湾岸戦争におけるソ連兵器完敗を振り返る

 その教訓は今日に通じる、ということです。

http://military.china.com/history4/62/20140116/18292273.html


湾岸戦争でソ連の武器完敗:イラクの第4の軍事強国との偽装暴かれる

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「地上戦の中で米軍によって撃破されたイラクのT-72戦車。2月27日に発生したあの大戦車戦の中で、米軍のM1A1戦車はゼロに近い代価をもって200両余りのイラク軍戦車を全滅させた。」)

1991年1月17日、湾岸戦争が勃発し、米軍は成功裏にイラク軍をクウェートから追い出した。湾岸戦争は冷戦終結後初めての局地戦争で、情報化戦争の始まりでもあった。20年後に再び振り返り、我々はイラクの戦前の社会形態、アメリカ・イラクの戦前の準備、空中戦力の作用、ソ連式武器の壊滅的敗北といった4つの角度から、この真の強国と偽の強国の勝負を分析する。

長期にわたり人々は、ソ連式武器を価格が低廉で、数で質の隔たりを埋め合わせることができると考えてきた。だが湾岸戦争の中で、ソ連性T-72戦車は同世代のM1A1戦車に惨敗し、このことは人々に別の啓示を与える。半導体工業の発展のおかげで、アメリカ式装備のセンサー方面における非常に大きな優勢が戦争の勝負を決定した。湾岸戦争はソ連式装備の神話の嘘を暴き、イラクの「世界第4の軍事強国」の偽の仮面もはいだのである。

ソ連製T-72惨敗の源は夜視技術の立ち後れにあった

湾岸戦争後、ソ連製T-72メインバトルタンクとアメリカ製M1A1メインバトルタンクの性能の対比はずっと人々の論争の焦点たる話題である。T-72の戦争中の一辺倒の壊滅的敗北に関し、非常に多くの人はその咎を米軍の絶対の空中の優勢に帰している。だが実際には、T-72とM1A1の夜視設備の隔たりは非常に大きく、火力コントロールシステムも不完全で、平坦な砂漠地形の上でM1A1によって圧倒的に打ち破られたのは正常なことに属するのである。

T-72M戦車、一方的な壊滅的敗北

湾岸戦争は空中戦力によって勝利が決定された戦争だが、100時間の地上戦の強度は第二次大戦後のその他の局地戦争と比べても全く遜色なかった。2月27日、バスラ以南において湾岸戦争中規模最大の大戦車戦が発生した。200両余りのイラク軍戦車が米軍第7軍の攻勢を阻止し、米軍の第1、3装甲師団と第2装甲騎兵連隊の800両の戦車が戦闘に参加した。

この大戦車戦の焦点はソ連製T-72Mとアメリカ製M1A1メインバトルタンクの勝負である。空中戦同様、米軍のM1A1戦車はゼロに近い代価をもって200両余りのイラク軍戦車を全滅させた。この種の一方的な戦況は、20年後の今日になっても依然軍事愛好家のインターネット上の論争の焦点たる話題の1つである。非常に多くの人はT-72MとM1A1は同様に戦後第3世代戦車に属すると考えている。T-72Mの機動性能、装甲防御能力、火砲の威力はいずれもM1A1にやや遜色があるが、全く殴り返す力がないほどではない、と。一体T-72の敗因はどこにあったのか?

あるいは答えは戦争の形態の変化に求められるかもしれない。ある戦車の総合的実力を評価する時、主に3大要素が考慮される。すなわち、機動能力、防御能力、火力である。だが機械化戦争の観念に制限を受けて、過去人々がある戦車の火力を評価する時、往々にして主砲自体の装甲貫通能力を過分に重視し、主砲の火力コントロールシステムを軽視してきた。

M1A1は夜視技術の優勢を持つ

米軍は湾岸戦争中、非常に大きな情報化の優勢を示した。M1A1戦車も同様で、この戦車が装備した熱成像装置は夜間あるいは煙霧条件下で1,500m以内の目標を識別でき、一方探知計測距離は3,000mに達した。イラク軍のT-72Mが配備したのは第2世代のスターライトスコープでしかなく、最大探知計測距離は800m、甚だしきに至ってはさらに短かった。戦闘中、M1A1は大多数の状況下で「先んじて発見、先んじて射撃」を達成した。戦後非常に多くのイラク軍戦車兵捕虜は、自分たちは砲口の火炎に向かって反撃するしかなかった、と回想した。このため、T-72MとM1A1の湾岸戦争における勝負は、まるで盲人と視力が正常な人の格闘であり、しかも視力が正常な人がやや強壮でもあったのであり、T-72Mの戦績ゼロの惨敗も不思議とするに足りないのである。

