StG44 その1

 「DWJ」2004年7月号に、本格的なアサルトライフルの元祖とも言えるStG44の開発経緯に関する記事が掲載されていました。


旧ドイツ軍は戦争に進歩的なマシーネンカラビナーを導入した(頑住吉注:ドイツ語では「進歩的な」が語尾に来ますが、誌面ではこれが特に大きな文字でメインタイトルになっています)

悲しい、そして議論の余地ある説、「戦争は全ての事物の父である」は第二次大戦における技術の進歩に関しては完全にあてはまる。「シュトルムゲベール44」とミドル弾薬7.92mmx33が部隊に届いたのは遅すぎたが、その後の方向性を示した。(頑住吉注:日本語ではこの種の弾薬を通常のライフル弾薬と比べて「短小弾薬」と呼びますが、ドイツ語ではたぶんライフル弾薬とピストル弾薬の中間という意味で、直訳すると「ミドル弾薬」となる名称「Mittelpatrone」で呼ぶことが多いようです)

 (大)ドイツ帝国は戦争中資源、原材料や生産手段が制限されていたことにより、その兵器を生産性の高い形にすることを強いられた。歩兵武装の分野におけるこうした発達の最もよく知られた結果は、新開発のミドル弾薬7.92mmx33用のフルオート銃として歴史に足跡を残した「シュトルムゲベール44」である。
 第一次大戦後、ドイツ帝国はベルサイユ条約によればもはやマシーネンピストーレ(頑住吉注:サブマシンガン)を持つことが許されなくなった。歩兵のスタンダードな武装はサイトに変更を加えたゲベール(頑住吉注:ライフル)およびカラビナー(頑住吉注:カービン)98のままだった。これらの銃は弾薬もカラビナー用としてすでに強すぎる7.92mmx57ISのままだった(頑住吉注:ましてライフルとサブマシンガンの中間を行くアサルトライフル用には全く不向きだった、ということです)。すでにワイマール共和国時代に改良された歩兵用ゲベール採用のための考察は始まっていた。複数のプロトタイプは異なるストック形状を示し、側面または上に開く「膝関節閉鎖機構」(頑住吉注:いわゆるトグルジョイントでしょう)によってセミオート射撃が行えた。しかしこのモデルは採用されなかった。
 すでに1921年6月、ドイツ軍歩兵、騎兵、銃器やゲラート(頑住吉注:「器具」。この範囲は非常に広く、例えばすでにお伝えした「フリーゲルファウストB」のような兵器も、距離測定器具などもゲラートと呼ばれます)を担当する幕僚長たちはすでに7.92mmx57ISはその強い反動のためセルフローダー用としてはほとんど適していないと判断していた。彼らは小口径のマシーネンピストーレを要求した。だが6mm弾薬によるテストは不成功のまま中断された。1923年1月、歩兵の検査部門(Inspektion)はある意見書を提示した。これには基準値が含まれ、最終的にこれに基いて「シュトルムゲベール44」に発展することにもなるものであった。新しい銃はカラビナー98より小さく、より軽く、400mまでカラビナー98と等しい命中精度と弾道学的成績をもたらし、そして25〜30連マガジンを使ってセミ、フルオートマチックで射撃できるものであるべきであるとされた。これら基準値により、7.92mmx57IS弾薬による試みは最初から無効となった。
 銃器と「器具」の検査部門はモーゼル、ラインメタル、ハーネル(Haenel)のような会社と共同で開発作業を開始することになった。
 1935年の兵役義務再導入以後、急速にゲベールの膨大な需要が生じた。現存の機械設備はフル稼働させられており、新しい生産ラインの建設はモダンな機関銃やサブマシンガンといった重点火器の不足を埋めることに振り向けられた。
 ハインリッヒ フォルマー(Heinrich Vollmer)は、削りだし部品と木材で作られた7.75mmx39.5弾薬仕様のオートローダーであるM35を提示した。このゲベールは陸軍兵器局(Heereswaffenamt)によって1939年8月までテストされたが、そののち却下された。理由はこの銃が製造上高価、複雑すぎたからだとされている。
 1938年、C.G.Haenel(ハーネル社)は新ゲベールの発注を受けた。その銃は1923年の条件に加え、毎分360〜450発の発射速度を持つべきであるとされた。その上その銃はグレネード投射器を装着でき、塵、泥に耐性を持ち、砂漠、寒気の中でも役立つべきであるとされた。新しい閉鎖システムの開発はヒューゴ シュマイザー(Hugo Schmeisser)の手にゆだねられた。彼はMP38、MP40、MP41にその作動原理が引き継がれたマシーネンピストーレ18Tを開発した経験を持っていた。第一次世界大戦後、彼はベルグマン(Bergmann)を引退し、1925年以後ハーネル社の支配人(Prokurist)をしていた。ハーネル社は1935年以来軍の注文を受けていた。
 1940年、ハーネル社は削りだし部品製の2つの試作品を提示した後、新しいマシン銃(Maschinenwaffe)を「削り屑が出ない薄板成型製法」で、つまり大幅にプレス鉄板を取り入れて製造することになった。
 フランクフルト/メインのMerz工場はプレス製レシーバーを設計し、ビュルテンベルグの金属製品工場Geislingenはニューモデルのためのプレス製のグリップフレームを作った。ハーネル社は1941年、50挺製造の注文を手に入れた。

