殲-10開発史

 殲-10戦闘機の開発史に関する記述ですが、実は先行した殲-9という配備に至らなかった戦闘機が重要な役割を果たしたとされています。

http://tuku.military.china.com/military/html/2013-03-29/214506_2331580.htm


偉大な功績! 殲ー10戦闘機初飛行十五周年秘史

1998年3月23日、中国が自ら研究開発した殲ー10戦闘機が初飛行に成功し、中国航空史上の大きな業績となった。殲ー10戦闘機は我が国軍用戦闘機装備レベルが初めて世界の第3世代の標準に到達したことを示し、しかも近年の電子科学技術の進歩により、殲ー10は世界の第3世代戦闘機の中で出現が比較的遅かったが、科学技術の進歩の助けを借りて、かえって殲ー10にこの時代の機載レーダー技術と先進的武器システムを装備させることを可能にした。第3世代機の発展過程では時間的にやや遅れたが、落伍にはならず、かえってやや超越しており、我が国の航空工業の長期に渡り装備が1世代立ち後れた局面を改変した。(画像は殲ー10戦闘機総設計師ソンウェンツォンが劉華清(頑住吉注:軍、政府の要人)のために殲ー10戦闘機の設計方案、性能を説明しているところ。左上の小さな画像は殲ー10戦闘機の初飛行成功後の記念撮影。)(頑住吉注:何故かこの画像ありません)

我が国の第2世代機と比べ、殲ー10は空力レイアウト設計、機載電子設備、機載武器、いずれにも質的向上があった。国外の成熟した技術を参考にするのと同時に、大胆に新しいものを作り出す作業を経て、機の機動性と超視距離攻撃能力が大幅に向上した。同時に、殲ー10開発の助けを借りてシステム内の一連のセットされる製品、設備の改良が連動し、航空工業の発展に極めて大きな促進作用を果たした。

(頑住吉注:2ページ目)15年前の1998年3月23日、1機の神秘の戦闘機が空軍某基地に駐機していた。試験飛行員は戦友に別れを告げ、しっかりした足取りでコックピットに向かった。エンジン音が響き、「戦鷹」は空中に舞い上がり、万mの高空で(頑住吉注:これは誇張表現でしょう)この機が時に急降下し、時に発射された砲弾のように疾駆するのだけが見えた。17分後、「戦鷹」は安全に帰還し、にわかに駐機場は沸騰した。(画像は初飛行成功後に総設計師ソンウェンツォンと首席試験飛行員雷強が抱擁しているところ。人の目を熱い涙でいっぱいにする。)

この神秘の「戦鷹」が、まさに設計者たちが20年近い心血を注いだ我が国の第3世代戦闘機「殲ー10」であり、この機を操縦してスムーズに初飛行任務を完成させたのは、極めて伝説的色彩を帯びた空軍の英雄的試験飛行員、雷強である。

雷強は、彼が1998年に初めて殲ー10を操縦して離着陸してから、殲ー10が空軍部隊に大量装備されるまで、彼は全部で殲ー10を操縦しておよそ1,000回余り飛び、また殲ー10の試験飛行員の隊伍はおよそ10人余りいた、とする。世界のほとんどあらゆる電気伝導式戦闘機、例えばF-16、F-18、スホーイー27などはほとんど機の墜落事故の発生を経ており、殲ー10戦闘機の試験飛行期間の「墜落ゼロ」は試験飛行史上の1つの奇跡を創造した。最大航続距離、最大低空飛行速度、最大過負荷といったように、殲ー10は1回1回の試験飛行において、不断に国内の試験飛行史上で1つまた1つと飛行記録を塗り替えていった。

(頑住吉注:3ページ目)殲ー10に関して語るのにまず言及することが必須なのは、中国の1970年代末から今に至る先進的戦闘機研究開発のいくつかの失敗例である。殲ー7、殲ー8という2系列が続々と研究開発、装備され始めた時、空軍はこうした国産版ミグー21は20世紀末の国防の要求を満足させるには不足であることを自ら知っていた。このため世界の先進レベルと肩を並べ得る先進的戦闘機を極力開発しようとした。(画像は劉華清が殲ー10第1号サンプル機のためにテープカットしているところ)

