トカレフ自動小銃

 マニアなら知ってはいるでしょうが詳しく知っているという人は比較的少ないのでは。

http://bbs.news.163.com/bbs/mil/1403424.html


埋没した英雄 ソ連のトカレフSVT-40半自動小銃

日増しに深刻になる戦争の脅威に対応するため、ソ連は1930年代に旧式なモシン・ナガン手動ボルト小銃に取って代わる新世代半自動小銃の研究開発を開始した。1938年11月、ソ連の銃器設計師トカレフはある半自動小銃を研究開発した。最も早くソ連軍に引き渡されて就役したのはSVT-38半自動小銃である。「38」はこの銃が1938年に定型に至ったことを表すが、決して直ちに生産には投入されなかった。何故なら当時はまだその他の競争相手があり、その中で最も競争力があったのはシモノフの設計だった。1939年2月26日、トカレフの設計が最終的に勝利を獲得したが、軍はSVT-38の全面装備に対し依然疑念を持ち、このためSVT-38を生産するのと同時に、シモノフの設計したAVS-36も少数生産した。後にスターリンが自らこの件に関与し、正式に新しい銃の調達契約の判断を彼お気に入りの銃器設計師に与えたとされる‥‥トカレフである。1939年7月17日、ソ連国防委員会は指令を発し、全力でトカレフ半自動小銃を生産するよう要求した。

SVT-38の試験生産が開始されたのは1939年7月下旬で、いくつかの欠点を改良した後、1939年10月に正式に大量生産が開始された。だが半年後、つまり1940年4月にはもう生産が停止され、この銃の改良型であるSVT-40半自動小銃の生産が準備された。ある報道は、SVT-38は全部で15万挺生産されたとしているが、量産時間が6ヶ月しか持続していないため、比較的現実的な説は10万挺に満たないというものだ。後に大多数のSVT-38が戦闘中に失われ、損壊し、あるいは工場に送り返されて改装し直されてSVT-40となった。

SVT-40は冬季における対フィンランド作戦で取得された経験、教訓の総括の成果を根拠に、SVT-38を基礎に改良してできたもので、目的は小銃の操作性能の改善と信頼性の向上だった。「モシン・ナガン」1908式リムド小銃弾薬を使用し、マガジン容量は10発で、連続しての発砲ができた。

この銃は1940年7月1日にツーラ兵器工場で生産に投入され、同時にモシン・ナガンM1981/30小銃は減産が開始された。何故なら当時ソ連は、以後あらゆる歩兵部隊すべてに新たな半自動小銃を装備するつもりだったからである。その構造と工程がモシン・ナガン小銃に比べ複雑なため、生産速度は比較的遅かったが、SVT-40の生産速度は元々のSVT-38に比べれば速かったようで、これは主にいくつかの部品が簡略化され、しかも生産する工員もすでに相当多くの経験を積んでいたからである。

報道によれば、SVT-40の第1ヶ月目の生産数はもう3,416挺あり、第2ヶ月目は8,100挺に達し、より多くの生産ラインの調整の完了および工員の熟練度が上がるのと共に、毎月の生産数は着実に増加し、1940年12月になると生産数は18,000挺と見積もられ、1940年では全部で66,000挺前後生産された。1940年末〜1941年初め、ケロク兵器工場もSVT-40を生産し始めた。ケロク兵器工場は主にソ連空軍のために機関銃や航空機関砲を生産しており、生産されたSVT-40の数はごく少なかった。現在すでにコレクターに人気の品となっている。

ツーラ兵器工場とケロク兵器工場はSVT-40の主要なメーカーであり、最初からもうSVT-40を全力で生産したが、1942年にソ連軍が改めてモシン・ナガンM1981/30小銃を制式装備とすることを決定した後、ケロク兵器工場はすぐSVT-40の生産を停止し、モシン・ナガン小銃の全力生産に転じた。一方ツーラ兵器工場はずっと少数の発注を受けていたので、1945年1月3日になってやっとSVT-40を完全生産停止とした。