新しいシステムのための多くの名称
 新しい銃器タイプのプロトタイプはまず最初に「重マシーネンピストーレ」、ついで「マシーネンカラビナー」(MKb)の名称を得た。ハーネル社とワルサー社のテストモデルはMKb42(H)およびMKb42(W)の名称の下で進行した。
 その後1943年の初めに「マシーネンカラビナー」は再び「マシーネンピストーレ」(MP)と呼ばれた。MKb42(H)はMP43Aとなり、クローズドボルトの変種はMP43Bとなった。1943年8月頃、改めて名称変更が行われた。すなわち、MP43BはMP43/1となり、MKb42(H)はMP43/2となった。MP43(H)の刻印を持つ銃はわずかしか知られていない。MP43は追加なしにMP43-1と一致するが、カラビナー用グレネード器具受け入れのためのバレルは取りやめられていた。
 その後の1944年4月、MP43はMP44と名称変更され、1944年10月には結局「Sturmgewehr 44」となった。この銃器システムはこの「プロパガンダに役立つ」名称の下に今日なお知られている。この名称はナチ・ドイツ軍最高司令官(頑住吉注:ヒットラー)ではなく、歩兵大将Jaschkeに由来するとされる。

マシーネンカラビナー42(W)
 ハーネル社のライバルとしてワルサー社もこの大規模な注文を得るため独自の構造で試作を行った。ワルサーはすでに1939年から1941年の時期に制式弾薬7.92mmx57IS仕様のガス圧ローダーの構造に取り組んでいた。このモデルA−115は主にプレス部品を使っていた。この銃はバレルを取り巻くパイプ状構造によって目を引いた。この特徴はMKb42(W)の前部にも見られる。そして終戦時には再びゲラート06でも。つまりワルサーは鉄板プレス技術に充分な経験を持っていた。この企業が1941年にゼロから始めなければならなかったという主張は正しくない(頑住吉注:よく分かりませんがこういう俗説があってそれを打ち消しているようです)。
 1941年、ワルサーは兵器局から200挺の「ゼルブストラーデカラビナー」(頑住吉注:セルフローディングカービン)製造の注文を得た。1942年の初め、最初の試作品が作られ、1942年6月には2挺が完成した。グリップフレームは(ハーネル製ライバルモデル同様)ビュルテンベルグの金属製品工場製だった。
 MKb42(W)の構造には閉鎖したボルト位置からの射撃という長所があった。これは単発時、「突進モデル」(頑住吉注:ドイツ語ではオープンボルトファイアモデルのことを直訳するとこうなる「zuschiessenden Modellen」と呼ぶようです)に比べて銃自体の命中精度を高めた。しかしワルサーの設計には決定的な欠点があった。すなわち、大きなエジェクションポートが雪、水、塵、泥を文字通り銃内部に引き込んだのである。1942年12月にドーベリッツで行われた部隊テストにより、このシステムが非常に複雑で障害に抵抗力を欠くことが証明された。すでにノーマルな環境下で装填障害が生じた。このためワルサーのデザインは失格になった。
 ひっくるめて最初の200挺の試作品以上が作られたと見ることはできない。すなわち、このモデルが終戦までに8,000挺製造されたという主張は証明されえない(頑住吉注:これもこういう説があってそれに否定に近い強い疑問を表明しているようです)。現存するMKb42(W)は終戦時にワルサー社の元からアメリカ人の手に落ちたものである。

