StG44その2

 「DWJ」2004年9月号に、前々号の続きであるStG44に関する記事が掲載されていました。


その2:マシーネンピストーレ43は1945年以後、もはやドイツで生産されることはなかった。

戦後の停滞

 終戦時、大量のMP43が連合軍の略奪品の中に存在した。これらはソ連によってその占領地域の治安兵力に供給され、そしてベルリンの壁崩壊まで使用状態に留まった。西ドイツでは新規製造が考慮されたが、実現しなかった。

 ドイツ帝国は、すでに戦争勃発前から銃器製造へのプレス技術の使用に真剣に取り組んでいた。この技術は経済的な大量生産を可能にした。しかし、些細な変更でさえ工具セットの完全な新造や交換を要求した(頑住吉注:削りだしならここをもう少し深く削るとか、簡略化のため削るのを止めるといった小規模な変更は容易ですが、プレスの場合は大規模な設備であるプレス型ごと変更しなければならない、ということのようです)。薄板プレス技術の場合、専門外の企業が主導的役割を果した。薄板部品の下請企業には、MerzおよびWMFとならんで、National−Krupp−Registrierkassen GmbH(コード「cnd」 頑住吉注:この会社は名称からレジスター関係の有限会社で、たぶんあのクルップの系列だと思います)があった。モーゼル社のLossnitzerにおける設計リーダーは、技術者Stahrmannsに言及した。彼はボヘミアの会社「Prym」からモーゼルに来た、そしてアメリカで薄板プレス技術の経験を積んでいた人物だった。銃の鋼鉄の中枢部の硬化処理や表面コーティングに際しては、モーゼルはフランクフルトアムマインのDegussaの支援を受けた。
 ひっくるめて、硬化リップ(頑住吉注:直訳ですが通常強化リブと呼ばれるものでしょう)に基いて4つのレシーバータイプに分類できる。タイプ1はグリップフレーム上方、そして銃器ナンバー上方の機関部に長い硬化リップを持つ。タイプ2はグリップフレーム上方の硬化リップが短く、そして機関部の硬化リップは長い。タイプ3はグリップフレーム上方に長い硬化リップを持ち、銃器ナンバー上方には硬化リップを持たない。タイプ4はグリップフレーム上方の硬化リップが短く、銃器ナンバー上方には硬化リップをを持たない。ザウエル&ゾーン(コード「ce」)はタイプ1のみを製造し、ステアー(コード「bnz」と「swj」)はタイプ3および4を製造した。bnzとswjのコードはタイプ3および4で混用されている。ステアーは何年もたたないうちに生産効率の高い企業に拡張された。それ以前の1938年にはまだそこでは地べたに伝導ベルト駆動の工作機械が設置されていた。
 ハーネルでは始め自由に使用できるものとして、初期のわずかな生産能力の説明がつく生産ラインのみが設置された(頑住吉注:要するに最初の生産ラインは小規模だったということでしょう)。
 モーゼルは終戦時には大規模に生産を行っていた。簡略化のためマズルのネジを省略したStG44もあった。1945年4月、すでに部品の形で存在していながらもはや使い果たすことができなかった大量のMP43の部品のストックが存在した。(頑住吉注:簡単に完成できるのに部品状態で大量に残っていた)この理由は明らかでない。低空飛行機がそれまでに自社のE工場を破壊していたが、Lossnitzerのチーフ設計者によればそれでもスイスに高圧線が存在していた(頑住吉注:意味不明ですがひょっとすると「E工場」というのは発電施設のことかも知れません)。占領国フランス向けのレポートには、モーゼルに20の切断およびプレス打ち抜き機械、12のプレスおよび曲げ加工機械の存在が申告されている。倉庫には半完成品状態のMP43が組める17億8百万個の部品、重量73トンが存在した。

