北朝鮮特殊部隊による韓国大統領府襲撃未遂事件

 この事件に関しては「韓国による金日成暗殺計画」でも出てきましたが、あれはこの事件の結果としての韓国の報復作戦計画がメインだったのであまり詳しくはありませんでした。しかし既出でもあり、また韓国が北朝鮮への侵入、金日成暗殺を謀る、に比べ北朝鮮が韓国に侵入、朴正煕暗殺を謀る、はインパクトというか意外性がより低いので、非常に面白かったあの記事には及ばないだろうと思ったんですが、あれ以上とは言わないまでも想像以上に興味深い内容を含んだ記事でした。

http://military.china.com/history4/62/20131122/18167102.html


1968年、北朝鮮特殊部隊ソウルを奇襲:青瓦台へ突進し韓国大統領暗殺に向かう

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「韓国の『中央日報』の『青瓦台事件』翌日の報道、添えられた写真は捕虜の金興九」)

朴在京大将は最も北朝鮮指導者の信任を受ける高級将校の1人で、かつて2000年に韓国の首都漢城(現ソウル)(頑住吉注:ってそれはあんたたちが勝手にそう呼んでただけでは。分かりにくいので別の部分では全てソウルとしていますが原文は漢城です)を訪問し、これにより両国間において平和な情報が伝達された。事情を知る人物は、朴在京は、実は1968年にもうソウルに来たことがあったのだが、彼の当時の身分は当時韓国大統領の任にあった朴正煕を暗殺に来た特殊部隊兵だっただけだ、とする。

近年来、北朝鮮指導者金正恩は頻繁に人民軍の精鋭部隊を視察しており、彼の左右にはしばしば人民軍総政治局副局長朴在京大将の姿が出現する。人民軍前任総参謀長李英浩が解任された後、主に宣伝工作を担当している朴在京は韓国メディアと情報機構が関心を注ぐ重点となっており、北朝鮮最高指導者と関係が最も密接な高級将校の1人と見なされている。最近、韓国の「週刊朝鮮」誌は長編の報道文を掲載し、朴在京は1968年の北朝鮮特殊部隊による韓国大統領府奇襲行動の中での唯一の生存者に他ならず、かつこの九死に一生の経歴ゆえにとんとん拍子に出世したのだ、とした。

空白の履歴の背後にある秘密

韓国統一省が掌握した情報によれば、朴在京は1933年6月10日に咸鏡北道に生まれ、金日成政治大学を卒業し、北朝鮮人民軍総政治局宣伝部指導員、副課長、課長、副部長、部長などの職を歴任し、1997年2月に大将に昇進した。韓国統一省の彼に対する評価は次の通りである。「人民軍の実権を持つ人物。軍隊の宣伝、戦意高揚事業を担当し、国家の領袖に対する賞賛を態度表明する。」

北朝鮮サイドの秘密保持が厳格なので、韓国当局の朴在京の履歴に関する記録は最も早くて1985年にしか達しておらず、その前は基本的にずっと空白である。2003年末になって、韓国キリスト教会のある集まりで、韓国サイドによって捕虜にされた後韓国国籍に加入した元北朝鮮特殊部隊員金興九が突然次のように明らかにした。「朴在京は1968年の『青瓦台事件』の中で唯一包囲を突破して戻っていったかの人物に他ならない。2000年9月、彼はソウルを訪問したことがあるが、当時私は彼とちょっと会えはしないだろうかと希望していた‥‥」

この発言が出るや、韓国世論は大いに驚愕した。当時、金興九は唯一生け捕りにされた北朝鮮軍人であり、韓国軍が発表した戦果によれば、韓国軍はその場で27名の北朝鮮特殊部隊員を射殺し、後にまたソウル郊外で3体の死体を発見し、31名のソウルに潜入した北朝鮮軍人は当然全滅させられたはずで、誰かが包囲の突破に成功したとは全く聞いたことがなかったのである。金興九は捕虜にされた後、「政治信条を変えた」ことによって特赦を獲得し、かつ洗礼を受けて韓国キリスト教会の牧師となった。

