朝鮮戦争直前のエピソード2題

 相互の関連は薄いですが、同じ時期の「歴史秘話」ものの記事を2つ紹介します。

http://military.china.com/history4/62/20130709/17935753.html


ソ連飛行員の記憶:1950年、解放軍台湾攻撃への参加を準備

中国革命戦争の異なる歴史段階において、ソ連空軍はいつも中国に出兵し援助した。抗日戦の時期、ソ連軍飛行員はかつて直接台湾と日本を空襲したことがある(頑住吉注:本筋と関係ないんですけどまじですかこれ)。だが新中国成立後、解放軍を助けて台湾を奪取する請求に直面し、スターリンは拒絶した‥‥

スターリン、台湾問題への介入を拒絶

1949年夏の終わりから秋の初め、中国共産党軍の猛烈な打撃の下で、蒋介石の残存部隊はアメリカ空軍と海軍の援護に助けを借り、台湾島へ撤退した。

1949年6月から8月、劉少奇とスターリンはモスクワで秘密会談を行った。毛沢東の指示に基づき、劉少奇はこのソ連指導者に対し、解放軍が「上海に対する封鎖を打破し、台湾を奪取する」のを助ける要求を提出した。この時、解放軍はすでに台湾を攻撃する戦役の計画を制定しており、毛沢東は行動の時期を1950年後半と定めていた。だがスターリンはこの問題において非常に慎重で、アメリカに中国の事柄に干渉する口実を与えることを心配し、この問題に対し回避する策略を採った。

1949年12月16日、毛沢東のソ連訪問の期間、台湾問題の2回目の提出が行われた。台湾を解放するため、毛沢東はスターリンに各種の軍事援助の提供を要求した。1950年における台湾攻撃計画を説明する時に毛沢東は、国民党部隊の反乱決起を発動し、さらに島内民衆の内部からの協力を加えれば、台湾を攻撃し陥落させることは実現間近であると考えていた。

だがスターリンは再度避けて答えず、「援助はしてもいいが、援助の形式を考慮することが必須だ。」と言った。その後スターリンは毛沢東に、取り込んだ元国民党の航空降下連隊で決死隊を組織し、台湾に派遣し、彼らに台湾で武装蜂起を組織させることを提案した。

当然毛沢東はこの種の提案に対し全く不満足で、ソ連が中国海軍建設を助ける要求を堅持した。これに対しスターリンは次のように態度表明した。「中国海軍幹部は旅順で養成訓練してもいい。あなたがたは人を出し、我々は軍艦を出す。すでに学習が成った中国海軍幹部の帰国時、これらの軍艦に乗っていって良い。」(頑住吉注:台湾攻撃と直接関係ないようですが、島である台湾を攻略するには海軍兵力が必須で、当時人民解放軍にはそれがほとんどなかったのでソ連の援助がどうしても必要だった、ということですね)

中国は後にまた周恩来首相をソ連に派遣し、第3回目の膠着状況打破の試みを行った。1950年2月4日、中国人民解放軍空軍司令劉亜楼と中国のソ連駐在武官の同席の下での、ソ連のブルガーニン(頑住吉注:この後スターリン死後の1955年に首相に就任)とファシリェフスキー元帥との会談時、周恩来はソ連軍事指導者が台湾攻撃の戦役を組織するよう請求したが、依然婉曲に拒否された。

上海進駐が「台湾上陸戦役」を推断演繹した

新中国成立時、蒋介石はすでに台湾に退却していたが、その空軍と海軍は依然非常に強大で、しばしば広州、福州、杭州、南京など東南の沿海都市、特に上海の軍事および経済上の目標に狂ったようなみだりな爆撃を行っていた。当時解放軍には、接収、鹵獲した、そして寝返って参加した国民党の飛行機113機しか飛ぶことができず、これには輸送機、連絡機、練習機も含まれ、作戦能力に関して言えばかろじて北京を防衛できるだけだった。このため、上海市長陳毅の緊急報告を受け取った後、劉少奇は直ちにモスクワで談判中の毛沢東と周恩来に電話し、ソ連が援助を行うよう請求した。

1950年2月14日、「中ソ友好同盟相互援助条約」がモスクワで締結された。中国政府の請求に関しては、ソ連の大臣級会議の決定に基づき、一定数のソ連軍人が緊急に中国に赴いた。1950年3月13日、ソ連混成航空部隊集団が華東の上海、徐州などの地の飛行場に進駐し、中国が防空を行うのを助けた。

このソ連軍部隊はパベル バジツキー中将によって率いられ、ソ連軍人員の総数は4,000人を超えた。3月20日から5月11日まで、徐州基地のソ連のミグー15は全部で4回飛び立って敵を迎撃し、全部で国民党の爆撃機4機と戦闘機3機を撃墜し、一挙に国民党の上海に対する空中の脅威を解除した(頑住吉注:小見出しの「上海進駐が『台湾上陸戦役』を推断演繹した」は分かりにくいですが、もしソ連が台湾攻撃を援助していたら上海防空戦同様台湾空軍はイチコロだったと判断できる、というような意味でしょう)。

