10大反中国国家って‥‥

 「10大反中国国家」をリストアップして理由を述べている興味深いページがあったので内容をお知らせします。なお、暇な人はどの国が挙げられているか予想してから読むとより面白いかもしれません。

http://bbs.tiexue.net/post2_4126593_1.html


中国外交史上十大最反中国国家

ポーランド

外交上ヨーロッパの足拭き布と呼ばれるポーランドは、歴史上たびたび外敵からの辱めを受けてきた。だがこの国はスーパー反中国国家であり、恥知らずの域に達している。1919年のパリ講和会議(頑住吉注:第一次大戦の講和会議で、その結果ヴェルサイユ条約が結ばれました)で、日本は第一次大戦中に火事場泥棒的に強奪した山東の権益(頑住吉注:山東半島における旧ドイツ権益)の合法化を望んだ。顧維鈞(頑住吉注:袁世凱の秘書を務めたこともあり後に中華民国の各国大使を歴任、「中国近代史上の卓越した外交家の一人」とされるそうです)は会議において意気軒昂に理詰めの主張を行い、各中小国家は公然と、あるいは密かに中国に対し同情を示した。イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの各大国にも一時的にやや気がねが見られた。ただ1国の代表は公然と飛び出してきて演説を行い、日本の山東に対する要求を支持し、中国に反対した。‥‥それがポーランドだった。顧維鈞が回想録を書いた時になっても、彼は中国とも日本とも何の関係もないポーランドが何故こんなことをしたのか分からなかった。同様の状況は「九一八」事変(頑住吉注:満州事変)後にも発生した。国際連盟は日本に対する制裁を行うことを投票によって評決したが、イギリス、フランス等の大国すら賛成票を投じたのに、たった1つの国家のみが反対を表明した。他ならぬポーランドである。中国の駐国連代表団はどうしても理解できなかった。日本と全く関係のない国家が何故そうするのか。中国は昔からポーランドとの間に恨みも遺恨もなく、なぜそうするのかは分からないが、北洋政府(頑住吉注:蒋介石による北伐によって張学良が降伏するまで北京にあった政府)時代も、中華民国時代も、そして現在でも、ポーランドは常に中国の反対側に立つことを喜ぶのである。ポーランドという国家が何をしようとどうでもいいのだが、この国家は中国に対しずっと敵視してきた。国民党政府だろうと人民政府の時期だろうと、このように中国という国家を敵視してきた。このことは中国人にとってポーランドを同情に値しないものにしている。2008年、世界の主要国のリーダーは基本的に全て北京オリンピックへの出席を表明したが、ポーランドの首相は北京オリンピック開幕式不参加を表明し、その代わりにダライ・ラマと会見した。ポーランド人は本当に1つの能力を持っていると言わざるを得ない。それは、「ポーランドの歴史はすなわちカナリアが野心に満ちた、虎視耽耽たる2匹の猫(ロシアとドイツ)に飲み込まれんとする、といった歴史である」。今回は新たにまたしても第3匹目のの猫(中国)を招来したのである。

モンゴル

あなたが信じようと信じまいと、この中露両国の間の、貧窮し、遅れた、広い中に人が稀な国家は、極めて反中国的な国家である。モンゴルで商売をする人も旅行者も、毎年多くの人が略奪、殴打、侮辱を受けている。モンゴルでは、孤立無縁の中国人はなおさら怒りをこらえて声を押し殺すことを余儀なくされている。何故なら押し込み強盗だろうが追いはぎだろうが街頭での袋叩きだろうが、モンゴル警察は極めて捜査に消極的だからである。機能的にも能力的にも低いモンゴル警察は必然的に低い事件解決率をもたらし、低い事件解決率は必然的に事件発生数や、次第に悪質化する事件をエスカレートさせる。モンゴルにいる中国・モンゴル混血児は、一般に進んで他人に自分の中の中国の血統に言及しない。特に中国の血統を持つモンゴルの官僚はこのことに対しさらにひた隠しに隠す。何故ならこれが政治的前途をダメにする危険なことだからである。外交上モンゴルは「抱腿外交」(頑住吉注:検索しましたが意味不明です。消極的、内向きといった感じでしょうか)一辺倒であり、中国に係る問題に対し、反対も支持もしない冷淡な態度をとる。2006年は中国・モンゴル関係において非常に試練に満ちた一年だった。これはこの年が大モンゴル建国800周年だというだけの理由でだった。前中国駐モンゴル大使高樹茂は歴史をマイルド化し、論争を棚上げし、共同で発展するという考慮から、「チンギスハーンはあなたたちでもあり、私たちでもある。我々がいずれもチンギスハーンの子孫である以上、共同で発展する必要がある。」と語った。その結果モンゴルのメディアから最も歓迎されざる外国人の1人に列せられた。これは大国による排外主義的表現だというのである。この種の、モンゴル上空に立ちこめる反中国的空気は、1991年のモンゴル「変色」以来ますますひどくなっている(頑住吉注:1991年に決定的変化があったわけではないと思われますが、1990年に一党独裁放棄、1992年にモンゴル人民共和国からモンゴル国への改称が行われています)。

