台湾、イエメン内戦に介入

 「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20150401/19453613.html


台湾、かつて南北イエメンの衝突に参加:サウジアラビアの軍服を着て北イエメンを「助ける」

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「台湾軍飛行員は1960年代に非常に豊富な戦闘経験を持ち、中東の飛行員の養成訓練任務に対応するのは余裕綽々だった。これは台湾空軍とサウジアラビアの同じ機種のF-100『スーパーセイバー』戦闘機」)

ヨルダン・サウジアラビア合同の兵を借りたいとの申し出を蒋介石は婉曲に拒絶

1962年11月4日、台湾「外務省」は突然台湾駐ヨルダン「大使館」の「極めて緊急にして秘密」との表示がある電報を受け取った。電報の内容は台湾当局をびっくり仰天させた。実はヨルダンとサウジアラビアの国王が合同で台湾に向け助けを求め、台湾が空軍人員を派遣して北イエメン王室の作戦を援助することを希望していたのだった。万里のはるかにあるヨルダンとサウジアラビアは何故突然台湾から兵を借りようとしたのだろうか? 一切全ては北イエメンの事変から語り始める必要がある。

イエメンはアラビア半島の西南部に位置し、3,000年余りの歴史を持つ古い国である。16世紀初め、イエメンはオスマントルコに属する地に身を落とし、オスマントルコの衰退と共にイエメンはまたイギリス植民者の身分不相応な目標となった。1914年、イギリスはトルコを強迫して「イギリス・トルコ条約」に署名させ、イエメンを南北の部分に分け、かつ1934年に南イエメン奪取を強行し、この土地に後日の衝突の種を埋めた。1918年、北イエメンは独立を宣言し、ムタワッキリヤ王国を建立した。1962年9月26日、アブドラ サラールをトップとする「自由将校組織」が革命を発動し、北イエメンを統治すること44年のバドル王朝を転覆させ、アラブイエメン共和国を成立させた。バドル王朝の王侯貴族たちは慌ただしくサウジアラビアやヨルダンに逃亡し、庇護を求めた。こうした逃亡者に直面し、サウジアラビアやヨルダンの王室は不安で気が気でなかった。当時アラビア半島には革命の波が巻き起こっており、彼らは自らが次の革命の対象となることを恐れたのだった。このため彼らは北イエメン王室を庇護するのと同時に、積極的に北イエメン王室の復帰を画策しもした。だがサウジアラビアとヨルダンの実力はこのような任務に対してはあいにくと意気込みはあっても力不足だった。両国には多くの先進的なアメリカ製戦闘機があったが、技術的に厳しい試練に耐える本国の飛行員が欠乏し、アメリカの飛行員を雇用するのもまた両国は信用できないと考えた。どうしようか? 彼らは台湾当局を想起した。当時台湾は両国の「友邦」でもあったし、また多くの経験豊富な飛行員を有し、確かに理想的な助けを求める対象だったのである。

