トンプソンサブマシンガン

 「Visier」2005年2月号に、ご存知トンプソンサブマシンガンに関する記事が掲載されていました。


ヘビー級の…

セミオートの、そしてその結果ピストル弾薬仕様カービンとして民間化された(これにより最終的にドイツでも許される)トンプソンモデル1927は騒然とした時代を思い出させる。

「そう、これでまさに若い頃の夢がかなえられた!」 予備役軍人は言った。VISIER編集者がライン川流域のLorchにあるシューティングレンジで、この長いトンプソンをバイオリンケースに似たキャリングケースから取り出したときのことである。これはWormsの会社Transarmsがアメリカから輸入したピストルカービンである。彼がこの銃とともに姿を見せるときはいつも、興味を持ったシューター仲間に取り囲まれる。そして皆が16インチバレルのせいで実に長いこの銃をいじくりまわし、「どうか今日もちょっと2、3発だけ撃たせてくれ」と頼むのだ。

 Kahr Arms社が「Auto−Ordnance Corporation」の古い社名で製造している、有名な、そして多くのハリウッドギャングスターフィルムで知られるトミーガンのセミオートバージョンは、もはやモダンなセルフローディング銃ではまったくない。重く、どっしりとした作りで、大部分のパーツはスチールからフルに削り出されている。伝統を重んじる銃器愛好家の気持ちを不快にする軽金属やプラスチックは使われていない。ストックは分厚いウォールナット材製であり、暗い光沢のあるスチールはバレルとレシーバーが徹底的に磨かれていることを示している。ガタやぐらつきはなく、使用者は分解時に全てがタイトにフィットして作動していることに気付く。その上トンプソンは尊敬すべき大口径の.45ACP弾薬を射撃する。オリジナルの10インチバレルと比べて並外れた長さのバレルは、アメリカの訓令における厳しい付帯条件に起因するものである。短縮したバレルつきの銃はアメリカにおいて現地の禁止規定に触れる。この「モデル オブ 1927A1」(そうレシーバー左面に表示されている)はセミオートのみで作動し、歴史的なM1921、M1928のようなフルオート機能はない。

 相違点はまだある。民間バージョンの内部メカニズムはクローズドボルトファイアで機能するよう変更されている。これはコッキング時、どっしりしたボルトブロックがオリジナルのように単純にその後部ポジションに留まり、トリガーを引いて初めて急速に前進し、弾薬をチャンバー内に装填した後すぐ点火する(オープンボルトファイア)、というものではないということを意味する。そうではなく、ボルトはホールドされずに再び前進し、内部でファイアリングピンのスプリングがコックされ、オリジナルには存在しないトリガーメカニズムのシアにホールドされる。トリガーはファイアリングピンをフリーにし、反動が作用してボルトを開放させる。

 トリガーを引く瞬間に前にがくんと動くものがないため、このトミーガンの新しい形はオリジナルより決定的に動揺が少なく命中精度よく射撃できる。内部の変更は、アメリカの銃器規制を行う役所であるATF(Alcohol,Tobacco,and Firearmsの略)にも、ドイツの連邦刑事局にも、市民による自由な購入に公式のOKを出させるという結果ももたらしている。

 というのは、その恐ろしげな外観にもかかわらず、このトンプソンバージョンには全ての「戦争銃性質」が欠けている(頑住吉注:カギ括弧内はドイツにおける銃器法の用語のはずですが詳細は不明です)。そしてこの銃は、はめあいが異なるという理由で(全ての幻想の予防を図るために書くが)、オリジナルのグリップフレームあるいは他の処置によって再びフルオートの「弾丸噴射機」に戻すこともできない。つまりこのトンプソンはこれまでわずかな銃器バリエーションしかなかったピストルカービンの競技に使うことができる。いわばヘビー級の代表選手として。これは使用弾薬にも銃自体の重量にもあてはまることである。