金興九の暴露の真実性を疑う者もまた少なくない。ある人は、金興九は1942年生まれであり、朴在京に比べ9歳若いが、当時行動に参加した北朝鮮特殊部隊員は隊長の金春植大尉と第2グループのトップ金興九中尉を除きその他全員少尉であり、朴在京の軍におけるキャリアと軍事に関する素養からして、どうして年齢がずっと若い金興九より1つ下の階級であり得るだろうか? と指摘する。しかし、金興九は何度も誓いを立て、自分は一言も嘘を言っていない、としている。さらに最近「週刊朝鮮」、「中央日報」などの主流メディアを見ても、真に迫った様子で44年前、自分が朴在京と共に行った「ソウル攻略」の詳細を話している。

特殊部隊員としてソウルに潜入

1968年、「南サイドの革命運動」を支援するため、北朝鮮民族防衛省(現人民武力省)偵察局は1,000人にも達する第124部隊を建設し、専門に敵後方の偵察と破壊襲撃任務を実施させた。1月5日、第124部隊の31人の行動隊が北朝鮮西部の都市沙里院にやってきて秘密の訓練を行った。偵察局の指導者は隊長の金春植に、「君たちの任務はソウルの青瓦台大統領府に潜入し、朴正煕の頭を叩き斬ることだ!」と教えた。

(頑住吉注:これより2ページ目)

1月17日、北朝鮮特殊部隊員は韓国の軍服に換え、鉄条網をハサミ状のカッターで切断し、米韓連合軍歩哨所から距離30mにもならない場所から韓国国境内に潜入した。金春植は部下を6グループに分け、それぞれのグループは5〜7人で、金興九の第2グループは青瓦台の心臓部への攻撃を担当し、朴在京の第6グループは周囲の掃討と隊伍の撤収に責任を負った。

北朝鮮特殊部隊員は2日2晩費やしてやっと防御ラインを突破したが、やはり行動は何名かの木の伐採工によって発見された。朴正煕は情報を聞くと、直ちに「甲」号非常態勢令を発令し、韓国対浸透部隊に全ソウル・京畿道地域に展開し、引き網式掃討を行うよう指示した。しかし、韓国指揮官は相手方の具体的目標がはっきり分からず、大部分の戦力は北朝鮮・韓国軍事境界線により近い前線の地域に投入された。結果として、念入りに偽装した北朝鮮特殊部隊員はやはり1月21日夜8時前後にソウルに入った。

尋問に直面して泰然と対処

北朝鮮軍人は2列をなして青瓦台方面に出発、前進し、金興九と朴在京は先頭に立った。この時、ソウルはすでに「武装浸透」の警報に接しており、道行く人は平時に比べずっと少なかった。21時頃、31名の特殊部隊員は市中心部に接近し、紫霞門山道に沿って青瓦台に向かって突き進んでいった。途中ある高い建物が建設されている小山を越える必要があり、ソウル鐘路区警察署はちょうどうまい具合にそこに臨時検査所を新設したところだった。当番の刑事朴太安と鄭宗洙は完全武装の隊伍がやって来るのを見て、直ちに前に進み出て尋問した。

「あなたたちは誰か?」 朴太安は問うた。

「あなたこそ誰か?」 朴在京は逆襲した。

「鐘路警察署の刑事だ。」

「我々は陸軍防諜隊だ。訓練が終わって営地に戻る。あなたに我々のことを質問する資格はない。あなたたちの署長は誰か!」 金興九は朴在京に下がるよう示し、自ら韓国の警察官の質問に回答した。だが彼は、緊張し過ぎてコートの中に隠した銃が露出している何名かの部下がいることに決して注意を向けてはいなかった。この細かいことが朴太安の目に入り、彼はこの者たちこそ北朝鮮特殊部隊員かもしれないと意識するに至り、鄭宗洙と目配せを交わし、2人は道を開けた。