製造上の改良
 モデル43/1以後のボルトには、鉄薬莢のラッカーの残りで機能障害を起こさないようにエキストラクター部にフライス加工が見られる(頑住吉注:資源不足のため導入された鉄薬莢の錆び止めに使われたラッカーが銃の作動時に削られて溜まり、作動不良の原因になるのを防ぐため何らかの凹みを削ったということだろうと思います)。バレルは、MKb42(H)では外形が洋梨形だったが、後のモデルは円筒形になった。バレルのライフリングピッチはカラビナーと一致していた(頑住吉注:98kと同じという意味でしょうか。カービンが複数形なのであるいはドイツ軍における統一されたカービン用のピッチというのがあったのかもしれません)。製造技術上ある特別な解決策があり、これは狂気の沙汰とも言えるものだった。モーゼルでは1945年、共通の「歩兵用銃器のためのバレル棒材」64,632本(129トン)のみが計画に入れられていた。何とこれからそれぞれの銃器形式ごとにチャンバーおよび外形を加工するというものである(頑住吉注:生産効率化のため7.92mm口径のマシンガン、ライフル、アサルトライフルなどのバレルを全て共通の素材から最小限の加工で作るようにした、ということでしょう。確かにモーゼルのStG45も含め、ナチ・ドイツ末期の銃にはバレルが単なるパイプのようになったデザインが多いようです)。
 「awt」刻印は1943年および1944年初めに製造されたグリップフレームのみに見られるという説は誤りである。たいていの場合その後の銃には「WaA21」刻印のみが見られるようだが、この刻印は1945年のMP44にも「awt」刻印とともに存在している。
 フルロードしたマガジンのスプリングが弱まるため、1945年始めに25発用のマガジンが新開発されたが、これはもはや採用されなかった。マガジン内のロード状態インジケーターとしての「セルロイド窓」が提案されたが、これはコストがかかりすぎた。
 全生産の間、改良のための試みが行われた。1943年、新しいサイト、マズル部のフラッシュハイダー、鍛鉄製スプリング、「verdeckten Kammerschlitz」(頑住吉注:あえて訳せば「隠されたボルトスリット」でしょうか。意味不明です)に対する取り組みが行われた。その上、リコイルスプリングの移設または強化、粉末鉄製のトリガーメカニズム(頑住吉注:生産を容易にするための粉末冶金の導入ではないかと思います)、ボルトストップ、ハンマー製法のバレル、赤外線器具の試みもあった。1945年にはファイアリングピン、ガスピストン、小部品も薄板で作られたという。プラスチック製ストックのサンプルも知られている。グリップパネルはたいてい木製だったが、統合絶縁体工場(Viaco工場)AG ベルリン Pankow(コードは「gbm」)製のベークライト製もあった。2種類のストック形状は平行して使われたが、ステアー製にはスマートなフォルムのものだけが見られる。
 最初の型のマガジンポーチは閉鎖のためのフタを1個しか持たなかったため、マガジンが転がり落ちた。そういうわけでポーチはMP40のもののようにマガジンごとにフタを持つようになった。