1950年5月21日、ソ連空軍と解放軍の偵察情報を基礎に、ソ連軍上海防空司令部参謀長ヴィソツキー上佐は詳細な台湾の地図をモスクワに送り、地図にはあり得る上陸地点と艦艇の台湾に接近する航路が表示されていた。

この重要な情報を獲得した後、ソ連軍総参謀部はすぐに「解放軍台湾上陸」戦役に対する推断演繹を行った。ソ連軍総参謀長シジミェンコ大将は中国空軍司令劉亜楼と会談した時にも、この問題に対し討論を行った。

ソ連空軍第351飛行連隊技師ボロフコフの回想によれば、台湾攻撃援助のため、彼の所属部隊は当時積極的な準備を行い、各種の浮遊道具(頑住吉注:救命胴衣の代わりになるもの、ということでしょうか)をかき集めた。しかし、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、中国大陸の台湾攻撃計画の実施はすでに間に合わなかった‥‥。(本文は「老年生活報」2013年7月5日第6版から抜粋。筆者:彭華)


 もし朝鮮戦争の勃発が遅れたら作戦は実行され、その場合北朝鮮は開戦を思いとどまったのか、それとも強行したのか気になりますが、いずれにせよその後の歴史は大きく変わっていたでしょう。アメリカはこの動きをどこまでつかんでいたんでしょうか。それと、太平洋戦争前に中国で戦ったフライングタイガースから零戦の情報を得ていたのにそれを重視せず太平洋戦争の緒戦で大きなショックを受けたアメリカですが、台湾からミグー15の強さに関する情報を得ていれば朝鮮戦争初期の「ミグショック」が多少なりとも小さくて済んだ可能性も考えられ、いろいろな意味で興味深い記事でした。

http://military.china.com/history4/62/20130608/17882545.html


朝鮮戦争の導火線:1949年北朝鮮・韓国ゴムボートのために海戦発生

1948年、米ソの支持下で大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が相次いで成立し、その時から朝鮮半島はすでにいつでも起爆し得る火薬桶となっていた。ある統計は、1950年6月の全面戦争勃発前、朝韓の間の小規模な衝突は874回にも達していた、とする。事後になってみれば、少なからぬ衝突は「偶発事件」だったが、当時の情勢下では避け難いことでもあった。1949年8月の夢金浦海戦はまさにその中の一例であり、しかもこの衝突は1隻のゴムボートによって引き起こされたのである。

1949年夏、韓国海軍はまさに鳴り物入りで海上観艦式を準備しているところだった。だが8月10日夜、駐韓米軍顧問団団長ロバートのゴムボートが意外にも失踪した。本来はこれは何らの大事でもなかったが(頑住吉注:ロバートが乗ったまま失踪したわけではなかったので)、このゴムボートはアメリカ国防省から送られてきたもので、しかもロバートは一度ならずこのゴムボートを李承晩に示し、「大統領が使いたい時、私はいつでもすぐに貸しますよ」と言っていた。魚釣りが好きだった李承晩は、観艦式終了後にこのゴムボートに乗って海に出て魚釣りする計画さえ整えていた。この事件が起きると韓国海軍はあせり始めた。仁川警備部は多くの艦艇を出動させて延坪島(頑住吉注:砲撃事件があったところです)、徳積島、バイリン島海域で投網式捜索を展開したが、どれも収穫はなかった。この件を知ったロバートはすぐに李承晩に通知した。何故なら1948年9月、韓国海軍の4隻の艦艇が北朝鮮に投降し、陸軍第8連隊の下に属する2個大隊の将兵も北朝鮮に行ってしまったからである。

当時韓国陸軍参謀長の任にあった李映俊、海軍参謀長だった孫元一は一緒に李承晩の面前に呼ばれた。「これは一体どうしたことだ? まさか韓国陸軍および海軍参謀長は揃って金日成を助けるのか? 東海で太極旗をはためかせていた艦艇は行ってしまい、現在西海(黄海)上で星条旗をはためかせたゴムボートがまた北へ行ってしまった‥‥こんなことが続いてお話になるか?」 李承晩の話は一句一句とげを帯びていた。青瓦台から出た後、当時韓国海軍情報部総監の任にあった咸明洙が孫元一に、この件はきっと北朝鮮と関係があり、北朝鮮に対し報復作戦を実施すべきであるとたきつけ、かつ自分が自ら作戦を指揮する、とした。メンツを取り戻すため、孫元一はほとんど考えずにすぐ同意した。