ベトナム

改革解放以後、初めて中国と戦火を交えた国家である。1975年のベトナム統一後、ベトナムはソ連とより親密な外交関係を発展させることを決定した。ベトナム党中央の親中国派の長征、武元甲らは次第にもはや重用されなくなり、党規約の中の毛沢東思想も取り消された。国内では狂気じみた中国排除が始まり、華僑の正常な生活が弾圧され、大量のベトナム華僑の帰国をもたらした。中国・ベトナム国境では武装衝突が引き起こされ、派遣された武装人員が越境して侵略、騒擾を引き起こし、辺境の民を傷つけ、国境を示す標石を倒し、国境を侵食し、浦念嶺、庭毫山事件等を引き起こした。中国とアメリカの外交接触回復につれ、中国・ベトナム両国の関係は深刻化しはじめ、1979年から1989年までの10年近い中越国境軍事衝突がもたらされた。1979年2月17日、中国は対ベトナム戦争を発動し、3月5日に解放軍はベトナム北部の重要都市諒山市を攻略した。諒山以南は見渡す限りの平野で防御に使える険しい地形はなかった。古来ベトナムの反乱において、もし中国の大軍が諒山を破れば、ベトナム王は即自らを縛り降伏を申し出てきた。3月6日から16日までに解放軍の全ての部隊は中国国境内に撤退した。この期間に解放軍は大量の民生用鉱工業物資を中国に輸送した(その中には大量の、中国がベトナムに無償支援した物資が含まれていた)。途上では焦土作戦が実行され、占領されたベトナムの町に対し大規模な略奪破壊が行われた。持っていける機器設備は全部持ち去り、破壊できる公共財産は全部破壊した。一部の部隊は撤退時、命がけで掃射砲撃を行い、憤懣をぶちまけて撤退ルート上に地雷を敷設した。これは懲罰報復のためだった。戦争の影響は持続的で、特にベトナム側にとってはそうだった。解放軍は撤退帰国過程で、以前ベトナムに援助した物資を回収し、ベトナムの村、道路、鉄道に重大な破壊を加えた。1999年、長年にわたる交渉を経て、中国とベトナムは国境条約に署名したが、具体的な国境線は依然秘密にされている。この時の条約には比較的小規模な国境の調整が含まれており、いくらかの土地が中国に返還された。ベトナム当局のメディアは新しい国境の事実を2001年8月頃に報道した。ベトナム在住の中国系ベトナム人は蔑視され、移民を迫られ続けている。今日ベトナムは依然、世界最大級の陸軍を維持し、その原因の一部は中国に対する憂慮から来ている(頑住吉注:ベトナム軍の兵力は50万人以下で、中国の約1/6です。ただ人口約8400万なのに自衛隊の倍以上の兵力であり、もちろん人口あたりにすれば中国よりずっと多いことになります)。戦後長い時間が経たないうちに戦争を主導した黎筍が死去し、長征が表舞台に立ち、中国・ベトナム両国の摩擦は一部減少した。1990年代におけるソ連解体の後、中国・ベトナム両国は次第に付き合いを回復し、形勢は和平に向かっている。目下両国はすでに陸地部分の国境線を確定し、ベトナムは領土の小さい部分を返還したが、現在もなお我が南沙諸島の大部分の島を侵略占領したままである。しかもアメリカの石油会社と共同で南海の石油資源を探査し、不言実行の方針を取って南海の周辺国家と共同で南海の資源を侵食することを企図している。中国政府はすでに「主権は我に属す、論争は棚上げし、共同開発を」との和平構想を叫んでいるが、ベトナムは依然、南海に対し全部の主権を持つと主張し、中国の抗議を無視している。何度にもわたり単独で国連に、いわゆる南海境界区分案を提出し、我が国の領土に対する野心はどんどん大きくなっている。これは今中国が警戒するに値するところである。目下それでも中国はベトナムに対し「和をもって貴しとなす」的和平政策を採用している。