回顧
 第一次大戦の終わり頃、ドイツ陸軍首脳部は西部戦線において、小規模で急速に進撃する突撃部隊を伴う新しい戦術的コンセプトを試みた(頑住吉注:この記事を書いている2人のうち1人は「Visier」編集長David Schillerですが、いかにもこの人らしくまたしても「この銃のルーツはドイツ」という話が始まりました。まあ別に嘘じゃありませんからいいんですけどね)。その武装には軽量な、しかし火力の強い9mmパラベラムマシン銃も含まれていた(頑住吉注:マシーネンピストーレではなくマシーネンバッフェという言葉が使われています。ちなみにこの銃は決して軽量とは言えないと思うんですが。ライフル弾を使用する機関銃と比べてということですかね)。初期にはこの銃はまだ「ベルグマンマスケット」と呼ばれていたが、すぐドイツ陸軍内でこの銃はピストル弾薬を使用することに基き、タイプ名称MP18を持つマシーネンピストーレとのみ呼ばれるようになった。この銃は決してこのタイプにおける最初の銃ではない。この名誉はイタリアのVilar Perosaに与えられて然るべきである。しかしHugo Schmeisserによる開発の戦術的成功がこの銃器カテゴリー全体のさらなる技術的道のための基礎を築いたのである。第2に構造方式と使用コンセプトから、この銃は当時におけるサブマシンガンの典型的な代表者だった。これに対し、トンプソンサブマシンガン、別名トミーガンは第一次世界大戦ではもはや使用されなかった。その量産は終戦から3年後になって初めて開始されたのである。

 だが、John Taliaferro Thompson准将(頑住吉注:ミドルネームは初めて知りましたがイタリア系ですかね)は自分の会社「Auto−Ordnance Corporation」(AOC)をすでに1916年に設立しており、これはアメリカの第一次世界大戦参戦の1年前だった。トンプソンは1914年11月に年金をもらって退職していた。しかし彼はEddystoneおよびBridgeport所在のレミントンアームズコーポレーションの顧問として、そして指導的な技術者として働いていた。彼は出資者Thomas F.RyanとともにこのときAOCを、オートマチックライフルを製造するという目的で設立した。これはアメリカの兵士の攻撃および防御時に火力戦術的優越を確保することを意図したものだった。しかしいくつかの試作品はこのプロジェクトを決して現実のものとはしなかった。これに対しオートーディナンスの技術者Theodore H.Eickhoff、George E.Goll、Oscar V.Payneは、彼らのボスのアイデアをはるかに実際的な方法に変えた。ライフル弾薬.30-06の代わりに現用のアメリカ公用ピストル弾薬である.45ACPを使うことによってである。トンプソンはこれにより彼の速射ライフルをブローニングオートマチックライフルと違い、いつでも全備重量10ポンド以下に留めるという夢を抱いた。

 短い.45口径をもってすればこれは充分に可能だった。最初の8挺の試作品はオハイオ州Clevelandの作業場で誕生した。これらはエンプティ状態では3,200gしかなかった。だがこの銃にはまだどんな照準設備も木製ストックもなかった。通常トミーガンの場合ブナ材製ストックだけで1ポンド加えた。それでも1920年8月、トンプソン将軍はアメリカの射撃協会であるNRAのCamp Pennyで行われる毎年恒例の大イベント、ナショナルライフルマッチで彼の発明を初めて専門家界に発表し、驚かせた。彼はヨーロッパの陣地戦で「trench broom」すなわち塹壕箒と言い換えられたもののいまだ強い印象に無頓着で、この銃は前後の斜めのピストルグリップで保持する形式だった(頑住吉注:MP18のようなライフルに似たストックの方が塹壕戦では有利ということなんでしょうか。いまいち分かりません)。射手は銃を腰の上で支え、自分の選択でトリガーを引く限り単発射撃もできた。だが銃の左側にある一種のスイッチを切り替えた後は、フルオートで弾薬がなくなるまで射撃を継続できた。発射速度は理論上1分1000発以上だった。Camp Pennyの観衆の前で発射音は強烈な、持続する雷鳴のように聞こえた。マズルの前には印象的な「火の槍」が出現し、レシーバー右側のエジェクションポートからはきらめく薬莢が日光の中で飛びながら舞い踊った。

