重地雷処理車
「Waffen Revue」113号に、ロシアのクビンカ戦車博物館に展示されているナチ・ドイツの試作地雷処理車に関する記事が掲載されていました。
重地雷処理車
「Waffen Revue」の読者は、この雑誌内の記述が通常オリジナルの基礎資料に基づいており、またできるだけ文書の掲載によって証明もされる、ということに慣れている。
今回のケースは残念ながらこれがあてはまらない(頑住吉注:銃器の記事ならばパテント書類や当時の取り扱い説明書、他の兵器なら軍関係の要求、報告、通知等の書類も掲載する、といった記事作りが通例だが、今回取り上げる題材に関してはそういったものがない、ということです)。
異例なことに装甲車輛に関する戦後の多くのドイツの書籍ではそもそもこの車輛は言及されていない。1輌のプロトタイプしか製造されておらず言及の価値がないと思われたことがその理由かもしれない。外国語の書籍の中でもこの車輛は戦後複数十年の間記載されなかった。かつてのソビエト連邦、今日のロシアとの境界が筒抜けになり、外国人もロシアの博物館を見学し、一部は長きにわたって秘密扱いとされていた展示品も写真撮影する機会を得て初めて、この状況が完全に変わったのである。
突然、英語の、そして日本語の参考文献に「重地雷処理車」、「Alkett地雷処理車輛」、「1号戦車重地雷処理車」などと呼ばれる車輛が現れた。そして全てのこうした記事はモスクワ近郊のクビンカの博物館内で見学し、写真撮影できる車輛に関するものである。またこれらの記述は例えば何らかの文書によるオリジナルな基礎資料に基づいたものではない。むしろこの車輛はまさに訪問者に見えた通りに記述されている。
クビンカでこの車輛に取り付けられている、「Alkett」(ベルリン、シュパンダウの「Altmarkキャタピラ工場有限会社」の略称 頑住吉注:「a」はウムラウト)の名が記されたタイプ表示プレートは、この車輛が1940年9月16日における要求と発注に基づいて作られたとの結論を許す。
1942年7月1日の状態を記した目録、「陸軍における開発の状況に関する概観」には次のように書かれている。
器具:機械的地雷処理器具
提示された要求:路上および不整地での機械的地雷処理(戦闘中でも)。
開発要求者:Jn5(頑住吉注:陸軍の何らかの部署でしょうが何の略か分かりません)
開発会社:ベルリン、BorsigwaldeのAlkett
Essenのクルップ有限会社
発注日:1940年9月16日
現状:Alkettでは1942年8月にテスト車1輌が完成
クルップでは1942年9月にテスト車1輌が完成
採用に適する熟成度:テストして初めて扱われねばならない。
テクニカルデータ:
形式:3m幅で処理が可能な牽引式ローラーを持つ装甲された自走ローラー車
車両:全高2.7m、全幅3m、全長10mを越えないこと。重量は40トンを越えないこと。エンジンと兵員にはコアを持つ尖頭弾に対抗する装甲がなされていること。
我々の読者にはすでに「斉射機関砲」の撮影者として知られているHeiner
F. Duske氏がクビンカで撮影したこの車輛の写真をより詳細に観察すると、提示された要求に大筋適合している。最近になって初めて現れ、興味深いことに1943年6月3日のALKETT社のレポート(英語に翻訳して)も引用されているあるイギリスの記事も同じ結論に到達している。
それは次のような内容である。