SVT-38は当初歩兵小隊の火力増加にのみ用いられ、小隊内の少数の人しか装備しておらず、その他の人は依然モシン・ナガン小銃を使用した。だが一部の精鋭部隊の中では、例えば1940年初めカレリアのラドガ湖(ソ連のヨーロッパにおける最大の湖で、ポーランドに近い)作戦でのスキー部隊は完全にSVT-38を用いてモシン・ナガン小銃に取って代わらせていた(頑住吉注:まあスキーを使いながらボルトアクション小銃は使いにくいでしょうからね)。フィンランド軍はこの小銃の恐るべき火力を深く身にしみて知り、一方ソ連の指導層は非常に喜ばしくその優越した性能の表れを見た。スターリンはさらに、この新しい小銃を装備した1人の兵士は10人の普通の小銃を装備した兵士に等しい、と言明した。SVT-40の生産に至った時、ソ連はすでにこれを標準の兵個人小銃とし、古いモシン・ナガン小銃と全面的に交換するつもりだった。このため生産数は相当に大きかった(1945年になる前にもう100万挺を超えた)。だが第二次大戦終結後、大部分のSVT-40はすぐに装備から外され、SKS小銃によって取って代わられた。少数のSVT小銃は軍用剰余物資としてソ連民間市場で販売された。

(頑住吉注:原ページのここにある3枚目の画像のキャプションです。「トカレフSVT-40半自動小銃のマガジン」 続いて4枚目。「トカレフSVT-40半自動小銃のバヨネットと銃口装置」)

構造の特徴

SVT小銃はガスオペレーション式作動原理、ボックスマガジン給弾を採用した自動装填小銃である。ショートストロークガス導入ピストンはバレル上方に位置し、後座ストロークは約36mmである。ガス導入室はフロントサイトベース、バヨネット固定突起、銃口制退器と一体化され、完備された銃口延長部分を構成している。このような設計はバレルを簡略化するが、銃口延長部分はすこぶる複雑である。ガス導入室前面に突出しているのは五角形のガスレギュレーターで、5つの異なる位置があり、それぞれ1.1、1.2、1.3、1.5、1.7と表示されている。天候条件、弾薬の状態、あるいは汚れの蓄積程度に基づいて適したガス導入量を選択する。レギュレーターの調節に用いる専用のレンチがある。

SVTはボルト偏移式閉鎖機構を採用し、閉鎖突起はダブルである。ボルトキャリア底部の開鎖/閉鎖斜面とボルト頂部の開鎖/閉鎖斜面が密着し、自動サイクルの過程の中で相互に作用し、ボルト後端を上に持ち上げ、あるいは降下させ、開鎖/閉鎖の動作を完成する。FN社のFAL小銃のボルトはSVTと非常に似ており、違いはSVTの閉鎖支持面はレシーバー前方にあるが、FALのはレシーバー後方にある、というところにある。ボルト偏移式閉鎖機構のメリットは剛性が高く、構造が簡単で、生産に便利で、勤務性も比較的良いことであるが、ボルトが単一の面で力を受ける、および開鎖/閉鎖時の衝突のため、連発射撃精度に一定の影響がある。だがSVTは半自動小銃であり、この方面の影響は決して大きくない。

SVTはハンマー式撃発機構を採用し、マニュアルセーフティはトリガー後方に位置し、それを下向きに動かした時トリガーが引かれることを阻止することができる。左上方に動かすとすぐ正常に射撃できる。

銃口制退器には両側にそれぞれ6つのガス排気穴があり、一部の火薬ガスを側後方に向け、したがって後座力低下と銃口消炎の作用を果たす。一部の初期の銃口制退器には8つの排気穴があったとされる。

SVTの機械照準具は銃口延長部分後端に位置するフロントサイトと、バレル尾部上部に取り付けられたノッチ式リアサイトからなる。フロントサイトはポスト型で、高低と風による偏差が調節でき、フロントサイトガイドカバー頂端には光を透過する穴があり、調整工具はこの穴を通してフロントサイトの高低を調節できる。リアサイトの最大射程は1,500m、最小射程は100mで、100mごとに1つ目盛が設けられている。

マガジンはスチール板で作られ、10発の弾薬が装填できる。SVT-38のマガジンはSVT-40のマガジンに比べやや長く、生産工程も異なる。SVT-40のマガジンは生産するのがより簡単である。この2種のマガジンを識別する特徴は次の通りである。SVT-38のマガジンには底部近くの両側にそれぞれ1つ円形の小さい穴があり、マガジン底板の固定に用いる。マガジンキャッチは鍛造部品で作られている。一方SVT-40はプレス部品を用いるよう改められており、このためSVT-40のマガジンキャッチはより薄いことが目立ち、不使用時は上向きに折りたたみ、意図せず動くことを避けることができる。