マシーネンカラビナー42(H)
 シュマイザーの設計はライバルに対して大きな長所を示していた。プレス製レシーバーはできる限り閉じられていた。小さなエジェクションポートの上にはコックによって初めてパチンと開くカバーが設けられていた。つまり泥による障害はより遅く起きることが予想された。このガス圧ローダーは「あやつる斜面」によって閉鎖が行われた。前進したボルトはその上部においてボルトキャリアの付属したガスピストンによって閉鎖位置に押されていた。バレルから取り出されたガス圧はボルトキャリアの付属したガスピストンを後方に動かし、銃は閉鎖解除された。ファイアリングピンスプリングは必要なかった。プライマーとボルトキャリアがファイアリングピンを動かしたからである(頑住吉注:これではよく分からないと思うので多少追加します。この銃はAK同様、というかこっちが元祖ですが、ボルトキャリアとガスピストンが一体になっています。ただ閉鎖システムは全く異なっていて、FALなどに近いボルトがティルトするタイプです。ボルトの後下部には下向きの突起があってレシーバーとかみ合ってロックが行われます。この状態ではボルトは上からボルトキャリアに抑えられてティルトすることはできません。ガスピストンが後退すると一体のボルトキャリアも後退し、ボルトを上から抑えるのを止めるのでボルトはティルトできるわけです。ボルトがティルトできる、できないはボルトキャリア下部の階段状の斜面によって制御され、これを直訳すると「あやつるカーブ」となる単語で表現しています)。
 射手はトリガーの上にある押しボタンでセミ、フルオートのセットを行った(頑住吉注:いわゆるクロスボルト式のセレクターです。セーフティはともかくセレクターがクロスボルト式の銃は珍しいはずです)。セーフティとしてはシュマイザー設計によるMP40の場合と似て引っ張り出せるコッキングノブと安全レストが役立った(頑住吉注:ん? MP40が俗に「シュマイザー」と呼ばれるのは誤りである、というのが定説ですし、この記事でも前の部分ではそういう線で記述されていたはずですが。この部分はMP18から引き継がれたからシュマイザーのもの、という意味でしょうか)。コッキングノブは閉鎖機構をファイアリングピンごと前の停止位置にロックした(頑住吉注:コッキングノブをボルト閉鎖位置で押し込むとボルトがロックされ、例えば銃を後方から地面に落としたときボルトが慣性で後退してカートリッジを拾い、前進、発火する暴発事故が防止されるということです)。安全レストはボルトを後方で保持した(頑住吉注:コッキングノブを後退させて横道にそらすような形の「安全レスト」に引っかけるとボルトも後方で保持されるということです。いずれもMP40でおなじみの方法です)。しかしシュマイザーの設計は1つの大きな欠点を持っていた。この銃はオープン位置から発射が行われた。「突進」により、ボルト、ガスピストン、ボルトキャリア合わせて720gの部品の運動が起こり、弾薬を導き、その後初めて発火が起こった。このシステムは命中精度上不利だった(頑住吉注:MP44は誕生時から全く新しいコンセプトに基いて開発された新世代の銃と思いがちですが、シュマイザーによる当初設計は意外に旧世代のサブマシンガンに近かったことが分かります)。
 リコイルスプリングがストックの狭い穴内に収納されていたことも問題をもたらした。ストックの木材は(例えば渡河の後で)ふやけて膨張し、最悪の場合リコイルスプリングをブロックした。リコイルスプリングは長さ47.5cmだったが、発射準備状態では18.5cmに圧縮された。このうち12cmがストック内、6.5cmがレシーバー内に位置した。しかしストック内の12cmがブロックされると残った6.5cmは16.5cmにしか伸びることができない。コック位置から閉鎖位置までは11.5cmである。
 この銃は簡単に分解できた。唯一のネジがストックを保持していた。これを抜くとグリップフレームが「傾いて落ち」、ボルトが簡単に引き出せた(頑住吉注:このあたりはG3やMP5に似ています)。閉鎖機構の組み込みのためには(少なくとも銃の部品がMauser/Borsigwalde製の場合は)、銃をサイトを下にして置くのが最善である(頑住吉注:いまいちよく分かりませんが、ボルトとボルトキャリアの結合の関係上銃を上下逆に置いた方が組みこみやすいということだと思います)。
 若干のMKb42(H)はバヨネットラグを備えている。同じ月に製造された他の銃にはない。1942年11月から1943年9月までの間に11,833挺のマシーネンカラビナーが製造された。このモデルの注文はワルサー製もそうだが非常に小規模であり、ほとんど納得いく理由が見られない。
 1挺のカラビナーのコストは70ライヒスマルク(頑住吉注:1948年まで使用された通貨単位)であり、必要労働時間は14時間だった。一方カラビナー98kは56ライヒスマルクしかかからなかったが、18〜25時間を消費した。これは戦争中には重要な論拠であった。