(頑住吉注:4ページ目)殲ー10の研究開発作業は成都飛行機設計研究所によって引き受けられた。この隊伍の顔ぶれはかつて殲ー9を研究開発していた設計チームのそれだった。殲ー9が中止された後、この隊伍はまた後にやって来た殲ー7IIIプロジェクトの中でさらに一歩鍛錬された。1980年代初期、我が国が門戸を世界に向け開いた時、やっと次第に自身と世界との隔たりを意識するに至った。世界の航空工業が猪突猛進する大きな潮流の中で、当時の中央軍事委員会首席ケ小平同志は先見の明をもって指摘した。「我々は5億を出して戦闘機を作る必要がある。新たな、性能がより良い戦闘機を作るのだ。」と。ケ小平同志の指示を貫徹するため、1982年1月、空軍は軍事委員会に新型戦闘機研究開発問題に関するお伺いを立てた。軍事委員会の、特別支出金を出して新戦闘機研究開発を行うことの批准を経て、空軍はこのために相応の戦術技術要求を制定した。2月、国防工業事務室は北京で新型機の研究開発座談会を召集した。会議参加者には総合参謀装備部、空軍、海軍航空隊、三、四、五機械工業部のリーダーと国家計画委員会、そして多くの専門家がいた。会では新型戦闘機の考慮に供することができる方案が提出された。新型戦闘機の主要な空戦性能は殲ー8IIに比べ良好で、Fー16に近く、ミグー23より優れ、我が軍の1990年代の低空作戦の主要機種となる必要があった。当然、当時の指標に関する要求は現在とでは比べられない。

(頑住吉注:5ページ目)当時、成都飛行機設計研究所は突然に新型機方案検討会参加の通知に接した。ソンウェンツォン同志は成都飛行機設計研究所の代表、空軍と航空部の指導者、そして専門家として、教授の面前で15分の非常に新しい意味を持つ発言を行った。彼は空戦をいかに行うかという思想から語り起こし、必要性、考え方、使命、方案、措置を語った。彼の言葉は軍指導者や技術担当の同志に深い印象を残した。この会議の後、上層部は明確に新型戦闘機を作ることにし、具体的な要求を提出した。

(頑住吉注:6ページ目)ソンウェンツォン同志は研究所に戻った後、直ちに空軍の要求通りの配置の展開を開始し、同時に所内の長年の事前研究の成果を充分に利用し、力量を集中して方案を準備した。半年後、新型機の討論会が北京で再度召集された。会においてソンウェンツォン同志は機の模型を手に持ち、自信たっぷりに説明した。戦術技術要求から機の使命、任務、要求、戦術性能、武器、火力コントロール、機体構造、システム等に至るまで、実験の結果もあれば図面の実例もあり、4時間の報告は会議参加者の長時間の拍手を勝ち取った。

1984年1月、空軍は相応の戦術技術指標に関する要求を調整した。4月、航空工業部科学技術委員会は機の専門委員会を招集し、新型戦闘機の3種のレイアウト方案を討論した。この3種の方案とは、正常レイアウト方案、エンテ式レイアウト方案、可変後退翼方案だった。

(頑住吉注:7ページ目)1984年5月、兄弟機関との方案の対比を経て、国防科学工業委員会、国家計画委員会は新戦闘機の研究開発を行う全体機関を成都飛行機設計研究所と成都飛行機製造工場に決定した。同年6月、国防科学工業委員会は機に対する全体要求、新戦闘機研究開発の若干の原則的問題を確定した。重点は4大重要技術だった。すなわちエンテ式レイアウト設計、飛行コントロール、航空電子システムの総合的設計、コンピュータ設計・製造補助である。

1986年1月、国務院、中央軍事委員会は新戦闘機の研究開発任務を国家重大特定プロジェクトに列することを批准した。同年7月、国防科学工業委員会は王昂を新戦闘機行政総指揮に任命し、当時56歳のソンウェンツォンも国防科学工業委員会から重点機種であるこの飛行機の総設計師に任命された。

(頑住吉注:8ページ目)1987年6月、成都飛行機設計研究所は相次いで設計された6つの飛行機の方案を基礎に、全体の協調、システム技術状態とシステム定義の確定を経て、ひとまず全体方案を安定させ、初歩設計段階の主要な技術作業を完成させた。

新戦闘機は中、低空の機動作戦能力が突出し、中距離全方向迎撃射撃および近距離格闘能力を備え、空中目標迎撃と制空権奪取に用いられ、しかも対地攻撃能力があるものだった。また新戦闘機は全体性能上1990年代後期の作戦環境に適応するものだった。