そこで、ヨルダン・サウジアラビア両国は台湾当局に向け、台湾が戦闘機飛行員と地上勤務人員を派遣し、専門にサウジアラビア空軍のアメリカ製F-86「セイバー」式戦闘機の操縦と維持保護を担当させ、北イエメン王室軍の進攻行動のために航路護衛を行うことを希望する旨提示した。財布がパンパンな石油富豪たちはさらに、台湾当局の提示価格がどれだけでも自分たちは受け入れ可能であると提示し、また外界に対する厳密な秘密保持も承諾した。ヨルダン、サウジアラビア両王室の請求に対し、台湾当局はすぐに緊急会議を召集開会して討論した。台湾「外務省」は、ヨルダンとサウジアラビアはずっと「友邦」で、しかも北イエメン王室は国連の代表権問題の上でも台湾と「積極的に友好に」しており、このため彼らの要求を拒絶するのは好ましくないと考えた。台湾「国防省」も賛同を表明し、出兵は台湾の対外的軍事協力を促進し得るだけでなく、しかも台湾軍飛行員の戦闘経験を増やせると考えた。だが、中東情勢は非常に複雑であり、もし台湾の人員の身分がひとたび暴露されたら、台湾を非常に不利な立場に陥れることになる、とする人もいた。蒋介石に報告がなされ、彼はあれこれ考え、最終的に婉曲に両国の台湾が直ちに出兵するよう要求する提案を断った。だが彼は人員を派遣してヨルダン、サウジアラビア両国空軍の状況を調査し、以後の出兵のために準備をすることは可だとし、このため台湾はさらにわざわざ「天祥計画」を制定した。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「サウジアラビアは1990年になってやっと中華人民共和国と国交を樹立し、それまではずっと台湾当局と『国交ある国』だった。画像は1955年における馬歩芳(左端)と国民党駐サウジアラビア大使の和鳳山。また蒋介石は1957年8月に馬歩芳を駐サウジアラビア「大使」に任命した。(画像のソース:資料画像)」です。というかこれでは馬歩芳っていったいどんな人なのか分からんので検索してみるとWikipediaに項目がある有名な人物で、かなり波乱に富んだ人生を送った人だったようです。)

ヨルダン飛行員の養成訓練を口実に台湾空軍、ヨルダンに飛ぶ

ヨルダン、サウジの要求を婉曲に断った後、台湾「国防省」は秘密裏に空軍少将楊紹廉(変名は楊猛)、空軍本部技術審査チーム長で空軍上佐の冷培樹(変名は冷静)、第二修理補給大隊副大隊長で空軍上佐の 李文忠(変名は 李国強)の3人を派遣しヨルダンに調査に行かせた。この3人はいずれも台湾空軍の精鋭で、このうち冷培樹は空中格闘経験が豊富で、かつて1958年の大陸の空軍との空戦の中で、1機の殲ー5戦闘機に損傷を負わせていた。彼らの任務はヨルダン、サウジアラビア空軍の状況および中東情勢を理解し、以後のあり得る軍事援助のための道ならしをすることだった。

3人がヨルダンに到着してほどなく、中東情勢にまた変化が発生した。北イエメンに革命が勃発するのを見てアメリカは我慢できなくなり、その中東における利益を保障するため、アメリカは大急ぎでサウジアラビアに向け3個中隊のF-100「スーパーセイバー」戦闘機を派遣したのである。アメリカの支持を得て、ヨルダンとサウジアラビアももはや台湾の助けを必要としなくなった。そこで台湾の「天祥計画」はこれと共に打ち切られたのである。

「天祥計画」は実施されなかったが、それは双方の以後の軍事協力のために伏線を張った。ヨルダン、サウジアラビア王室は一方においてはこの時の台湾を「裏切った」ことに対して心にすまないという気持ちがあり、一方においては確実に飛行員の養成という方面で台湾台湾を求めてもいた。両国は徐々に台湾軍との往来を強化していった。1966年、ヨルダン空軍代表団が台湾を訪問し、台湾空軍の演習を視察した後、ヨルダンの人員は台湾空軍にヨルダンの飛行員を訓練してもらいたいという要求を提出した。

国際社会の注意を引き起こすのを避けるため、ヨルダンの軍事人員の多くは最初から外交人員あるいは普通の旅行客の身分をもって台湾に到着し、台湾軍基地入りして秘密の養成訓練を受けた。この種の訓練方式は確かに秘密保持はできたが、台湾は面積が狭小な海の島であり、中東地域の面積の大きな砂漠地形とは全く異なり、訓練を受けたヨルダンの飛行員は帰国後国内の環境に適応し直さざるを得ず、訓練効果は避け難く大きく割り引かれることとなった。そこでヨルダン政府に再三要求され、1974年に台湾空軍は2名の空軍上佐を派遣してヨルダンに行かせ軍事顧問と高級戦術教官を担当させた。翌年、台湾軍はまた軍事教練チームを派遣してヨルダンに駆けつけさせ、戦闘機の基本戦術訓練教学を行い、同時に地上勤務人員も続々と続いた。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「イエメンロイヤルエアフォースのミグー29戦闘機は当時イエメン最精鋭の空中戦力だった(画像のソース:資料画像)」です。)

