密保持上の理由から「軽パーカッション小銃」と呼ばれた点火針小銃M1841が量産に入った時、ヨハン ニコラウス フォン ドライゼは大きな成功を手にした。プロシアはまず最初に60,000挺の生産を発注し、1866年までにほとんど500,000挺が生産された。しかし秘密は長期間保持したままにはできなかった。というのは、1848年のベルリン兵器庫略奪の際に何百挺もが盗まれ、このうちの一部は再び姿を表さなかった。国内および国外の銃器設計者たちはこの時心を動かされるのを感じた。

競争

 競走によって特徴付けられた当時の銃器産業はどっちみち何かしら始めねばならなかった。この領域におけるプロシアの優位は非常に顕著だったからである。プロシアとオーストリアという2大パワーの間のにわかに緊張した情勢の中に、Simson & Luckは大きなチャンスを見た。この時プロシアが背を向けていた国が事実、最もモダンな点火針システムをまさに開発していたのである(頑住吉注:非常に回りくどい表現が使われていてよく分からんのですが、大筋「プロシアがドライゼの点火針小銃によって軍事的に優位に立ち、1866年の普墺戦争に向けた緊張の中で他のメーカーも対抗する製品の開発を迫られた。一方フランスは最も進歩した点火針小銃であるシャスポー銃を開発していた。この銃の開発はこういう背景の下に行われたのである。」といった内容でしょう)。

全て盗んだだけ?

 Joseph Dorschは徒弟制度の職人としてドライゼライフル工場で働き、1857年にSuhlで独立した。このため彼はドライゼの構造がベストと信じており、そしてこのためこの銃をモデファイすることを簡単に思いついた。彼のシステムはシリンダー閉鎖機構に関しTerry大佐の構造方式に大いに依拠していた。一方単純な針点火はドライゼのそれと一致していた。企業設立後直後にはすでにDorschはプロシア王国の少佐Cramer von Baumgartenを参加させた。これは彼の軍とのコネ、および商品化に際してのプロモーター、スポンサーとしての価値ある助力を期待してのことだった。

より小さい成功

 しかしSchaumburg-Lippe侯国が、Dorsch & von Baumgartenシステムの点火針小銃を採用した唯一のドイツ連邦構成国だった。350名の規模を持つ連邦分担兵力は、Waldeck侯国と共に予備師団の第8、第9大隊を構成した。そしてこれはルクセンブルグ連邦要塞戦時守備隊に割り当てられた。1861年6月、合計677挺のD&Bシステム小銃が発注され、これは1862年4月にSchaumburg-Lippeの歩兵軍団に支給され、これにより長鉛弾を使用する前装銃は現役を退いた。しかしBuckeburgの人々(頑住吉注:文脈上Schaumburg-Lippe侯国の兵たち)は弾丸底部に圧入された点火剤と縦ミゾ付きの尖頭弾を持つ、特別に開発された弾薬を手にしなかった。というのは、この点火システムへの単独の移行はすでに大胆な選択であり、まだプロシアから遠く離れないことが望まれ、長鉛弾を持つプロシアの15.43mm口径が選定されたのである。

 それでもDorschは、ドライゼの手本から逸脱し、ドイツ連邦の構成国に採用された唯一の点火針原理の設計者だった。それが1国だけで短時間だったにしてもである。結局彼のシステムは望んだ成功を得ることができなかった。この結果生産された挺数はむしろ少数となった。と言うのは、このライフル1挺の価格はライヒスマルク銀貨18枚および硬貨20枚と、ドライゼ点火針小銃のライヒスマルク銀貨15枚に比して高価すぎたからである。そして特にプロシアと軍事協定を結んでいる国々は、いわばプロシアの小銃を採用する義務を負っていたのである。

