トカレフTTピストル

 この銃もメジャーな割に開発経緯等が詳しく知られていない銃だと思われます。

TT-30/33手槍興衰史


TT-30/33拳銃の興衰史

20世紀初期、現代的な工業の基礎が乏しかったため、ロシア軍および初期のソ連軍は使用する武器装備を基本的に全て輸入する必要があった。ソビエト共産党が全国の政権を奪取した後、政策を決定する上層部は軍用装備の国産化実現を決定し、かつこのために巨大な精力を投入した。アメリカ製M1911拳銃のソ連版クローン、トカレフTT-30/33系列の拳銃は、まさにこの時期に生まれたのである‥‥。(頑住吉注:どうでもいいですがクローンは人工的に後になって作られた双子と言ってよく、遺伝子情報が同一であるのが原則であり、本来の意味からすればストレートコピー以外に使うのは不適切だと思います)

トカレフ小伝

トカレフは1871年にあるコサックの家庭に生まれ、幼少期はロストフのコサック駐屯軍の兵営で過ごした。彼はほとんど正規の学校教育を受けたことがなく、ただし小さい頃からすでに機械や技術に対し非常に高い興味を持っていた。1885年、トカレフは現地の駐屯軍司令部による職業教育を受け、かつ見習として鍛造の現場で実習を行った。1年後、彼は早くも機械関係において人を驚かせる天賦の才能を見せた。そこでノボチェルカスク軍事技術学校に進学させられ、さらに深く研究を行った。トカレフは皆の期待に背かずスムーズにテストに合格し、機械製造を学んだ。卒業後第12コサック騎兵団に配属され、機械修理兵となった。間もなく予め幹部に抜擢された士官学員として准尉士官軍校の勉強に参加した。1907年、一級准尉に新任されたトカレフはロシア小火器設計師が入る殿堂に到達した。すなわちレニングラード州オラニエンバウムに位置する士官射撃学校で学んだのである。彼はここで、当時最も先進的な自動火器に触れ、ここを起点として小火器の設計を開始した。1908年、トカレフ初の作品の設計が完成した。1913年、彼はセストロレツク兵器工場に銃器生産の監督として入った。しかし第一次大戦の勃発は彼の順調な生活を全く変えてしまった。この期間彼は兵器士官として直接参戦し、1916年になってやっとセストロレツク兵器工場に再び戻ってきた。

第一次大戦後、ソビエト革命が勝利し、トカレフと、後の良き師良き友フェデロフ(頑住吉注:世界初のアサルトライフルと評価されることもあるM1916の設計者。1874年生まれなのでトカレフよりやや年下ですが、すでにM1916設計の実績があったことになります)は一緒に、1920年にツーラのTsKB-14設計局に入り、機械関係の仕事に従事した。その後の20余年の間にトカレフは自動、半自動小銃、カービン銃、サブマシンガン、拳銃等合計27種に達する銃器を設計した。1944年、彼は赤軍武器設計の功績に対して表彰され、ソ連政府は彼に二等スヴォーロフ勲章を授与した。この他、彼はさらに1回社会主義労働英雄の称号、4回勲章、2回赤旗勲章およびスターリン奨励金を獲得した。1968年にトカレフは家で病死した。享年97歳だった(頑住吉注:スヴォーロフ勲章、赤旗勲章の画像がありました http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Medal/CLASS2/index.htm )。