SVTのレシーバー上のカバーのエジェクションポート後端にはさらにストリップクリップのガイドとなるミゾが加工され、モシン・ナガンの5発ストリップクリップで銃に装着した空のマガジンに直接弾薬を押し込むことができる。ボルトストップが設けられており、マガジンが空になった時、ボルトは後方に留まり、射手に再装填を提示する。ストリップクリップを使用して銃の内部に弾薬を押し込む時もボルトをひっかけて止める必要がある。

SVT-38とSVT-40はいずれも木製ストックを採用しているが、SVT-38のストックの前部ハンドガード部分はより長く、プレス鋼板が銃口延長部分の後部にあり、ガスピストンとピストンロッドをカバーしている。鋼板の上蓋両側にはそれぞれ4つの丸い穴が並んでいて、バレルの冷却とガスシステムの排気に用いられる。この他5つの楕円形の穴が木製上部ハンドガード両側に並び、空気を対流させ、バレルの加熱を防止するのに便利である。一方SVT-40のストックのハンドガード部分はより短く、短縮された部位は上下2つのプレス成形の鋼板製ガードカバーからなり、バレルとガス導入装置を完全に包み、上下のスチール製ガードカバーにはいずれも多くの丸い穴がある。SVT-40のハンドガードは短縮されているため、元々のハンドガード固定リングも2つから1つに改められ、かつハンドガード前部に指用のミゾが追加されている。これらの特徴はいずれもSVT-38とSVT-40の明確な差異である。

SVT-38のクリーニングロッドはストック右側のミゾの中に挿入されているが、SVT-40ではバレル下方に挿入するよう改められており、このためクリーニングロッドの位置もSVT-38とSVT-40を識別する印である。2つの銃の後部スリングリングはいずれもストック後部下方に位置するが、クリーニングロッドの位置の影響のため前部スリングリングの位置は異なる。SVT-38の前部スリングリングは銃口延長部分後部にあり、一方SVT-40のは銃口延長部分の左側にある。

SVT-38とSVT-40の標準アクセサリーは基本的に同じである。維持メンテナンス工具は帆布袋内に収められ、携帯に便利である。それぞれのセット工具には銃用ブラシといくつかの多用途工具が含まれる。例えばガスレギュレーターを調整するレンチは銃口制退器とガスピストンを取り外すのにも使え、またフロントサイトの高さを調整するT字型のキーはストックのネジやファイアリングピンを取り外すのにも使える。SVT-38のスリングは当初全部革の構造が採用されていたが、後には帆布と皮革の組み合わせに改められた。SVT-40のスリングは当初帆布と皮革での製造が採用されていたが、後には全部帆布のスリングに改められた。それぞれの銃にはバヨネットが配されていたが、SVT-38とSVT-40のバヨネットの長さは異なり、SVT-38のバヨネットは刃の長さが355mm、SVT-40のバヨネットの刃の長さは241mmである。

SVT-38もSVT-40も、それぞれの銃は出荷される時3つのマガジンしか配されなかった。それぞれのマガジンの底部には小銃と対応する銃器ナンバーが刻印され、かつ銃器ナンバーの後ろにそれぞれ1〜3の順序ナンバーがあり、3つのマガジンと小銃が一緒に兵士に支給された(頑住吉注:わざわざこんなことをしたということはマガジンの完全互換性はなかったんでしょうね)。マガジンポウチには2つのマガジンを入れることができ、残るマガジンは銃と共に携帯した。当初のマガジンポウチは帆布と皮革から構成され、後に全部革に改められた。マガジンポウチの中間には厚い革があって前後2つスペースを隔て、2つのマガジンを分けて入れ、相互にぶつかって音を発することを避けている。それぞれのSVTを使用する兵士は3つのマガジンしか得られなかったので、戦闘時には多数の事前に弾薬をフル装填したストリップクリップを同時に携帯する必要があった。遠距離の目標を射撃する時にはストリップクリップを用いてゆっくりと装弾することができたが、近距離戦の緊迫した状況下ではもう1つのフル装填したマガジンと交換することでしか装填時間を加速することはできなかった。当時ソ連人は、このような着脱可能なマガジンは生産コストを増加しているだけでなく、不必要な重量を元々すでに非常に重い装備に加えていると考え、まさにこの種の立ち後れた戦術観念に基づいて、後にSKS小銃を設計する時、あっさりと固定マガジンを採用したのである。