「ALKETT処理器具はニュールンベルグのKoppisch博士によって開発されたシュー(頑住吉注:車輪となるローラーに多数取り付けられた直接接地する部品のことです)を使用するために変更が加えられた。車輛の形状は変更されなかった。この車輛は3つのローラーを持っている。このうち前の両ローラーが駆動され、一方後ろのローラーは操縦に使われる。300馬力のモーターが組み込まれ、車輛の重量は55トンである(?)。
軟弱な砂地における最初のテストは満足させる経過となった。最高速度は15〜20km/hである。この速度の向上は不可能である。シューの回転が大きすぎる騒音を引き起こしたからである。
走行テストの間に操縦装置が破損した。爆発する地雷を使ったテストはまだ行われていない。この車輛には提示された要求を満たすための改良がまだ加えられなければならないからである。」
ここから次のようなことが分かる。
1)変更が加えられた車輛。ここで写真が示された車輛はすでに存在したものの変更によって生じた。表現からはローラーが本来フルスチールからなっていた(頑住吉注:ロードローラーのような形式だった、ということでしょう。ちなみに「ロードローラー」で検索していただくと分かりますが、現在前輪2輪、後輪1輪のロードローラーはポピュラーな存在らしいです)、一方車輛の形状は同じだったと推論できる。
2)重量。重量は英語への翻訳では55トンとされている。これに関しどんな尺度が使われたのか明らかでない。ロシアの展示品カタログではこの車輛の重量は38トンとされている。この後者の申し立てが正しい場合、重量はまだ要求に適合している。要求では重量は最大40トンが許されていたからである。
3)操縦。例えばキャタピラ走行装置の代わりに前2つ、後ろ1つのローラーが取り付けられた。このリング上には歩行シューがセットされた。このシューはマッシブな鉄板でできており、関節様に互いに結合され、その中心には歯を備え、この中に前の両駆動車輪の歯車がかみ合っていた。後ろのローラーは駆動されず、操縦に役立てる意図だった。
ここで、両側から車内の引きチェーンで誘導されるこの後ろのローラーがどのように操縦に使われるのかという疑問が生じる。三輪車のようにこれが前にあれば説明は簡単だったはずだ。しかし前の両ローラーが変わらずに等しく駆動されている限り、後ろのローラーは車輛の方向を変えることはできない。つまりさらに1つの装置があったに違いない。これは前の両ローラーのうち1つへのブレーキによって成し遂げられる。キャタピラ走行装置の場合に知られているような方式である。しかし何故操縦装置が破損したのか、そしてこの破損が正確にどんなものだったのかは報告書からは読み取れない。
4)処理幅。前述のように要求として3mの処理幅が提示されていた。だがこの車輛は3.17mの全幅を持つものの、不可解な理由によりこれが充分に利用されていなかった。後ろのローラーのサイド方向の幅が足りないのである。つまりもし歩行シューを幅広く作れていたら、前のローラーによって踏まれなかった残りの面を後ろのローラーが埋めたはずである。だがこうはなっておらず、そしてこの結果3つのローラの間に踏まれていないかなりの間隙スペースが残った。つまり地雷が計算されてフリーな間隙スペースの間隔で敷設され、ローラーによって踏まれなかった場合どういうことが起こるか? ひょっとすると短いストロークならば地雷原に信頼性のある道を作ることを可能にするために何回か走行できたかもしれない。しかしより長いストロークは? しかしひょっとするとさらなる(今度は幅広い)車輛の後方で牽引するローラーが予定されていたのだろうか?