TT-30の前身、M1930は難産

1928年、砲兵工業委員会がソ連赤軍のために各種の銃器を選定している時、トカレフも自分が設計した軽機関銃を持ってトライアルに参加した。しかし彼は軽機関銃設計の方面に経験が乏しかったため、その銃には構造が複雑すぎ、送弾不良が発生しやすい等の問題があり、最終的に却下された。1年後、トカレフは教訓を生かし、長所を生かし短所を避けて自分にとってより得意な拳銃を設計することを決定した。そこでM1929拳銃が誕生した。この銃は2種の型に分かれ、1つは大型戦闘拳銃、もう1つは小型自衛拳銃だった。2種の拳銃はいずれも7.62mmx25拳銃弾薬を使用した。M1929大型戦闘拳銃はマガジン容量が22発に達したので、マガジンには軽機関銃のマガジンのようなやや湾曲した設計が採用された。だがこの種の大容量でやや湾曲したマガジンは、グリップの設計をまずいものにした。マガジンの形状に合わせるため、やむを得ずグリップの設計が前に向かって傾斜した様式になり、したがって握りにくいという問題をもたらした。奇異なグリップの他に、この銃の330mmという長さのバレルおよび木製ハンドガードもきわめて時代の潮流に反したものだったが、この銃にサブマシンガンとの比較に耐える戦闘性能を付与していた。小型のM1929自衛拳銃はM1929戦闘拳銃のコンパクト版だったが、その銃身長は180mmに達しており、普通の拳銃と比較すればやはりバレルが長かった。この銃では木製ハンドガードはなくなっていた。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「作業現場でのトカレフ」)

数次にわたる選定を経て、2種の型のM1929拳銃にはいずれも人間工学的に劣る、故障率が高い、体積が大きい等の欠点が存在し、改めて改修と改良を必要とすることになった。だがトカレフはM1929拳銃にさらに手を加えることはなく、新たな設計を開始した。彼は当時、優秀な設計を手本とすることが優秀な拳銃を生む早道であると意識するに至っていた。当時半自動拳銃の領域は基本的に欧米製拳銃の天下であり、このため欧米の拳銃を真似ることによってソビエトロシア赤軍の使用に適した拳銃を開発することも解決法の1つだった。このような設計思想の下に、彼はまずアメリカ製コルトM1900拳銃を手本とし、かつ自分が設計したM1929拳銃の特徴を総合し、新しい戦闘用拳銃を設計した。しかしこの「混合」製品は成功しなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「トカレフが1920年代に設計したM1929大型戦闘拳銃。22発の大容量マガジンを採用したのでマガジンはやや湾曲し、これに合わせてグリップが前傾し、しかも木製ハンドガードが設けられている。」 続いて2枚目。「M1929小型自衛拳銃では木製ハンドガードがなくなっている。」)

次の年、トカレフは著名なステアーM1912拳銃に目を転じた。だが、トカレフは新たに模倣して作った拳銃のために新たに撃発機構を設計した。この撃発機構はグリップ内に比較的長いハンマースプリングを置く必要があったが、当時の拳銃弾薬は長さ、体積とも比較的大きかったので、グリップ内にはこのようなスプリングを設置する空間は全くなく、このため止むを得ずハンマーユニットに下げる形で設置した(頑住吉注:単に長い7.62mmx25弾薬を使用することが制約になっただけでしょう。当時でもハンマースプリングはグリップ内にあるものが多かったわけですし)。今回の模倣は前回に比べれば成功だったものの、依然人をして満足させることはなかった。

その後、トカレフは再びブローニングの設計したM1911拳銃を基礎に、M1930拳銃を模倣して作った。M1930拳銃には2種の型があり、1つはリコイルスプリングをバレルに巻いたもので、外形はFN M1910拳銃に似ていた。他の1つのリコイルスプリングはM1911拳銃同様バレル下方に位置していた。これこそが一代の名銃、TT-30の前身である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「リコイルスプリングがバレルに巻かれ、外形がFN M1910拳銃に類似したM1930拳銃。この銃は最終的に淘汰された。」)

トカレフはこれまで給弾部分の故障の多くはマガジンリップ部で起きており、ここが長時間比較的大きな圧力を受けると、軽微な変形や曲りが即銃の性能の信頼性を失わせ得ることに気付いた。トカレフはこうした経験を生かし、強度の高い鋼板でマガジンリップ部を作る方法を採用し、かつこれの弾薬と接触する表面を研磨し、もって給弾の故障を減少させた(頑住吉注:直接関係ないですけど1980年代、作動の快調さに定評のあるMGCのモデルガンは非常に厚い鉄板でマガジンを作っており、曲げようとしても曲がらないくらいだったのに対し、リアルさでは勝っているものの快調さでは及ばなかったマルシン製モデルガンのマガジンは肉が薄く、いろいろに曲げて作動を調整したもんです)。M1930拳銃にはM1911拳銃のような手動および機械式2種のセーフティ機構は設計されておらず、手動セーフティもなくして撃発機構上の機械式セーフティのみ残した(頑住吉注:後でセーフティコックが追加されたという記述があるので、この「機械式セーフティ」は慣性式ファイアリングピンを指しているようですが、だとすればM1911はグリップセーフティを含めて3種だと思うんですが)。この他、M1911拳銃の撃発機構とハンマーにある3本のスプリングも、2本の非対称のスプリングに簡略化された。M1930拳銃は分解もきわめて簡単で、分解後の部品は40個を越えず、余計なピンやネジはなく、全てにおいて最大限の簡略化がなされていた。