 1年後、ニューヨークのブロードウェイに所在するオートオーディナンスコーポレーションはコルトで製造された最初の量産銃、モデル1921A1を発表した。.45ACPの使用により、メーカーはアメリカの公用マーケットも、民間マーケットも狙っていた。というのは、当時アメリカではフルオート銃器の獲得に、まだ国による制限がなかったからである。そうでなくても前線から帰郷したアメリカのヨーロッパ派遣部隊の兵士は大戦からの土産、例えばガバメントやルガーピストル、「Pickelhauben」(頑住吉注:当時ドイツで使われていた、てっぺんにスパイク状突起のあるヘルメットを指すそうです)をできるかぎり持ち帰り、アメリカの政府はさしてこれを気にかけていなかった。多くの古参兵クラブはモーゼル対戦車ライフルさえ壁に目立つように飾っていたし、ロビーにはしばしば印象的なマキシムMG08もソリつき銃架ごと雑然と置かれていた。

 だが、そのような銃器の過剰状態は購入者の不足をもたらした。アメリカは当時ちょうど平和状態にあたって陸軍を再び縮小していた。結局のところ、あらゆる理性的な人はちょうど終わった戦争を、いつの時代も飛び交う言葉、「全ての戦争を終わらせるための戦争」と言い換えていた(頑住吉注:要するに第一次大戦終戦によってもう戦争の火種はなくなったのだから強力な軍隊は不要だと考える人が多かったということですね)。不穏な1920年代になって初めて、重大な経済危機および禁酒法時代が需要をもたらした。

 1929年2月14日におけるいわゆる「聖バレンタインデーの虐殺」の犯行に使われたとき、アル・カポネのギャング戦争において、あるいはジョン・デリンジャーの武器庫の銃として、トミーガンは「シカゴタイプライター」としていかがわしい名声を得ることになった。しかしトンプソン将軍の弾丸噴射機は、程度の差はあれ他でも本物の主要な役割を経験した。それはたいていは実に楽しい選り抜きの犯罪映画の中でであり、これによりハリウッド(当時まだロサンゼルスのベッドタウンだった)の映画会社はその最初の精神の高揚を始めたのである。

 事実はといえば、トンプソンが現実に犯罪に使われたのはひとにぎりの札付きの重罪人によってだけである。犯罪者の大多数にとって175ドルのサブマシンガンは単純に高価すぎ、またたいてい扱いにくすぎでもあった。銀行強盗や他の種類の襲撃のためには、安価な散弾銃、あるいはコルトピストルで足りた。コルトピストルは1920年代当時16ドル以下しかしなかった。

 だが、法の番人は新しい銃器タイプの火力に信頼を寄せた。1930年代半ば、オートオーディナンスコーポレーションはすでに何ダースもの大きな都市警察および保安官事務所に何百のサブマシンガンを供給していた。そして1930年代初めに設立された連邦警察FBIがついに武装することになったとき、俗に「Gメン」と呼ばれる彼らの基本装備にはトミーガンが含まれていた。トンプソン「サブマシンガン」と公式に呼ばれたこの銃は1970年代終わりまでもFBI支部の銃器庫の基本武装となり、そしてQuanticoにあるFBI訓練アカデミーに留まることになる。

モデル発展
 最初の試作品はまだ「Annihilator」(根絶者)の名前で開発が進められていた。バージョン1はベルト給弾システムさえ持っていた。バリエーションUおよびVはマガジンを持ち、後にこのサブマシンガンの非常に典型的な外観上の特徴になる冷却リップをバレルにすでに示していた。20発棒状マガジンとならんで、Oscar Payneは時計の機械装置のようにぜんまいを巻ける100発用ドラムマガジンをデザインした。これは「タイプC」と命名された。後にはハンディな50発マガジン(「タイプL」)が加わった。1920年4月、このバリエーションはアメリカ陸軍のテストを修了し、夏には海兵隊がトンプソンの開発品に興味を持った。この最初のテストの肯定的なレポートを得て、トンプソンサブマシンガンの量産がスタートした。そのレシーバーとメカニズムはまだコルト社によって製造されていた。サイトはLyman由来であり、グリップとショルダーストックはレミントンのものだった。ファーストジェネレーションは追加の「A1」が付属した「モデル オブ 1921」と名付けられ、1分間に800発の発射速度、100発ドラムマガジン、600ヤード(1ヤードは91.44cm)まで調節できるプレシジョンサイトを持っていた。