決定はハーネルに
 1942年4月14日、ワルサーとハーネルのモデルはドイツ軍最高指揮官アドルフ ヒットラーに提示された。ワルサーが作ったサンプルは1挺のみだった。しかしそのドイツ軍のトップにいた一等兵(頑住吉注:これは文脈上ヒットラーを揶揄した呼び方と思われます)はそのすでに存在する試作品を現在生産中の銃より重要なものとして生産を高めることを抑止した。彼の意見は射程が短すぎるということによっていた。
 だが25挺のMKb42(H)がドーベリッツの歩兵学校でテストされた。6月30日のレポートは、オープンボルトシステムが600m以降命中精度をひどく損なうという理由で充分でないと非難した。この銃にスコープの装着を可能にするためのいくらか長いストック(23cmに代わって26cmにする)に向けた要求は無視された。ただし「鍵穴効果」の防止はスコープを3cm後方に移すマウントでも可能であることが示された(頑住吉注:ストックが短すぎ、スコープが目に近くなりすぎるので長いストックが要求されたがこれは無視され、代わりにスコープを前方に移すことでも対策が可能だということが分かった、というのなら理屈が通りますが、間違いなく「後方に」となっています。また「鍵穴効果」というのは普通横転弾で長い穴が開くことだと思いますが、これはどう考えてもスコープマウントの形式やストックの長さとは無関係で、ここでは別の意味でしょう。結局この部分は全く意味不明です。)。
 歩兵学校はその上サイトラインが高すぎること、レシーバーが弱すぎること、ハンドガードがないことも充分でないと非難していた。その上マガジンには使用できるローダーがなかった。このマガジンはその後30連、23.5cmに短縮された(頑住吉注:元はどうだったのか書かれていません)。比較的長いマガジンにより、伏射時の遮蔽物を求めるのが困難になった。
 1942年11月、アドルフ ヒットラーはこの銃のなかなかに高い評価にもかかわらず、7.92mmx57IS仕様のオートライフルとマシーネンピストーレの優先を固持した。1942年12月における高位の陸軍将校の前でのGustloffデザインとクローズドボルトの(! 頑住吉注:そんな、「!」って言われても。たぶんこの時点ではクローズドボルトはなかったはずなのに、というニュアンスだと思うんですが)MKb42(H)の比較射撃は、歩兵学校におけるカラビナー98K、MKb42(H)および(W)の比較同様、シュマイザーの構造の優位を示した。当時空軍は陸軍と平行して独自の銃器、「落下傘猟兵小銃」(頑住吉注:「Fallschirmjagergewehr」・2つ目の「a」はウムラウト・これの頭文字を取ってFG)42を開発していた。FG42やグストロフモデルの場合生産開始までの準備期間が12〜18ヶ月かかったが、一方MKb42(H)の場合はあとわずか半年足りないだけだった。これによりこの銃は唯一生産準備済みのマシン銃となった。兵器局は1943年9月以後の生産を毎月25,000挺と見積もった。ドイツ兵はこの銃により、彼らの敵と少なくとも対等に武装された。この時点で東部戦線では大量のソ連製セミおよびフルオートの「構造見本」がドイツサイドで実戦使用されていた。これらはソ連が部隊向け供給を強化していたものである(頑住吉注:ドイツ製自動小銃の登場が遅れたのでソ連製鹵獲兵器が広く使われていた、ということでしょう。ナチ・ドイツ軍は戦車や火砲等でもそうですが鹵獲兵器を広範に活用したことが知られています。ただこの時点でフルオートのソ連製自動小銃はなかったんではないでしょうか。PPSh41のようなサブマシンガンのことかもしれません。ちょうど「戦争のはらわた」のスタイナー軍曹みたいな感じですかね)。
 1943年2月6日、つまりスターリングラードにおける「6.Armee」(頑住吉注:軍の組織について疎いんで普通どう訳されるのか知りません。「第六軍」とかですかね)の降伏からわずかの日数の後、この銃は改めてドイツ軍最高司令官に提示された。そして改めて却下された。ヒットラーはG43の採用を命じた。
 それでも部隊テストは開始された。20,000挺のMKb42(H)が4月中に「Heeresgruppe Nord」(頑住吉注:これも同様です。「陸軍北方面軍」とかでしょうか)に送られた。大量生産開始は1943年7月と計画された。結局、クローズドボルトモデルはMP43として生産された。ボルトキャリアの付属したガスピストンおよびグリップフレームの完全な改造はいくつかの困難をもたらし、生産開始の遅延を導いた。
 部隊は最高司令官の意思に反して新しい銃で装備された。ヒットラーは1943年10月になって初めて前線からの肯定的レポートに基いて同意を与えた。まず月間30,000挺がMP38およびMP40の代替として生産されることが意図された。兵器局は1943年11月、ただ1種類のみの銃器タイプによる「歩兵中隊の純血種の武装」を命令した。カラビナー98kもスタンダード銃としてのMP43で交換されることが意図された。この銃は1944年1月における部隊テストで真価を示した。(改めて)ストック内部の穴が狭すぎること、およびグレネード器具とスコープの固定が最適でないことが欠点であると非難された。マガジンボトムを固定しているスプリングがときどき外れることもである。しかし主要な問題は弾薬不足であった。
 1944年1月14日、軍需省(Rustungsministerium 最初の「u」はウムラウト)は毎月100,000挺のMP43と200億発の弾薬の製造を決定した(頑住吉注:「20Milliarden」は直訳すれば「20の10億」ですけどいくらなんでも多すぎないかと不審に思います)。原材料、資源の不足、および連合軍による工業施設や輸送路への激化する爆撃に直面して、これらの目標は単なる願望よりわずかにましなものに過ぎなかった。1944年2月までに22,900挺のMP43/1およびMP43が作られたにすぎず、その中で部隊に届いた分はさらに少ない9,318挺にすぎなかった。MP43/1の生産は1943年12月に中断された。1944年4月にはこの銃はMP44の名称を得た。1944年7月以後は兵器局内では歩兵兵器特別委員会が製造上の問題に取り組んだ。