選定と再度の改良

1930年6月25日〜7月13日、赤軍軍事委員会は最終回の拳銃選定試験を行い、もって赤軍将校に配備される拳銃が最終的に確定した。選定に参加した拳銃にはトカレフM1930拳銃、コロビンのTKB-160式拳銃、プリノットチョムスキーの設計した拳銃が含まれた。この他、さらに各国で生産された拳銃が選ばれて来た。例えばM1895リボルバー、モーゼルC96拳銃、ルガーP08拳銃など国内にあった14種類の名銃が参照と対比のために使われた。

各銃ごとにそれぞれ500発を発射して、通常の条件の条件および極端な条件下での射撃が行われた。例えば砂や塵、ぬかるみ、雨水、過度の潤滑、無潤滑など最も劣悪な環境に置かれ、各銃は上述の条件下で500発の射撃を終えた後、簡単なメンテナンス後、直ちに1,000発の弾薬を使った信頼性射撃試験が開始された。残酷、厳格な試射テストを経て、軍事委員会は最終的にトカレフ設計の、リコイルスプリングがバレル下方に位置したM1930拳銃が勝利し、将来赤軍に配備される制式拳銃となったことを宣告した。M1930拳銃は勝利はしたものの、これにも全く欠点がなかったわけではなく、軍事委員会はこの銃に対しいくつかの改良に向けた意見を提出した。すなわち射撃精度の向上、サイトの改良、ハンマーユニット上にセーフティノッチを増設することをもってさらなるセーフティ機能を増やすこと、トリガープルの軽減等である。

トカレフはこれらの改良に向けた意見をもとにM1930拳銃に対し最適化設計を進めた。トリガープルを軽減するためには、トリガースプリングとシアスプリングのテンションを弱めることが必須だった。しかしシアスプリングのテンションを弱めることは別の問題を起こした。すなわちシア上端の保持面とその先端が、ハンマーのセーフティノッチおよびコッキングノッチと良好にかみ合わなかったのだった。特に撃発時、撃発機構の振動がセーフティバー(頑住吉注:ディスコネクター?)を正常な位置から逸脱させ、撃発機構の故障を発生させる可能性があった。この問題の解決のため、トカレフは独創性をもってセーフティバーとハンマー伝動バー(頑住吉注:え? これは何)をピンを用いてつなげて一体化させた。この種の単一のセーフティの信頼性を高めるため、トカレフは撃発機構およびハンマーセーフティ各部の公差を減少し、各部品をより緊密にフィットさせることにより摩擦力を増大する方式を使って目的を達成した(頑住吉注:結局この部分はっきり分かりませんでしたが、要するにトリガー、シアのリターンスプリングを弱めるとフルオート化が起こりやすくなるのでその対策を取ったということですね)。

彼はさらに、新たにM1930拳銃のハンマー構造を設計した。ダブルヘッドをシングルヘッドに改め(頑住吉注:画像で見ると確かにM1930のハンマーヘッドは前後に2つ並んだような妙な形をしています)、ハンマーの質量を減少した。初期の7.62mm拳銃弾薬のプライマーの発火薬は敏感性が比較的低く、質量が比較的大きいダブルヘッドハンマーでファイアリングピンにより大きなエネルギーを付与することが必要だった。しかしM1930拳銃が現役の時代には発火薬の性能はすでに大きく向上し、もはやこの種のダブルヘッドハンマーを使用する必要はなかった。この他、ハンマーの質量が過大であることは、ファイアリングピンが頻繁にプライマーを突き破って故障を招いてもいた。新たにこれに代わったシングルヘッドハンマーは質量がより小さく、かつ生産も容易だった。