北朝鮮特殊部隊員はすれ違って行き、2名の韓国警察官はこっそりと無線電信を用いて警察署長崔奎植に報告した。「武装分子らしきもの発見」と。その後、まだ遠くまで行っていない北朝鮮人を追いかけ、大声で叫んだ。「陸軍の兄弟たち、面倒だがやはりあなた方の証拠を示してもらう! 我々の仕事はひどく大変なんだ。我々の身になって考えてみて、ちょっと証拠を示してくれれば八方うまく収まるんだが‥‥」

金興九は足を止めず、わざと考え込みながらつぶやいた。「あなたがた、いっそ我々と一緒に孝子洞(韓国陸軍防諜隊本部の所在地)に来いよ。」 実は金興九らは平時の訓練の中でソウル市街区の主要な施設に対し熟知しており、尋問に直面してもフルセットの対応方案があったのである。逆に朴、鄭両人は心の内でどうしてよいか分からなかった。時間稼ぎのため、彼らはやはり嫌だが思い切ってそうすると答え、偽装された北朝鮮軍隊伍の中に挟まって道を急ぎ続けた。

時間は一分一秒と過ぎてゆき、朴太安は焦りながら増援部隊の到来を待った。9時10分頃、1両のルート60の公共交通バスが北朝鮮特殊部隊員の面前を通過した。この車の行く路線は景福高校を経て青瓦台に向かうものだった。朴太安と鄭宗洙の心臓はにわかに飛びだしそうになった。もし北朝鮮人がこの「追い風に乗る車」に搭乗したら、彼らの行動は必ずや非常に大きく加速することになる。

重傷を負うも包囲突破に成功

まさに北朝鮮特殊部隊員が乗車しようとした時、前方に1両のヘッドライトをまばゆく光らせたジープが出現し、それに乗っているのはまさに鐘路警察署長の崔奎植だった。彼はこれらの「防諜隊員」の群れを注視し、猛烈な気迫をこめて大声で叫んだ。「お前たちの衣服の中に隠しているものは何だ?」 「何でももない。我々は孝子洞の防諜隊本部に行くところだ。」 金興九の語気は依然冷静だった。崔奎植はしつこく食い下がり、「ここは私の管轄区域だ。身分を証明できなければ1人たりとも通さない!」

双方が相対峙して譲らない状態の時、向こうからまた1両のバスがやって来た。道路が狭く、しかも崔奎植のジープによって遮られているため、そのままの位置に止まっているしかなかった。すぐ続いて第3両目のバスも来た。恐らくバスに乗っているのが包囲討伐に駆けつけた韓国ミリタリーポリスだと誤解したのだろうが、北朝鮮特殊部隊員はついに我慢できなくなり、猛然とサブマシンガン(頑住吉注:本当にサブマシンガンかもしれませんが、中国の用語ではAK47系をサブマシンガンと呼ぶのでそれかもしれません)と手榴弾を取り出し、崔奎植に照準を合わせて連続的に発砲し、彼は体に数発の命中弾を受けてその場で死んだ。この時は1月21日夜9時15分だった。

銃声がひとたび響くや、北朝鮮軍隊長金春植のそばにいた朴太安と鄭宗洙は混乱に乗じて彼の手から武器を奪った。混戦の中で、鄭宗洙も命中弾を受けて倒れ伏し、朴太安は必死で金春植を押さえて「人間の盾」に充当した。すぐに青瓦台外周の安全に責任を負う韓国首都警備司令部第30大隊が現場に駆けつけ、衆寡敵せずと知った北朝鮮軍兵士は二手に分かれ、一方は紫霞門を抜けて来た道に向け撤退し、一方は青瓦台後方の北岳山に向かって走り、有利な地形に頼って戦闘を継続し、追っ手の兵の相手をしようとした。途中、金興九、朴在京ともう2名の戦友は人っ子一人いない慶北中学校の校庭に隠れた。

(頑住吉注:これより3ページ目)

掃討に投入された韓国ミリタリーポリスが無数に多いのを目の当たりにして、金興九は朴在京に言った。「私が先に外に出て偵察してみる。君はこの場で命令を待ち、少し後で、無線電信で連絡を取ってまた落ち合おう。」 これが2人の最後の会話になった。1月22日午前0時30分、金興九は紫霞門外の仁旺山山麓で韓国軍によって捕虜となったのである。