インドネシア

東南アジアの極端な反中国排中国的国家である。歴史上、多くの大規模な排中国虐殺迫害事件が発生している。1945年11月のスラバヤの悲劇、1946年3月のバンドンの悲劇、同年6月のシンカワンの悲劇、9月の巴亜迪の悲劇、1947年1月のパレンバンの悲劇、1963年3月から5月までの排中国騒乱、1965年から67年までの排中国の風潮、1974年の反日排中国騒乱、1978年ジャカルタ学生反中国騒乱、1980年11月のインドネシア、ジャワ排中国暴動、1998年5月13日の、かの世人を震撼させた反中国暴動では1200名の中国人が虐殺され、数百名の中国人婦女が暴行され、5000余件の中国人店舗、住宅が破壊された。2000年の暴動2周年の際には、数千の暴徒がジャカルタに集まって中国人商店を攻撃、略奪した。実は中国とインドネシアの間には多くのエピソードがあるのだが、中国には多くの止むを得ない事情がある。ある指導者が言ったことがあるのを覚えている。中国は戦争を恐れない、と。中国のインドネシアの排中国事態に対する反応は、それぞれの指導者の性格と関係がある。私は中国の指導者が中国を絶え間ない戦争に突入させることがないことを希望するが、その前提は世界の中国に対する尊重である。私はここにいくつかの当時の写真を持っているが、まずはあえてアップロードしない。血生臭すぎ、悲惨すぎる。日本の南京大虐殺もありふれたものに過ぎなくなる。皆さん、機会があれば見て下さい。恐怖の写真を見た夜は悪夢を見る。その人は歴史を見るのである。他の人の言葉を借りれば、真夜中に全身汗まみれで覚醒するが、それは決して恐怖による汗ではなく、戦いによる汗である。我々は現実の中ではできなかったが、我々に虐待された赤子を夢の中で助けさせているのだ‥‥。

インド

インドは複雑な国家である。独立以後、ずっと地区大国(頑住吉注:ローカルパワー、というような意味でしょう)になろうと望み、そこで中国をターゲットにした。我々が敬愛する周(頑住吉注:恩来)首相は1959年に危険を犯してインドを訪問した。空港に到着した彼を迎えたのは間違いなくインド側が意図的に手配した、怒り暴れる人の群れであり、こうして周首相は憤怒の鼻血を流した。その後中国・インド戦争が勃発し、インド軍は急速に敗北した。戦争の結果は極めて大きくインド人の自尊心を刺激し、これ以後両国の関係は緊張した。改革解放後、中国の経済は急成長し、インドは葡萄を食べられなかったキツネのように何でも中国と比較したがり、常に中国の背後で指さしている。2009年、アメリカ大統領オバマは中国を訪問し帰国したが、その後直ちにインドの首相がアメリカを訪問し、居ても立ってもいられずアメリカに、インドのみがアメリカの「自由世界」における完全なパートナーであり、対中国関係を過度に重視してはならないと訴えた。この種の目先の利をせっかちに求める方式は、中国の大躍進があるかないか知り得なかったのと同様に、どんどん極端になり、最後には袋小路に至るのである。

シンガポール

中国はシンガポールに脅威を与えておらず、シンガポールに対しずっと友好的で、友好的はいいがやや悪事をなすがままにしてきた。だがこの鉄砲玉のような小国はたびたび跳ね上がって反中国の急先鋒を務めてきた。シンガポールは独立後直ちに、東南アジアで最後に中国と国交を樹立した国になり、国交を樹立したとしても台湾との軍事協力関係を保持し続けると宣言し、しかもシンガポールは言った通りにした。李光耀(頑住吉注:リー・クアンユー。初代首相)台湾入り後は一度ならず中国を二流国家にさせると公言した。中国のアセアン内での影響力とのバランスをとるため、シンガポールはインドのアセアン会談入りをごり押しし、しかも頻繁にインドと合同軍事演習を行った。2003年、中国が新型肺炎禍に見舞われた際、シンガポール首相呉作棟(頑住吉注:ゴー・チョクトン。2代目首相)はアメリカのワシントンに「中国封殺」を呼び掛け、公然と中国訪問を拒絶した。「連合早報」(頑住吉注:シンガポールのメディア)フォーラムは得意満面で、「呉作棟の行動は東南アジア諸国の称賛と歓迎を受けた」と語った。呉作棟がメディアのインタビューを受けた時、中国のSARS治療能力について公開で質問され、中国はSARSの治療に2〜3年を費やすと見られ、この期間、外資は中国を離れるべきで、「全ての卵を1つのカゴの中に入れる」べきではないと公言した。しかも中国のその年におけるアセアン総会参加要請を先頭に立って拒絶した。2009年、元首相李光耀はさらに講演で次のように語った。「中国抑止を強化するようアメリカに呼び掛けねばならない。さもないとすぐに間に合わなくなる。」