1930年12月23日、軍事員会は改修後のM1930拳銃に対し最終の冬季野戦試験を行うことを決定した。日程は1931年1月7日と定められた。試験場所としてはモスクワ付近の射撃場が選ばれた。この時ソ連赤軍の多くの高級将校が揃って現場の視察に来ており、M1930も皆の期待に背かず、試射は完全な成功を収めた。1931年2月12日、この銃の大量生産が開始され、装備前の最後の大規模部隊試用が行われた。次の日、ソ連赤軍後方勤務部門の責任者が、「トカレフM1930拳銃およびその7.62mm拳銃弾薬は赤軍に大量装備される」と宣言した。同時にソ連赤軍はツーラ兵器工場に対し1,000挺のM1930拳銃および36万発の拳銃弾薬を発注した(頑住吉注:少ないすね)。1932年、さらに1,000挺のM1930拳銃と50万発の弾薬を追加発注した。すぐにソ連内務人民委員会は、その部隊に全く新しいトカレフM1930拳銃を配備することを宣言し、正式にTT-30拳銃と命名した。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「1931年1月の試射選抜に参加し、合格したM1930拳銃、すなわちTT-30の前身。重量軽減のため、トリガーには切り抜き部がある。この銃はマニュアルセーフティがなくなっているが、ダブルヘッドハンマーのままである。」 続いて2枚目「1951年にソ連で生産されたTT-33拳銃。銃本体、グリップパネルの工作も高精度なものに戻っている。」)

(頑住吉注:これより3ページ目)

TT-33拳銃、成功裏の登場

まさにツーラ兵器工場が全速力で赤軍将校のためにTT-30拳銃を生産している時である1933年、トカレフは再びTT-30拳銃のさらなる一歩の簡略化、これによる性能向上に着手した。トカレフは新たにグリップ後部を設計し、トリガースプリングの設計とバレルの製造を簡略化し、かつこの銃の重量軽減を行った。改良を経て、この銃の全体重量はさらに一歩軽減され、構造もさらに一歩簡略化された。改良後の新型拳銃は1934年に定型に至り、TT-33 7.62mm拳銃と命名された。TT-33が定型に至った時、TT-30はすでに大規模生産段階に入っていた。またTT-33は後の生産中に2種類の型がさらに分化した。それぞれTT-30 I型とTT-30 II型である。2つの改変型は生産技術上微調整が行われただけで、実質的な変化は大きくなかった。

TT-33拳銃は定型は比較的早かったものの、その生産、装備は数回にわたって延期され、独ソ戦勃発後、戦局の危急がこの銃の全面大規模量産段階に入ることを促進した。1941年10〜12月だけで、ツーラ兵器工場に発注されたTT-33拳銃の数量は6万挺に達した。

第二次大戦勃発初期、ソ連西部の軍需産業は急ぎウラル山脈以東に移転した。1942年4月〜6月、東に移転した第622兵器工場は離散していた設備と工員を徐々に集め、後方で生産されるTT系列拳銃の大本営となった。その生産量はたった6カ月の時間で信じがたい16万挺に達した! 1943年、ソ連はアメリカのレンドリース法案の支援を獲得し、622工場はより先進的なアメリカ製の工作機械や設備に換え、当初1年以内に100万挺のTT系列拳銃を生産する計画だった。しかし工場が多数の女子供や老人を雇用したため、1944年の生産数は31.5万挺にしか達しなかった。戦時中、622工場は全部で96万1500挺のTT系列拳銃を生産した。これほど高い生産量はその生産の標準を犠牲にした結果でもあった。戦時に生産されたTT系列拳銃はプレス部品を大量に採用し、最大限に複雑な工程を短縮していた。銃の表面にはツールマークが残り、磨き加工もなおざりにされ、グリップ両側のベークライト製パネルが木製あるいはその他の材料に簡略化されることさえあった。

1945年に国防戦争が終結した後、TT系列拳銃は依然大量生産中で、ただし生産量は1943〜1944年と比べ大幅に低下し、製造工程もだんだんに戦前の水準に回復した。