夜視設備上の隔たりが非常に大きかっただけでなく、T-72Mにはさらに完備された火力コントロールシステムが欠乏しており、レーザー距離測定装置のデータ獲得には火力コントロールコンピュータへの手動インプットが必要で、実際上「動対動」の射撃能力は持たなかった。この問題はT-72BMの出現になってやっと解決が得られたが、T-72BMのソ連軍への就役時期はすでに1988年のことだった。T-72の敗因はどこにあったのか? 敗因はセンサー、ないし火力コントロールシステム全体の上にあった。複雑な地形の上でなら、あるいは状況はやや良かったかもしれないが、1991年の中東の砂漠地帯においては、T-72MはM1A1に比べて1世代立ち後れた戦車に他ならなかったのである。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「イラク空軍が装備したミグー29戦闘機。ミグー29の機載レーダーは下を見る機能が欠乏しているため、結果的にイラク軍飛行員は多国籍軍戦闘機(例えばF-15のAPG63)のパルスドップラーレーダーも低空で自分たちをキャッチすることは不可能だと思った。これは彼らの先進的なレーダーに対する認識の欠乏の、1つの非常に具体的な表れである。」です。)

アメリカとイラクの飛行員の全く異なる戦場でのパフォーマンス

ソ連式装備はセンサー方面で立ち後れていたので、イラクの飛行員は先進機載レーダーに対する理解が不足し、湾岸戦争中レーダー制御誘導空対空ミサイルの攻撃に遭遇した時、依然低空飛行という古い方法を用いて回避を行い、結果的に米軍のために戦果を増やしただけだった。一方米軍飛行員は偶然前視赤外線装備で砂の下に埋めた戦車を発見できることに気付き、これにより「戦車射撃」(頑住吉注:「タンクシュート」ですかね)戦術を発明した。装備が先進的であるか否かが、両軍人員の戦場のパフォーマンスにも影響し、ソ連式装備がイラク軍の力の発揮を制限したことが見て取れる。

イラク飛行員の先進的レーダーに対する認識不足

ソ連の武器設計師の情報、センサー能力に対する重視の欠乏は同様に戦闘機上にも表れた。イラク空軍が米軍の優勢な空中戦力に対抗することが不可能で、戦果をあげることさえできなかったのも理の当然であるが、イラク飛行員が出撃の中で見せた情報装備発展に対する無知もまた深く考えるに値する。

米軍のレポートには次のように記録されている。イラク飛行員は普遍的に多国籍軍戦闘機のレーダーの追跡に対し正確な反応をせず、多国籍軍戦闘機の攻撃に遭った大多数のイラク飛行員がなした防御反応は往々にしてごく低い高度まで下降することで、彼らは多国籍軍戦闘機のパルスドップラーレーダーが低空で自分たちをキャッチすることは不可能だと確信していた。

米軍のF-15、F-16などの戦闘機はいずれも平板スロットアンテナを採用したパルスドップラーレーダーを装備しており、地上の雑電波を濾過することができ、完全な下視/下設能力を持っていた(頑住吉注:「下設能力」は検索してもほとんどヒットせず意味不明です)。ミグー29戦闘機に装備されるNO19レーダーもパルスドップラーレーダーであるが、下視能力は信頼できない。まさにこれが原因かもしれないが、イラク飛行員の間違った認識をもたらし、米軍戦闘機のレーダーによってロックオンされたら、高度を下げさえすれば地上の雑電波の援護を利用してレーダーのロックオンから脱し、したがってセミアクティブレーダー制御誘導のAIM-7空対空ミサイルの攻撃が回避できる、と考えたのである。

ソ連式戦闘機のレーダーなど情報装備上の立ち後れは、イラクの飛行員、ないし最高指揮当局に最新の軍事科学技術の正確な認識を獲得できなくさせ、結果的にイラク空軍が戦争中あるべき作用を果たさないという結果をもたらした。