この時、韓国海軍西海諜報部隊長李太栄少佐は偵察により、あのゴムボートが北朝鮮の夢金浦港内にあるのを発見し、ゴムボート奪回の最良の方案は夜の暗さに乗じて奇襲作戦を実施することだと提案した。孫元一はすぐに咸明洙に作戦計画を制定するよう命令した。作戦計画に基づき、咸明洙は自ら20名の特殊工作隊員を含む特殊作戦部隊を指揮し、かつ仁川警備部第1艇隊の6隻の艦艇を利用して援護作戦を行った。

1949年8月16日早朝、忠武公艦、統営艦および20名余りの特殊工作隊員からなる作戦部隊は仁川港を離れた。北朝鮮海軍の監視網をかわすため、韓国海軍は回り道をしてバイリン島南側と夢金浦の西側を航行し、17日に目的地に到着した。当日早朝5時頃、韓国海軍特殊工作隊員は5隻のゴムボートに分乗して夢金浦に向け猛然と突進した。めざとい北朝鮮海軍海岸歩哨所の隊員はすぐに彼らを発見し、北朝鮮海軍の勤務についていた戦士は機関銃を使って韓国特殊工作隊員の乗るゴムボートに向けひとしきり射撃した。この時、5隻の高速ゴムボートのうち4隻がエンジンに突然の故障が起こったため海上に停止し、1隻だけが岸辺に接近を続けた。

この時、北朝鮮海軍の増援兵力が駆けつけ、迫撃砲を使って海上に向け射撃を開始した。投錨していた4隻の韓国海軍ゴムボートは砲撃を受けて散り散りになり、ゴムボート上の特殊工作隊員は全て海中に落ちた。元々すでにもうすぐ岸に接近しようとしていたかのゴムボートは孤軍奮闘の状態で、ボート上の咸明洙は射撃しながら声を枯らし全力で隊員に突撃を命令していた。まさに彼が一心不乱に作戦を指揮していたその時、両足に弾が命中し、負傷してボート上に倒れた。この時、参戦してきた韓国海軍のJMS-302統営艦艦長孔正植が1隻のゴムボートに乗って岸辺に向かって航行し、重機関銃で北朝鮮軍を掃射した(頑住吉注:それ艦長がやるべきことですか)。彼が指揮する統営艦も岸辺に接近し始め、かつ艦上の強大な火力を動員して北朝鮮海軍の岸の上の射撃を制圧し、徐々に咸明洙のいる位置に接近した。その他の5隻の艦艇も激励を受けたように、急速に夢金浦の岸辺へ接近した。

だがこの時、北朝鮮海軍の数隻の警備艇も集まってきて、双方は海上で激戦を展開した。韓国海軍艦艇の火力の優勢がはっきりしていたため、北朝鮮海軍は明らかにやや衆寡敵せずで、激戦の中で4隻の警備艇が命中弾を受けて沈没し、5名の将兵が捕虜になり、海岸の歩哨所も重大な損傷を受けた。孔正植はこの機に乗じて部下を指揮し岸の上に対し偵察を行ったが、かのゴムボートを発見することはなかった。このことは多数動員されていた韓国海軍を大いに失望させた。だが孔正植らは対北朝鮮作戦はすでに勝利を得たと考え、引き返した。

孔正植らは陸上に戻った後、海軍上層部に向け極力自らの戦果を大げさに自慢した。このためゴムボートを持ち帰ることができなかったにもかかわらず、李承晩は参戦した将兵を表彰した。最も韓国人にとって意外だったのは、このゴムボートが1950年1月に最終的に韓国に戻ってきたことである。実はこの一切は、韓国海軍仁川警備部の安勝甲という名の伍長のやったことである。彼が無断で隊を離れ、ゴムボートを操縦し北朝鮮に行ったのは肉親に一目会うためだった。1950年春、彼はまたゴムボートに乗って帰国し、ソウルに秘密のうちに潜入し身を隠した。後に韓国海軍特務隊に逮捕され、刑罰を受けた(頑住吉注:よく分かんないんですけど、別のゴムボートで北に行って、帰る時はロバートのゴムボートに乗ってきた、ということでしょうか。ちょっと考えにくい気がしますが)。

韓国人から見ると、夢金浦での戦闘は韓国の歴史上初めて成功した対北朝鮮報復作戦であり、参戦者である特殊工作隊員を含む20名余りの海軍将兵で1人負傷しただけだった。この事件の発生は「6.25戦争」(頑住吉注:1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争)の直前だったため、朝鮮戦争の導火線の1つとも考えられている。アメリカ政府は当時直接李承晩に大騒ぎを惹起したことに対し警告し、李承晩に謝罪の声明を発表するのが最良だと要求したとされるが、李承晩は終始頭を下げることを承知しなかった。


 この種の記事を読むたび、李承晩の非常にくせのあるキャラクターが印象に残ります。

















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