TT系列拳銃のソ連で生産された正確な数字はすでに分からなくなっているが、その規模をおおよそ推計することはまだできる。戦前の生産は約60万挺、戦時の生産は約96万挺、戦後の生産は約18万挺、総計174万挺に達する。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「左から右に、FN M1903拳銃、TT-33拳銃、コルトM1911拳銃。TT-33の外形が他の2挺と非常に似ていることがはっきり見て取れる。」 この後TT-33とガバメントのスライドまわりのパーツを比較している画像がありますが、部品名等は必要ないでしょう)

(頑住吉注:これより4ページ目)

ポーランドにおけるTT系列拳銃

1944年〜1945年、ソ連赤軍が東部戦線で大反攻を起こした時、TT系列拳銃もこれにつれて東欧諸国に流入した。その中でポーランドが使用したTT系列は代表たる資格を最も備えている。

ポーランドに流入したTT系列拳銃の正確な数量はすでに分からず、公的な資料にも1944年10月26日、新たに成立したポーランド人民軍の中に38,534挺のTT系列拳銃があると記載されているだけである。ポーランド軍以外に、ポーランドのドイツ占領地区の共産党遊撃隊や後に成立したポーランド内務安全部門はいずれもかつてTT系列拳銃を大量に使用していた。

ポーランド解放後、ポーランド共産党は本国でTT-33拳銃をコピー生産することを決定した。1945年1月21日、ポーランド人民軍兵器装備部門は早くも各地の軍需品を生産する企業に急ぎ赴き、TT-33拳銃生産の可能性を検討した。同時に事前に生産の準備作業をぬかりなく行った。1946年10月になってポーランドで生産された第一号のTT-33拳銃がついに完成し、ポーランドの軍事および工業界の高級官僚に寄贈された。ポーランドのTT-33拳銃はソ連の原型銃はほとんど完全に同じで、グリップパネルがやや異なっていただけだった。戦前のソ連製TT-33拳銃のグリップパネルには5つ頂点のある星が刻印されていたが、戦時には生産簡略化のためこの図案はなくなり、滑り止めミゾに変わっていた。一方ポーランドで生産されたTT-33のグリップパネルには三角形の図案が刻印されていた。

1955年までにポーランドは累計で22万5000挺のTT-33を生産した。1960年代中期、ポーランドが在庫するTT系列拳銃はさらにスムースボアの信号銃に改造され、航空機搭乗員専用に支給された。後にポーランド独自生産のP64 9mm拳銃が装備されるにつれ、TT系列拳銃はゆっくりとポーランドの現役装備からフェードアウトしていった。ただし1989年にワルシャワ条約機構が解散され、ポーランド共産党が下野を迫られる直前まで、少数の軍事補助部隊および警察がTT系列拳銃の使用を継続していた。現在、ポーランドの民間警備会社に依然としてこの種の拳銃を使用する少なからぬ警備員が見かけられる。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「ポーランドのラドム兵器工場が生産したTT-33拳銃。そのグリップパネルには三角形の図案が刻印されている。」 続いて2枚目「ポーランドがコピー生産した寄贈用TT-33。この銃は1946年10月1日にMichal Rola-Zhymierski元帥に贈られた。」)


 機関銃の失敗、形からしてダメダメな初期の試作ピストル、ピストルを成功させるまでの悪戦苦闘ぶりを見ると、あまり才能豊かな人ではなかったのかなという気もしますが、結果的にできたピストルは20世紀で最も成功したものの1つと言っていいものになりました。トライアルで対比された外国製ピストルはモーゼル、ルガーなど当時すでにやや時代遅れの銃だったようですが、ぜひM1911とも対比してもらいたかったところです。ソ連の耐寒テストがアメリカで行われたものより大幅に厳しいものだったら、あるいはトカレフがM1911に勝利したかもしれません。

 ちょっと気になるのは、バレルにリコイルスプリングが巻かれた試作銃です。ショートリコイル式の場合、基本的にバレルにリコイルスプリングを巻くことはできず、もしどうしてもやるのなら九四式やギュルザのようにリコイルスプリング後端を別の部品で受けるなどの工夫が必要になります。ちなみに九四式拳銃はトカレフの試作銃が作られた後に登場しています。トカレフの場合はどう処理していたんでしょうか。






戻るボタン