ソ連、核戦争演習で本当に核爆弾を投下

 比較的短い「歴史秘話」ものの記事です。

http://www.hinews.cn/news/system/2014/11/13/017111405.shtml


ソ連軍核戦争演習の秘密を明かす:真の核爆発後軍人は身体検査せず

冷戦初期、NATOの気迫に満ちて人に迫る軍事的封じ込めに直面して、ソ連武装力量はあえていかなる懈怠もすることなく、頻繁に核打撃の背景を伴った演習を組織し、そのうち規模最大のものとして1954年9月14日にオレンブルグ州トゥオツキー草原で行われた「雪花」演習以上のものはない。この時の演習の中で、ソ連軍爆撃機は本当に1発の原子爆弾を投擲し、しかも核爆発発生後ほどなく、ソ連軍事演習参加部隊は核輻射を冒して予定の目標に向け突撃を発起し、各種実戦機もキノコ雲を越えて地上目標に対し攻撃を実施し、当日ソ連軍が投擲した弾薬の量は1945年にソ連軍がベルリンに進攻した時に使用した弾薬の量を超えた。だが種々の原因により、この時の演習の内幕はずっと絶対秘密の情報として厳密に封鎖され、ソ連解体後になってやっと公開され得たのである。

演習はいかにして核兵器を使用したか

1950年代初め、アメリカもソ連も第三次世界大戦のために準備をし、このうちソ連はすでに西欧の戦場で核兵器を使用する準備を整えていた。1954年、ソ連政府はウラル山脈東側のオレンブルグ州トゥオツキー草原で核条件下での諸兵種合同軍事演習を実施することを決定し、動員する部隊は212、総兵力は約4.5万人だった。

ソ連軍の老兵チャーノフの回想によれば、1954年の夏中、多くの秘密の軍の隊列がソ連各地からトゥオツキーに向かった。この時の行動は厳密に秘密保持されたため、部隊の将兵は一部の中、高級将校さえ含めてここに来て何をしようとしているのか知らなかった。演習の準備作業は3ヶ月持続し、数千mの塹壕や対戦車壕などが掘られ、数百の永久火力ポイント、臨時火力ポイント、地下壕が修築された。演習場の中心から5、6,000mには2つの小さな村があり、村内の住民も50km以遠の場所に疎開させられた。

演習開始前、指揮部は各クラスの将校を組織して核兵器の作用に関する映画を見、もって各クラスの将校が核兵器の威力といかにして核爆発の状況下で部隊の作戦を指揮するか理解するのに便とした。当時映画館の入り口の警戒は厳重で、あらゆる入場者は連隊級指揮官と情報部門代表自ら署名した通行証を持っていることが必須で、それでやっと入場できた。この時の演習の宣伝に入れる力の度合いを拡大するため、モスクワはさらに友好国の客人を招待して近距離で視察させた。演習の前日、ソ連共産党中央総書記フルシチョフ、国防大臣ブルガーニン、核兵器製造専門家クーチャトフもトゥオツキーにやって来て、ジューコフ元帥(頑住吉注:ノモンハン事件当時ソ連部隊を指揮したあの人です)がこの時の演習の総指揮者に任命された。

火力はベルリン強攻を超える

9月14日、ソ連空軍第71試験大隊のクテーチェフ機クルーが1機のツポレフ-4爆撃機(頑住吉注:B-29コピー)を操縦して離陸した。この機には1発の原子爆弾が搭載され、また2機のミグー17と1機のイリューシンー28が航路護衛、気象偵察、撮影を担当した。

原子爆弾が爆発した時の情景に関し、演習に参加した老兵プジフリスキーは次のように回想する。「第1回目の警報は核爆発15分前に鳴り、爆発10分前に第2の警報が伝わってきて、我々は全て掩体に入り、体を腹這いにし、目を閉じ、手を頭の後ろに置き、口を開いた。最後の警報が鳴った後、遠いところから恐るべき轟音が伝わってきた。時間は9時33分だった。」

保存書類の記載では、クテーチェフ機クルーは第2回目に急降下した時8,000mの高空からコードネーム「タキヤンカ」のプルトニウム弾(威力はTNT爆薬4万トンに相当)を投下した。「タキヤンカ」は地面からの距離350mの空中で爆発し、予定の爆発の中心から西北方向に280m逸れた。不幸だったのは、最後の時間に風向に突然変化が発生し、輻射雲が予定の人の生活していない草原に向かって漂い移動することなく、逆にオレンブルグ市およびさらに遠いクラスノヤルスクに向かって急速に移動したことだった。

当時ソ連陸軍歩兵大隊長の任にあったケザノフは、核爆発の5分後、砲火が開始を準備し、その後航空隊が爆撃任務執行を開始した、とする。各種口径の火砲、ロケット砲、戦車砲が一斉に火蓋を切るのと共に、目標の地域が1平方kmあたりに受ける火力密度は、1945年に赤軍がベルリンを強攻した時のレベルをはるかに超えた。3時間後、ソ連軍地上部隊は進攻を発起せよとの命令に接し、ケザノフ率いる全大隊の将兵は装甲車に乗って爆心から距離600mのところに向け突撃を発起し、到着するとそこの樹林がすでに全部焼かれ、事前に配備していた軍事装備も完全に破壊され、至る所に焼き焦がされた動物の死体があるのを発見した。周囲は全てまる禿になり煙の立ちこめた土の丘と土埃で形成された分厚い壁だった。ケザノフは兵士たちに計器を使用して輻射の程度を測量するよう命令し、その後全大隊に乗車し、迅速に撤収するよう命令した。

演習終了後、ソ連元帥ジューコフはクテーチェフ機クルーのパフォーマンスに対し大いに賞賛を加え、あらゆる人が等しく奨励を得、このうちクテーチェフ少佐はレーニン勲章を授与され、前倒しで大佐の階級に昇進した。だが、この時の核爆発状況下での諸兵種合同演習のディテールはずっと最高機密と見なされ、演習に参加した軍人はいかなる身体検査も受けず、一般民の損失の状況も分からない(当時の病院の1954年から1980年の間の病歴はすでに全部処分されている)。ソ連解体後になっていくつかの機密保存書類が解禁になり、一部の演習参加者が演習の内幕を明らかにした。(張韶華)


 正気の沙汰とも思えない演習ですが、核爆発後の惨状を実際に見たことが核の使用を思いとどまることにいささかでもつながったのなら無意味ではなかったのかもしれません。広いソ連ならもっと安全な場所もあったのではないかと思われますが、想定していた西欧の戦場と地形が似ているといった理由があったんでしょうかね。
















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