日清戦争における中国側の十大教訓とは

 まためぐってきた「甲午の年」ということで中国には「甲午戦争」と現在の日中の衝突の危機をからめた記事が多く出ています。なお、古語が頻出して意味不明の部分も多く、こうではないかと推測して訳した部分もいつもより確度は低いです。

http://www.hinews.cn/news/system/2014/03/10/016514426.shtml


羅援、甲午戦争の十大教訓を評する:体制が立ち後れていれば必然的に叩かれる

新華ネット北京3月7日電 新メディア特電(羅援) 120年前の中日間の甲午戦争に関し羅援は、教訓は主に10ヶ条あると考える。

一、国殤傷(頑住吉注:意味不明)は政体上にあり。体制が立ち後れていれば必然的に叩かれる。

19世紀後期、主要な資本主義国家はすでに帝国主義段階に向かっての発展変化を完成させていた。この時、中国大陸は戦禍が何年も続き、内憂外患が絶えず起こり、国庫が空になり、財力が困窮する結果がもたらされた。政治は腐敗し、経済は腐敗し、加えて地方官僚の行政手法が腐敗し、国の運命は大変な危機にあった。

振り返って日本はと見れば、1887年3月14日、まさに西太后が海軍の艦を購入する特別支出金を流用して頤和園(頑住吉注:北京にある大庭園)を大修繕している時に、日本の天皇は皇室の経費の1/10を抽出して海軍艦船の購入、建造の補助費とするよう命令した。

二、戦敗は汚職にあり 腐敗を除かねば戦う前にまず負ける。

光緒七年から十七年まで(頑住吉注:1881年から1891年)の10年間、海軍の特別項目資金割り当ては4,600万両の銀のはずで、もし関連の要素を差し引いても3,680両前後だった。だが10年間で北洋海軍は全部で軍艦9隻を購入し、費やした費用の総額はせいぜい1,100万両であり、2,600万両近い銀が横領して私腹を肥やすのに使われた。

三、強国には強軍が必須 軍が強くなければせいぜい富国で、永遠に強国にはなれない。

開戦前、中国の経済、軍事力は決して日本に比べ劣ってはいなかった。だが清国政府は国防建設をおろそかにし、国はあっても守りがなく、軍はあっても強くなかった。西方諸国から軍艦を買っても、ある艦は艦があっても砲がなく、ある艦は砲があっても弾がなかった。開戦前の3ヶ月、李鴻章は北洋海軍を新式の砲21門に換える計画だったが、最終的にこの金は出し難く、止むを得ずまず鎮遠、定遠両艦のために速射砲12門を購入した。一方この時、日本のほとんどあらゆる艦船はすでに速射砲を装備しており、このことは甲午の戦いに隠れたリスクを残した。

四、強軍には観念の創新が必須 観念が立ち後れていれば全体の負けにつながる。

1890年代、「巨艦重砲」はすでに「快船快砲」観念によって取って代わられていた(頑住吉注:1906年の「ドレッドノート」登場以後いわゆる大艦巨砲主義の時代に入ったとされていますが、それ以前に一時そういう流れがあったんですかね)。黄海海戦の中で、日本艦隊は大型速射砲71門、小型速射砲154門を装備し、北洋艦隊は大型速射砲2門、小型速射砲130門しかなかった。10分間内に発射される弾薬の中日の比は33:185だった。このことから、戦闘艦の総トン数の上では北洋艦隊は決して劣っていなかったが、作戦理念が立ち後れ、優劣の転換がもたらされたのだ、ということが見て取れる。

五、強軍の重点は軍魂を作り出すことにあり 勇敢な精神のない軍隊は烏合の衆である。

岳飛(頑住吉注:12世紀南宋の武将。救国の英雄とされてます)いわく:「文官が銭を愛さず、武官が死を恐れなければ天下太平だ!」 甲午戦争中、北洋艦隊の10人の管帯(頑住吉注:司令官? 艦長?)のうち7人が殉職したが、死を恐れる将校もいて、清国軍が烏合の衆となり、蜘蛛の子を散らすように逃げるという結果がもたらされた。

六、強軍には使用に適し、役に立ち、使用に充分な武器装備が必須である。

黄海海戦中、中日双方の艦艇の数は伯仲していたが、建軍の質の上では中国が劣勢にあった。定遠および鎮遠艦の艦首の砲塔の4門の主砲は、設計の欠陥ゆえに正面を向いての直射しかできなかった。8門の12インチ口径砲には作戦用炸裂弾3発しかなく、その他は皆ソリッドの訓練弾だった。その他の各艦は砲ごとに15発の弾薬しかなかったと伝えられる。海戦の中で、後続の補充弾薬はあるいは火砲の口径に合わず、あるいは質が劣りすぎ、さらにあるものは撃発時に不発弾となった‥‥等々のことがあり、北洋水兵に優れた能力があっても局面を挽回することはできなかった。