同日、米韓連合軍は対スパイ作戦指揮所を成立させ、2個師団を超える兵力を投入し、より大きな範囲内で掃討作戦を展開した。2月中旬になって、韓国軍連合参謀本部は対外的に、金興九を除き、ソウルに浸透した30名の北朝鮮軍は全員死亡し(このうち隊長の金春植は手榴弾を起爆させ自決した)、米韓サイドは71人の死傷という代価を支払った、と宣言した。

しかし、金興九が長年経った後で沈黙を破ったのと共に、韓国当局の戦闘報告は疑問の声にさらされ始めた。2007年、北朝鮮労働党対外連絡部のもう1名の「脱北者」も公然と、当時の31名の特殊部隊員の中で、間違いなく1人は生きて戻ってきて、しかも「共和国英雄」の称号を授与され、彼こそが朴在京だ、とした。2011年、韓国のもとに走った元北朝鮮軍第711部隊(第124部隊の後の番号)将校洪恩沢(本名ではない)も韓国の「新東亜」誌に向け、朴在京ともう2名の慶北中学に隠れた戦友は、金興九からの情報が得られなかったため自ら包囲を突破し、最終的に朴在京1人だけが米韓連合軍の封鎖ラインを突破し、「あの時彼はすでに重傷を負い、腸すら流れ出ていた。」と語った。

2代の指導者の信任を受ける

いささか意外なのは、青瓦台奇襲の失敗が、当時35歳の朴在京を決して懲罰に遭わせなかったことだ。逆に、彼はこの九死に一生の経歴に頼って非常に大きな栄誉と信頼を獲得した。2000年9月、彼は北朝鮮政府代表団の中の唯一の高級将校として、前代未聞にもかつて戦闘したことのあるソウルを訪問し、北朝鮮指導者金正日に代わって当時韓国大統領の任にあった金大中に珍しく貴重な「七宝山茸」を贈った。朴在京はソウルに6時間しか留まらなかったが、外界はそれでも彼の出現と一度緩和された北朝鮮・韓国関係を結びつけ、朴在京の来訪は「半島の春」を始動したのだと考えた。

金正日政権時代、朴在京は人民軍総政治局常務副局長玄哲海、人民軍総参謀部作戦局長李明洙と共に、韓国情報部門から「大将三人組」と呼ばれた。韓国高麗大学教授南承旭(音訳)の言い方に従えば、朴在京と玄哲海は金正日の「両片腕」と称するに堪える。1996年、「脱北」した玄哲海の甥の玄盛一(かつて北朝鮮駐ザンビア大使館三等書記官の任にあった)は、北朝鮮の金剛山旅行区、牡丹峰芸術団など「外貨獲得組織」はいずれも朴在京が指導する人民軍政治局宣伝部の管理に帰せられ、対外的には「百虎貿易総会社」と称している、と明らかにした。

2010年9月、朴在京は労働党中央委員会委員に選ばれた。金正日政権の最後の2年間、朴在京はほとんど毎月金正日の視察に同行した。また朝鮮中央通信社の報道によれば、今年から朴在京はすでに相次いで人民軍最高司令官金正恩と共にミサイル指導局、第4軍団、西南前線島嶼防衛隊など重点部署を視察し、その北朝鮮の決策圏内における地位を強固にし得ていることをはっきり示している。


 ちょっと話が面白すぎるんじゃないかという気もしますが、金興九は事件後完全に北との関係は切れているはずで、それから長い時間がたって脱北してきた複数の人物が補強する証言をしている点は注目されます。もし本当なら朴槿恵にとって父の暗殺を謀った特殊部隊員がその結果出世して重要な地位にいることになるわけで、ぜひ真相を突き止めたいと思うんじゃないでしょうか。しかし2名の警察官が勇気をもって大活躍した一方、警察署長は立場にふさわしくない無謀な行動を取ったなと感じます。















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