 代替案として20発棒状マガジンがあった。内部の本質的な部分は、摩擦に基くチタンアルミニウム-ブロンズ合金製のH字型遅延エレメント、Blish閉鎖部品だった。これは海軍司令官のJohn Blishの発明で、彼はトンプソン、Ryanとならぶオートオーディナンスの第3の共同経営者だった。

 最初の顧客として、M1921A1の15,000挺の最初の注文がニューヨークポリスデパートメントから見込まれた。だが、非常に短時間でこの銃はネガティブな評判を得た。495挺がハドソン川で発見され、この供給の荷受人は周知の地下運動Irish Republican Army(IRA)だったのである。1921年にIRAから没収された初期モデルのこれらM1921A1は、トンプソンコレクターの中で「Irish Swords」として伝説的な名声を得、世界中に散らばった。

 トンプソンはそのデザインをさらに研究した。1923年、14.5インチ(1インチは2.54mm)バレルおよびバイポッドつきバリエーションが現れた。1922年からは別の戦術的バージョンが提供された。これはPeters−Thompson散弾弾薬仕様の警察および逮捕公務向けだった。この銃は特殊な18発マガジンだけを使用し、その弾薬はアメリカの散弾サイズナンバー8を150粒含んでいた。

 同時にトンプソンは250グレイン(16.2g)弾とノーマル型の10インチバレルから440m/sの初速を持つ強化された.45口径弾薬に取り組んだ。だが、命中精度が不良だったので、このプロジェクトはすぐ放棄された。比較すると、230グレインフルメタルジャケット弾を持つ当時のレミントン.45ACP弾薬は、コルトピストルから発射した場合246m/s前後であり、トミーガンから発射した場合は約280m/sだった。当時のテストレポートによれば、トンプソンをシューティングマシンに固定した状態で、100ヤードからのグルーピングが48mm、200ヤードからは125mmだとしている。500ヤード、つまり457mの距離からでもなお、全ての弾が半径52cm内に着弾した(頑住吉注:これなら数発撃ちこめば敵を倒せる可能性が高そうにも思いますが、元々低速の.45ACPはこの距離を飛んだ後果たしてどれだけの効力を残しているんでしょうか)。

 1926年以後アメリカ海軍と海兵隊は再びこのサブマシンガンの限定数の購入に興味を持ちはじめた。海兵隊に行った新しいテスト銃にはマズルにカッツコンペンセイターがついていた。これは海兵隊中尉の発明によるものだった。そしてM1921の後に追加名称A1Cがついていた。エジェクターが異なり、前のピストルグリップを単純なハンドガードに変えたバリエーションにメーカーは新しいモデル名称M1928A1を与えた。この銃は限定数が海軍に行き、これにはカッツコンペンセイターがあるものとないものがあった。そして1927年には初めてのセミオート型が試みられた。だが需要不足により量産には至らなかった。というのは、これら全ての努力にもかかわらずトンプソンサブマシンガンの販売は滞っていたのである。だが、海軍は1925〜33年におけるニカラグア出兵における彼らの弾丸噴射機に関する赤熱したレポート(頑住吉注:「激賞した」といった意味でしょう)を送った。しかし1938年までにコルトで製造された最初の量産品は10,300挺が売れただけだった。それでもこの年、この銃は最終的にアメリカ陸軍においてM1928A1として公的ステータスを獲得した。

 しかしそうこうするうちに会社に危機が訪れた。共同設立者であるThomas Ryanは1928年に死に、彼の相続人はこの会社に興味を抱かず、この結果最終的に1940年8月、Russel Maguire社が会社の経営権を獲得した。これはトンプソン将軍の死から2ヵ月後のことであり、彼は自分のアイデアの成功を享受することはもはやできなかった。というのは、ヨーロッパで勃発した戦争により、このときこのビジネスがブームを迎えたのである。イギリスとフランスは1939年11月の段階ですでに何千挺ものサブマシンガンを注文していた。1941年8月までに318,000挺が209ドルの価格で供給された。Maguireはコネチカット州Bridgeportに工場を設立した。Uticaのサベージアームズはライセンス権を得、Bridgeportの工場と全く同様に1ヶ月に約90,000挺のサブマシンガンを製造した。このとき戦争の圧力下で徐々に銃の単純化が行われた。