SVT-38

全長1,226mm

銃身長620mm

4条左回りライフリング

空虚重量3.95kg

SVT-40

全長1,226mm

銃身長625mm

空虚重量3.85kg

改良型製品

一部のSVT-38はスナイパーライフルとして使用されたが、数は多くなかった。狙撃型SVT-38はレシーバー後部にスコープを装備しただけである。

SVT-40もスナイパーライフルとして使用されたが、数は同様に多くなく、およそ5万挺だけだった(頑住吉注:アサルトライフルならともかくスナイパーライフルの5万挺はかなり多いのでは)。実はあらゆるSVT-38と大部分の1942年10月までに生産されたSVT-40にはいずれもスコープマウントを連結するレールがあった。スコープを装備したスナイパーライフルの数が多くなかっただけである。スコープマウントのレールはレシーバー後方上両側の鍛造プレスされたミゾで、スコープマウントは分叉式で、スコープの装備後機械照準具の照準線を阻害しない。装備されたスコープは1940年に定型に至ったもので、スコープは長さ167mm、視野は4度、拡大倍率は3.5倍、スコープ本体は短小で、ヨーロッパで典型的な三柱式レティクルを採用している。このスコープは焦点距離調節の機能を持たず、これは当時のソ連の光学機材生産のレベルが比較的低く、焦点調節リングの密封能力を保証し難かったからである。スコープは小銃上の位置の後ろ寄りに取り付けられ、これはストリップクリップを使用した弾薬装填を妨げないためである。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「スコープが付属したモシン・ナガンとSVT-40(下)」 続いて2、3枚目。「SVT-40の3.5倍PU型スコープ」 続いて4枚目。「PU型スコープを装備したSVT-40スナイパーライフル」)

SVT-40にはかつて全自動型があり、名称は「1940年型トカレフ自動銃」、略してAVT-40だった。この小銃は半自動型と外観が似ており、連続発射できるだけだった。この小銃は装弾数15発のマガジンが使用できたとされ、元々の計画では分隊用軽機関銃の空白を埋めるのに使われることになっていた。何故ならこの銃が研究開発された時、DP-28軽機関銃はやっと部隊装備が開始されたところで、数がまだ少なかったからである。だがAVT-40は連発発射時チャンバーが容易に加熱し、しかも排莢の失敗がもたらされ、これは恐らくソ連の弾薬の戦時における品質が比較的劣ったせいだろう。また連発発射は部品の寿命の短縮、ストックの比較的細かい部位の断裂をもたらす可能性があった。この問題の解決のため、異なる類型の木材の採用も試みられたが、最終的にはやはり解決できなかった。AVT-40が生産に投入されてほどなく、1943年8月にはもう装備から外された(頑住吉注:書いてませんけど曲銃床のこの銃でフルサイズ弾薬をフルオート射撃したらマズルジャンプも大きくなりすぎると思われます)。

1940年9月、少数のトカレフ式カービン銃が生産された(発注はたった3,000挺だったとされる)。この銃はSVT-38のカービン型に属するが、最新のSVT-40の改良設計が採用された。この銃は全長1,070mm、銃身長470mm、空虚重量3.6kgだった。この銃の状況に関する資料はごく少ない。また戦時にはさらに一部の前線の兵士が自らの手で「短く切った」非標準型カービン銃があった。こうしたDIYのカービン銃はレニングラードやスターリングラードの市街戦の中での、比較的短い自動小銃に対する急な需要を満足させるためのもので、バレルは400mm前後まで、甚だしきに至ってはもっと短く切られた。

使用状況

SVT小銃はその寸法から言えば非常に軽く、例えばSVT-40はモシン・ナガンM1981/30に比べ50mm長かったが、重量は逆に0.5kg近く軽減されていた。発射する弾薬は同じで、射撃精度もごく近かったが、SVTの後座力はモシン・ナガンより小さかった(頑住吉注:一般に自動銃の方が反動がマイルドに感じられるようですね)。だがソ連軍のSVTに対する評価は決して高くなく、大多数の人はその信頼性は劣り、構造が複雑で、維持保護が困難だと考えた。だが別の方面ではSVTはソ連の敵、フィンランドやナチスドイツに高く評価され、相当に歓迎を受ける戦利品となり、甚だしきに至っては軍隊の正式装備として前線の兵士の使用のために支給された。