韓国

中国・韓国両国は海を隔てた隣国であるが、歴史的原因により1992年になってやっと両国は正式に国交を樹立した。中国・韓国間に恩讐が多いのは歴史的問題の影響ゆえである。1951年、中国の志願軍は38度線を越えて韓国に進入し作戦を行った。韓国人によれば中国軍は韓国において100万にのぼる韓国人を虐殺したという。このため韓国人は日本に謝罪を要求するのと同時に、ずっと中国に対し朝鮮戦争中に韓国を侵略した行為の謝罪を要求している。なぜなら国連の1951年の決議中、中国は侵略者と判定され、しかもこの決議は現在に至るもなお有効だからである。この他、韓国は中国が韓国の首都を「漢城」と呼ぶことにも何度にもわたって抗議している。「漢城」は韓国が中国の属国だった時の、中国の韓国の首都に対する呼称だった。「漢城」には漢民族の城という意味があり、韓国人はこれを韓国に対する侮辱と考えている。韓国は中国に韓国の首都「漢城」を「漢城」と改称する(頑住吉注:変わってないんですけど。「首爾」に改称の間違いと思われますが、無意識に韓国人が求める名称を書くのを拒絶してしまったんでしょうね。)ことを提案しているが、中国政府はずっとこれに対し沈黙を保っている(頑住吉注:この後中国政府が態度を変えたのかどうかは不明ですが、事実として簡体字での検索結果はすでに後者の方が4倍近く多くなってます)。「5.12」○川地震(頑住吉注:○はサンズイに文。日本では四川大地震と呼ばれます。2008年発生)後韓国のネット上には他人の災いを喜ぶ声があふれた。韓国大統領もああいった無味乾燥な短い慰問の言葉を発表しただけで、地震後数カ月経ってやっと救援隊を1チーム中国にアリバイ的に派遣しただけだった。彼らの「端午申遺」(頑住吉注:韓国の「江陵端午祭」がユネスコ無形遺産に登録されたことに対し、中国がそれは中国の伝統的な端午節が韓国に伝わったもので、文化を盗んだものだと反発した問題)、「孔子は韓国人」などの多くの問題は、人に次のような疑問を提出せざるを得なくする。こうした「抱腿外交」を実行する半島国家は何故かくのごとく思い上がるのか、と。

フランス

中国とフランスの国交樹立は早く、しかもずっと友好的だった。関係に波風が立ったのはここ20年のことである。1989年の東ヨーロッパ激変後、中国国内では学生運動が爆発し、当時の中国註フランス大使呉建明のフランスの要人との会見要求は拒絶された。フランス政府の理由は次のようなものだった。「あなたがたの政府は明日まで存在し得るか否かまだ疑わしく、現在は会見の必要はない。」 呉建明は正当に次のように答えた。「私たちのうち最後に笑うのは誰か見るがいい。」 2008年オリンピックの聖火がパリでリレーされた場面は、すでにフランスメディア、パリ市政府、フランスの政党の、他人の災いを喜ぶ姿を世間の人に見せていた(頑住吉注:チベット独立派の妨害を受け聖火が一時消された件を指しています)。後にフランス大統領サルコジは北京オリンピック出席を拒絶しダライ・ラマと会見すると宣言した。その後比較判断してやむを得ずこの計画を放棄し、醜くも北京にやってきた。傲慢なフランスは自分が一段上の人間であると考え、自分には中国の人権問題に対しいちいち指摘する資格があると思っている。傲慢と偏見がフランス人の両眼を遮蔽し、この文明の都全てを一層の厚く暗い影で覆っているのである。

日本

近代以来、日本ほど中国に深い悲しみに満ちた傷を与えた国家はない。中国の2回にわたる近代化への道はいずれも日本の手によって失われた。洋務運動は中日による甲午戦争(頑住吉注:日清戦争)が原因で全面的失敗に終わった。1920年代、中国民族工業の春は日本の全面的中国侵略のために中断された。百万の将兵が戦場において戦死し、千万の同胞が殺戮で失われた。数も定かでない町、工場、鉱山が略奪破壊された。しかしこれら一切に対し日本政府には今に至るも依然明確な謝罪の態度がない。「八一五」拝鬼(頑住吉注:靖国参拝。なお中国語の「鬼」はマイナスの意味のない死者、霊も指します)は年々行われている。歪曲された歴史教科書は次々と現れて尽きない。駐中国武官は年中経済政治スパイ工作に従事している。毎年「九一八」には必ず不純な日本の旅行ツアー客の群れが中国にやってきて「公開買春」を行う(頑住吉注:この日を狙ってくるというわけではなく、満州事変の日にもやってくるのは無神経すぎる、と言いたいんでしょう)。密かに「台湾独立」を含む各種反中国勢力をかばい、秘密のうちに各種の「中国解体」の方案を制定している。肝に銘ずべし。日本が中国を亡きものにしようとする心は不死である。「前事を忘れざるは後事の師なり」