 最初の策としてMaguireは1941年11月に14のパーツからなる上下左右に調節可能なLymanサイトを削除した。その場所にはプレス打ち抜き鉄板をL字型にしたリアサイトが取り付けられた。これには100ヤード用のピープと200ヤード用のノッチがあった。この頃長い30連マガジンがマーケットに導入された。次に閉鎖機構が単純化された。スプリングが付属したセパレートのファイアリングピンとBlish閉鎖器がこのときより単純な固定ファイアリングピンを持つ重量閉鎖に変えられた。これにはメインスプリングしかなかった。カッツコンペンセイターも冷却リップ同様にとりやめられ、このニューモデルは1942年4月にM1(10月以後アメリカ陸軍ではM1A1と呼称)として登場した。

 M1928の製造は最終的に1943年始めに終了した。ひっくるめて1939年の開戦からなお563,511挺が作られた。しかしニューバージョンのM1およびM1A1は1944年までに正確に824,623挺が工場から送り出された。ついにこの銃のコストは45ドルにまでなった。この後生産は中止された。アメリカ陸軍はこの間により安く、軽いプレス鉄板製サブマシンガンの採用を決めていた。これがM3である。この銃はその外観から「グリースガン」とも呼ばれた。トンプソンはアメリカ軍ではベトナム戦争終了まで現役に留まり、例えばトルコのような他の国では1980年代までなお使用された。

コレクターズアイテム
 1928系オリジナルおよびM1A1は1945年以後溶接され、デコガンとして非ミリタリー化された。良好に維持された1921系オリジナルおよび1928系シリーズの価格はアメリカで25,000ドル以上である。一方ドイツにおいては役所による新しい定義にのっとった無可動デコトンプソンはバージョン次第で350ユーロ(M1A1)から850ユーロ(M1928A1C)の間である。

 トランスアームズが供給し、BKA(頑住吉注:連邦刑事局)が承認を与えたM1927による射撃の楽しみのためには約1600ユーロ支払うことになる。単純化された(上下のみ調節可能)Lymanサイトを備えたこの銃は、砂袋に委託した射撃姿勢から、提供された全てのフルメタルジャケット弾薬種類を使って50mから難なく5発グルーピングが40〜65mmの間に収まった。喜びの中の唯一の問題点は約170発射撃後に起きたトリガー領域の中のシアの故障だった。これはトリガーの作動を時々阻んだ。原因は大きすぎる遊びだった。しかしこれは作業場ですぐに直せた(頑住吉注:直接関係ないでしょうが、昔私が買ったMGCモデルガンにも遊びが多すぎてトリガーを引いたのにボルトが前進しないトラブルがあったことを思い出しました)。

 アメリカおよびヨーロッパでは何十年も前から非常にさまざまなトンプソンサブマシンガンの戦後製造モデルが出没している。すなわちNumrich社あるいはその後身、そして現在Kahrの指揮下でも製造されている製品である。Auto−Ordnance( http://www.auto-ordnance.com/ )の現在の供給プログラムは、アメリカにおけるATF登録所有者向けフルオートバリエーションとならんで、フォアグリップつきモデル1927A1、スチール製およびアルミレシーバー(Cバージョン)、「コマンド」と呼ばれるパーカライジングバージョン、単純なハンドガードつきバージョン、全てのセミオートモデルを含んでいる。これと似て単純なM1ピストルカービンにも2つのバリエーションが存在する。スチール製M1と軽金属レシーバーつきM1Cである。

 オートオーディナンスは同様に旧型の50発系Lタイプドラムマガジンも製造している。しかしキャパシティは制限され10発しか受け入れない。つい先日まで略称「Assault Wepons−Ban」で法的に定められていたからである。現在SHOT Showで新たな最初のポストBanマガジンが発表されたところである。オリジナルのドラムマガジンは高価である。コレクターはLタイプ向けに約500ドル払う。100発マガジンはずっと高価である。第二次大戦当時のオリジナルの5個入りマガジンポーチでさえすでに100ユーロにまでなっている。神話には金を払うべきである…。