(頑住吉注:9ページ目)ある重大な決策は、しばしば強大な技術的実力を後ろ盾として必要とする。見たように殲ー10が採用したのはエンテ式レイアウトだが、当時ソンウェンツォン同志が積極的にこの新式空力レイアウトを推薦したのも、まさにこの理論が検証済みだったからである。この種の斬新なエンテ式レイアウトは航空技術の発展の趨勢に符合するだけでなく、同時に成都飛行機設計研究所の長年の研究成果の技術的蓄積を含んでいたのである。

(頑住吉注:10ページ目)ソンウェンツォン同志が積極的に新式空力レイアウト方案を推薦したのは、エンテ式レイアウトは我が国と国外がほとんど同歩調で研究しており、同じスタートラインにいたからである。当時殲ー9の無尾翼方案に取り組んでいた時、殲ー9の高空での安定問題を解決するため、殲ー9設計チームは早くもエンテ式無尾翼レイアウトを提出していた。1960年代、アメリカは脱体渦(頑住吉注:英語ではshed vortexと言うらしいです)を利用して機の揚力を増加させる研究を開始した。我々も殲ー9の研究開発作業の中で相応の研究を増加させた。事前案の1つとして、機の腹部からの空気取り入れも殲ー9で広範な試験が行われた。第3世代機のレイアウト方案研究のため、新たな設計チームはまた非常に多くの試験を行い、かつて殲ー9に用いたエンテ式レイアウトの設計を不断に完備したものにしていった。全体方案確定前、風洞が1万回以上使われた。殲ー10の外形設計と空力レイアウトは完全に我々中国人自身が作ったもので、国外の力は借りておらず、この点は中国人が自慢し誇りに思うに値する。

(頑住吉注:11ページ目)我が国の航空工業には長期にわたり1つの欠点が存在している。それは飛行機の事前研究作業を重視せず、単独のシステム事前研究機構がなく、アメリカのNASAのような事前研究機構がない、ということに他ならない(頑住吉注:ここでは「基礎研究」ですかね)。以前は機種が俎上に上がればいつもそれを手がけ、実際上開発と研究が同歩調で進行した。このことは技術的蓄えが元々薄弱な我が国航空工業にとって見えざる中で研究開発のリスクを大きくした。そして航空工業が成立して以来、成功したプロジェクトが失敗したプロジェクトよりはるかに少ないという無情な事実をもたらしたのである。

(頑住吉注:12ページ目)外界は普遍的に、殲ー9は中国航空工業界がこの目標のために発起した初めての試みであると考えている。最近の殲ー9に関する文章から見て、この機はデルタ翼+エンテ翼、大型デルタ翼など多くの設計方案を持ち、設計思想から言うと世界の第3世代戦闘機のレベルに近かった。この機種は国内の601所によって研究開発され、後に611所の担当に代わり、大体においてスウェーデンのJ-37「ビゲン」戦闘機にやや似たところがある。

当時殲ー9プロジェクトは5回の戦術技術指標の修正を経、さらに紆余曲折があった後、最終的に中止をもって終わりを告げた。だが見えざる中で殲ー9は殲ー10の研究開発のための技術的事前研究に相当し、かつ最終的に殲ー10の成功のために一定の技術的基礎を固めたのである。

(頑住吉注:13ページ目)実は、殲ー10もかつてT-10からスホーイー27までに似た発展変化を経た。それは00型機の隆起し丸く太った後部機体で、これは動力の選択の何度かの変更がもたらしたものである。これは機に余計な抵抗をももたらし、性能悪化を導いた。当時成都飛行機は圧力に耐え、新たに設計し、機体後部のスマート化改修を行い、同時にできる限りの抵抗軽減の改良を行った。新たに生産された01型試生産型はついに設計目標を達成したのである。(イラスト作成:バイウェイ)

(頑住吉注:以後のページは画像とキャプションだけです。14、15ページ目は「初期の殲-10戦闘機」、16〜40ページ目までは「殲-10戦闘機の関連資料」、です。)


 西側ではこの機は中止されたイスラエル戦闘機の設計が中国に渡り、それが発展したものであるとする有力な説がありますが、中国では否定されており、興味深いことに台湾版Wikipediaでも触れられていません。この機が墜落事故を起こしたことがないという自慢は「日中の大型輸送機を比較」にも出てきましたが、事故を起こしたことがないから高性能だということはもちろん言えず、むしろ最高性能を極限まで追求した機の方が事故を起こしやすいという傾向があると思われ、この機は殲-9の失敗を受けて最高性能の追求より安全策を取ったのではないかという疑いもあります。それにそもそも持っている戦闘機の数も発表しておらず政府がマスコミを統制している中国では本当に墜落したことがないのかすら疑わしいかもしれません。









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