マシーネンピストーレ43/1
 MKb42(H)とは異なり、この銃はクローズドボルトだった。ボルトグループは発射後に初めて動き、給弾し、改めて閉鎖した。ボルトはMKb42(H)とほとんど同じ構造だった。ボルトキャリアが付属したガスピストンは設計変更された。ボルトキャリアは後方に延長され、ハンマー用の削り加工を持った。このタイプのボルトグループの組み込みは、銃口を下に向けた状態で行われた。重量削減のため、「パッキング棒」(頑住吉注:Dichtungsstange どのパーツのことか分かりません)はピンの付属したネジになり、マウント穴は簡略化された。
 改良されたグリップフレームはテストされたクローズドボルトのMKb42(H)と同じものだったとされている(頑住吉注:たぶん前に出てきた「!」って奴のことでしょう)。このタイプのグリップフレームには2つの操作部品があった。単発、連発を選択する押しボタンとならんで、この型ではセーフティレバーがガスピストン(頑住吉注:というかそれと一体のボルトキャリア)の動きを防ぐ役割も引き受けていた。このセーフティレバーは、MKb42(H)の場合ガスピストンが意図せず安全位置から動いてしまう可能性があったのに対し、意図せず動いてしまう可能性が比較的少なかった。
 押しボタンとセーフティレバーはかじかんだ指や手袋をした手でも簡単に、そしてほとんど音を立てずに操作できた。
 リアサイトベースはまだスコープ用のマウントベースを持っていた。だがテストの結果は不評だった。バレルはフロントサイトハウジングと結合部品(頑住吉注:バレルとガスチューブをつなぐ部分)の間で段になっていなかったので、ライフルグレネード器具42には適合しなかった。ボルトキャリアの付属したガスピストン、バレルなどの銃器部品はまだ大幅にナンバーリングされていた。これはMP43では一段と省略が進んだものである(頑住吉注:「MP43/1」と言うと「MP43」の改良型のように思えるので混乱しますが、MP43の方が後のモデルです)。1943年6月から12月の間におおよそ14,000のMP43/1が製造された。