ALKETT社の報告書からはこの車輛にまだ変更を加える必要があったことが分かる。
つまり明らかに欠点を自分で理解していたわけである。しかし何故改良されたバージョンについて知られていないのか。このプロジェクトはこれ以上推し進められなかったらしい。
写真を観察すると、この車輛の製造の際巨費が投じられたことに気付く。全てが非常にマッシブに、そしてていねいに加工されている。構造の本質的部分、および砲塔は1号戦車由来であるように見える。提示された要求によればこの車輛は戦闘中にも使用できることが意図されたので、砲塔には2挺のマシンガンが備えられていた。しかしクビンカ所在のこの展示品の場合、2つの模造品と交換されている。
ライフルおよびマシンガン射撃に対する防御は40mm厚の全周装甲によって達成された。車輛の底部は厚く作られ、この結果爆発する地雷が損傷を引き起こす可能性はなかったと思われる。いずれにせよ歩行シューの構造はあらかじめテストされていただろう。さもなければ製造のための費用を危険を冒してあえて出さなかったはずである。
エンジン(マイバッハHL120V12、300馬力1基)は車輛の後半部に収納されている。2つの通気縦穴はデッキに設けられ、カバープレートが備えられている。
この興味深い車輛のさらなる細目は写真で見られるので、これに関しさらに取り上げるつもりはない。
しかしこの車輛が一部損傷し、完全に錆びついていることには言及しなければならない。構造は展示のためにフレッシュに吹きつけ塗装され、バルケンクロイツもきれいに描かれているが、これが元々あったとはほとんど思えない。この車輛は実戦投入されなかったからである。しかし塗装色の下には全く厚い錆びの層が認められる。それだけでなく、よりひどい錆びの兆候が歩行シューに認められる。ただし残念ながらこれは白黒写真ではよく分からない。車輛の内部は完全に荒れ果てているように見える。いくつかの部品はあまりにもひどく錆びていて、ほとんど崩壊が心配される。砲塔の歯車は特にひどく錆びている。冷却器には損傷が見られる。
つまりこの興味深い構造の維持のため、これまで何もされて来ず、恐らく今後もされないだろう。ロシアには目下多くのより深刻な心配の種があるからである。鹵獲品の維持のための金はない。重要と思われるのは公衆にこの価値に富んだ鹵獲品がソビエト部隊の手に落ちたことをデモンストレーションすることだけであるように思われる。聞くところによればまださらなる従来人目に触れていない珍品がロシア国内に存在するという。そしてロシアの文書保管庫に基礎資料や記録があることはぼんやりと感じられるだけである。結局のところドイツ国内だけでなくチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどでも、全てが公的機関や生産施設にかき集められ、ロシアへと運ばれたのである。人はこれらが良好に保管され、この結果ある日塵へと崩壊しないことを望むだけである。
テクニカルデータ
車輌の全長 | 6500mm |
全幅 | 3170mm |
全高 | 2800mm |
最低地上高 | 910mm |
重量 | 38トン |
エンジン | マイバッハHL120V12、300馬力1基 |
走行速度 | 15〜20km/h |
砲塔さえ付け替えればSF映画に未来戦車として登場してもおかしくないような、非常にユニークな姿をした車輌です。この車輌は1輌のみ作られた試作品で、非常に珍しいものですが、今回の記事によればこのプロジェクトはALKETTとクルップの競争試作であり、しかもクルップの車輌も完成していたことが分かり、クルップの車輌がどんなものだったのかは全く不明ということになります。戦車不足に悩んだドイツは鹵獲車輌や試作車輌まで実戦に投入し、末期には国民突撃隊用として第一次大戦当時のマキシム水冷重機まで引っ張り出したくらいですから、この1輌のみの試作車が「40mmもの装甲があり、機関銃を2挺装備しているなら無駄に置いておくのは惜しい」ということで実戦に使われて破壊されてしまわなかったのは幸運だったのかも知れません。
上の図を見ると3つのローラーの間に踏まれないかなり広いスペース(大雑把に見て2/5程度)があるのが分かります。要求内容にも「3m幅で処理が可能な牽引可能なローラーを持つ」とあるので、この車輌の後ろにローラーを牽引したのかも知れませんが、それなら何もこんな凝った構造にする必要はないように思います。そもそも他国に例があるように、ローラーを車輌の前で押す形式にすれば通常の戦車(不要となった旧式車輌など)の改造で済み、元々足りない生産力をこんな車輌のために割く必要はなくなるはずです。
操縦についての謎に関しては、緻密なようで時々考えられないようなおかしなことをするドイツ人のことですから、案外後輪の向きを変えるだけで無理に方向転換しようとし、その結果操縦機構が壊れた、ということも考えられる気がします。あるいは方向転換はバックで行うしかない車輌だった、という可能性はないんでしょうか。
この車輌に関してはこんなページがありました。
http://www12.ocn.ne.jp/~waka1212/R2.html
http://www3.kcn.ne.jp/~a400lbs/sfs/page011.html
http://www.panzer-modell.de/berichte/alkett_minenraeumer/alkett_m.htm