アメリカ

これは現在地球上最大最強にして最も恥知らずな「マフィア組織」であり、警察の仮面をかぶってならず者の行動をとるのである。1949年以後において唯一あえて公然と全面的に中国の主権を侵略する国家であり、建国後最初の10年で、毎年我が国の領空に侵入したアメリカの航空機は不完全な統計によれば300余り、地上における衝突は10年間で200余回にのぼった。正面切っての直接的武装侵略は朝鮮とベトナムで、かたや南、かたや北で中国をはさんで圧迫し、中間では台湾海峡に出兵し、これは両岸が現在統一できない最大の障害である。密かに「チベット独立」、「**」(頑住吉注:伏字になってるんですけど。たぶん独立運動があることを公言することも禁じられている地域があるんでしょう)および海外民族運動等の各種反中国、反共勢力を資金援助し、大量の親米分裂勢力を育て、在米留学生離反の策動を行っている。1970年代以前には何度にもわたって寄せ集めの艦隊が我が東海、黄海、南海地区で武装して大陸に接近した。60余年来、絶え間なく中国に対し転覆、暗殺、破壊、偵察行動を行ってきた。中国の周りに大量の軍事基地を設置してきた。国際的には「中国脅威論」を作り出し、経済的には人民元の切り下げを強要し、政治的には中国の人権問題を非難している。毛主席はこう言ったことがある。「帝国主義が我を亡きものにしようとする心は不死」 現在世界には「10の反中国9の親米」がある(頑住吉注:挙げたうちアメリカ以外は皆アメリカの手先だ、と言いたいんでしょう)。問題解決にはまだ、主要な矛盾は何かを見きわめる必要がある。


 一見した時、「あれ、日本の順位が低いな」と思ったんですが、読んでみると基本的に後に行くほど反中国的、という認識のようです。

 人生半ば過ぎたおっさんである私が生まれていないのはもちろん、両親すらまだ幼い子供だった昔、日本が中国侵略を行ったのは歴史的事実です。しかし日本は繰り返し中国に反省と謝罪の態度を示し、そもそも日中国交回復の際の日中共同声明にも「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」という内容が盛り込まれ、中国も調印しています。また歴史上帝国主義的侵略を行った国は数多いですが、謝罪を行ったケースは非常に稀であり、アヘン戦争などを仕掛け領土を奪ったイギリスも謝罪はしていません(何故このリストにイギリスが入っていないのかも不可解です)。またこの筆者が書いている通り、中国も韓国に謝罪していません(この問題には珍しく反論らしきものが全くなく、反論できないことを自認しているんでしょう)。日本が謝罪していないというのは中国政府の宣伝に過ぎず、莫大な対中国政府開発援助(ODA)が行われてきたこと、日本国内で中国人による犯罪が突出して多いことも、中国ではあまり知られていないようです。この筆者も、言論の自由がない中国国内で許される情報にしか触れられず、本気でこう思い込んでいるんでしょう。ある意味気の毒な話です。しかし「ポーランドが他国に踏みにじられたのは自業自得、今度は中国が思い知らせてやる」、「アメリカさえいなければすぐにでも台湾を軍事占領して統一できるのに」と言わんばかりの主張、ベトナムに徹底的破壊を加え物資を持ち去った(「その中には大量の、中国がベトナムに無償支援した物資が含まれていた」ということはそれ以外のものも持ち去ったことを認めているわけです)ことの自慢げな書きっぷりを見ると、やはり人格的問題があるとしか思えません。もちろんこの論は中国人の共通認識ではなく、むしろ「こんなにひどいことをされているのに皆怒り方が足りない」と言いたげなトーンは、この人の論が極端であることを逆に証明しているとも言えます。

 もしこのリストに日本が含まれていなかったら、「ああ、この国は中国にこんなひどいことをしたのか」と思ったかも知れませんが、日本に対するあまりに一方的な記述を読むと、比較的事情が分かっているアメリカ、フランス、韓国以外の国々にも、それなりの言い分があるんだろうなあ、と思えます。

 ただ、私が一番強調したいのは、いくらなんでもここまでひどくないにせよ、私たちの認識の中にこういう傾向が混じっていないか、また極論の中に一面の真実が含まれていないか、自分を省みることが重要だ、ということです。














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