七、強軍は常に備えを怠らないことが必須 備えあってこそ憂いなしである。

中国の一部の有識者ははっきり認識していたが、朝廷と大部分の政府要人の日本に対する認識は「小さく狭い国」の段階にとどまっていた。日本は全国の力を傾けて軍備を拡充し、戦争の危険が日増しに切迫する重要な瀬戸際に、清国政府は逆に国防建設の手を緩め、1888年から軍艦の買い入れを停止し、1891年には海軍の機械、弾薬の経費割り当てを停止した。中国はこのような警戒警備が全くない状態の下にその運命に関わる戦争を迎えたのである。

八、強軍には高い効果の指揮、情報、通信システムと信頼できる後方勤務保障体系があることが必須

黄海海戦で、提督の丁汝昌、副提督のドイツ人ハンナーゲン(頑住吉注:ドイツの貴族で陸軍大尉、なんでこんなのを艦隊の副提督に?)はいずれも海戦に通じておらず、また北洋艦隊はまた鎮遠艦上に副指揮センターを建立し、代理指揮官を指定してもいなかった。このため、定遠艦が敵の砲の命中を受け、旗を揚げて号令を発することができなくなった時、北洋艦隊の各艦は即、各自で戦う状態に陥った。

1894年6月23日、清国政府駐日公使汪鳳藻によって首相衙門に発せられた秘密電報が日本軍によってキャッチされた。日本サイドは事前にすでにこの電報の内容を知っていたため、ごく容易に中国サイドの暗号を解読した。

北洋艦隊の指揮号令の発布は全部旗による命令に頼っていた。だが思いがけず交戦開始ほどなく、旗艦である定遠艦の前部マストが敵の砲撃によって破断され、鎮遠艦の旗のロープが砲火によって燃やされ、やはり代わって号令を発することができなかった。各艦は統一した指揮を失い、敵艦が沈んだのかまだ沈まないのか、清国軍が勝ったのかまだ勝たないのか分からないという結果がもたらされた。

海上の作戦は陸地の支持を遠く離れ、最も切迫した需要は弾薬供給および戦損の手当てである。だがまさにこの2項目の上で、北洋水師は深刻に不足し、戦闘力を回復することができず、最終的に戦機を誤ったのである。

九、強軍には敏捷に機動する戦略戦術が必須であり、剣は人に及ばず剣法は人を越える

技術は戦術を決定する。北洋艦隊の2隻の主力艦は砲塔装置の制限および主砲の位置の制約を受けていたため、単行雁形陣を採用して接敵陣形とするしかなかったが、右翼の2隻の艦船超勇号と揚威号の戦力は慎重な考慮と強化が加えられておらず、日本軍の第一遊撃隊4隻の戦闘艦の全力の突撃の下、この2隻の艦は1隻が損傷し1隻が沈み、陣形はこれにつれかき乱された。

十、あえて戦うサイドは講和を口にできる 戦場で得られないものは談判のテーブルでも得難い

甲午戦争には終始主戦派と主和派の争いが存在した。当時の最高統治者の中で実権を掌握していた西太后、奕マなどは全て主和派で、李鴻章も「羈糜為上、力保和局」(頑住吉注:後半はたぶん平和を保つことに力を入れる、といった意味かと思いますが前半は見当もつきません)を断固主張した。彼らはずっと力を尽くしてイギリス、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカなどの国の調停を勝ち取り、もって平和を求める目的を達成しようとした。

だが事実は、他人に頼ることは自らに頼ることに及ばず、異民族をもって異民族を制することは必ず異民族に制せられるところとなる、ということを証明している。戦争は涙を信じず、弱国に外交はない。戦場にもし勝算がなかったら、談判のテーブルでもきっと何も得られないのである。(筆者は中国戦略文化促進会常務副会長兼秘書長。階級は少将)


 以前も書きましたけど日本人にとって太平洋戦争以前の海戦といえばすなわちバルチック艦隊との日本海大海戦であって、黄海海戦にはさほどの思い入れはなく、現に日本海大海戦を扱った映画はいくつもありますが黄海海戦を扱った日本の映画は知りません。しかし中国人にとっては強い思い入れがあり、これを読むと我々の太平洋戦争に対する思い入れにやや似ているのかなという感じがします。中国人に教訓を語っている文章ですが、我々が読むと何だか誉められているようですね。

















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