SVT-38が初めて姿を現したのはフィンランドに侵入した冬戦争(1939〜1940年)で、SVT-38を使用した多くのソ連軍兵士は、この銃は戦場で全く手抜かりのない維持保護を必要とし、故障も非常に多く、特に雪あるいは砂がボルトに浸透した後ではそうだ、と考えた。SVT-40はまさに前線の兵士が報告した意見に照準を合わせて改良した製品だが、第二次大戦中にはそれでも構造が複雑すぎ、維持保護が困難で、故障率が高いと考えられた。何故なら大多数のソ連の兵士は農民の子弟の兵で、教育程度が低く、訓練水準が不足し、銃器のメンテナンス方面に対し精鋭部隊のようにプロフェッショナルではなかったからである。このためその複雑な構造のクリーニングをしたがらず、やはりモシン・ナガン小銃が使いやすく、扱いやすいと考えたのである。少数のソ連軍精鋭部隊のSVT-40に対する評価は比較的高く、例えば海軍歩兵(すなわち海兵隊)は、SVT-40の性能はモシン・ナガン小銃に比べずっと良いと考えた。だが全体的評価は良くなく、さらに加えて生産速度が比較的遅く、一方戦時にソ連は小銃の生産量を上げることが早急に必要とされ、このため最終的な減産がもたらされ、モシン・ナガン小銃の生産速度を上げて前線の需要を満足させた。このためSVTがアメリカのM1ガーランドのように戦争の中での主役になることはできなかった。

共演者としてであっても、SVTのパフォーマンスは充分成功ではなかった。ソ連は元々1940年4月にSVT-40を赤軍のスナイパーライフルとして用いる決定をしており、このためモシン・ナガンM1981/30PE型スナイパーライフルの生産は停止された。トカレフSVT半自動スナイパーライフルと普通のSVT-40型小銃の差異は、3.5倍率PU型スコープが追加装備されていることにあり、ボアもわざわざ加工されていた。だがその後のソ連・ドイツ戦争の中で、この銃は多くの不足を暴露した。前線部隊の報告によれば、200m以上の距離では、その精度はモシン・ナガン小銃に及ばず、銃口の火炎も容易に狙撃手の位置を暴露し(これは主にSVTのバレルがモシン・ナガンより100mm短いため)、SVTは発砲後に時差もあり、ひとたび初弾が命中しないと、狙撃手は第2の射撃の機会を逃す可能性が高かった(頑住吉注:意味分かんないですね)。また、この銃は厳寒の天気の下では決して信頼性が高くなかった。

SVT半自動スナイパーライフルのモシン・ナガンスナイパーライフルに比べ成功しているところは非常に大きく発射速度が向上しているところにあった。毎分25発〜40発である。SVT-40スナイパーライフルの設計の目的は、異なる短時間姿を現す目標に対応するのに用いるというものだった。

しかしSVT-40の初弾命中率は比較的低く(モシン・ナガンに比べて)、最終的にはやはり1942年に改めてモシン・ナガンM1891/30PE型スナイパーライフルを制式スナイパーライフルとして採用し直すことが決定された。SVTに対する多くの不平にかんがみて、このスナイパーライフルは1941年末に生産ラインから撤去された。しかし決してあらゆる兵士がこの銃に対し不満だったわけではなく、ソ連軍の英雄Lyudmila Pavlichenko中尉はSVTスナイパーライフルを使用してオデッサとセバストポリで成功裏に309回の射殺を行った(ソ連サイドのデータ)。一方元々SVTのために研究開発された1940型スコープは構造が簡単で、大量生産しやすかったので、PUスコープと改めて命名され、モシン・ナガンM1891/30PE型スナイパーライフルの標準装備とされた。一部のSVTスナイパーライフルのみモシン・ナガンM1891/30PE型スナイパーライフルの補欠の銃として戦争終了までずっと就役した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「SVT-40スナイパーライフルを手に持つ第二次大戦におけるソ連の女性狙撃手」)

逆に、SVTの最大の支持者はソ連の敵だった。フィンランド軍は冬戦争の中で4,000挺のAVS-36およびSVT-38小銃を鹵獲した。彼らは、SVT-38の火力は強大で、「偶然ジャムするに過ぎず」、しかもジャム問題をもたらす一部の原因はソ連軍が使用する潤滑油が寒冷な天候の下でボルトを凍り付かせるからかもしれないと考えた。フィンランド軍は非常に喜んでSVTー38を使用し、第二次大戦終結後でも依然多くのSVT-38を射撃訓練に用い、1961年までずっと使用した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「SVT-40のマガジン」 どう見ても工作精度低そうで、これもジャムの原因の1つでは。)