最終的構造見本はほとんど変更されず
 1943年12月、シュマイザーの構造はMP43としてその最終的形態を手に入れた。リアサイトベースにあるZF41またはZF4用のマウントレールは省略され、バレルはライフルグレネード器具43用に段がつけられた。ショルダーストックは依然木製だった。ボルトキャリアの構造変更により、リコイルスプリングは20cmがレシーバー内に、16cmがストック内に位置することになった(コックされていないときは同様に47.5cmの長さ)。ストックがふやけて膨張した場合、理論上レシーバー内の20cmのリコイルスプリングは26.5cmまで伸びることができた(頑住吉注:パイプを1本穴の中に通せば済む話じゃないんですかね)。マズルのネジは文献によれば1944年夏にはすでに省略されていたという。だがネジは1945年製造分にも見つかる。ストゥルムゲベール44の遅い時期のもののみもはやない。この銃はブルーイング仕上げされ、遅い時期のものは燐酸塩処理された。

メーカーと生産数
 MP43、MP44、StG44の生産数は1945年4月まで記録されている。ヒューゴ シュマイザーによれば、合計424,000挺が作られた。生産場所は全帝国領土、そして保護領のボヘミアおよびモラビアに存在した。主要な部品はチューリンゲン、フランクフルト/メイン、ガイスリンゲンで製造された。残りの部品は2、3ダースの下請企業から供給された。
 連合軍の制空権掌握による輸送の障害は、製造にも影響した。自立した生産の中心地はSteiermark(頑住吉注:シュタイアーマルク。現在はオーストリアに属する南東部の州。州都はグラーツ。)にも存在した。
 ハーネルは1942年までMP38およびMP40を製造していた。ここで(頑住吉注:MP44系の銃が)「fxo」のコードの下に185,000挺作られたと推測される。ボルトキャリアが付属したガスピストンはハーネル製でもほぼ全ての銃においてエルマおよびザウエル由来だった。
 エルマは1943年以後約104,000挺の銃を生産した。エルマは1941年まではカラビナー98kを生産し、以後はMP40に集中していた。1941年以後は「ayf」というコードが使われているのが見られ、同様に1944年には「qlv」という新しいコードが使われた。1945年にはエルマはボルトキャリアの付属したガスピストンをステアーに供給した。
 Suhlのザウエル&ゾーンは「ce」のコードで約55,000挺を製造した。終戦時には同様にここからボルトキャリアの付属したガスピストンがステアーに供給されていた。
 Steyr−Daimler−Puch AG(頑住吉注:たぶん当時のステアーの正式名称だと思います)はMP40ですでに鉄板薄板プレス製法の経験を積んでおり、全ての重要な部品を自分で製造した。ステアーは「bnz」、1944年11/12月以後は「swj」のコードの下におおよそ80,000挺の生産を行った。ステアーのレシーバーは他のメーカーのそれと強化リップの形状で区別される。全般的なメーカーコードの新しい割り当ての中で、ステアーも年数の「44」、「45」を「XE」、「XF」に換えるという移行を行った。両方のナンバーリング領域は平行して供給された。例えば「2209G/45」と「5201/XF」のダブルの刻印がある銃が示すように。
 オーベルンドルフのモーゼルも終戦時には製造していたとされる。あるStG44は「byf/ce」のコードペアを示している。
 全てのメーカーはビュルテンベルグの金属製品工場AG Geislingenからグリップフレームを供給されていた(コードは「aut,WaA21」)。Altreichで使い果たされたレシーバーはフランクフルト/メインのMerz工場から来たものだった(cos,WaA44 頑住吉注「Altreich」は辞書に載っていません。「Alt」と「reich」はそれぞれ「古い」、「帝国」なのでたぶん「旧帝国」、つまりナチ・ドイツを指すのではないかと思います)。