鳴り物

 Simson & Luckが彼らのライフルを宣伝し、たった9ポンドという軽い重量を指摘したにもかかわらずこの結果だった。軽い重量は2つの理由から来ていた。すなわちバレルとレシーバーが一体で作られていたこと、そしてバレルが650mmしかなかったことである。この短いバレルのおかげで全長は1160mmしかなく、これは長い歩兵用ゲベールと短い騎兵用カラビナーの間に位置していた。彼らは提供品にさらに手を加え、この結果20ポンドのテンションを持つコイルスプリングはハードになった火薬と、弾薬の底部に接着され、獣脂が塗られたフェルト栓の突き刺しさえ可能にし、針は弾丸の底部に圧入された点火剤に到達した。入れられた弾薬はボルト閉鎖の際に自動的にチャンバー内にもたらされた。ボルトハンドルを右へ倒した後は、下部のロッキング突起がボルトのルートの切り欠き内に、上の突起はレシーバーのブリッジ部前にグリップされた。Simsonによれば、「このダブルのロックにより、既存の点火針小銃で発生しているパワーロスと、ガスの漏出によって生じるボルト部品内部の汚れは完全に取り除かれた。」 彼らは他の諸システムと違って折れたり曲がったりする可能性のない短い針も称賛した。命中正確性に関しては「何回も行われたテストは、1分以内に発射された12発のうち10〜11発が人間の幅内に等しく着弾するという結果になった。」とした。Simson & Luckは省に1挺のサンプルゲベールを提供し、その際「現在多数の在庫が存在する」とした。

 

興味が持たれた

 ヘッセン大公国もこのシステムに興味を持ち、2挺の歩兵銃と1挺の砲兵、軽歩兵銃をサンプルとして入手したとされる。さらにいくつかの国がこのシステムに魅了されたに違いなく、このことは2挺のカラビナー、1挺のKolbenピストーレ(頑住吉注:「Kolben」は「銃床」等を意味します。 http://www.schmids-zuendnadelseite.de/versuchspistole.html こういうものでしょうか)、1挺のブラウンシュヴァイクの軽騎兵銃、1挺の徒歩砲兵用カラビナーの存在が証明している。こうした提供品に基づいて、ワイマール・アイゼナハは1859年にはすでにこの点火針システムを検討した。これはすでに最初の開発局面においてだった。Dorschは推薦を開始し、これはナッサウの猟兵大隊への近々の導入をもたらすと思われた。実際ナッサウはこの点火針小銃の採用を検討した。だが、1861年8月17日に国防省の最高司令部に射撃テストのために渡されたのは10挺のサンプルのうち1挺だけだった。ナッサウは後にバイエルン王国ライフル工場の監督官であるフォン Podewils大佐のシステムによるパーカッション小銃M1862の採用を決定した。この銃はいわゆる統一口径だった。1866年6月17日、ナッサウの兵たちに特別命令により動員令が発せられ、その直後ナッサウの旅団はプロシア軍に対抗する行動を起こした。このためドライゼゲベールの採用は問題外となった。それでなくともプロシアの影響力は大きすぎたし、1866年のドイツ内乱(頑住吉注:普墺戦争)での勝利によってさらに高まった。それゆえにDorsch & von Baumgarten点火針小銃は普及できなかった。しかしその代わりそれだけに一層今日コレクター界でより高い注目を集めているのである。

モデル:サンプルゲベール Dorsch & v. Baumgarten
口径:12.8mm ライフリングは4条右回り
全長:1365mm
銃身長:910mm
重量:4600g
型:真鍮製金具付きウォールナットストック。スチールパッチボックスおよびストックのトラップドア付き。トリガーガードおよびマズル部品は真鍮製。ヘッセン式フォークリアサイト(射程1000歩まで)。溶接されたフロントサイト。装填ロッド。

(頑住吉注:「スチールパッチボックスおよびストックのトラップドア」というのは、ストック後部内が中空になっていて、前にヒンジのある蓋を開けると中に予備点火針とクリーニングの道具が入っていることを差しています)

遅い時期の開発者たち(頑住吉注:囲み記事)