サウジアラビア、再度兵を借りる請求を提出 台湾軍、秘密裏に南北イエメンの武装衝突に介入

台湾の教官が熱意に満ちてヨルダン空軍を訓練している時、サウジアラビアが再度訪ねてきて、かつより驚くべき要求を提出した。台湾が北イエメンに向け軍事援助を提供するよう請求したのだった。10年あまり前、サウジアラビアはかつて積極的に北イエメン政府の転覆を画策したが、今何故自らの昔の敵を助けようというのだろうか? 実は1967年に南イエメンがイギリスの植民統治を離脱し、独立を宣言した後、徐々に社会主義陣営に向け接近したのだった。1970年、南イエメンは国名をイエメン民主人民共和国と改め、正式に社会主義の道を行くことを宣言し、かつソ連の支持を獲得した。これより南北イエメンは米ソが世界の覇権を争う重要な勝負の場所となった。

国家の間に恒久的な友はなく、あるのはただ恒久不変の国益である。サウジアラビアにとって、社会主義革命の脅威はイエメン政府のそれに比べはるかに大きかった。加えて北イエメン政府もサウジアラビアに対し、サウジアラビア王室を転覆させる行動を支持しないと承諾した。そこでサウジアラビアと北イエメンは同盟を結んだ。ちょうどこの時、南北イエメンに絶えず国境衝突が勃発し、南北イエメンの上空には急速に戦雲が密にたれこめた。サウジアラビアは北イエメンに向け大量の金銭を提供するのと同時に、さらに軍事援助を提供しようとしたが、サウジアラビア自身軍事的実力が限られ、このためまた台湾を想起したのである。

サウジアラビアの請求に対し、この時台湾の反応は非常にポジティブだった。実はこの時台湾はまさに空前の「外交」的難局に直面し、国連の席を失っただけでなく、「国交ある国」も次々に台湾を捨てて去っていた。サウジアラビアとの「国交」を維持保護するため、台湾当局は当然相手を怒らせることは望まなかった。そこで台湾は軍事援助計画を緊急に制定し、そのコードネームは「大漠計画」だった。1979年から、台湾は毎年必ず100名余りの空軍飛行員と地上勤務人員を派遣し変名でサウジアラビアに行かせた。こうした人員はサウジアラビア到着後、さらにサウジアラビアの軍服に着替え、しかる後にサウジアラビア軍人の身分をもって北イエメンに行って活動し、あるいはサウジアラビアで養成訓練業務に従事した。1990年の中国・サウジアラビア国交樹立直前になって、やっと「大漠計画」にピリオドが打たれた。

客観的に言って、南北イエメン軍事衝突の中で、こうした台湾軍飛行員は北イエメン空軍の実力を非常に大きく増強させ、結果的に空中の優勢を奪取した。台湾軍の養成訓練を経た北イエメン空軍は1994年に勃発した南北イエメン内戦の中で重要な作用を発揮し、北サイドの政府が内戦の勝利を得るのを助けた。一部の研究者は、台湾が大規模に、長時間にわたって北イエメンを援助したことをアメリカはとっくに知っていたかもしれないと疑っている。当時米ソは国際的影響を嫌っていずれも直接的に南北イエメンの衝突に手出しすることを好まなかったため、アメリカは台湾の南北イエメン衝突への介入に対し、思い切って「片目を開き片目を閉じる」の態度を取った、と。別の一部の学者はより大胆に、アメリカが直接、台湾が中東の第三国に出兵する行動を画策したと推測している。


 今も内戦と外国の軍事介入が続いているイエメンですが、さすがにもう現場に台湾による訓練を受けた飛行兵はいないでしょうけど訓練、戦術などの面で台湾空軍式のなごりは残っているかもしれません。














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