米軍飛行員、成功裏に新型攻撃戦術を発掘

これに比べ、米軍サイドはずっと幸運で、先進情報設備が元々の計画任務をスムーズに完成し得ることを保証しただけでなく、飛行員の偶然の発見も新戦術の出現を促した。例えば、2月初め、もうすぐ日没という時に基地に帰投するF-111の飛行員が、「舗路図釘」(頑住吉注:知識ないもんで意味での訳なのか発音での訳なのかさえ不明)前視赤外線装置を利用して、砂の中に埋めて隠蔽された戦車、装甲車両を発見できることに気付いた。何故なら金属表面の冷却速度が周囲の砂地に比べて遅いからである。2月8日、米軍のF-111戦闘爆撃機の編隊は「戦車射撃」という名の新戦術の試用を開始した。F-111は4発の225kgのGBU-12レーザー制御誘導爆弾を搭載し、前視赤外線装置を用いて隠蔽されたイラク軍の単体の戦車を捜索し、破壊を行った。

すぐにこの戦術は同様に前視赤外線装置を持つA-6E、F-15Eにも拡大され、アメリカ国防省の報告によれば2機の16発のレーザー制御誘導爆弾を搭載したF-15E機が16両の戦車を破壊し、命中率が100%に達するということが何度もあった。ある捕虜にされたイラク軍将校は次のように回想した。対イラン作戦時は戦車はずっと兵士の友達で、砂漠の凍るように冷たい夜間、戦車は自分が敵の火力の傷害を受けないよう保護することができた。

だが「デザートストーム」空襲の期間、戦車は逆に兵士の敵となった。何故なら空中の飛行機が事前の警告の発せられない状況下で、甚だしきに至っては夜間にそれを破壊できたからである。このため兵士たちはすぐに戦車を放棄し、100m余り離れた戦闘壕の中に身を隠した。

アメリカ国防省の報告はこの戦術の創新を高度に評価した。「この戦術はアメリカ空軍将兵の創造性をはっきり示し、出色の人材が先進技術という錦の上にさらに花を添える1つの極めて良い例である。」と。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「資料画像:イラン唯一の早期警戒機。イラクから来たもの。1980年代後期にイラク自ら改造した結果であり、イラクはこれを「Adnan」と称した。イラクは全部で3機を改装し、このうち1機は1991年の湾岸戦争中に空襲によって破壊され、もう2機は22日(火曜)に損失したあの機を含め、戦争終結前にその他多くのイラクの飛行機と共にイランに飛んだ。」です。)

新技術が米軍に情報体系の優勢を建立させた

戦車に比べ、戦闘機というこの単体のプラットフォームにより重要だったのは、米軍が湾岸戦争の中にE-3早期警戒機、E-8戦場監視機を投入し、空中、地上の戦場の全面的な情報の優勢を建立したことである。1990年において、ソ連軍は自分ですらまだこの種の装備を全面的に装備しておらず、増してやイラク軍が装備することはあり得なかったといえば、あるいはこの種の装備の戦争の中での巨大な作用はある程度理解されるかもしれない。

E-3早期警戒機、米軍に全面的情報の優勢を建立させる

戦車に比べ、戦闘機というこの単一項目の装備により重要なのは、大型電子偵察機、早期警戒機など支援飛行機が、米軍に情報化の体系的な優勢を建立させたことである。例えばE-3早期警戒機は主にAN/APY-1型S周波数帯パルスドップラーレーダーを装備し、このレーダーの戦闘機に対する最大発見距離は400kmに達した。数千mの高度での巡航は、E-3に地球の曲面率の制限を突破させ、400km離れた敵サイドの奥地に対し全空域の探知計測を可能にさせた。

アメリカが出兵を決定した8月7日当日、アメリカ空軍第552空中コントロール連隊の5機のE-3空中早期警戒機は即サウジアラビアに出発し、8月10日にはサウジアラビア上空でパトロール任務の執行を開始した。「デザートストーム」作戦開始後、E-3早期警戒機はイラク・サウジアラビア国境でパトロール飛行し、イラクの戦闘機は飛行場から飛び立ったばかりで即発見され、米軍が落ち着き払ってて航路護衛戦闘機編隊を動員してイラク軍戦闘機に対し攻撃を行い、味方サイドの攻撃機編隊の安全を保護できるようにさせた。