西側はもはや興味を持たず
 モーゼルから戦利品として分捕られた半完成品の中には戦勝国フランスの下でMP43として完成されたものがあったかもしれない。フランス外人部隊は一時この銃で装備されていた。
 だが、MP43は西側占領ゾーンにおいて1945年以後大きな興味を持たれなかった。公式には敗戦国ドイツでの銃器製造に対する連合軍による制限が存在した(1945年8月2日のポツダム宣言)。しかし1950年5月2日、アメリカの統合幕僚長は西側列強(特にフランス)に、ヨーロッパの安全のため西ドイツの「効果的な寄与」に対する制限を廃止するよう要求した。つまり若い西ドイツは武装されることになった(頑住吉注:要するに東西対立が激しくなった中でアメリカが日本を再軍備させた動きの西ドイツ版ですね)。1950年6月の朝鮮戦争勃発は、再軍備に対する抵抗を萎縮させ、「ヨーロッパ防衛共同体」に向けた協議が開始された。
 こうした状況の中で、後の国防大臣Franz Josef Straussは1951年3月、Adenauer(頑住吉注:西ドイツ初代)首相に、MP44のドイツ警察向け採用を提案した。Straussはその任の前の戦争中、東部戦線のAltenstadt高射砲学校に教育士官として投入されていた。
 Straussによれば、この銃は西ドイツでも製造することができた。Robert Lehr法学博士(1950年10月から1953年10月まで大臣)指揮下の内務省内に、そのとき詳細に述べられた態度表明が生じた(頑住吉注:この1文いまいち意味が分かりません)。Straussなしでもそれまでに、警察機動隊の構成プランに基く、連合軍が製造を許可する限りの「傑出した銃」の採用が計画されていた。省内では準備期間を1.5年と見積もった。
 ストゥルムゲベール44を西ドイツで製造する計画は再び取り上げられたが、1951年にはまだやりとげられなかった。1953年3月末(つまりスターリンの死、および連邦議会が西ドイツの防衛に対する貢献は合憲であると議決した直後)、1948年オベルンドルフに設立された企業H&Kに、どれくらいのコストでこの銃の再生産が可能か見積もりを行わせた。
 この算定の基礎となったのは、1943年12月にSuhlのハーネル社から得た基礎資料の青写真だった。トレーシング図は明らかにハーネル社からモーゼルに供給されたものだった。H&Kの共同設立者SeidelはLossnitzerにおけるモーゼルの開発部門で働いていた。プレス打ち抜き機械の一部は明らかにWMFから来たものとされている(頑住吉注:私はごくおおざっぱに旧モーゼルとH&Kの関係は、旧MGCとKSCみたいな感じかなとイメージしているんですが、要するに戦時中にモーゼルがMP43を製造するために開発元のハーネルから入手した青写真が人脈上H&Kに伝わっており、これが再生産コスト算定の基礎資料になったし、当時のH&Kの工作機械の一部は元々モーゼルのものだったということのようです。なお、辞書に載っていない経済用語らしきものなどが出てきてこの後の2文全く意味不明です)。H&Kは50万ドイツマルクを建築物のために、そして60万ドイツマルクを機械設備のために計画した。1953年3月30日における、ストゥルムゲベール44の100挺ごとの生産のための見積もりでは、工作機械のために58.9万ドイツマルクの購入価格が結果として生じていた。
 しかしこの時点で、ハーフロックのローラーロッキング閉鎖機構とバイポッドを持ち、30%コストの安い「V−ゲベール」が作られていた。この銃は7.92mmx33弾薬とならんで、全長75mmの弾薬まで(つまり7.92mmx57ISも)撃つことができるはずだった。
 H&Kはさらに2年、ストゥルムゲベール44の新規製造に取り組んだ。1955年5月6日、それまで主権が制限されていた西ドイツはWEU(西欧同盟)およびNATOに加盟した。1955年6月14日、K98k、.30M1カービン、MP43の、いろいろな弾薬仕様に作られたCETME−ゲベールに対する比較が開始された。勝者はCETMEだった。この銃はNATO弾薬仕様で作られたというだけでなく、ストゥルムゲベール44より製造上30%安価だった。この銃は1958年にモデファイされてG3として西ドイツ軍に採用された。
 西ドイツの公用としてはそれ以後MP44はもはや役割を演じなかった。弾薬開発を委託されるMeppenの「軍事技術庁91」は少なくとも1959年以後7.92mmx33弾薬に関し、弾薬に関するテストも効果に関する射撃テストも実施していない。
 ただ、「1960年代、軍の最初の装備の中に、いろいろな銃器タイプとならんで、若干の部隊部分にまだ少数のStG44の在庫が存在していた」という西ドイツ軍の弾薬専門担当官の証言は事実であるに違いない。

