ロシアの「核のボタン」

 昨日紹介した記事と似たテーマで、当然大統領専用機にも載せられることになるはずです。

http://military.china.com/history4/62/20161124/30050356.html


ソ連の核アタッシュケースの秘密を明かす:赤と黄色2つのプッシュボタンのみ設計

1984年6月6日、ソ連に人を思いもよらなくさせる危険な事件が発生したが、何十人かしかこの状況は知らず、それが関連したのは世界で最も危険な武器、ソ連の核アタッシュケースだった。

ソ連の原子プッシュボタンは黒と赤2種の状態に分かれ、ソ連の戦略核力量をコントロールしていた。核アタッシュケースの出現は革命的性質の技術軍事解決方案で、それは千をもって数えられる核ミサイルを一体に連結し、ソ連の首脳と戦略と力量のシステム管理を一体に結びつけ、コードネームはカズベク山麓だった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「資料画像:ソ連の最初の核アタッシュケースとされるもの」)

核アタッシュケース関連の情報は依然ソ連の最もデリケートな情報の1つだが、ソ連国家特殊貢献賞獲得者であるルブコフは世界に向けいくつかの当時の情報を公開した。彼はかつて初期にソ連の核アタッシュケースの製造を助けたのである。

ソ連が核アタッシュケースを製造する考え方は本来あるソ連の将軍由来で、それはソ連の自動化研究所内で研究開発に成功したものである。この考え方は一般の業務人員に対しては、むしろ具体的な戦術および技術任務だった。その目標はソ連の巨大なミサイルや核兵器を集中管理することだった。当時の1つの重要な原因は、アメリカがヨーロッパに配備するその弾道ミサイルが、その不可欠の軍事的プレゼンスを保持していたことだった。彼らはソ連に対する飛行偵察を依然継続していた。このためロシアは臨時に核ミサイルを発射する必要がある状況に直面する可能性があった。しかも当時1発ずつのロケットに全て1つのコードが配され、このコードは通常軍隊の金庫内に貯蔵され、かつ核の発射ボタンは当時のミサイル軍団の指揮官の手中に掌握されていた。人を驚愕させるのは、ある人が慌ただしい中でかつて安全秘密キーを入力し、かつ暗号コードを挿入したが、幸いにも核の発射ボタンがシャットアウト状態を保持したことだった。

ならば、核アタッシュケースはいかに作動するのか? ソ連のミサイル攻撃早期警戒基地が敵対国家のミサイル発射を探知計測した時、その軌跡と影響する区域の計算を開始し、かつ迅速にこうした情報をモスクワに伝達し、数分間以内に、こうした方案はもう批准され、かつ反撃許可が獲得される可能性があった。ソ連指導者は決定をなす。あらゆるこうした情報は直接情報部門に属した。アメリカにはすでに類似の反撃システムがあり、地図と参謀部を一体に連結していた。ソ連も7年の時間を費やし、この点を実現した。

何故この核アタッシュケースにこの名をつけたのか? 何故なら当時ソ連の非常に多くの機密領域はこの種の山麓の名を採用していたからで、例えばカズベク山、コーカサス山等々である。この核安全ボックスが開発された時、当時の指導者ブレジネフの特徴を考慮し、この名を取ったのである

当時のシステムは指導者の操作に便利なため(何故ならブレジネフは当時すでに年齢が高かった)、2つのプッシュボタンのみ設計し、赤色は開始を示し、黄色は取り消しを示した。このシステムは非常に簡単で行いやすかった。

当然、このシステムは内から外までいかなる外国の部品も採用せず、それらにいかなる安全上の隠れたリスクを持たせることもできなかった。これにはそのコンピュータシステム等々が含まれ、いかなる部品にも故障が出現しても直ちに交換できることを保証するためだった。

1982年当時、ブレジネフはクレムリン宮殿内で彼の核安全箱を受け取った。クレムリン宮殿の作業人員はこのボックスに対し安全性能の最後の1回の試験を行った。しかる後にソヴィエト最高委員会に管理が移された。

当時の環境下では、全クレムリン宮殿の外壁には強大な対盗聴および対無線電信の保護があり、これはモスクワ首脳の安全を保護するためだった。当時ブレジネフの病はすでに非常に深刻で、ソ連の後継者がアンドロポフに確定した時、彼は緑ランプを点灯し、何ら余計なことはしなかった。その後、核アタッシュケースはソ連の作戦力量への編入を開始した。

だがゴルバチョフはこの物に対しそれにもかかわらず非常に熱心ではなく、彼はこの大殺器を引き継いだばかりの時、ごく普通にそれを傍らに置いただけだった。エリツィンの時期になると、やっと規定が作られ、ロシア大統領は核アタッシュケースの使用を修得することが必須だと規定した。完全なシミュレーションデモンストレーション、そしてその特別情報警告が理解された。現在になると、3ヶ月ごとに1回演習するかもしれず、さらに多い可能性もある。核の安全箱のプッシュボタンの秘密コードは、5年ごとに1回変更される。

当時の核安全箱の製造者たちは、4人がレーニン賞を獲得し、12人がソ連の国家貢献賞を獲得した。当時彼らは約420ルーブルの奨励金を獲得した。当然、当時彼らの賃金は1ヶ月300ルーブルしかなかった。

重要なのは、このシステムは誕生して30年来、作動が常に非常にスムーズだということである。

比較として、アメリカの核安全アタッシュケースはサッカーボールと呼ばれている。それは45x35x25cmの防弾チタン合金ボックスでできている。大統領の専門護衛人員によって保管され、それぞれの人は全て細かい選抜を経ている。

発射器のコードと使用方法を国家の元首に非常に良く分からせるため、アメリカ人は甚だしきに至っては漫画方式を採用して説明を行った。冷戦の時期、アメリカの核安全アタッシュケースはロシア国内のモスクワを含む500の地域を照準し、同時にロシアの核ミサイルはアメリカ国内の89の目標に向けられているだけだった。


 冒頭で触れた1984年6月6日に何があったのかの記述が出てこないんすけど。検索しても「テトリスの最初の試作品が組み立てられた」くらいで。途中で出てくる「ある人が慌ただしい中でかつて安全秘密キーを入力し、かつ暗号コードを挿入したが、幸いにも核の発射ボタンがシャットアウト状態を保持した」というのがそれなんすかね。個人的にはプーチンや習近平より次期アメリカ大統領の方がこいつの扱いに関しては不安ですね。




















戻るボタン