E-3早期警戒機の作用はさらに、その米軍機群に対し行う空中管制にあり、イラク上空の数百機の多国籍軍戦闘機に衝突事故が発生しないことを確保した。戦争期間全体で、E-3は全部でのべ9万機の飛行を制御し、平均毎日のべ2,240機だった。

E-8戦場監視機はイラク軍に集結を難しくさせた

米軍は湾岸戦争中さらにE-8戦場連合監視機を投入した。E-3同様、E-8飛行プラットフォームもボーイング707旅客機が採用されていたが、それが装備するのはAPY-3レーダーで、このレーダーは主に広域活動目標監視指示模式(WAS/MTI)と合成開口/固定目標指示模式(SAR/FTI)を採用し、敵サイドの奥地100kmの地上移動目標が監視でき、あるいは敵サイドの固定目標の高解像度画像が得られた。

米軍の空襲の期間、駐クウェートイラク軍はかつて能動的にサウジアラビア国境の都市ハイジフに対し地上進攻を発動し、できるだけ早く米軍を地上戦に引っ張り込むことを希望した。イラク軍がハイジフを占領した後、多国籍軍は反撃を発動した。イラク軍は戦果を保持するため大規模な増援を展開した。だが1月30日夜間、まだクウェート国境内に集結していたイラク軍第3装甲師団と第5機械化師団の主力はE-8戦場連合監視機によって発見された。米軍はすぐにこの2個師団に対し大規模な空襲を発動し、それに対し重大な損失をもたらさせた。3機のB-52爆撃機の1回の打撃の中で、もう80両余りの車両が破壊された。人々は戦後統計を取る時に気付いた。イラク軍の戦術および戦略予備隊のあらゆる師団の中で、この2個師団の損失は、2月27日〜28日の戦車戦の中でアメリカ第7軍に包囲殲滅されたイラク第10および第12装甲師団のすぐ次だ、ということに。

ハイジフの戦闘が起きる前、イラクサイドはかつて、もし多国籍軍が空中の優勢を占めても、イラク軍は地上において依然作戦行動できると考えていた。だがハイジフの戦いの後、イラク軍の期待は即水の泡となった。イラク軍指揮官は、米軍の空中監視と打撃の下では、自分たちは充分な部隊を集結させ、それを必要な場所まで動かすことは全くできず、増してや有力な反撃を発起するのは論外だ、と気付いた。彼らにできるのは、壕の中に座って多国籍軍の進攻を待つことだけだった。

(頑住吉注:これより4ページ目。画像のキャプションは「スホーイー27戦闘機のN001火力コントロールレーダーは体積が非常に大きく、重量は550kgに達する。スホーイー27のサイズがF-15より大きいのは、主にレーダーの重量が軽減できなかったからであるが、N001レーダーの性能は決して出色ではない。」です。)

半導体工業とソ連式武器神話の崩壊

湾岸戦争は人々によって情報化戦争の始まりと定義付けられている。まさに技術的に先進的な各種センサーにより、米軍はきれいさっぱりとこの戦争に勝った。先進的センサーは西側の発達した半導体工業に源がある。だが事実として、ソ連の半導体研究の歩み始めは決して遅くはなかった。だが硬直化した計画経済体制ゆえに、半導体工業の発展は緩慢で、1980年代になるとソ連式武器が顕著に立ち後れ始める結果がもたらされた。

米軍の情報の優勢は先進的な半導体工業のおかげ

戦後、湾岸戦争は人々によって情報化戦争の始まりと定義付けられた。何故ならまさに前述したように、米軍の先進的なセンサー技術が、彼らに戦争中全面的な情報の優勢を獲得させたからで、熱成像装置はM1A1戦車に普遍的に敵に先んじた発砲を達成させたし、機載前視赤外線設備は砂の下に埋められたイラク戦車を発見できるようにさせ、E-3早期警戒機は飛び立ったばかりで依然上昇段階のイラク軍戦闘機を発見できた。この種の情報の優勢は戦争の形態に巨大な改変を発生させた。速度と火力を強調する機械化戦争を基礎に、情報化戦争は「敵に先んじて発見、敵に先んじて発砲」を加えたのである。