ソ連はその占領地域にMP43を供給した
 1つの逸話がある。ヒットラーがMP43の製造に初めて同意した後、彼の護衛コマンドはすでにこの銃で武装されていた。もう1つの逸話。初めて戦利品として分捕られたMP43がスターリンのデスクに置かれたとき、その結果新しい銃器タイプの開発を急がせた。
 ポツダム宣言にもかかわらず、ドイツにおけるソ連の軍事行政(SMAD)は、中央ドイツの治安部隊に農作物や原材料(たいてい「X」と符号がつけられた)との交換でドイツ軍の兵器を供給した。MP43は1952から54年まで、K98kとともに(頑住吉注:東ドイツ軍事組織の)「最初の銃器世代」に属した。
 この銃は1948年6月以後に編成されたドイツ人民警察(VP)の歩兵待機部隊の主力銃器だった。まず始め1949年に少数の銃だけが訓練用に存在した。1951年以後MP43は国境警察および運輸警察に構造的に装備される銃ともなった。VPの武装業務担当集団はかつてのナチ・ドイツ軍人からなっていた。Zella−Mehlisにある「VP127」の「中央作業場」(Zentralwerkstatt)は、VPの在庫をチェックした。1951年以後、修理や試射はDoberlug−KirchhainのVP「中央作業場」で行われた。
 ライフリングが切られたバレルは1955年9月20日以後になって初めて製造されたようだ。SuhlのErnst−Thalmann(頑住吉注:最初の「a」はウムラウト。人名のようです)工場(ETW)は1960年代、2基のオーストリア製工作機械を使って製造を始めた。それまで使われていた交換用バレルがどこから由来していたのかは明らかでない。ETWはコード1001のついた新しいマガジンも製造した。
 1952年、(頑住吉注:西ドイツ初代首相)AdenauerはEVG(頑住吉注:意味不明)のために再統一に関するスターリンノートを拒絶した。しかし中立の「Restdeutschland」(頑住吉注:直訳すれば「残りのドイツ」)は間接的にソ連兵器にならった武装への装備変換に導かれた(頑住吉注:この部分知識不足でよく分かりません)。かつてのナチ・ドイツ軍の武装の大部分は「予備」として保管され、「Innerer Truppen」(頑住吉注:直訳すれば「内部部隊」)、特に「Kampfgruppe」(頑住吉注:武装民兵グループ)の武装として使われた。その上内務省には1954、55年以後、7,500挺が存在した。
 ソ連占領下の東ドイツの兵士はすでに「第2世代」の兵器で武装されていた一方で、1960、61年、「自由ドイツ青年団」(FDJ)メンバーはベルリンに向かう「東西ドイツ間列車」を「vorgeschnallten」されたMP44で「監視した」。(頑住吉注:さっぱり分かりませんが、ここはまあ1960年代の初め、東ドイツ軍は新兵器で武装されていたが、一部ではまだMP44が公用に使われていた、ということで勘弁してください)。
 1952年に設立された「Betriebskampfgruppe」(頑住吉注:「Betrieb」には「工場」、「経営」などの意味があります。工場労働者を基盤にした武装民兵グループということだと思います)は1953年6月の蜂起以後、「労働者階級のKampfgruppe」となった。初期に彼らはK98kとならんでMP43も携帯していた。1961年のベルリンの壁建設の際、彼らにはソ連製銃器が配備されていた。すでに1955年夏、そこではPPShによる訓練が始まっていた。1958年7月30日の「在庫報告」は、12,000挺のPPSh、140,023挺のK98kとならんで16,093挺のMP43に言及していた。1989年12月6日の「Kampfgruppe」武装解除まで、MP43で武装された部隊が存在した。
 この銃は1990年2月まで人民警察とNVAの下で在庫されていた。ドイツ連邦国防軍から引き継がれた残り在庫のバレルは1990年には水銀を含んだ発火薬のためにバッドコンディションにあった。その後、1990年終わりにはこの銃をトルコ警察に回すことが話題になった。

このモデルは今日も現役
 この銃は戦後、チェコスロバキアでも現役だった。フランス外人部隊は手持ちのMP43を南ベトナムの文民の行政機関に譲った。アフリカではMP43がロシア製軍用銃とならんで頻繁に見かけられる。これは冷戦期間中にこの銃がそのような出所からその地に譲り渡された可能性の状況証拠である。ある程度の数のMP43はバルカン半島でもまだ見かけられる。だからその地の防衛部隊であるドイツ軍の分担兵力メンバーは今日まだ少なくとも短期間この銃の操作を指導される。

弾薬は今日なお製造されている
 この銃用のストゥルムゲベール弾薬は、1957、1958、1959、1961年に「7.9mmクルツパトローネ(頑住吉注:短弾薬)M43」としてKonigswartha(頑住吉注:「o」はウムラウト 旧東側の地名だと思われます)で大量に製造された。量産は鉄薬莢と水銀を含んだ発火薬を使って行われた。生産施設は1990年、再統一後になって初めて解体された。
 ドイツ連邦国防軍の弾薬専門担当官の発言、「7.92mmx33弾薬は1960年には製造されていた。ドイツ連邦国防軍では4x250発のケース入りで在庫され、1965年に爆破処理された。」は正しいに違いない。今日SM(頑住吉注:弾薬メーカーの略称でしょう)がこの弾薬を製造している。

今日における銃器法上の分類
 MP43は2003年4月1日の「戦争銃リスト」に属すため、オリジナル状態では銃器法上禁止された対象物である。入手のためには連邦刑事局の例外許可が必要となる。セミオート型は銃器法上「完全ノーマル」な、入手可能な銃である。目下ミュンヘンのNiedermeier GmbHがそのような、BKA基準に従って変更を加えた銃を提供している。