ドイツ軍も第二次大戦の中で鹵獲したSVT小銃を広範に使用した。さらにいくつかはドイツに送られてさらに一歩の研究がなされ、ドイツが半自動小銃を研究開発するための手本を提供した。ドイツはフィンランドのように自分でも7.62mmx54R弾薬を生産することはなかったが、彼らが鹵獲した弾薬は非常に充足していた。SVTは射撃精度が高く、戦闘発射速度はモーゼル98k小銃に比べずっと高く、もしSVTとモーゼル98kをそれぞれ1回撃つという条件があれば、何故多くのドイツ軍兵士が好んで戦闘中にこの敵の小銃を使用し、かつ弾薬が消耗し尽くされるまでずっと用いたのかが難なくすぐ分かった。SVTのドイツ軍の中での使用量が非常に大きかったため、ドイツ軍上層部はこうしたソ連の小銃にドイツの機種名をつけ直し、前線部隊に支給した。このうちSVT-38はSIG.258(r)と命名し直され、一方SVT-40はSIG.259(r)と呼ばれた。SVT-40の狙撃型はSIG.Zf260(r)だった(頑住吉注:「Zf」はスコープの略ですね)。

SVTはアメリカのM1ガーランド小銃に比べて決して劣らず(某いくつかの方面、例えば給弾方式などではM1小銃より優れてさえいた)、しかも初期のドイツのGew41半自動小銃に比べずっと良いことがはっきりしていた。もし当時ソ連軍がSVTに全面換装していたら、この銃の戦争史上での地位はM1ガーランドと同列に論じられたかもしれない。だがSVT-40は構造が比較的複雑で、使用後のクリーニングが非常に困難で、また悪いことに当時ソ連が生産した弾薬に使用された発射薬は腐蝕性を持ち、もしメンテナンスをしなければ銃の信頼性の低下がもたらされた。また当時のソ連歩兵の大多数は農民出身で、教育程度が低く、しかも訓練水準が不足し、銃器のメンテナンス方面で精鋭部隊のようにプロフェッショナルではなかった。そこでこの銃は使いにくいと考えたのである。一方訓練レベルと教育の程度がいずれも相対的に高い精鋭部隊、例えば海軍歩兵はSVT-40はモシン・ナガン小銃に比べずっと良いと考えた。2種の素質が異なる部隊が出した2つの異なる結論は、問題をよく説明し得る。ドイツ軍兵士とフィンランド軍兵士の訓練水準はいずれも比較的良く、しかも教育程度も高く、大多数のソ連の農民に比べより容易に銃器を熟知し、このことは彼らにそれぞれの可能な機会をとらえて、できる限りSVTを鹵獲して使用させたのである。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「SVTに装備されるバヨネット」 続いて2枚目。「これはソ連が最も好んだバヨネットである。外形からはソ連軍バヨネットの一貫した作風はなく、むしろノルウェーのスタイルに近い。」 3枚目。「SVTの分解状態」 4枚目。「SVT-40を使用して照準を行う」)

口径:7.62mmx54R

銃口初速度:840m/s(2,756フィート/s)

自動方式:ガスオペレーション

全長:1,226mm 48インチ

銃身長:610mm 24インチ

重量:3.85kg

火力:半自動

マガジン容量:10発

これは第二次大戦中の性能がずば抜けた小銃だが、惜しいことにM-1ガーランドのように大いに異彩を放ち、名声を伝播させることはできなかった。全くもって埋もれた英雄であり、その設計師もきっと本当に遺憾だろう!


 結局第二次大戦で自動小銃を主力にできたのはアメリカだけでしたが、ソ連も本国に大規模に攻め込まれていなかったら、そして戦場の環境に極端な寒冷な場所が少なかったら、この銃を主力にすることができたのかもしれないわけでしょうね。ただ、以前精鋭の日本兵が使用する限り十一年式軽機は決して劣っていなかったが、当時の教育程度の低い中国の兵隊には使いこなすことが難しかったのだという擁護論を紹介しましたが、この銃の場合本国の兵隊の多くに適さなかったというのは構想そのものにやや無理があったのかもしれません。またメンテナンスが難しく高い教育を受けた兵でないと使いにくい銃に対する反省は、間接的にAKにも影響しているようにも思えます。
















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