そして米軍の先進センサー技術である赤外線設備、レーダーの性能の向上は、集積回路などの半導体ユニットの性能の向上に頼ったものだった。西側の半導体工業の1970年代以後の急速な発展は、米軍先進軍用センサー技術のために工業的基礎を固め、一方ソ連の半導体工業が堂々巡りで前進しなかったことは、ソ連式第3世代主戦装備と西側との間に顕著な性能の隔たりを出現させた。

例えばスホーイー27とF-15という2機種の戦闘機の機載レーダーであるが、スホーイー27のN001火力コントロールレーダーの重量は550kgに達するにもかかわらず、典型的戦闘機目標に対する探知計測距離は110kmでしかない。一方F-15のAPG-63レーダーの探知計測距離は150kmを超え、重量はやっと221kgである。さらに重要なのは、APG-63レーダーの火力コントロールコンピュータの計算速度は毎秒4,000万回に達し、N001レーダーのコンピュータの計算速度は毎秒やっと17万回だということだ。このことはスホーイー27の多目標攻撃能力にも、F-15とで非常に大きな隔たりを生じさせている。

ソ連の硬直化した体制は半導体工業の立ち後れをもたらした

第二次大戦末期、軍用レーダーの発展はトランジスターの誕生を促した。西側の市場経済はこの種の新技術を民間用製品に使わせた。優れたものが勝ち劣ったものは淘汰される市場競争は、西側の半導体工業にトランジスターを基礎に集積回路を登場させ、マイクロエレクトロニクス部品の持続的グレードアップ、世代交代は、さらに一歩今日に至る情報産業の急速な発展を促した。

民間工業のこうした技術進歩は、また軍用電子設備、センサーの技術性能向上促進に戻ってきた。米軍が湾岸戦争の中で見せた情報技術の優勢は、市場経済が促進した工業技術の進歩の成果だったと言うことができる。

マイクロエレクトロニクス部品の人類社会に対する巨大な貢献は2000年に承認が得られ、トランジスター、レーザーダイオード、集積回路の3人の発明者は2000年度のノーベル物理学賞を獲得した。だが風刺的意味を持つのは、その中の1人の受賞者がまさに旧ソ連の科学者ルオース アーフェイロフだったことである。

ソ連はかつて先んじた前線の研究を持ったが、こうした研究成果は硬直化した計画経済体制ゆえに、西側のように高い効率で工業への応用とグレードアップができなかった。結果的に1960年代から、ソ連式装備が徐々に西側の同類製品に立ち後れ始め、隔たりは最終的に1980年代に顕著になる、という結果がもたらされたのである。

軍用装備領域がこのようであっただけでなく、半導体工業の立ち後れゆえに、1980年代になるとソ連の工業製品は国際市場で競争力が全くなくなり、主要な外貨獲得の収入は石油など自然資源の輸出となり、経済的に困った状況は最終的にソ連が1991年末に自ら解体するという結果をもたらした。ある人が過激にも、「ソ連の没落をもたらした元凶は半導体だ」と言うのも怪しむに足りない。1991年の湾岸戦争は、ソ連式武器の神話の崩壊を宣告し、同年末にソ連が解体した。これは決して簡単な偶然の一致ではないのである。

戦争の啓示

湾岸戦争の実質は、米軍が全面的に先んじたセンサー技術に頼って、ソ連式武器をメインとするイラク軍を完全に打ち破った、というものである。湾岸戦争はソ連式武器の神話の嘘を暴き、情報化戦争の来臨をも宣告したのである。

米軍の先進的なセンサー技術は西側の発達した半導体工業に源がある。ソ連の硬直化した計画経済体制は、自身の半導体工業が堂々巡りで前進しない結果をもたらした。ソ連式武器の発展、グレードアップも時代のテンポについていけなかった。ソ連装備をメインとするイラク軍は戦争の形態の改変すら意識することができず、このため湾岸戦争の中で「偽の強国」の本質がすっかりばれたのである。


 何だか社会主義の計画経済自体の批判みたいになってますが。現在アメリカと、ソ連式兵器の流れをくむ兵器が装備のメインである中国が戦ったらどうなるのか非常に気になるところです。中国も当然湾岸戦争の教訓を取り入れており、アメリカがほとんど犠牲なく中国軍を壊滅させることにはなるまいと思われますが、それでも格段の差が生じる可能性はあり、大差はないという可能性もあり、予測は非常に難しいでしょう。
























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