NiedermeierMPとともにシューティングレンジで
 この銃は空マガジン込みで5.2kg 、なしで4.8kgである。計測されたトリガープルはMKb42(H)の場合3.2kgの数値である。MP43/1は2.1kgで済ませており、MP43、MP44などもそうだ。少なくとも2.2kgで作動するが、例外的な逸脱は2.8kgにまで達する。「圧点」到達後のトリガーはいろいろに異なって経過する。かなりのケースではすぐ作動し、他は停滞を感じる。オープンボルトシステムとどれほど大きな差があるかはテストされていない。
 射撃が許された何挺かの銃はNiedermeierの販売するセミオートモデルである。長いマガジンは非常に慣れを必要とする。依託なしの射撃では邪魔にならないが、机の上で射撃する際は小さな「砂袋壁」を建てる必要が生じる(頑住吉注:マガジンが下に長く突き出しているので依託するには高い壁状のものが必要になるということです。机の後ろから前部のみを依託するんではだめなんでしょうかね)。しかしNiedermeierでは10連マガジンを準備中である(頑住吉注:げ、この銃をそうまでして撃ちたいですか)。
 この銃の射撃はセミオートでは非常に快適である。注意を引いたのは連発経過の際に木製ストック内で動くコイルスプリングの騒音である。V字型ノッチを備えたサイトは照準は兵士に過度な困難を要求しない。SM弾薬の作動は完璧である。排出された薬莢は先端の開口部の変形もボディー部の折れ目も示さない。100mのグルーピングは約10cmである。

DWJの結論
 「ストゥルムゲベール」として知られるMP43は、1つの製造技術上の進歩であった。その弾薬はモダンな戦闘フィールドの要求に合致していた。アメリカのプロパガンダである「この銃は.30M1カービンに劣り、射手はいまにもターゲットより大きな危険にさらされそうである」にもかかわらず、MP43は銃器発達に向けた指針となった。構造上の特徴はG3にも、同様にカラシニコフの設計事務所の開発品にも見られる。


 歴史や経済、政治といった分野の話が出てきて、しかもこれはドイツ人がドイツ人向けに自国のことを語っているわけですからある程度の知識を当然の前提としており、非常に難解でした。細かい間違いはたくさんあると思われ、皆さんが読んでいてもちょっとおかしいなと思われる点もあったと思います。

 ただまあ内容的に、

●MP44は半完成状態、またはすぐそれが組める部品状態で非常に多数が連合軍の手に落ちた。
●西ドイツは再軍備に際してMP44の再生産を真剣に検討し、H&Kに見積もりを行わせた。
●H&Kが使用した資料はハーネル→モーゼル→H&Kと受け継がれたもので、再生産を検討する際には当然非常に詳細にMP44を分析したに違いない。
●結局MP44はG3の原型であるセトメとの比較に敗れて再生産されなかったが、結果的にH&Kが改良して完成させたG3には作動方式等は全く異なるものの全体の大きな部品構成や細部の処理においてMP44の影響が見られる。
●また初期の西ドイツ軍装備にMP44が含まれ、また弾薬も製造されていたことは間違いないようだ。
●東ドイツでもMP44が初期に軍の装備として使われ、一部の武装民兵グループはベルリンの壁崩壊まで使用していた。
●このため銃本体は製造されなかったものの半消耗品であるバレルとマガジンは生産されていた。
●MP44は現在でもアフリカやバルカン半島で現役であり、これはフランス外人部隊が現地に残したものなどであると考えられる。
●現在ドイツではセミオートバージョンが容易に入手でき、当然弾薬も製造されている。

といったことは間違いないはずです。また、MP44の実射については読んだ記憶がないので、リコイルスプリングが騒音を立てるとか、100mのグルーピングが約10cmであるとかは新鮮な情報でした。フルオートのコントロール性やオープンボルトでの遠距離のグルーピングがどうであるのかがテストされていないのは残念です。ただ、MP44はAK47と比べて弾薬威力はやや低く、重量は大きいので少なくともAK47よりフルオート時のコントロールは容易だったと想像できます。

 MP44の真価をなかなか理解しなかったヒットラーと違い、スターリンはすぐにこういう銃がわが軍にも必要であると感じたようです。ヒットラーが兵器について誤った判断をしたエピソードはたくさん語られていますが、スターリンに関してはあまり聞いたことがなく、あるいはこの分野に関してはスターリンの方が的確な判断力をもっていたのかもしれません。ただし、ヒットラーの場合には前回も書いたように下の人間がその意思に反した兵器製造を行うことが案外可能だったのに対し、おそらくスターリンの場合それはほとんど不可能だったんではないかと思います。



















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