 非常に長い上に(私にとっては)かなり難解な部分が多く、読むのにずいぶん時間がかかりました。

 MP44をよく見ると、いまさらながら現代の銃に与えた強い影響が実感されます。あえて1発の威力は犠牲にしても多くの弾数が携帯でき、フルオート時のコントロール性が高くなる短小弾薬の採用、ガス経路をバレルの上に配置してバレルの位置を低くし、直銃床に近いストックとピストルグリップともあわせてフルオート時のコントロール性を高める全体レイアウト、30連着脱マガジンを使用し、フル・セミオート射撃が可能な装備、生産性を高めるためのプレス可能の多用、簡単に各主要部分に分割できる構造、少ない木材の使用などは、(補助兵器はともかく)歩兵用主力小火器としては当時画期的に新しいものでした。ただ、そのうちのかなりの部分は、「これからの歩兵用主力小火器はかくあるべきだ」という信念に基いたものというより当時のサブマシンガンから引き継がれたものでもあるようです。また、M16に影響を与えていると思われるエジェクションポート上のダストカバーも、おそらくオリジナルでは異物が入りやすいオープンボルトだったからこそ設けられたものなのではないでしょうか。

 ヒットラーの無理解や誤った判断で新兵器の導入が遅れたケースはかなり知られています。最も有名な例はメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機を、切実に必要とされていた重爆撃機の迎撃機すなわち防御用ではなく、全く適さない爆撃機すなわち攻撃用として使えと厳命したケースでしょう。この例でもそうですが、ヒットラーはとにかく攻撃重視というか敵に直接大きな打撃を与える兵器、大きな攻撃力を持つ兵器を好んだようです。例えばどう考えても通常の戦車を多数作った方が総合的には大きな戦力になるのに超重戦車を作らせたり、航空機による空爆の方が合理的に決まっているのに巨大な火砲を作らせたりですね。初期のV号戦車に50mm砲を載せろと厳命したのに陸軍が対戦車砲と弾薬を共通化した方が合理的であると判断し、勝手に37mm砲搭載で生産を進め、それを知ったヒットラーが激怒したなんていうエピソードも残っており、例えばこのケースはその後の経緯を考えればヒットラーの方が正しかったんでしょうが、全体としては間違った判断が多かったように思われます。MP44のケースでも、短小弾薬を使う方が総合的に戦力アップになるのにそれが理解できず、低威力の使用弾薬を嫌って大量生産になかなか同意しなかったということです。一方フルサイズ弾薬を使い、連射性が高まるため明らかに攻撃力アップになるG43は気に入ってすぐ採用を命じたわけですね。また「独裁者」と言われるヒットラーですが、Me262、V号戦車のケースも含め、軍がその意思に反して適切と思われる兵器を生産することはある程度可能であったわけです。

 ヒットラーはともかくドイツの銃器の先進性はたいしたもので、第一次世界大戦後の早い時期すでに6mmライフル弾薬を使用する自動小銃がテストされていたということです。あるいはこの弾薬は現在検討されている6.8mmx43SPCに近いものだったかもしれません。またMP44が本格的に使用されるようになったのは第二次世界大戦で敗色濃厚になった時期ですが、結果的にMP44を生んだ基本コンセプトはすでに1923年に確立していたわけです。
 
 この記事は2部構成で、9月号に掲載された記事では主にこの銃の戦後が語られており、むしろこちらの方に意外な話が多かったです。










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