Joseph Dorsch 1810年にAachenに生まれ、1834年にゾメルダに移り、ドライゼライフル工場で徒弟制度の職人として働いた。その後彼は1857年に100km南にある銃器生産の中心地Suhlで独立した。彼はドライゼによって発明された閉鎖機構構造がベストと信じ、これをモデファイするために少々の研究をした。第35プロシア常備軍連隊の少佐Cramer v. Baumgartenが企業設立直後に共同経営者として参加し、彼が重要なポストにいる関係によって Dorschはある種のメリットを期待した。Suhlの銃器工F. Luckも1865年に点火針システムに関するパテントを得た。そのバレルの閉鎖方式はDorschのそれに似ていたが、コッキングはボルト外にあるレバーによって引き起こされた。


 この銃はドライゼの銃の発展型ですが、構造的にはかなり異なった特徴を持っています。ドライゼの銃はロッキングラグやリセスを持たず、ボルトハンドルを下げるとその基部がレシーバーにあてがわれてロックが行われました。一方上の画像で分かるようにDorschの銃はボルト中央よりやや後方に、2つのロッキングラグを持っています。ボルトハンドルを下げると上のロッキングラグはレシーバーのブリッジ部の前、つまり青い矢印で示した部分に支えられて後方に動けなくなり、一方下のラグは赤い矢印で示した切り欠き部にはまって後方に動けなくなるというわけです。ボルトハンドルを上げて引く時、上のロッキングラグは黄色い矢印で示したブリッジ部内側の削り加工部内を通って後方に抜けることができます。こうした特徴はドライゼの銃よりも後のモーゼルの銃、ひいては現代の銃に近いと言えます。なお、「歴史的点火針紙弾薬の技術と構造」の記述によればボルト先端のやや細くなった部分がバレル基部に入り込んだとのことですが、これだけでは気密は不充分のはずです。ドライゼのボルトハンドルを下げるとボルトが前進してバレルに押し付けられるシステム、シャスポーのゴムパッキンを使ったシステムのような何らかの気密システムがあるはずですが今回の記事にも記述がありません。バレルとレシーバーが一体だったことは加工を面倒にし、これが高価格の原因の1つだったかも知れません。消耗したバレルを交換できないというのは大きな欠点のように思えますが、鉛弾を比較的低速、低圧で発射する当時の銃では、あるいはさほどの問題ではなかったんでしょうか。

 弾薬に関してはドライゼのように弾丸の径より大きい内径のバレルから底部に点火剤を入れた紙製のピストンに載せた弾丸を発射するという手法ではなく、弾丸の底部に点火剤を入れ、バレル内で弾丸が直接誘導されるシステムになっていました。この方が命中精度上有利なはずです。「他の諸システムと違って折れたり曲がったりする可能性のない短い針」という記述がありますが、上の画像で分かるようにドライゼよりは短いかもしれませんがそれでも非常に長く、ストック内に予備が入っていたことを考えてもやはり破損はあったと考えられます。ドライゼの銃は弾薬を手でチャンバーに押し込む必要がありましたが、この銃は後退したボルトの前に弾薬を入れてボルトを前進させればシャスポー銃同様弾薬がチャンバーに送り込まれたとされています。

 総合的にシャスポー銃ほどではないにしてもドライゼの銃よりは進歩した構造に思え、ドライゼの銃に代わって全ドイツ的に装備されてもおかしくなかったかも知れません。しかし現実には極小国に一時採用されただけ、しかもオリジナルの弾薬は使われずプロシアのドライゼ銃と共通にされた、という不満足な結果しか得られませんでした。

 なお、検索していてこんなページを見つけました。

http://www.ne.jp/asahi/keisar/bayern/0200.htm

 ここの記述によれば、この銃を紀伊の和歌山藩が大量に導入し、その数は総生産数の大部分を占めていた、ということです。ただ、今回の記事のトーンからしてこの銃は確かにレアではあるものの、「ヨーロッパにはほとんど現存していない」というほどではないと思われます。またこのページではシャスポー銃がドライゼ銃に大きく劣る駄作であったように書かれていますが、ドイツ人自身がシャスポー銃の方が明確に優れていたという評価を下している以上適切な評価とは思えません。しかしあるいはフランスがゴムパッキンの劣化が進んだ銃を日本に売りつけたとか、高温多湿の熱帯を長時間船に積まれて来る間に劣化が進んだなどの理由でこうした評価が生まれた可能性はあるかもしれません。





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