将軍の遺産(囲み記事)
 John T.Thompson准将(1860〜1940)はWest−Point(頑住吉注:何のことかと思って検索しました。ここが分かりやすそうです。 http://plaza.rakuten.co.jp/armyrotc/2001 )の卒業生であり、砲兵だった。1890年からは陸軍兵器廠で任務に就いた。彼はM1903スプリングフィールドライフルの開発とM1911ピストル採用に向けたテストに重要な立場で参加した。1914年、彼は年金をもらって引退し、1917年のみ統合幕僚長として歩兵兵器の戦争に向けた生産とATF向け兵器の補給を監督した。レミントンアームズカンパニーのChester工場が開戦時にアメリカの弾薬.30-06仕様のイギリス製エンフィールドパターン1914をM1917として生産できたことに関し、軍は彼のイニシアチブのおかげをこうむっている。トンプソンはトミーガンに専念する前、コルトとともに終戦の頃、.30-06および.276ペーターゼン弾薬仕様のセルフローディングライフル20挺を部隊テストのために製造した。需要不足のため1945年以後経営が思わしくなかったオートーディナンスコーポレーションは1951年に所有者が変わった。すなわち、Numrich Arms Corporation(NAC)のGeorge Numlichは1967年頃までトミーガンを供給し続けた。これは古い部品から組み立てられたものだった。1970年、ニューヨーク州West Hurley出身であり、以前はNACの従業員だったIra Trastがオートオーディナンスコーポレーションの権利を獲得し、1975年に民間マーケット向けにセミオートバージョンであり16インチバレルを持つM1927A1の製造を始めた。彼は.22口径型も開発した。マサチューセッツ州WorcesterのKahr Armsは1999年2月1日にAuto−Ordnance Corporationを再建した。

メーカー:Kahr Arms Co.、Auto−Ordonance Corporation(マサチューセッツ州Worcester)
名称:M1927A1セミオートマチックカービン
システム:クローズドボルトファイア。リコイルローダー。セミオートマチック。
使用弾薬:.45ACP(11.43mmx23)
銃身長:コンペンセイター含め485mm
全長:1015mm
マガジンキャパシティ:30発
重量:5650g(エンプティ)


 この銃は非常に有名なので詳しく知っている方も多いと思いますが、私はあまり詳しくなかったので興味深かったです。
 軍で重要な立場にいて有名な軍用銃のテストに参加し、その後引退して自分の会社を設立して自動銃の開発に携わった他、一流メーカーでも技術者として働いた、という経歴は先に紹介したジョンソンとやや似ています。というかむしろ開発者はこういう人である方が普通で、M1カービンのようなケースが特異であるわけですが。
 トンプソンといえば真っ先にギャング映画を思い出しますが、実際は価格がコルトピストルの10倍以上で重くかさばるこの銃を使う犯罪者はごく少なかったというのもなるほどと思いました。これは言ってみれば西部劇といえば登場人物がコルトSAAを持っているとか、ちょっと違うかもしれませんが岡っ引きといえば十手を持っているというような史実とは違う映画のお約束みたいなものであるわけですね。
 遠距離射撃能力や命中精度(ただし銃を機械的に固定した場合ですが)も想像以上だということが分かりましたし、軍の要職にあった人物の会社だからということなのか初期にはコルトなどの一流メーカーが各部の製造を担当したこと、戦時中はサベージも生産を行ったことは全く知らないことでした。
 現在ではロングバレル、クローズドボルトのカービンが生産され、アルミフレームバージョンもあってドイツでも人気が高いということです。紹介されているオートーディナンスの公式サイトを見るといかにも歴史ある会社のように見えますが、実際にはスチールフレームの比較的コンパクトな9mmパラベラムオートなどで知られるKahrが最近(たぶんイメージ的な理由で)新しく設立した会社であり、昔のメーカーとの連続性はほとんどないようです。
 実戦での使用状況や評価といった部分にほとんど触れられていないのはちょっと残念でした。






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